※直接証拠について間違いがあったのをツイッターでご指摘いただきましたので、一部訂正させていただきます(読みづらくなるので書き直させていただきました)
一週間ほど前の話題になりますが、練炭自殺に見せかけて男性3人を殺害したとして、殺人罪などに問われて死刑を求刑された無職木嶋佳苗(きじまかなえ)被告(37)に死刑判決がでました。
本人も犯罪事実を否認し証拠は状況証拠しかないので、この判決が妥当かどうか疑問視する声があります。
1.裁判ではまず有罪か無罪かを決めます。
有罪と判断したら、次に認定された事実を過去の量刑基準に当てはめて量刑を決めます。
有罪か無罪かを判断する際、 裁判官と裁判員は「合理的な疑いを超える心証」を得たら有罪と判断します。
「合理的疑いを超える心証」とは何かについてこちらのブログが参考になりますのでリンク先を是非ご一読ください。
◆弁護士松原拓郎のブログ
「合理的疑いを超える証明」に関する最高裁決定(2007・10・16)
http://lawyer-m.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/20071016_89ab.html 直接証拠がなくても状況証拠だけでも有罪認定ができるかどうかですが、日本は自由心証主義をとっていますので、状況証拠だけでも有罪認定できるというのが実務です。
(直接証拠、間接証拠については
こちらをどうぞ)
「直接証拠(自白も直接証拠です)がなく、状況証拠だけで死刑判決」と報道されているので直接証拠がないことが問題だと誤解されがちですが、そうではありません。
かつての死刑冤罪事件で、例えば免田事件では自白(直接証拠)以外は状況証拠のみというケースで死刑になっています。
今再審開始が注目されている死刑事件である袴田事件も自白以外に血痕のついたパジャマがありますが、この証拠の捏造はほぼ間違いないと思われます。
死刑事件ではありませんが、足利事件では自白の他DNA鑑定という一見があっても冤罪でした。
このように一見客観的で動かぬ証拠であるような物証があっても冤罪である場合があります。
「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則に従って証拠を評価していけば、直接証拠があっても合理的疑いを超える有罪の心証が得られない場合もあれば、状況証拠だけでも有罪の心証が得られる場合もあります。
要するに直接証拠があっても冤罪は起こりうるわけで、直接証拠があれば冤罪の疑いは減る、というものでは決してありません。即ち、はどの程度までの心証が得られれば冤罪の心配なく安心して(という言い方も変ですが)死刑を言い渡せるかと言う問題で、それには直接証拠の存否はあまり関係ない、ケースバイケースだと思うのです。
しかし状況証拠のみだった場合、「合理的疑いを超える心証」をとれても「いかなる疑いをも超える心証」はとれない場合がほとんどで、「万が一」「一抹の不安」はまず残るわけです。
状況証拠だけで「合理的疑いを超える心証」を得た場合、有期刑や罰金刑を言い渡すのなら抵抗を感じなくてもやはり死刑となると躊躇する、というのはある意味健全な感覚だと思います。合理的疑いを超える有罪の心証が得られても「万が一」のレアケースまでは否定できないからです。もし万一のレアケースだった場合、死刑は取り返しがつきません。
本件事件の争点はこちらになります。
http://goo.gl/3u8TC これをご覧になって「合理的疑いを超えた」と感じるかどうかは人によって違うでしょう。しかし「合理的疑いを超えた」と言えても弁護側の言い分が成り立つ可能性は100%ないとは断言できません。「万が一」「一抹の不安」の不安が残るのは確かです。だから本件は「状況証拠だけで死刑判決をだしてよいものかどうか」と問題視されたのです。
団藤先生の苦悩もそこでした。
団藤重光著「死刑廃止論」 p.399より
(略)もしこの場合に合理的な疑いがあると言うことであれば、これは事実誤認で破ることになります。そういうことであれば死刑どころか、これは(略)無罪を言い渡すことになります。ところが今の場合、合理的な疑いをこえる程度の心証はとれるのですから、とうてい無罪というわけには行きません。また、事実がその通りであるとすれば、これはきわめて冷酷無比の手口によるところの犯行でありましたから、死刑制度が存在する以上は、死刑はやむをえないという事案でありました。
