コメント
蛇足ながら
橋下のモノマネは成立、と満足してましたが
緑字部分で整理のおかげで
以下の、主語の言い換え部分が何故、笑えたのか
改めて気付けました。
「彼は緻密に緻密に論理を構成して…
僕らは緻密に緻密に~論理を組み立てて…」
裁量権者である彼と<強制ではない>と言いたい僕の
緻密な論理が、一緒くたになっちまってるよ!
私こそ、簡単に入墨の話題に流れる不勉強者ですが
この講座を中心に大阪維新の障害者への差別的経緯等、
知ることが出来ました。ネットがあってよかった<橋
以上、長々と駄文、失礼しました。
このブログ、ズルいなぁ
橋: 職務命令に従ってやったといってなんの問題があるんですか
(市長、ご自分の矛盾に気づいていない・・・)
m: (ここで「全く問題ないですか?」と聞いているのか「全く問題ないです」といってるのか市長に遮られて聞き取れませんでした。最後まで言わせず遮るのは朝生デジャブ)
橋: じゃあ何を聞いてるんですか?
====================================================
この部分は、
====================================================
橋:職務命令に従ってやったと言ってなんの問題があるんですか ?
m:全く問題ないですよ。
橋:えぇ。
m:全く問題ないですよ。
橋:えぇ。じゃぁ、何を聞いているんですか?
=====================================================
というヤリトリがとてもハッキリ聞こえます。
斉加記者が「全く問題ないですよ」
と言ってるのが、2回とも語尾までハッキリ聞こえてるじゃないですか?
(まさか、ご自分に不利なコメントだからって非公開にしないですよね)
>岡目八目さん
で、記者が 「全く問題ないですよ」と答えたことがどうして私に不利なコメントになるのですか?
掲載して下さってありがとうございます
音声上、聞き取りに支障は無く、ブログ主さまの作為を感じたという私の感想に繋がるわけでして・・・。
あるいは、この部分が聞き取りにくいような音源で書き起こしをするのは無謀という指摘に繋がるわけでして・・・。
ごめんちゃい。
失礼します
どうお考えですか? 歌わなくてもよいと思われますか?
>tt 様…
どうお考えですか? 歌わなくてもよいと思われますか?
横槍…、失礼します。青い鳥と言います。“決まりごとだから守るべき…”これは権力側の常套句なんですね…。
>tt 様は、戦前戦中の“治安維持法”をご存じでせうか。? 戦争反対や労働者階級の地位向上など、至極真っ当なことを訴え、作家で日本共産党員であった「蟹工船」の著者、小林多喜二さんなどは、特高警察による凄惨な拷問により、非業の死をとげました。この天下の悪法“治安維持法”も当時の軍国日本のtt 様が記されるところの“決まりごと”なんですね…。その“決まりごと”のために、三百数十万人もの国民の尊い命が棄てられたのみならず、鬼畜旧日本軍によるアジア諸国への侵略戦争に拍車をかけ、幾千万のアジア諸国の無辜の命を蹂躙したのです。
歴史が証明した事実を真摯に受けとめるのであるならば、とてもではありませんが、“決まりごとだから守れ!”という理不尽には、わたしは、徹底して抗う覚悟をいつも持っています。
横槍失礼しました。tt 様、お赦し下さいませ。m(__)m
>青い鳥 さんへ
わたしは決まりごとだから守れといってるのではなく、その前です。
この国歌斉唱しなければならないという法自体にどうお考えになられるかです。
治安維持法に関しては紛れもない悪法です。最大の悪法といっても過言でないでしょう。 ただ守ることによって良い効果を発揮する法もある。 逆に治安維持法のように悪法もある。
その法の意義を話し合ってこそより法の解釈を深めることができると考えます。
人に考えを聞く前に自分の考えを・・
この国歌斉唱の法は自分は本当はいらないと思います。
こんな法に縛られずとも国歌を自ら歌ってくれることがのぞましいと考えます。
「そもそもなぜ国歌を歌うの?」という人がいますがこんな質問が出ること自体が疑問です。 公務員が国歌を歌うことは身近にたとえるならば、会社に入社し社歌をうたわされること、または社歌がなくともその会社の経営理念や社訓を唱和させられることに近いと考えます。(ニュアンスは多少ちがくとも、目的や、大局的にみて大きな違いはないでしょう)
そこで社員が「いやいや思想良心の自由だから社歌を歌いません。」とか「経営理念を唱和しません。」とか朝礼で言い、やらなかったらどうでしょうか? 物笑いの種にされるだけでしょう。 すくなくとも会社でそんな人物がいたことを見たことも聞いたこともありません。
公務員に関しても同じです。 国を運営するために国に雇われた人たちが国歌を思想良心の自由から歌いたくないというのは、普通に考えれば物笑いの種にされるだけです。
もちろん先の治安維持法にあるように、国歌を強制させるということにこの先不安を感じる方もいるでしょう。 しかしこの事案に関してはなんの問題もないはずです。 なにも盲目的に国を信じろといってるわけではないのですから。
逆に国歌を拒否するひとはどんなひとなんでしょうね?
