コメント
「権利と義務はセット」
嘘です。
義務は無言でいれば権力支配層から次々に負わされる。
権利は維持し行使しなければ削られ取り上げられるのです。
だから市民革命や民主化革命で、民衆は権利を勝ち取り専制的支配者を倒すため立ち上がった。
やはり日本人は“お上”という奴に対して従順過ぎなんですよね。
「グローバルに通用する」には、まずは人権教育から
「そんなことを教えると生意気になるだけだから、なるべく教えるな」という指令でも、どこからか出ているんでしょうか?でも、そのせいで、多くの労働者たちが、不当な扱いを受けても訴える権利があることさえ知らずに泣き寝入りして来たのが現実でしょう。日本の会社は労基法違反だらけ、政府も、同一価値労働同一賃金の実行について、ILO(国際労働機関)に何度も勧告されても無視しているようです。「最近の日本人は権利ばかりを主張する」と“ある種の方々”はよく言われますが、しかし、本当に権利を主張出来ていたら、サービス残業とか、男女間の賃金格差とか、非正規雇用者の貧困化とか、そもそもあり得ないでしょうに。これで、どうやってグローバルに通用する社会やら人材やらを育成しようというのでしょう。この「グローバルに通用する」というのは、近頃、お偉方たちがよく使う、彼らお気に入りのフレーズですが、本当にそうなりたいなら、まずは、そこからですよね。いくら、経済発展しても、人権を主張できない「奴隷」に支えられている社会なんて、他の国からは軽蔑されるだけでしょうから。
驚愕 ! の人権教育
「社会における法律や決まりは、社会秩序やトラブルを防止し、自分たちの権利や生活を守るため、人間が考え出した英知です。これを遵守することは、自他の権利を尊重し、自分の義務を果たすことであり、その結果として個人の自由が保障されます」
秋原さんが言われるように、ここでは法律を守り責任を果たすことが、個人の自由を保障する前提のような書き方です。順序が逆です。まずすべての国民が、自由に基づく市民的権利、社会的権利をもつことを明確にし、その上で、各人の自由は無制限ではないとして、守るべき義務について述べるべきです。
驚いたのは次の叙述です。「人権とは、人を分け隔てなく平等に考え、接することです。混んだ電車の中で、おとしよりや身体の不自由な人に席を譲ったり、家庭生活の中で仕事を分担したりして、身近なところから、気づき、気がついたら自分で実践することです」。
ここでは人権は、権利ではなく、個人の「他人にたいする態度、接し方」になっています。そしてこの教科書が考える人権(接し方)の実践は、まったく人権とは関係がない内容です。これは連帯の実践です。この著者の人権の意識はどうなっているのだろう?これで日本の人権教育は大丈夫か?という危惧に襲われました。
いちおう人権の歴史に触れている教科書もあります(「新しい公民」東京書籍)。具体的に把握するための資料がないことが残念ですが。
>風鈴草様…、>jeanvaljean様…
>誰もが持っているはずの「基本的な人権」についての教育って、そういえば、あまり受けた記憶がありません。
>被雇用者という弱い立場になる人にとっては身を守るための大事な権利であり法律なのだから、本来ならば、卒業試験にでも出してしっかり身につけさせてから、卒業させるべきじゃないか…
>多くの労働者たちが、不当な扱いを受けても訴える権利があることさえ知らずに泣き寝入りして来たのが現実でしょう。
ことごとく、大賛成です。わたし自身も義務教育で法律の授業を受けた記憶が無いですよ…。日本の教育のお粗末なところですね…。
