コメント
要するに勝利が全てで、我が国のチームが勝ったんだなどという感覚は二の次だということですね。
猫ひろしさんがカンボジア国籍を取ってオリンピックに出ようとしたことには違和感を感じる人が多いでしょう。
成果を出してくれるなら、国家に忠誠心を持たない人でも構わないというなら、
国家という枠組みが持つ意味は一体どこに行ってしまうのでしょうか?
日の丸君が代は我が国が国としてのアイデンティティを保つかどうかという問題でしょう。
サッカーの試合に勝てるなら、君が代を歌わない、日の丸に敬意を示さない人でも喜んで受け入れるというなら、
それは現世的な利益のために国を売っても構わないと言っているようなものでしょう。
国歌、国旗
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
君が代♪は確か天皇様の歌って習ったので、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴・・」というところで、国歌として〇だと思います。
第3章 国民の権利及び義務
第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
ということなので、強制するのは×ですね ^_^
日の丸に関しては、江戸時代からあるみたいだし、特に侵略や戦争を意味してるものではないので、別にいいんじゃねって思います。
goldbugさんへ
“国を売る”ことになるのかさっぱり意味不明。
次に、
その人のアイデンティティを、国歌を歌うか否かで、選別にかけるって、
どんだけ全体主義的発想をしているのかさっぱりわからない。
私は先祖代々日本国籍を有する日本人ですが、日の丸に拝礼をしないし、
君が代なんて死ぬまで歌わないでしょう。
でも、
民主主義国家、自由主義国家として日本がより良い国になって欲しいという愛国心は、
おそらくあなたには負けていないと思います。
さて、
そんな私も、君が代を歌わないという一点で、売国奴呼ばわりするその発想がまったく
意味不明で、その感覚はとてもじゃないが先進国のものではありません。
Goldbugさんへ、
初めまして。Jeanvaljeanと申します。
プレイ前に国歌の演奏の時間は、選手にとってもっとも集中心を高める時でしょう。国歌を歌いながら集中する選手もいるでしょうし、ゲームをつくっていく選手は、もう一度おさらいしイメージする時でしょう。自分の能力を最大限出せるように、それぞれがそれぞれのモチヴェーションをもってピッチに跳びだしていく、そういう時間です。
日の丸・君が代が国のアイデンティティであるというのは、ひとつの考え方にすぎません。そうでないという考えの人も、沢山います。違う意見も尊重するのが、民主主義社会です。
> 成果を出してくれるなら、国家に忠誠心を持たない人でも構わないというなら、 国家という枠組みが持つ意味は一体どこに行ってしまうのでしょうか?
国家は、あなたが言われるように枠組み、システムです。つまり国民が権利を享受して、その見返りとして義務を負うのです。国家に、それ以上の意味(例えば精神的なもの)を与え忠誠を迫るならば、それはもう全体主義国家です。民主主義日本では、国家が憲法のもつ理念を尊重し実現する義務を負っています。国家がそういう政治をおこなってはじめて、国家にたいする国民の信頼が生まれるのです。それが国民と国家のあるべき関係です。
最後に「国を売る」というのは、安易に使ってはならない言葉です。
フリスキーさんへ
要するに金で売り買いしてならないものもあるってことで、国のアイデンティティーもそうだと思います。
単にサッカーのピッチで選手が国歌を歌わなかったら即問題だと言っているのではなく、
その理由が、その選手がその国に対して何の帰属意識もなく、忠誠心もないから歌わないのだとしたら問題でしょう。
そんな選手を金で集めて、ワールドカップで優勝したとしても、それは果たして国の勝利、国民の勝利と言えるのでしょうか?
試合に勝つために、国のアイデンティティーを売り渡してしまったように思えてならないですね。
goldbugさんへ
金で売り買いしてはならない(できない)もの=個人の自由、個人の尊厳、というのはどうですか?
個々に生きている人間は実体(ひとまずは)であり、国というのは、みんなの取り決め・枠組み・システムです
リアルに生きている人と、フィクショナルな「制度」である国とどちらが大切かは明らかだと思います
というか、“本来であれば”、リアルに生きている人が生きやすいように作られたのが、制度=国家であるというのが、近代的な国家の少なくとも建前であるはずです
あと、国民全てが国に忠誠心を持たなければならない、持って当然という考えはあまりに乱暴かと思います
失礼ながら意見させていただきました
強制者が求めているのは「服従」
別に各個人が国旗に対してどう思おうが、国歌を歌おうがその人の自由なんですよ。いろんな意見があって当たり前。
が、自分の意見を「正しい」と定義して法律化してしまい罰を与えることが問題なんです。
>国のアイデンティティーを売り渡してしまったように思えてならないですね
逆に国が個人のアイデンティティーを奪う事はOKなんですか?