社歌や社訓だって、歌いたくてうたってる人のほうが少ないとおもいますが、皆「所属の意識を乱さないよう」「会社の理念を全うするよう」歌っています。
拒否する人に関してはどうしても歴史的見解からの理由が考えられてしまいます・・・・
>tt様…
>ただ守ることによって良い効果を発揮する法もある。 逆に治安維持法のように悪法もある。
その法の意義を話し合ってこそより法の解釈を深めることができると考えます。
同感です。
>国を運営するために国に雇われた人たちが国歌を思想良心の自由から歌いたくないというのは、普通に考えれば物笑いの種にされるだけです。
公務員は、主権者国民の為に、業務を遂行するのであり、国歌を強制され歌わされる道理はないのではないでしょうか…。歌いたいひとは歌えば良いし、そうでないひとは、歌わなくて良いと考えます。 国旗国歌に関する法律が制定された当時、国会で日本共産党幹部会書記局長(当時)志位和夫議員の代表質問に対し、故小渕恵三内閣総理大臣(当時)は、「国歌斉唱を強制するものではありません。」と明確に答弁しています。よって、大阪の様な、分限免職にまで及ぶ強制は、政府見解に真っ向楯つくものとわたしは考えます。
わたしが尊敬してやまない、世界愛人主義同盟 総裁 村野瀬玲奈総裁は、ご自身のブログで記されておみえになられました…「国旗・国歌の強制は、煙草を吸わないひとの口に火のついた煙草の束を無理矢理突っ込み『オイッ!吸えッ!』と強制するようなもの…(概要)」と…。わたくしも全く同感です。
>この国歌斉唱の法は自分は本当はいらないと思います。
こんな法に縛られずとも国歌を自ら歌ってくれることがのぞましいと考えます。
“ 法はいらない”…同感です。
もし仮りに、国歌なるものの歌詞が“君が代”ではなく【日本国憲法全文】であれば、大粒の涙を流し、直立不動の姿勢で心を込めて、大声で喜んで歌うでしょうね…、きっと、わたしは…。でも権力側より強制されるのは拒否します。
>逆に国歌を拒否するひとはどんなひとなんでしょうね?
わたしの様な人間でしょう…。w
tt様…、楽しい議論でした。また色々と教えてください…。ありがとうございました。
tt様へ
横レスにて失礼致します。
端的に指摘させて頂きますと、
>国を運営するために国に雇われた人たちが国歌を
>思想良心の自由から歌いたくないというのは、普通に考えれば物笑いの種にされるだけです。
都道府県立や市立の学校の教職員は自治体と雇用関係にあるのであって、
国とは雇用関係にありません。国を運営する立場ではありません。
それと物笑いという点で言えば、国歌を歌わないぐらいのことでここまで弾圧する国こそが世界の先進国からは異様な状況なんです。
さて、
その上で、統治者の目線ではなく、ご自身の小中学校、高校時代の事を
よーく思い出してください。良い先生、そうでもない先生いろいろいらっしゃったと
思います。
果たして、君が代を歌うか、歌わないかという事が、教師の評価にとって、
そんなに重要なことですか?
統治機構の目線ではなく、つまり支配の論理ではなく、子供の側に立つ論理でよく
お考え下さい。
教員の本来的な職務は、 担当する各教科の知識をきちんと伝授し、 生活指導や部活動における指導などと
合わせて生徒の資質を伸ばし、 進路指導にあたっては生徒の将来を きちんと考え、また 壁にぶつかったり、
悩める個々の生徒の声を聞いて、ともに 考え、よりよい方向に導いていくことにあると考えています。
つまり、教師と生徒との関係性においてなされるところに 教師の任務の本分があるのであって、 言い換えれば、生徒との関係で、 生徒の教育を受ける権利を満たすところに本分があるのであって、
卒業式などの儀式の場において、 すべての参列者が立場の違いに関係なく 個々人として国旗国歌と向かい合うと言う儀礼的行為は、 教師の本来の任務とは異なる性質のものではないかと考えるのです。
学力という点に限った話でも、いわゆる有名進学校では、ナショナリズムを強調するような教育はしていないと思いますし、右翼系の学校は総じて学力レベルが高いとは言えない学校ばかりです。
日の丸、君が代を強制化することと生徒の教育レベルの向上との相関関係はまったくないどころか、
逆行すると思います。
ちなみに、世界の民主主義国家の中で国歌斉唱を強制し、それに従わない者を
処罰する国は日本だけです。近隣諸国では中国がそれをしています。
民主主義という点で、こんな強制と処罰を断行することは
非常に後進国的発想なんです。
アメリカの忠誠の誓いという行事が毎朝の日課になっていることはよく知られていますが、
これさえ生徒、教職員ともに拒否出来ることが判例で認められているのです。
日本を成熟した民主主義国家にしたいですか?
それとも、
後進国に見習っていいのですか?
私は前者に立つので、こんな強制と処罰など大反対ですね。
tt様への追伸
出てきます。そして常識を持ち出して、強制化を正当化するわけですが、
この時点で、既に論点が摩り替わっていることに気づいてください。
日本の国のマジョリティにとっては、歌うことが常識だと思っていても、
常識だと思わないマイノリティもいるのです。
そして、そういうマイノリティを処罰してまで強制する“常識”の根拠は
どこにあるんですか?
教員の本来的な職務とは言えない式典における国歌斉唱を歌わないことによって
失われる利益とはなんですか?