風鈴草さんの仰る通り、日本人の人権意識は、グローバルになっていないから、渡邊美樹率いる和民の様な殺人企業が大手を振って世間を跋扈し、日本人の殆どが、“世間は厳しいものだ…”と、何の疑義も持たないんですね…。経済のグローバル化なるものも、日本人の殆どが、悪しき洗脳に染まっている様ですが、あんなものは、輸出企業とメガバンクの誠に身勝手極まりない論理です。本来の健全な経済のあるべき姿は、金融市場でのマネーゲーム(博打経済)と決別し、日本の世界に冠たる最先端技術によるものづくりと農林水産業などの第一次産業に基軸を置いた、地に足のついた経済活動なんですね。その理念に沿って内需拡大し、労働者の懐を温め暮らしを安定させ、労働者の権利を擁護しなければ、社会保障制度をはじめ、あらゆる分野が破綻を免れません。AIJの一連の事件が証左ですね、あれは市場原理主義の行き詰まりが顕在化した大事件なんですね…、マネーゲーム(博打)から抜け出せなくなった末路なんです。1990年代のバブル崩壊に端を発した金融機関の不良債権処理での莫大な血税の無駄遣いの反省がない為に同じ轍を踏んでしまうんですね…日本の経済界の学習能力の無さ、無能ぶりは救いようがない、皺寄せがすべて労働者、国民に押し付けられるんですね…。厚生年金基金の毀損も国民の血税で穴埋めする事態になることはまず間違いないところでしょう。
>jeanvaljean様…
日頃、貴殿が記されてみえる様に、日本もフランスの様に、義務教育で“法律と人権”を徹底的に学習すべきと思うんですね…、わたし自身もjeanvaljeanさんからフランス事情をおしえて頂くたびに、驚くこと自体に、赤面し恥辱を感じるんですね…日本の人権教育のお粗末さに…。やはり“日本国憲法”を必須科目にして、高校や大学の受験科目や、風鈴草さんの仰るように卒業試験に日本国憲法を組み込むようにすべきであると考えます。そうすれば、石原慎太郎や橋下徹の様な危険極まる人物が出ることもなかろうし、万が一でてきたとしても、日本国憲法を熟知した市民が拒否することでしょうね…。
EUのシンポジウムの記事で
一面でいうと、これが「日本の人権教育」の実態なのかもしれません
http://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20120418-00000164-jij-soci&s=lost_points&o=desc
※私の信条としては、「悪法も法であり、自らは冤罪で死刑判決を受けた場合はおとなしく刑に服するが、他人が冤罪で死刑判決を受けるのは法の良心から良しとしない」という「普通逆では」という考え方な人間だったりします。
>風鈴草さん
そんな感じです。お上に直接楯突かない私人間での人権に限って教育してるって印象です。
>jeanvaljeanさん
人権について正しく理解するなら、まずその歴史からきっちり学ぶことははずせません。そうでなければ深い理解は得ることができません。
刑事手続きにおける被疑者被告人の憲法上の権利についてもその歴史を学習する必要があります。そうでないと何故黙秘権や弁護を受ける権利が単なる法律上ではなく憲法上の権利とされているのか理解できません。
これらの権利を理解していない国民がほとんどなのに裁判員をさせるなんてどうかしていると思うのです。
>こっぱなお役人(北方在住) さん
> ※私の信条としては、「悪法も法であり、自らは冤罪で死刑判決を受けた場合はおとなしく刑に服するが、他人が冤罪で死刑判決を受けるのは法の良心から良しとしない」という「普通逆では」という考え方な人間だったりします。
僭越ながら・・・
「権利を主張するのは義務である」と思います。
自分が正当な主張をするのをよしとしないのは誤りを肯定すること、それはいつか他にも伝搬してしまうのではないかしら?