国が市民を支配するのがあなたの理想国家なんですか?
「試合に勝つ為に」って…;
国歌を歌う、歌わないで勝敗が決まるんですか?
そんな理念聞いた事ないんですが;
国歌を歌うものだけ国代表にしろ、と?
少なくとも民主主義国家の考えじゃないですね;
ふと思ったんですが、今の中学生ぐらいの若い方って「国旗国歌法」の後の社会しか知らないんですよね。それ以前の社会を知らないからこの「異常」さに気づきにくいのかも…
goldbugさんへ
彼らは日本のナショナルチームを強くしたい、勝たせたいという強い熱意はあるはずですが、日本国家に対する帰属意識も忠誠心もあるとはいえないでしょう。また、彼らは君が代も歌ってはいません。そんな監督を就任させることは売国んですか(笑)。仮に日本人選手個人の内心において、特に国家に対する帰属意識や忠誠心が無くても、彼がナショナルチームに対する強い帰属意識と使命と熱意をもってチームに貢献できれば、結果的に国の利益にもなるわけでして、それでどこが売国になるのか、まったく意味不明ですよ。いい加減、全体主義的発想から卒業しませんか。
日本の顔
私だって、日本人であることを誇りに思うこともあります。しかし、それを他人にも強要しようとは思いません。(逆に「恥ずかしい」と思う時もあります。特にこのまま原発を再稼働して事故以前の状態に戻させてしまうとしたら、とても危険だし、かつ、国民として恥ずかしいことでもあり、他国へも迷惑を及ぼしかねないので、世界からバッシングされるのではないかと気にしています)
国旗や国歌は国のシンボルですが、それらを単に「記号」として捉える人もあれば、(だったら、他のデザインや歌詞でも一向に構わないわけですが)その人なりの強い思い入れがある場合もあります。(その場合はどうしても、今の「日の丸」、「君が代」でなければならなかったりするわけです)
でも、最近考えるようになったのですが、思い入れには「負の思い入れ」というものもあるわけですね。たとえ、デザインや歌詞そのものは元々、特に抑圧的なものではなかったとしても、それが作られた後の歴史の中で、様々な出来ごとがそれらにまとわりつき、人々の記憶にこびりついているわけです。少なくとも忌まわしい思い出がそれにまとわりついてしまった人々に、「国旗や国歌は単なるデザインや歌詞に過ぎないのだからそれら罪はない。だから気にしないでくれ」と言っても、それは無理じゃないかという気がするのです。
なぜ、そんなことを言いますかというと、私自身は元々日の丸や君が代に嫌悪感は持っておらず、むしろ、「君が代愛好家」であったことはこちらにも何度か書かせていただいているのですが、石原慎太郎が都知事になって以来の「君が代不起立騒動」以来、君が代を歌おうとしても喉に引っかかる感じで歌えなくなってしまったのです。元々、私が石原を毛嫌いしていたということもありますが、その他人に強制するというやり方のいやらしさが、忌まわしく思い出されてしまうのです。最近はこちらで言う「バカ殿」、橋下徹のイメージもそれに加わってしまいました。つまり、君が代を無心で歌おうとしても我が日本の誇る(?)「二大バカ殿」の顔が浮かんできてしまうので歌えないのです。
今のところ、東京都民でも、大阪府民でもない私は石原からも橋下からも直接、何らかの被害を受けたわけではありません。もちろん、暴力を受けたわけでもない。それでさえこうなるのだから、日の丸や君が代に象徴される国家を背後に背負った相手に暴力や抑圧を受けた人々にとってはその嫌悪感は生涯消えることがないかもしれません。そしてその話を伝え聞いた子や孫の人たちもそうかもしれない。(こうした人々は必ずしも外国人だけとは限らないようです)
どんなに冷静な人でも、人間はどうしても物事に感情の色を付けてしまうもので、単なる形や物や音として接するというのは難しいし、それがまた生きている人間の良さでもあるのでしょう。それだけに、問題は難しいと思います。日の丸と君が代を愛し、それが変えることのできない「日本の顔」だと信じる人たちは、その「顔」に不信感を持っている人たちもいるということを理解して、いつか、その同じ「顔」がそうした人たちからさえも信頼される「顔」になることに努めるべきだと思うのです。それが他人にその「顔」を受け入れることを強要するよりも先にするべきことだと思うのですが、今のままではむしろ、逆を行っているような気がします。
goldbug君へ
あのチャップリンはナチス・ドイツを厳しく批判するために独裁者と言う名作をこの世に生み出しました。その際に「血の純潔民族などという彼らの神秘主義的迷信を笑いものにしてやりたかった」と語っています。
君は上から目線で国歌や国旗を押し付けようとしているだけですが私はそうしたやり方に反吐すら覚えます。それは国歌や国旗に対して自信がない事を自分から証明しているに過ぎません。君の視野の狭さに私は哀れみすら感じてきますよ。ボビー・オゴロンやC・W・ニコルに肩身の狭い思いをさせるつもりですかな?