今までも歌わない人は沢山いました。そもそも従来ほとんどの学校では入学式卒業式では国歌斉唱など行われなかったのです。強制化されたのはつい最近のことです。具体的には2003年に東京都で強制化が
執行されたのが始まりです。
つまり、国歌斉唱を強制するという“世界の非常識”が始まったのは2003年の石原慎太郎都政下
においてのことなんです。
常識だのなんだの持ち出す前に、時間軸を遡って、事の経緯を認識しておきましょう。
フリスキーさんへ
世界情勢を兼ねて大変勉強になりました。
そのうえでの話ですが、あなたの論理だと会社で毎日朝礼でいろいろ唱和することも、社歌を歌うことも拒否してなんら問題がないという風に受け取りましたがその点で錯誤はないでしょうか?
会社の職務をちゃんとやっていれば、社歌を歌わずとも、会社の理念を唱和せずともいいというのがそのまま当てはまるとおもうのですが・・
あと世界の情勢をおっしゃられましたが、中国が国歌の強制している意味と、日本のそれとは同じ意味合いを持つとは到底思えません。
中国がやっていて、ほかの先進諸国がやってないからどうとかいう話も違うのではないかと思います。
あとなぜこのような事態になったかご存知だとはおもいますが、「はじめから教員が日本の未来のために正しい教育」をしてくださってるのならば、こんな強制はないのです・・
日本の歴史について自分の歴史観を生徒に植え付ける。 またそのような教育理念を主とする団体があるからこそ、こんな反対意見がでるのではないでしょうか?
そのような人たちにはたして教育を任せておけるでしょうか?
話が戻りますが、会社の社歌に関してだって普通喜んで歌う人はいませんが、それが強制となれば普通うたいます。
わざわざ所属の意識を乱してまで拒否する正当な理由がないからです。
では公務員の国歌の拒否にはどのような理由があるのでしょうか? わたしには過去の歴史観を持ち出すよこしまな理由しか思い当たりませんが、よろしければお聞かせください。
もうひとつ。 日本の国歌斉唱の法の考えには上記のような考えも含まれています。
なので中国のそれとはまったく異なると考えます
tt様へ
>社歌を歌うことも拒否してなんら問題がないという風に受け取りましたがその点で
>錯誤はないでしょうか?
私は拙ブログにおいて以前に以下の事を書きました。
『強制化肯定論者は、国歌を会社における社歌に喩えているのを見たことがありますし、
君が代を歌わない教師を、会社では考えられないとか言っていますが、
例えば、A社の商品開発担当のB社員が、設立記念日の社歌斉唱の際に、宗教的な理由により、
どうしても歌えない箇所があるとして、斉唱を拒んだとします。
これで、一体会社にとってどんな不利益を被らせることになるのかさっぱりわからない。
そもそも、B社員の職務の本分は、付加価値の高い、売れる商品を開発することであって、
社歌を歌う、歌わないは枝葉末節のことに過ぎない。
そんなことで処罰したり、ましてや社員失格の烙印を押したり、クビにしたりしたら
そんなのはトンデモ企業のすることで、ろくな会社じゃないでしょう。
スポーツでいえば、男子バレーの植田辰哉監督は、君が代を歌わないような選手は日本代表にいらないと
言ったそうですが、国歌斉唱を強制し、代表選手の条件にするようなことが、一体、競技の強化に
とってどんなメリットがあるんでしょうか。女子バレー代表のほうは、そんな強制化はされていないようで、
歌わない選手もけっこういますが、女子バレーの方が成果を上げていますよね。
1998年、サッカーワールドカップでジダンをはじめラ・マルセイエーズを歌わない選手がいるフランス代表について、
極右政治家ルペンは、「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と批判したようですが、
あっさりそのチームが優勝を遂げて、国民から大喝采を浴びての凱旋を遂げ国の英雄となってしまいました。
ルペンがいらないと言っていた選手の大活躍によってフランスサッカーは最高の実績を上げることになるのです。』
付け加えるに、1999年に国歌国旗法が制定される以前は、全国の大半の学校では国歌斉唱は行われていなかったし、強制が始まったのは、東京都における2003年の10・23通達からです。、
ちなみに国立学校では、こういう強制と処罰があったという話は私は聞いていません。拙ブログのコメント欄に、中学から大学まで国立学校に通っているという学生さんの報告がありましたが、高校時代といいますから、この数年以内ということになりますが、卒業式の君が代斉唱時、歌っている教師と歌っていない教師が
混在していたし、生徒も同様で、それで問題は何もなかったようです。
どうして歌わない教師を処罰してまで強制しないといけないの?
さっぱりわかりません。
騒いでいるのは、国歌を歌わないぐらいのことでキーキー言う側なんじゃないですか??