そうかといって、事実認定に一抹の不安が残るということを理由として、死刑の代わりに無期刑にするというようなことは、一抹の不安というのは情状の問題ではないのですから、どうしても筋が通らないのであります。
そうしますと、私はこういうときに死刑というものが制度として存在しなかったら、どんなに気持ちが割り切れたろうとおもったのであります。
団藤先生の「死刑廃止論」からの抜粋になりますが、
1984年の国連経済社会理事会の決議「死刑に直面している者の権利の保護を確保する保障規定」第4条では
「死刑は、被告人の有罪が、事実についての別の説明の余地を残さない程度に明白かつ説得的な証拠に基づくのでなければ、科すことができない」としています。
イスラム法では死刑事件に関する限り、有罪とするためには「合理的疑い」を超える程度の心証では足りず、「いかなる疑い」をも超える心証がとれることが必要とされているそうです。一抹でも不安があれば有罪として死刑を言い渡すことはできません。
ですが、仮に日本でも死刑判決を下すときには「合理的疑いを超える心証」からハードルをあげて「いかなる疑いをも超える心証がなければならない」という基準を採用したとしても、何の解決にもならないでしょう。
自由心証主義を取る以上、「一抹の不安」を感じるかどうかは結局は裁判官の個人的な主観によるからです。
それにこの基準だと次のような問題が生じます。
「合理的な疑い」を超える心証は得たものの「一抹の不安」が残ったとき、死刑はやめといて無期懲役にしておこう、というのは理論的にできません。
なぜなら最初に述べたように、これは有罪か無罪かの認定を判断するときの基準になるからです。
(やったかやらないかについて不安が残るから刑を一等減じる、と言うのは、例えば強盗事件で合理的疑いを超える程度の心証までいかないから一番軽い刑にしておこう、と言うのと同じです。 強盗事件で合理的疑いを超える心証が形成できなければ刑を減じるのではなく、無罪なのです。)
すると、死刑相当ではない事件なら有罪認定がされるのに、死刑相当事件なら無罪となる、という不公平な事態が生じます。
状況証拠だけで死刑にすることに疑問を感じるなら、この矛盾からは逃れられることはできません。
死刑制度はこのような矛盾をはらんでいるということが和歌山カレー事件や今回の木嶋被告の事件のような「限界事例」であきらかになります。
2.ところでこの事件では裁判員の負担は大変なものだったと思われます。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120414-OYT1T00168.htm裁判に携わったのは100日にも及び、「難しかったの一言に尽きる。ただ、いくつか示された物証もあって、その中でパズルの組み合わせをする感じだった」とのことです。裁判員にここまでの負担をおわせてもよいのか、あらためて裁判員制度に疑問を抱きます。
次のツイートも参考にしてください。
4月17日 高島章(弁護士) @BarlKarth
「死刑判決」を書いた裁判官がその後アルコール依存→退職→一家離散という話は前に書いた。「冤罪判決に悩み自殺」という裁判官は知らないが,仕事上の重圧で自殺したり,精神疾患にかかる裁判官は少なくない(太の仕事に比べると有意的に多い)。
高島章(弁護士) @BarlKarth
木島被告人の死刑判決。裁判官がどれくらい悩んだかは知らない。否認事件で有罪判決(死刑)なのでそれはある程度悩んだだろう。他面において,裁判官は,その種のことに慣れているので,職業的な割り切りもできる。
高島章(弁護士) @BarlKarth
裁判員の感想で「良い体験ができました」というのが良くあるが,話半分に聞いておくべき。人間は「いやな体験」「二度と味わいたくない体験」「死にそうな体験」を受けた後これを,「良い体験」に昇華する。
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