この分野でもバカ殿クオリティ爆発です
バカ殿の人権感覚を示すネタでございます。例によってバカ殿クオリティ爆発でございます。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201204210015.html
(引用開始)
大阪人権博物館への税金投入「ゼロベース」で見直し表明
2012年4月21日
橋下徹大阪市長と松井一郎大阪府知事は20日、大阪人権博物館(リバティおおさか、浪速区)を視察し、展示内容に疑問があるなどとして、今後は施設を運営する財団法人への補助金を府市ともに支出しない方針を示した。
橋下氏は大阪府知事時代、施設の展示内容を「わかりにくい。教育現場のニーズに応えるものに」と見直しを指示。20日は新しい展示内容を確認するため、松井知事と再訪した。
視察後、橋下氏は報道陣に「まだ内容が差別や人権に特化されていて、子どもが夢や希望を抱ける展示になっていない。僕の考えに合わない」と不満を漏らし、「市税投入はゼロベースで考える」と、7月に編成する予算案に補助金を盛り込まない方針を示した。松井氏も「現時点ではこれ以上の税投入には府民の理解を得られない」とした。
(引用終了)
はぁ?としか言いようがないですね。
>まだ内容が差別や人権に特化されていて、
あのぉ、施設の名前、ご覧になられました?「大阪人権博物館」ですよ。内容が差別や人権に特化されていて当然じゃないですか。極論かもしれませんが、ここは人権に関する「暗い過去」を見てもらい、人権の大切さを勉強するための施設じゃないですか。もしかしたら目をそむけたくなるような過去を見せられるかもしれません。それでも「明るい未来」とやらのために、「暗い過去」から学ばねばならないのではないですか。ここは、そのための施設のはずですよ。
>子どもが夢や希望を抱ける展示になっていない。
散々、子供を泣かせ、教育現場を弾圧し続ける政策を連発しているバカ殿に、こんなことを言う資格があるとは到底思えませんね。
>僕の考えに合わない
今更ながら、バカ殿の独裁者思考丸出し振りにはあきれ返りますね。「僕の考え」とやらが、市民あるいは府民の総意ではありませんね。少なくとも8,860,011分の1(※)の府民(←私のことです)の民意ではないことを表明しておきます。
(※)大阪府の2012年3月1日現在の総人口が8,860,011人です
http://www.pref.osaka.jp/toukei/jinkou/index.html
>2割しかいない少数派の府民さん
バカ殿には「わかりにくい」そうで。そうでしょうそうでしょう、バカ殿には人権など理解できないでしょうから。
展示内容を「教育現場のニーズに応えるものに」って、具体的にどうしろっていってるんだかさっぱり謎。まさか「君が代強制は人権侵害ではない」って展示しろってこと?
まあバカ殿には「人権博物館」なんてバカ殿の言葉を借りれば「ケツの穴がかゆくなる」存在でしょうね。
「僕の考えに合わない 」って、文楽も公共施設を自分の好みに合わないからって潰すのが独裁でなかったならなんだというのでしょう
おひさしぶりです。 これ、人権というより単なる礼儀、常識の範疇ですよね……。
>秋原さん
ツイッターでフォローさせていただきました。「誰?」って思われたらすみません(汗)
青い鳥様、秋原様
> 日本でも義務教育で“法律と人権”を徹底的に学習すべきと思うんですね…
青い鳥様、強く同感です。フランスでは小学校から高校まで学年ごとの公民教育がなされます。知人の子どもたちは、同じことを何回も勉強させられるよと不平を言っているそうです。それほどいろんな角度から、くどいほど人権を学ばせています。日本の中学で学ぶ公民教科書は1冊だそうです。そしてフランスほど、体系的、分析的、実践的(資料を駆使した)な教育ではありません。
秋原様
裁判員制度のことは、言われてはじめて気づきました。まさにおっしゃるとおりです。公正な裁判がなされるのか心配です。少なくとも裁判員が事前に、基本的権利を含む被告の権利を体系的に学ぶようにすることが必須でしょうね。
これから「政府刊行物に要約された市民の行動様式」というのを紹介していこうと思っています。情報、デモ、ストライキ、署名行動、陪審員、ボランティアといった市民としての活動について、国の手引き書のようなものです。フランスでは、国がこういうことをやるんですね。
>秋原葉月様
内容が差別や人権に特化されているのが駄目って論理、どこかで聞いたことがあるなと思っていたのです。で、ふと思い当たったのが、原爆の被害ばかり強調しているのはけしからんと言って原爆展を拒否したアメリカの一部の人たちの論理とそっくりなのではないかということ。歴史から何も学ぼうとしない姿勢は共通しているように思います。
>AGENさん
私はRTのほうが圧倒的に多いですよ。
AGENさんのアカウントって何ですか?