国歌斉唱の強制問題を扱った永井愛の作・演出による舞台「歌わせたい男たち」の
2005年の初演時のチラシに以下のようなエピソードとして以下のことが書かれています。
当初、ロンドンとの提携公演になるはずだったのが、
イギリス人芸術監督によって難色を示されたといいます。
そして、こう言われたそうです。
『ソーリー!この芝居をロンドン市民に理解させることは不可能です。
彼らはきっとこう言うでしょう。この芝居は変だ。
もし学校でこんなことがあったなら、
全国の先生たちがストライキをして、国中が大騒ぎになるはずだ。
なのに、この芝居じゃ全然そうなってない……と』
つまり、こんな強制をすること自体がやはり世界の先進国の基準から言っても
非常識なのでしょう。
次に、憲法学者、土屋英雄筑波大学教授の法律時報2011年83巻(日本評論社)に掲載された論考
『「国旗・国歌」は「強制可能な公的利益」か』から引用させて頂きます。
(引用開始)
アメリカを例にとると、納税の義務、兵役の義務及び義務教育は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠があるが、
「国旗・国歌」関係の行為は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠はないので、「強制」がある限り、違憲とされる。
これは、1943年のアメリカ連邦最高裁判決以来、今日までの確立された判例法理であり、アメリカでの「国旗・国歌」関係の事件類型において、比較考量の基準が適用されたことはない。
また、「強制禁止」テストの趣旨は、1993年の自由権規約委員会の思想・良心の自由についての「一般的意見」及び1996年の
ザンビア政府報告書に対する当該委員会の「最終見解」においても示されている。
日本でも、「国旗・国歌」関係の行為を強制可能とする憲法上の根拠がなく、かつ、国旗・国歌関係の行為が、
強制可能な政府の利益(権限)であることが憲法法理上で論証されたこともない。
「国旗・国歌」だから強制できるとするのは錯覚に基づく。
〈中略〉
また、ほとんどの先進国が加入している個人通報の自由権規約選択議定書(2011年3月現在、加入国数は113か国)に
日本はいまだ加入していないが、いつまでも加入拒否し続けることは困難である。
最高裁が、仮に都教委「10・23通達」関係の全ての事件において、
原告らの主張を否定することで終結した場合、将来的には次の舞台は自由権規約委員会になると思われる。
その場合、当該委員会が「国旗・国家」関係の強制事件を審査するとすれば、普遍性を有する国際基準として、
「強制禁止」テストを適用する(フリスキー注、つまり違憲と判断される)可能性が高い。
某新聞は、5月の最高裁判決によって、「憲法論争は決着した」と断じたが、マスコミらしい浅薄な論である。
最高裁判決は、起立・斉唱は儀礼的所作であるという。しかし、儀礼的所作と強制可能な行為とは法的には次元が異なる。
両者を区分するのが国際常識である。儀礼的所作だから強制できるとするのは法理的にありえない。
欧州では、強制している国は一つもなく、そもそも卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない国が多い。
都教委は、裁判で、国際常識の例として起立・斉唱を強制している中国を持ち出している。
その中国は、自由権規約を1998年に署名したまま批准していない。
外務官僚出身の竹内行夫裁判官は、5月30日の最高裁判決の補足意見で、先年、
「ある外国」での国際サッカー試合の前に「君が代」が演奏された際、その国の観客が起立をしなかったことが、
「国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判された」が、
「他の国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、
まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要であり、
学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然である」と述べる。
ここでの「ある外国」とは中国をさす。中国の国歌は「義勇軍行進曲」であり、これは、抗日戦争を鼓舞する歌である。その抗日戦争の時期、日本を象徴していたのは「日の丸」と「君が代」である。中国では「国旗・国歌」が強制されており、そして日本もその強制を合憲とした。自国内で「国旗・国歌」を強制することは、排外主義を強める機能を有する。
「国旗・国歌の強制」を競い合うことが「国際常識」ではあり得ない。最高裁は、いかなるアジアを展望しているのであろうか。
(引用終了)
いいですか?
国歌斉唱の強制の例として、強制政策の主体である都教委が中国を例に出しているわけです。
両国の強制化は本質的に同じです。
つまり、国家を象徴するものに対して拝礼を拒否することは許さない。
それぐらいに国家の象徴は重いものであるのだということで、
これは国家に対する忠誠、命令に逆らう者を許さないという
徹底した上位下達の考えに基づきます。
しかし、
命令の内容の如何を問わず、命令だから黙って従えという発想自体が
既に全体主義的で後進国的発想なんです。
以下、拙ブログから
『公務員である以上は、イエスマンに徹し、政治家の意に反する主張は全て封印し、
ロボットにならないといけないというところに行き着きますが、それは全体主義そのものであって、
先進国はどこもそんなことをしていません。
世界では、公務員が政治的な主張をすること、デモに参加すること、ストライキを行うことはザラにあります。
諸外国の事例をいくつか挙げますと、
イギリスでは、去年の11月、労働団体が結集し、一般公務員、教職員が多く参加しての、
政府の年金制度改革案(年金保険料と退職年齢引き上げ)に反対する50万人規模とも200万人規模ともいわれるデもが繰り広げられ、大規模な公務員ストライキが実施され、全土に広がりました。そして、イギリス全土の学校の4分の3が休校となったといいます。日本では考えられないでしょう?でも、イギリスではそういうことがあったばかりなのです。
ドイツでは、2006年に、労働時間の延長に反対しての公務員デモとストライキが全土に広がりましたし、
2010年、公務員が2万人規模で結集しての賃上げ要求とストライキが実施されていまして、
呼び掛けは、公務員労組によってなされています。
フランスでは、人事院の白書によれば、公務員のストライキはかなりの件数生じており、2008年における国家公務員全体の
労働損失日数は約115万日であるとのこと。
公務員は、個人の資格でストライキに参加できるため、非組合員も多数ストライキに参加しているとのことです。
アメリカでも、州によっては地方公務員のデモやストライキがありまして、1970年には75万人が参加する大規模なストが敢行されました。
カナダについても、当地に在住しているライターの西川桂子さんのブログによると、
http://world.chikyumaru.net/?eid=328584
(引用開始)
カナダで暮らして、早くも13年が経ってしまった。その間、見てきたストの中には、日本で生まれ育った私には信じられないようなものもあった。
例えば、今夏、バンクーバー市の職員がストをした。
へぇ、公務員の市職員が…と思うかもしれない。
市役所の一部業務が停止している他、コミュニティセンター、スイミングプール、スケートリンク、図書館などの施設は休業。
折角の夏休みにも市営プールは利用できなかった。コミュニティセンターで開かれるプログラムも全てキャンセルだ。
そして、驚くのは、なんと! ゴミの収集員も参加していることだ。
〈中略〉
2年前には公立学校の先生までストをして、1ヶ月近く学校が休みになってしまった。
さらに意外なのは、「労働者にはストを行う権利があるから」と容認する人が多いことだ。日本では争議行為など、
公務員の労働基本権は制限されているが、カナダで認められている。私の周囲では「まったく人騒がせな!」と怒っているのは、
ストに慣れていない日本人ぐらいだ。カナダ人は概して組合員に同情的。学校のストのときには、ピケをはっている先生方に差し入れする保護者もよく見かけた。
〈中略〉
カナダのストはとにかく長い。そして、公務員のスト行使権が法律で認められている。
(引用終了)
このようにあるとおりです。
公務員なんだから、上の言う事やる事に対して文句を言うな、などという常識など先進国には存在しないことがお分かりでしょう。』
最後に、
>日本の歴史について自分の歴史観を生徒に植え付ける。
>またそのような教育理念を主とする団体があるからこそ、こんな反対意見がでるのではないでしょうか?