そもそも、忠誠心なるものを国が押し付けた段階でそれは完全なるディストピアなのです。君はやっている事が北京における独裁政権と同じなのですよ。
この指摘がいやならば、コメントはしないことです。したいのなら、第二次世界大戦でのアジアにおける日本軍の侵略の書籍をじっくり読み込んでからコメントすることですな。それなしでしたら、ここには私以上に厳しい論客がわんさかいますので論破されまくるのがオチですよ(笑)。
それは国の勝利でしょうか?
それでも彼等はフランス人としてサッカーの才能を開花させて国の代表となったわけですから。
しかしサッカーのためにフランス人になるのは、やはり大きな違いがあると言わざるを得ないでしょう。
巨額の報酬を目当てに縁もゆかりもない国の国籍を取り、また受け入れる国の側も、
ワールドカップで勝てるのなら、国への忠誠心のかけらもない人達を金で買うわけです。
これで勝利したとしても、おらが国が勝ったんだと喜んでいる人達の気が知れませんね。
勝ったのはフランスではなくアラブ、アフリカ、中南米の合同チームの勝利とでも言うべきでしょう。
国家のアイデンティティーとは何でしょうか?ワールドカップの勝利をまるで傭兵を雇うように、
強い選手をお金で釣って勝ち取ったとしても、それは国家のアイデンティティーを売り渡したことと
引き替えの勝利でしかないでしょう。
goldbugさんへ
国の勝利?
サッカーの代表チームの勝利は代表チームの勝利であって、国家の勝利ではありません。
例えば、フランスvsイタリアの試合は、決して戦争のように、国家と国家が戦っているのでは
ありません。あくまでサッカーのチームが戦っているのです。
あなたのようにスポーツの代表チームと国家を同一視するのは大きな間違いです。
それではまるで、北朝鮮のような独裁国家の発想ですよ。
あちらでは国の威信をかけて、国家と総書記のために戦うわけですが、
民主主義国家ではそうではありません。
選手はあくまでもその国の中から一番上手な選手として、
選考権を持つ監督から選ばれて代表選手となったわけで、
国家の要員として国家のために戦っているわけではありません。
あなたは民主主義国家とはなんなのか理解できていないようですね。
とんでもない勘違いをしているようです。
あなたの発想はやはり全体主義国家のものです。
>国家のアイデンティティーとは何でしょうか?ワールドカップの勝利をまるで傭兵を雇うように、
>強い選手をお金で釣って勝ち取ったとしても、それは国家のアイデンティティーを売り渡したことと
>引き替えの勝利でしかないでしょう。
2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎さんという物理学者がいます。
彼は、日本で日本人として生まれ、日本の国立の学校で教育を受け、研究者としてスタートしましたが、
途中からよりよい研究環境を求めて渡米しました。そのまま米国籍を取得し、アメリカ人となりました。
ですから、南部さんは元々のアイデンティティは日本人ですが、ノーベル賞受賞当時は、
アメリカ人でした。彼は研究者として米国の方が恵まれているからアメリカに行き、そのまま
アメリカにいたほうが良いと思ったから、アメリカ人になったのです。
さて、
日本の男子サッカーチームでは代表選手の選考権を外国人に委ね、監督として指導を任せていますが、
このやり方は、売国ですか?
南部陽一郎さんは国を売り渡したということになりますか?
米国は、南部さんのような外国人を多く受け入れて移民として国籍を与えて、
産業、学術、芸術、スポーツなど多岐にわたって世界をリードする人材を育ててきました。
世界から優秀な人材が集まる国になっているのです。
こういう国は、国のアイデンティティを売り渡す悪い国という認識でしょうか?