>jeanvaljeanさん
確かにテスト前に暗記する知識ではなく、生きた実践的な教育が必要ですね。
> これから「政府刊行物に要約された市民の行動様式」というのを紹介していこうと思っています。情報、デモ、ストライキ、署名行動、陪審員、ボランティアといった市民としての活動について、国の手引き書のようなものです。フランスでは、国がこういうことをやるんですね。
エントリー楽しみにしております。フランスではどのくらいの時間をさいてどんな授業をするのか是非知りたいです。
それにしても国が市民活動の手引き書を配るとはさすが市民革命を経た国だな、と思いました。
こういう事を言う人が、じゃあ国民に新しい義務が課せられるとき(”公務員が国旗国歌に規律斉唱するのは当然”とか、あるいは仮定の話であれば兵役義務とか)、それと”セット”であるはずの『新しい権利』については、言及する事が極めて少ない(わたしの寡聞な観測範囲ではゼロ)のはなぜなんでしょうね(笑)
「権利には義務がついて回る」「権利と義務はセットである」という人の本音が、「権利より義務」「他者の権利を奪い義務を課したい」にあるとすれば、それにも納得ですが(^_^;)
> 2割しかいない少数派の府民さん
> 大阪人権博物館への税金投入「ゼロベース」で見直し表明
いや、これはすごいですよね。石原都知事もそうなんですけど、自分には自治体予算を自由する権利があると思い込んでるとしか思えないです(^_^;)
> 子どもが夢や希望を抱ける展示になっていない。
人権教育が子どもたちにもたらす「夢や希望」はおっしゃるとおり、過去を学び、過去の過ちを繰り返さない人間に、子どもたち自身がなる事です。人権博物館の展示は貴重で重要ですが、それ自体は言ってみれば材料に過ぎません。人権博物館の展示は、見て、そこからどんな学習をするか、子どもたちがどんな風に考えるのかが大事なのに、展示自体に「夢や希望」を求めるのは、求める人が展示の内容や意義を理解していないというだけの話ではないですかね(^_^;)食材を見て「これは料理じゃない」と批判している的ななにか(笑)
まぁ、「教育は20000%強制」とか言って、子どもの自主性や自由意志を認めようともしな人ですから、当然の反応といえば、当然の反応なのかもしれませんが。
じゃあ橋下市長が府知事時代からしてきた事で「子どもが夢や希望を抱ける」ような政策って何ですか?と(笑)
「大阪の子ども全員をUSJにご招待」は「やっぱ無理でした」。「私学助成削減」して現役高校生にツッコまれたら「日本から出て行くしかない」。その後民主党の高校無償化に乗っかって、後は知らん振り。「学区撤廃」は子どもにとって仲の良い友だちと離れ離れになるリスクでしかないし、「府立校の統廃合」も、学校の方針や人集めに関与できない子ども達にとってはリスクでしかない。「教育基本条例」は自分たちを意志のある個人としてではなく”人材”としか見ない教育を押し付けてくるものだし、先生が萎縮して通り一遍の授業しかしなくなれば、子どもたちにはマイナス。
震度3や強風でエレベーターが止まるWTCゴリ押しや道頓堀プールやカジノ、あと就任以来のつぶやき連打(笑)は論外。
市長の政策や振る舞いから子どもたちが学ぶ事といったら「言ったもん勝ち逃げたもん勝ち」という無責任な態度に尽きるんじゃないですかね(^_^;)
>観測霊さん
赤い豚 @cochonrouge
大阪人権博物館、橋下にいろいろ言われて、学校教育でも活用できるように展示を見直した。結果、以前のようなとんがった博物館から展示内容が変化して3月オープン。そしたら、橋下維新の一言が「暗い」じゃあ、前もって見ておけば良かったわけですよね。やることサイテーですよあんた。
とのこと。
自分が展示内容を変えさせたのも忘れて久しぶりに見てみたら「わからない」「ボクの好みじゃない」ってあーた、ブーメラン祭りじゃないですかw
>観測霊さん
そう、まさに、「言ったもん勝ち逃げたもん勝ち」という態度で堂々とふるまってよいということは、ああしろこうしろと大人たちから言われ続ける子どもたちにとって最高の夢ですよ。笑
観測霊さんはやはりよくわかっていらっしゃいます。どうです、うちの特別顧問になりませんか?今なら報酬を高くしておきますよw
人権という夢
>てっちゃん
飯田哲也氏と同じ撤は踏ませませんことよ。橋下撤だけにw