>そのような人たちにはたして教育を任せておけるでしょうか?
私の学齢期は未だ教職員の加入率が高い時代でしたが、
そんな危惧するような偏向教育なんか無かったですよ(笑)
あれは、つい最近になって右翼が大日本帝国の時代を肯定し、
さらには立憲主義、民主主義の意義を捻じ曲げたいために持ち出した
印象操作に過ぎませんよ(笑)
デマです。
むしろ、私の世代は、
高い偏差値、良い学校、良い会社という価値観で追い立てられ、
偏差値競争、激しい受験競争に追われ、
つまり企業の論理、資本の論理に教育が飲み込まれて、そこに馴染まない
子供たちが非行に走って校内暴力、不登校などが問題化していった時代であって、
それは現代まで続いていることであって、
歴史教育云々なんてぜーーぜん関係ありませんよ(笑)
ところで、
数学や英語の教師は、歴史教育に携わっていませんが、
そういう教師は、不起立でもOKですよね?
tt様へ
>思想良心の自由から歌いたくないというのは、普通に考えれば物笑いの種にされるだけです。
都道府県立や市立の学校の教職員は自治体と雇用関係にあるのであって、
国とは雇用関係にありません。国を運営する立場ではありません。
ならば、
どうせ強制するのならば、雇用関係にある自治体の歌、県歌とか市歌でしょう。
それと、日本は立憲主義に立っていますし、一応先進国と言われていますね。さて、笑い飛ばしている他の先進国の人を私は知らないのですが、具体的に誰がいます?
>フリスキー様
>『ソーリー!この芝居をロンドン市民に理解させることは不可能です。
彼らはきっとこう言うでしょう。この芝居は変だ。
もし学校でこんなことがあったなら、
全国の先生たちがストライキをして、国中が大騒ぎになるはずだ。
なのに、この芝居じゃ全然そうなってない……と』
やはりこれが、欧州におけるスタンダードなんでしょうね…。 個個人が自立していて自分自身が“権利の主体”であることが幼少期から身に沁みついているのでしょうね、きっと…。
第二次大戦後の逸話でドイツに駐留していた米国の司令官アイゼンハワーが日本に駐留していたマッカーサー元帥に、しみじみ漏らしたそうです…、「君のところ(日本)が羨ましいよ、だってそうじゃないか…、日本人は精神年齢が12歳だが、ドイツ人は42歳の大人だから容易に御せないよ…。」
フリスキーさん…、やはり、わたし思うんですが、日本人は、あらゆることに従順で、「万世一系の皇族」に服従することに精神的安堵を感じ、権力に阿ることをヨスガとする民族的アイデンティティとして精神なるものに刷り込まれているのではなかろうかと…。
約20年前、仕事で
北京に足掛け5年程滞在しまして実感したことがあります。日本だと会社内の廊下など歩いていて前方から社長が歩いてくると、道をあけて、頭を深々と下げるというスチュエイションが想像されますが、向こうは、そうじゃないんですね…、社長が来ようが、主席が来ようが、我れ関せず妙なヘリクダリは一切しないんですよ…。
フリスキーさん、ご指摘の通り、国歌斉唱の強制なるものが顕在化したのは、石原慎太郎知事の出現の頃からです。ひと昔前の日本であれば、あの様な国粋主義パラノイアは、忌避されたものですが、今は様相が異なり、傅く…。この様をみていますと、日本国憲法なぞ、こともなげにズタズタに改悪されるのも時間の問題だと懸念しているところです。主権者を守る砦の日本国憲法をみすみす踏みにじる愚をやらかそうとする悲劇を指をくわえて観るのは、屈辱です。
フリスキーさん…、とりとめなき駄文…、ご勘弁の程…。
m(__)m
横から失礼します
あなたのおっしゃっているようなことについて、2年程前にもこちらのブログでやり取りをさせていただいたことがあります。あまり代わり映えしないでしょうが、改めてコメントさせていただきます。
>あなたの論理だと会社で毎日朝礼でいろいろ唱和することも、社歌を歌うことも拒否してなんら問題がないという風に受け取りましたがその点で錯誤はないでしょうか?