次に
視点を変えて歴史をさかのぼり、韓国併合の話に行きましょう。
当時の日本は、朝鮮半島を併合し、この地の人々を強制的に日本人としました。
日本人じゃない人々を国策として日本人、天皇の民つまり臣民にしてしまったのです。
大日本帝国は領土拡張のために国のアイデンティティを売り渡した売国国家という認識でよろしいでしょうか?
再びgoldbugさんへ
>これで勝利したとしても、おらが国が勝ったんだと喜んでいる人達の気が知れませんね。
勝ったのはフランスではなくアラブ、アフリカ、中南米の合同チームの勝利とでも言うべきでしょう。
1998年のワールドカップのフランス優勝に貢献した選手は、サッカーのためにフランス人になったのではありません。マグレブ、アフリカの移民の子どもです。生まれたときから、フランス国民です。それまでは白人主体のチームでした。白人でも、あの将軍プラティにさえ、イタリア移民の子どもです。移民子孫を代表に選んだジャケ監督のもとには、彼らを外せという脅迫があったようです。極右のルペン党首も人種差別発言をして物議を醸しました。人種問題を抱えながら、ワールド・カップに臨んだのです。優勝によって人種差別は影を潜め、フランスに国民の融和をもたらしたのです。正真正銘のフランスの勝利です。
>移民の子で帰属意識を持てず、国歌も歌えないというなら、まあそれはよしとしましょう。
これは人種差別主義者ルペンの言葉です。これであなたは、自分が人種差別であることを証明しましたね。フランスはルイ14世の頃から移民を受け入れた移民先進国です。フランスは、他の移民受け入れ国(多文化主義―独自な共同体)と違って、統合(同化)政策を進めています。そして人種差別を厳しく戒める教育をしています。しかし人種差別は根強く残っています。暴動は、同じフランスでありながら、どうして差別をするのかという彼らの怒りでもあるのです。つまりフランスの標語である自由・平等・友愛を求めているのです。
コメントする前に、もう少しフランスや移民について勉強されることをお勧めします。
ところであなたはしきりに国家のアイデンティティと言われますが、その国家のアイデンティティとはどのようなものか、ぜひお聞きしたい。
goldbugさんへ
>移民の子で帰属意識を持てず、国歌も歌えないというなら、まあそれはよしとしましょう。
それでも彼等はフランス人としてサッカーの才能を開花させて国の代表となったわけですから。
しかしサッカーのためにフランス人になるのは、やはり大きな違いがあると言わざるを得ないでしょう。
おそらく、ジダン選手のことでしょう。
彼は幼少のころからマルセイユで育っています。フランスというお国は、多国籍の移民であってもフランス国籍を取得できます。
>巨額の報酬を目当てに縁もゆかりもない国の国籍を取り、また受け入れる国の側も、
ワールドカップで勝てるのなら、国への忠誠心のかけらもない人達を金で買うわけです。
はぁ・・? 論外の外です。
お金を出すのはクラブチームです。それに彼がW杯で活躍した時代は、イタリア セイエAのユベントスとスペインのレアルマドリッドです。
決してフランスのお国ではありません。
ちなみにW杯に賞金はありません。
>これで勝利したとしても、おらが国が勝ったんだと喜んでいる人達の気が知れませんね。
勝ったのはフランスではなくアラブ、アフリカ、中南米の合同チームの勝利とでも言うべきでしょう。
じゃあアメリカチームは混血のかたまりになっちまうぞ!
葉月先生、コメントのみなさんすいません。
あまりに無知な投稿に腹がたったので横レスいれちゃいました。
GoldBugなるものへ
極右のルペンと同じである事を指摘されて逆切れしたとしても、事実は事実です。ここにいる全ての読者に誠意ある謝罪を実名でするよう要求します。
それがいやならばインターネットを卒業し、じっくり書籍を読みこなすことですな。書籍ですかな、嫌韓論なんてバカなものより社会全般のことを書いてある本をお勧めしましょう。今はブックオフで105円にて販売しているコーナーもあるのでじっくりと選んで読みこなしてもらいましょう。
そりゃ本業じゃないでしょ
そりゃそうでしょ。
「国歌を歌う」程度のこと、当たり前のことというか、そんな大変なことじゃないでしょう。
小さな子どもに対して、「家に帰ってきたら手洗い・うがいをすること」というようなもので、ごく当然のことです。
なんで国の歌を歌うことにそんな嫌悪感を示すのか、理解に苦しみます。たとえば、仮に君が代以外の別の歌に切り替えたとしたら、それで満足しますか?