>「大阪維新のカフェ」オーナー様
さらに、私の支持者は、私が何も利益を与えなくても、各自の心の中で「仮装の利益」を作り出して、私に投票したことを納得しようとしています。彼らには本物の利益を与える必要すらないのです。私が苛政をすればするほど、彼らは「仮装の利益」にしがみつくのです。
私が気をつけなければいけないのは、私の政治(と呼べるならw)が仮装の利益に過ぎないことに私の支持者が気づかないようにすることだけです。
自分自身は強制による教育から逃げた橋下氏
橋下氏は学校で強制による教育を唯々諾々と受け入れて今のような強権的人物になったわけではありません。本当に「教育は20000%強制」なら、橋下氏のような人物はこの社会で真っ先に否定されなければならないのですけどね。
特別顧問の前で「仮想の壺」対「仮想の利益」というカオスな仮想の戦いが展開されてるんですが(笑)、垂れ込み部屋の方で大ポカをやらかしているので、特別顧問は辞任させていただきます(^_^;)
> 自分が展示内容を変えさせたのも忘れて久しぶりに見てみたら「わからない」「ボクの好みじゃない」
こ、これは想定外に酷い(^_^;)
難癖つけたいだけちゃうんかと(笑)
> 橋下撤さん
特別顧問と言う名の”弾除け”もしくは”身代わり人形”は有り余ってるでしょう(笑) それともこれからどんどん被弾する予定でも?(笑)
> 村野瀬さん
ご無沙汰しております。
> マーティン・ルーサー・キングの言葉、「I have a dream」がよく表現しています。
なるほど。人権に託される夢や希望って、確かにあの言葉が的確ですよね。
> 本当に「教育は20000%強制」なら、橋下氏のような人物はこの社会で真っ先に否定されなければならないのですけどね。
確かに!(笑)
人権教育のハードル
「人権教育」というと、まず思いつくのが「同和教育」です。同和教育については、数え切れないすぐれた実践があり、その歴史は重いです。それに教育生命をかけた教員も数知れません(私など足元にも及ばず)。たくさんの文献を参照しながらでないとコメントはきちんとできないですが、ここでは直感のみで少し記します。
同和教育は被差別部落の子どもたちを対象にした、学力保障、進路保障のとりくみがもとで、戦前からされていましたが、戦後解放運動の進展とともに拡充しました。やがて、同対審答申の頃より、全ての子どもたちに対し、同和地区に対する偏見、迷信にとらわれた考え方、不当な職業差別意識などをとりのぞく必要が教育界にとっての急務と感じられるようになり、人格づくり、仲間づくりの一つとして、学校全体の教育活動をつうじてそれらの教育がされるようになりました。多くの人がうけた「同和教育」がそれです(1990年代後半より人権教育とよばれるようになる)。当初は部落問題中心にされてましたが、実践の進行とともに問題意識が深まり、やがて、障がいをもっておられる方々、在日外国人、沖縄の方、アイヌの方、などなど、あらゆる差別・偏見をもたれる人々の問題に学習対象はひろまっていきました。
教科指導でなく、ホームルーム活動などを中心に行われました。そのため、文部省の学習指導要領などの制約をうけず、各学校自由なかたちで教材・指導計画を樹立できました。また、全教員が担当するため、中学校や高校では、日頃あまりそのようなことを口にしない、理科系や芸術体育系の教員もたずさわらねばならず、教員も勉強し、子どもたちにもよい影響をもたらしました。義務教育教科書の無償化、就職申し込み時の社用紙撤廃など、日本の教育史にのこる成果もたくさんあります。
同和教育の活動には教職員組合が深くかかわり、それにより深められ、よりすばらしい実践もされました。しかしながら、部落解放同盟の運動を日本共産党につながる方々は批判され、同和教育をめぐる組合内部・組合間の対立は深刻なものになりました(矢田事件、八鹿高校事件など)。大阪府の場合、20年ほど前までは、小中学校の同和教育はその市の教職員組合の主流派がどちらをにぎるかによってまるでちがい、市の境をこすと同和教育が一変するという状況までありました。この件については、私なりに感じたこともありますが、ここではこれ以上ふれないことにします。
いま、ネット空間をはじめ多くの場面でひどすぎるとしかいいようのない「差別書き込み」などがみられます。同和教育をうけてきた人々によるものも多いと感じます。ある意味、同和教育の成果が問われているかもしれません。教育界の片隅を生きた者としてつらい面もあります。