>会社の職務をちゃんとやっていれば、社歌を歌わずとも、会社の理念を唱和せずともいいというのがそのまま当てはまるとおもうのですが・・
私の意見は、「おっしゃる通り」です。
私の属する集団でも、例えば朝礼などでいろんな「作法」があります。時には何かの「唱和」のようなことをすることもありますが、その時に「業務命令」を出すとか「口元チェック」をするなんてバカなことはいたしません。
そして、各人の評価はあくまでも業務への取り組みや結果で決まります。
そこで、社歌斉唱だの理念の唱和だのでいちいち業務命令を出し、口元チェックをし、それを評価材料にするような企業は、本業よりも「型」が大事な企業であり、そういう企業がグローバルな競争に勝ち抜けるとは思えません。
そもそも企業で何らかの「唱和」を行うのは何故か。
それはその内容を社員に覚えてもらうためです。
だから当人が口にしなくても、耳から聴いた内容が頭の中に入り、身に付いているならそれでOK。逆に、「唱和」の時にどんなに大きな声で唱えていたって、その内容に反する行動を取れば、その社員の評価はバツです。
>あとなぜこのような事態になったかご存知だとはおもいますが、「はじめから教員が日本の未来のために正しい教育」をしてくださってるのならば、こんな強制はないのです・・
あなたがご存知ないように思えますね。
戦後30年程の間は教育の場に日の丸・君が代なんてものを持ち込まずとも、生徒も教員も親も、ほとんどの人が納得していたのですよ。
ところが、それが気に入らない一部の人がゴリ押しを始めたからこういう事態となったのでしょ。
だいたい、「はじめから教員が日本の未来のために正しい教育」って何ですか?
何が「正しい」かなんて所詮は主観。私に言わせれば、今、日の丸・君が代を強要している人がやろうとしていることこそが「正しくない教育」ですよ。
>日本の歴史について自分の歴史観を生徒に植え付ける。 またそのような教育理念を主とする団体がある
まさに、それをやろうとしているのが日の丸・君が代を強要しようとしている側でしょ。
そして、その歴史観が世界では全く受け入れられず、逆に日本への非難を呼び込んだ実例(THE FACTS)すら存在するというのに、こういう正反対の発想ができることが、私には不思議でなりません。
>話が戻りますが、会社の社歌に関してだって普通喜んで歌う人はいませんが、それが強制となれば普通うたいます。
そんなものを強制する会社が「普通」じゃないでしょう。
普通の会社は、社歌を強制したりはしないし、口元チェックなんてやらない。
社員の評価は本業の結果で判断するものです。
>では公務員の国歌の拒否にはどのような理由があるのでしょうか? わたしには過去の歴史観を持ち出すよこしまな理由しか思い当たりませんが、よろしければお聞かせください。
これも以前に述べさせていただいたことですが、私の答えは簡単。「場違い」だからです。
卒業式や入学式のような、生徒の門出や新しい生活のスタートを祝う場で、あのような曲を歌うのは「場違い」。だから、歌いたくないし、式次第にも入れて欲しくないのですよ。
それ以上の理由なんてありません。
で、この手の話になった時に、あなたのような方に私がいつも聞く質問があります。
『あなたはご自分の結婚式や親族のお葬式などで、日の丸を掲げ、君が代を演奏しましたか? なさったのなら、その評判はいかがでした? なさらなかったのなら、その理由は何ですか?』
さて、ttさんはこれにちゃんと答えて下さるでしょうか?
>ttさま「卒業式で国歌斉唱をしなかった理由」by元教育公務員
にも,式での起立斉唱に抵抗感を持っておられる先生方が,いつもおられました。
なので「卒業式で教員が起立せず『君が代』斉唱をしない理由」について,少しは教
員の代弁ができると思います(因みに教員としての私自身のポジションは,「起立はする
が,君が代斉唱はしない」でした)。
とはいえ,一言で代弁することは難しいし,私も不起立不斉唱の先生全員の考えをき
く機会があったわけではないので,私の代弁(もどき)では全ての理由はカバーできませ
んが,とりあえず私の認識している理由のうち強く共感していたものを,具体例を交え
てお話します。長文になりますが,秋原さん,ごめんなさい。
卒業式に出席している多様な生徒の中には,単なる好き嫌いではなくもっと深刻な理
由で「君が代」を歌えない生徒がいる可能性があります。そんな「生徒の『歌わない自
由』を保証しにくくなること(=歌うことを強制することになるのではないか)」を危惧
し,式に日の丸君が代を持ち込むこと自体に反対しておられる教師が,(教員経験が豊か
な,年配の先生方を中心に)多かったです。この理由が,一番私の腑に落ちる理由です。
具体的には,例えば「普段は通名で生活しているが,親戚に日本の侵略的行為でひど
い目にあった人がいる等で,戦時中の被害経験等を直接聞き,間接的にその傷を自分も
体験している」生徒など。こういう人たちに対して「(日本の国旗国歌が嫌なら)お前が
日本を出て行け」と激しく攻撃する人がいることもその子たちは知っていて,知ってい
るからこそ無言を貫いてひっそり暮らしていると聞きました。
私自身はそういう生徒の担任をしたことはありませんが(該当するが担任にも言わない子
もいると思われる),やはり,他の理由つまり宗教上の理由で「(自分は)歌わない」と
担任(=私)に説明の上,歌わなかったある生徒の担任をしてからは,先の(民族的な理由
で歌わない,という自分の理由を)説明も宣言もできない生徒の辛さが,以前よりは多分
正しく想像できるようになったと思っています。
なお,宗教上の理由があって斉唱しない生徒も,皆が皆,私の生徒↑のように「私は
…だから歌わない」と口に出せるわけではなく,自分の信仰を表立って言いたがらない
(=内心の表明を嫌う),無口で内気な生徒もいました。
<注>宗教的な理由(私の生徒の例): その宗教では,(自分の信じる)神以外を賛美するもの
を持つことはできない。
同じ理由で,彼(女)らは校歌も歌いませんでした(音楽で校歌の試験がなくてよかった。
余談ですが,そういう宗旨の宗教を信仰する生徒は,将来,日本国籍を持っていても,
公立学校の教員にはなれないということでしょうか?)
ですから「それを守ることが学校に必要」と思われる先輩の先生方には教師として共感
でき,私も職場にいる間(の’99以前)に,起立斉唱(の正確に言うと「強制」)に対して抵抗
を覚えることの妥当性を理解しました(それ以前から君が代の歌詞の問題点は,充分意識
していたが)。また今でも,国歌である「君が代」について「歌詞に思想性がある点,その
思想性にも問題がある点」と,ドイツのように大戦の反省を行わないで,「戦後もそのま
ま戦時中の国旗国歌を使っている点」が問題だと思っています(これは,オリンピックで国
歌=君が代のメロディが流れると,私が嬉しく感じることとは矛盾しません)。
そのため,以前のように学校の式では国歌斉唱は強制されるべきではなく,強制されない
環境が整えられるべきだと思っています。
同じ職場の先生方から「式での起立斉唱の強制=×」と考えるようになった理由,
つまりその原因となった「生徒らとの関わり(=実体験に基づく話)」を多々聞くことで,
そんな体験のない一教師(私)もやはりいろいろ考えて勉強させていただきましたし,
そういう「少数の生徒の思いにも心を配ること」は教師にとって大切だと心から実感
できました。
個々の事例を具体的に説明できず,残念ですが,以下のHPも参考になります。
私の挙げた例とは異なり,生徒らが自ら動いた例です。
いろいろな考えがあることがわかります。
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/search?q=40秒の攻防
そういうわけで,やはり式での「君が代」の起立斉唱の強制に繋がることに教師が
抵抗感を持つことは,私には理解できます。その後(私の退職後),大阪が現在のような
状態(起立斉唱は一律強制されるべきルールとされ,ルール違反として教師の不斉唱が
ことさら激しい攻撃対象となる状態)になっていることは,大阪に同僚はいないものの,
現場の先生方のお気持ちがわかる私にはとても辛いです。
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ところで,このような経験があるため,私には「教師の不起立不斉唱」が,
どうしても「(教師の)単なる好き嫌い」によるものとは思えません。
(1)生徒に寄り添うという職業上の必要性と,
(2)生徒に寄り添いたいという教師としての気持ちがベースにあり,
そこから生まれた思いなので,この問題を「教師の個人的な好悪に基づくルール違反」
の問題に矮小化されることに,大きな違和感があるのです。
生徒の校則違反,つまり『黒髪は嫌いだから茶髪に染める』という「『その校則が
個人的に嫌いだから,校則に違反する』場合」と同列の“ルール違反”として論じられ
るレベルのことでは,絶対にない。かたや生徒という「ひと」が介在し,その尊重を
考えてのことなのですから。
単なる好き嫌いなら,その趣向はその後変わることもあります。
そもそもこの教師の行為が,もし可変性のある「単なる好き嫌い」という『軽い』
事実に起因する行為なら,今は「従わなければ処分」という処遇が待っていますし,
たとえ抵抗感があっても,教師は『軽く』(ではないにせよ←厳密には)従うでしょう。
でも教師の「生徒との間の実体験」は,教師にはやはりとても『重く』(=重要で),
つまり単なる『軽い』好き嫌いではないからこそ,実体験の多い教師は,儀礼と
わりきることはできない。だからこそ国内の場所を問わず,
教員の不起立や不斉唱は(少なくはなっても)続いているのだと思います。
教師が長年の生徒との関わりの中で持つに至った,(生徒が起立斉唱を強制される
べきではないとの)教師の「考え」,生徒を守りたいという「思い」は責められる
べきではありません。でも世間でこの問題が論じられる時にいつも思うのですが,
この問題を「思想の自由」の問題と言うと,少しポイントがずれるのではと危惧
します。確かに歴史認識は関係ある場合が多いですが,それより,教師がこれまで
生徒と現実に関わる中で感じ考えたことの方が,より大きい比重で(不起立や不斉唱
の行為に)関係することは間違いないと思うので,「思想の自由」というより,
「考え・思いの尊重」の表現の方が近いかもしれません。
それでも最近は「卒業式は卒業生のためのもの」と,生徒の立場により重心を置き,
(斉唱はともかく,)起立はする教師が増えているように思われます。
本当に「卒業式が卒業生のためのもの」なら,式当日の座席の並べ方(卒業生が壇上の
方向を向いて座るのではなく,在校生の法を向く「対面式」などもある)から,
国旗国歌を式場,壇上に持込むかどうかまでを含め,卒業生が式の内容を決めればよい
のです。でもそれはなぜか叶わず,どうしても国歌斉唱がある式でなければならない
ので,それに抵抗がある教師でも,生徒のために(自分の意思に反することでも)我慢
しよう…という苦渋の選択をする方向に向かっていると思います。
次のようなエピソードもあります---「ばりばり左翼の先生で,日の丸君が代の罪に
ついては絶対譲らない社会科の先生が,卒業式は(国歌斉唱時に)いつも立つ」---。
この話はだいぶ前にネットで読みました(出典が確認できず申し訳ありません)。
その先生の思想を知る生徒はびっくりするが,先生の「生徒のための式だから」との
理由を聞き,生徒らは彼(女?) を尊敬している,と書かれていた記憶があります。