さて、秋原氏は、人権教育は同和教育を中心に私人間の問題についてされているが、公権力の弾圧から自分の権利を守ることから学ぶのが順序ではないか、請求権、労働基本権の学習も大切ではないか、などと仰っています。その通りと同感します。それではなぜ、日本の学校教育でそれらの学習が軽んじられているかを考えます。
自由権等については、同和教育のように教科をこして学校全体の教育活動としてされるのでなく、社会科(高校では公民科<現代社会、政治経済>)の授業でされることになります。教科・科目の授業のため、いろいろの制約がでてきます。第一に、学習指導要領・教科書にもとづいた授業をしなくてはいけないという、「上(教育行政)からの制約」。第二に、教員自身の旧い授業観。現在のように校長が授業をのぞいたりして細かく監視し、授業内容に意見をつける時代でなくても、多くの教員は自主教材を作らず、教科書的内容を黒板に記しそれを丸覚えさせるのみの授業をしていました。第三に、テストをして、学習成果を評価しなくてはいけないという制約です。第四に、これは制約という語では説明できないかもしれませんが、現実の社会があまりにも学習すべき内容から遠ざかっているため、理解が困難になっているのでは、ということがあります。
すこし具体的にみます。学習指導要領自身は「基本的人権の保障と法の支配、国民主権と議会制民主主義について理解を深めさせる」といった概要を記すのみですが、例えば、「法の支配」に関して教科書の記述となると、それをとなえた思想家とかがでてきて、無味乾燥きわまりない学習となります。「警察官の職務上の行動内容は警察官職務執行法・刑事訴訟法の範囲・内容でなくてはいけない。その法は国権の最高機関の国会できめたものである。具体的に警職法の条文をみてみよう。」というような具体的な記述はありません。日常生活で一般人が遭遇したり、社会面をにぎわす事件などが法律上どう処理されていくかといったことはふれられていません。罪刑法定主義・租税法定主義といったむつかしい言葉はでてきても(子どもたちはそれを覚えさせられる)、具体的な解説はとくに教科書にはありません。
2011年度の大学入試センター試験(政治経済)をみます。基本的人権に関しては、知的財産権、環境権、公務員への損害賠償請求権などの記述から正解を選ぶ問題でした。そのほか、政治的意思決定、米英の二院制、衆議院の優越、政党、比例代表選挙制度、ねじれ国会の歴史、国会の国政監視機能、地方自治(行政委員会、住民投票)などが出題されていました(ほかに経済、国際分野もあります)。センター試験はもちろんのこと、学校の定期テストでも、テストは必ず正解を必要とします。自分の考えを述べるという問題もありえますが、評価がしにくく、安易な道として、特に学校のテストでは思想家、用語などをブランクに入れる問題がよく出題されます。テストでは、秋原氏が考えておられるような、公権力の弾圧から自分の権利を守るための自由権はあまり出題されないのではないでしょうか。討論、レポートなどをとりいれた授業形態もありえますが、一般には、教員が講話する一斉授業の後テストという形式です。
理科の学習の場合、授業をうけてから、自然界をみて、化学反応であれ、生物のいとなみであれ、物理事象であれ、地球や宇宙のことであれ、「なるほど、習ったとおりだ。」と授業内容を納得することができます。しかしながら、現在の日本の政治についての学習ではそうはいきません。民主主義政治の学習では、民主主義の理念、その理念を生かすための制度、現実の政治の動きを整理して説明する必要があります。例えば、国会には会期があり、会期切れ法案は廃案になるという制度は、ひとつには少数意見の尊重に関係しているといったことです。ところが、実際の日本の現在の動きをみてみると、全く理念から外れ、最低限として制度をきちんと守ることすらできていません。学習する者にとってふさわしい教材はありません。学習するためには、ある程度の見通しが必要です。「警察官に職務質問をうけたとき先生に教えてもらったとおり対応したら逮捕された」では悲劇でしかありません(弁護士ですら逮捕される時勢です)。こんな世の中でどんな授業をしたらよいのでしょう。