この先生の理由にも一理あります。そして実際,特に起立については,昨今はもう
そのように考えて,多くの教師が従っているではありませんか。
理由は同じく「式に混乱を起こしたくないから」「(式での起立斉唱の徹底に反対する)
自分が間違っているとは思わないが,かと言って,もし実際に不起立教師の方が多かっ
たら,式の雰囲気が悪くなるし(立とうか…)」などですが,法制化されたことで
教師も悩み,それなりに折合いをつけることにできるだけの努力はしていると思います。
教師が座っていることで,生徒に「(思うところがあれば)座ってもいいんだよ」という
メッセージを送ることになるかも,とは思うので,それができず残念に思われる先生も
おいでかもしれないとは思いますが…。
卒業式が誰のための式かは明らかですが,そのために式を乱さない範囲で何ができるか
は,人それぞれで考えが違っていても,許されてもよいのではないですか。
http://ameblo.jp/lovemedo36/entry-11235649963.html
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/9024518.html
実際に式は乱れていなかった。なのに,個々人の口元チェックまでして
「一人残らず絶対服従」の徹底をはかろうとしたことを完璧なマネージメントと評し,
模範例とするなんて。まるで軍隊のようでは?
赤川次郎さんが朝日への投稿で言われたように,醜悪にちがいありません。
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/5327473.html
そして実際,教師が心配すること=生徒への強制,が起こり始めている気配がある
ようです。秋原さんもコメント欄で言われていたと思うのですが,
ある小学校で,児童への「君が代斉唱」時の姿勢(手は横に!)や声の大きさの指導が,
式前にあったという話をききました。教師への強制は,生徒への強制に繋がらないと,
誰がどういう根拠で断言できるでしょうか。
http://emk811.blog.fc2.com/blog-entry-116.html
○最後に,フリスキーさま&白砂青松さまの上↑のコメントの中に,感謝の言葉を述べ
たいところがありますが,長くなったため,それはまた後日投稿させていただきます。
>フリスキーさま(御礼)
引用開始:
>日本の歴史について自分の歴史観を生徒に植え付ける。
>またそのような教育理念を主とする団体があるからこそ、こんな反対意見がでるのではないでしょうか?
>そのような人たちにはたして教育を任せておけるでしょうか?
私の学齢期は未だ教職員の加入率が高い時代でしたが、
そんな危惧するような偏向教育なんか無かったですよ(笑)
あれは、つい最近になって右翼が大日本帝国の時代を肯定し、
さらには立憲主義、民主主義の意義を捻じ曲げたいために持ち出した 印象操作に過ぎませんよ(笑) デマです。 ←引用ここまで
ありがとうございます。私も『日教組の偏向教育に染まった教員が,学校で生徒に誤った偏向教育をしている』かのように言われる度に,どこにそんな現実があるのだろうと不思議に思っておりました。
前に秋原さんがエントリーとしてとりあげて下さった拙稿(教員の仕事内容について書いたもの)からもわかっていただけるとありがたいのですが,教員時代,本務だけで,早朝から遅くまで,そして帰宅後もお持ち帰り仕事で,もう本当にすご〜く忙しかったので…仕事以外に学校で,そんな
●「組合の教育」を教師が受けて,それに染まる暇も,
●組合で教員が叩き込まれたとされる「偏向教育」を,教師が生徒にする暇も,
そんな暇は,どっちもゼンゼンなかったよ!というのが正直なところです。
フリスキーさんの「デマ」の一言で,謎が解け,ホッとさせていただきました。
ありがとうございました。
>白砂青松さま(御礼) 一部訂正simasita
引用開始
>>あとなぜこのような事態になったかご存知だとはおもいますが、「はじめから
>>教員が日本の未来のために正しい教育」をしてくださってるのならば、こんな
>>強制はないのです・・
>あなたがご存知ないように思えますね。
>戦後30年程の間は教育の場に日の丸・君が代なんてものを持ち込まずとも、
>生徒も教員も親も、ほとんどの人が納得していたのですよ。
>ところが、それが気に入らない一部の人がゴリ押しを始めたからこういう事態
>となったのでしょ。
THE FACTSのこと,恥ずかしながら存じませんでした。勉強致します。
他にもいろいろ教えて下さって,ありがとうございました。
私が教員になったのは,戦後30年よりさらにもっともっと後でした。
つまりそんな後でも, (’99以前は)式場に持込まれておらず(→あくまで私が働いていた複数の職場では,ですが),その後,持込みの指導が県からあってからも,しばらくは国歌の「メロディ&歌声入り」のテープが県から支給され,それを使用したり,卒業式プログラムに(「国歌斉唱」ではなく)「国歌」のみの記載しかなかったり…今思えば,私のいた環境では,管理職も(県も),現場の生徒と教師に細かいところで配慮して下さっていたと思います。
この先,全国的に,卒業式が『生徒への刷り込みと,教師の踏み絵を,校長と議員がチェックする』場にならなければいいのですが…(もうなってますね?)。