私の学習不足によることが大きいでしょうが、現実生活の諸問題について、憲法の学習ではあいまいなことが多いようにも思います。憲法の規定は同和教育で話題になる私人間人権侵害を直接的に禁じているのでしょうか。警察がよくいう「民事不介入」はどう解釈させればよいのでしょうか。「国民主権」とよく学びますが、選挙権のない未成年・いままさに学んでいる学習者は「主権者」ではないのか(請願などはできますので、私はそれを例示して説明しましたが)、説明している教材はみあたらなかったです。外国人の人権と憲法の関係もそうです。
すこし別の話をさせて下さい。「民主主義は企業の門前でたちつくす」という言葉があります。企業内の労働環境や企業の経営方針の疑問をうったえるビラを門前でまこうとするだけで、なんと労働組合幹部がまこうとする人をとりかこみ、よってたかってひどい言葉の限りをつくし、時には暴行にまで至りビラをまかせない、労組役員選挙では公正な運動がされず役員への道が一部の者に限られる、などが行われています。公職選挙では、企業ぐるみ選挙が公然と行われ、社員の仕事として選挙運動が命じられたりする話があります。これらについて、企業内の人にはあたりまえらしいのですが、学校の授業ではどうとりあげるべきでしょうか。ところで、どこかの大都市の市長さんは、「公務員のしている仕事は最大限民営化すべし」というお考えのようで、それを実行しようとなさっていますが、一方で、公務員の労働組合が前市長の選挙運動をしたとえらく激怒なさっています。その都市域や周辺都市にある多くの大企業の門前で民主主義がたちつくし、企業ぐるみ選挙も行われていることを夙にご存じで、それを是正することも考えておられると想像します。たのもしい限りです。
まあこんなところで、秋原氏の提案どおりに学校での人権教育が改革されるための道にはたくさんのハードルがあるようです。まずは少しでも多くの人が秋原氏の考えに同意することでしょう。ブログがより多くの人に読まれることを期待しています。参考になりにくい文を長く投稿し、申し訳ありませんでした。
暴力は断じて許してはなりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%B9%BF%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
【八鹿高校事件】
……抜粋開始………
八鹿高校事件(ようかこうこうじけん)は、1974年11月22日、兵庫県立八鹿高等学校で、集団下校中の教職員約60名を部落解放同盟の同盟員が学校に連れ戻して監禁、暴行し[1]、教師48名が負傷、うち29名が重傷、1名が危篤となった事件。刑事裁判で部落解放同盟の被告人13名全員の有罪が確定した。民事裁判は3000万円の損害賠償判決で決着したが解放同盟側は最高裁判決の損害賠償金の支払いを現時点でも拒否し続けている。糾弾に荷担した兵庫県と県教育委員会は被害者全員に謝罪し慰謝料を支払った。
一連の関係事件8件、被害者200名として多数の解放同盟員が起訴された。それらを総称して、八鹿・朝来事件、八鹿・朝来暴力事件と呼ぶこともある。 部落解放同盟の立場からは八鹿差別事件、八鹿高校差別事件、八鹿高校差別教育事件などと呼ぶ。
……抜粋終り………
当時、国会では、日本共産党のみが、三木内閣に対し、「解同」の暴力行為の実態と対策等について、厳しく迫りましたが、どの政党も腰が引け、棚上げにされました。マスコミも日本共産党機関紙「赤旗」以外は、殆ど見て見ぬ振りを決め込みました。
この事件は、暴力集団「解同の一派」が、教員の方々を体育館に連れ込み、殴る蹴るなどの凄まじい暴行を加え、阿鼻叫喚に包まみ、瀕死の重体に陥れたのです。約7000名もの警察官及び機動隊員が動員され、周辺住民の方々を恐怖に陥れました。事件後、市民約18000名が勇気を持って立ち上がり、日本共産党と連帯し、思想・信条を超えた「暴力追放」の運動が広がりました。この事件は、未だに記憶に鮮明に残っています。
わたしは、「部落差別」は絶対に許してはならないと考えますが、かと言って、暴力は絶対に許してはならないと考えます。どんな理由があれども暴力を許してしまったならば、民主主義が死にます…。
>元おちぶれ教員さん
教育に携わった先生から実際教育の現場でどのような授業が為されているかのお話が伺えるのは、私にとってはとてもありがたいことです。もう一度中高生になって授業をうけるわけにはいきませんもの(^^;
私だけでなくここに来て下さるコメンターさんも皆さん同じように感じてらっしゃると思います。是非今後ともご指南下さいませ。
大阪では同和教育が盛んだったのですね。私の通った学校では同和教育の「ど」の字もなくて、恥ずかしながら高校時代同和という言葉すら知らなかったように記憶しています。
さて、元おちぶれ教員さんがあげてくださった4つのハードルに頷きました。こういうお話を聞いてみたかったのです。
今書きかけのエントリーがたくさんありますが、これについてまたアップできたら、と思っています(もし書けなかったら申し訳ありません)
弊ブログにトラバをくださっているjeanvaljeanさんはフランスの教科書をブログで紹介して下さっています。大変興味深いブログですのでオススメです。
イル・サンジェルマンの散歩道http://billancourt.blog50.fc2.com/
元おちぶれ教員様へ
ところで大学入試センターの試験には、基本的人権に関する問題はないんですね。初めて知りました。
秋原さんに紹介していただいた人権を扱ったエントリーは、http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-513.html#moreから始まります。
また貴重な話しをお聞かせください。
>元おちぶれ教員さん、秋原葉月さん、jeanvaljeanさん
「反人種差別運動は子どもの遊びから」 (フランス版エル誌から) (不定期連載『海外の記事を読む』)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-141.html
差別の「現場」には加害者、被害者と傍観者がいるということを、理論として自分の身にひきつけて教えることは大切なことだと思うのです。
心の城を造ってほしい
子どもたちに「理想」を教えても現実の社会に合わないというお話はたしかにその通りであろうと思います。本来こうあるべきだという理想を教えても、実社会に出たときに、それがまったく通用せず、幻滅したたり、失敗したりしたら可哀そうだということですね。しかしだからと言って、その理想さえ教えないでいていいのだろうかと私は思うのです。そうでないと、職場でどのような不当な目にあわされても、仕方ないとあきらめてしまうのではないかと思うからです。こんな世の中では、雇う側はいつだって「おまえのような者を雇ってやっているのだから、これくらいのことは我慢しろ!これくらいの待遇で我慢しろ!」と言ってくるでしょう。自分に正当な権利があるのかどうかわからないと、ただ唯々諾々とそれに従う人生しかなくなってしまうからです。パワハラのような目に遭わされても、相手が悪いとは思わず、「自分が悪いのだから仕方ない」と思ってしまうかもしれません。私はそれが心配なのです。
もちろん、現実は理想の通りにはいかない、私たちは理想の民主主義社会に住んでいるわけではない。それも同時に教えるべきだと思います。しかし、子どもというものは、どの子も案外、賢いものではないですか。学校時代の先生が何を言おうと、現実というものはちゃんとキャッチして、どのようにふるまったら不利になるのかは、わかって行くのではないでしょうか。
しかしその時に自分が何をどこまで許容し、どこからは断固として身を守るべきか、自律的に考えられるような人間に育てるのが教育ではないかと思うのです。それにはやはり、「自分のような身一つの労働者であっても、何者にも侵されない正当な権利があるはずだ」という“堅固な城”が心の底にあるかどうかはとても大切なことだと思います。誰も一人で世の中を変えることはできません。しかしその城を心に持つ人たちが増えて行って大勢になれば、変えていくことも可能ではないでしょうか。
そして、子どもたちにそれを教えるには、先生自身がどう生きているかということも大切だと思います。
玲奈さんへ
>風鈴草さん…
大賛成です。社会は進歩しなければなりません。わたしは“非武装中立・全面平和外交”を目指すべきと考えているのですが、右翼論壇などは“お花畑理論だ”と言います。しかし、人間が目指すべきは、“お花畑で共に助け合うことができる社会造り”にあると考えます。何度も言いますが、わたしが就職した1979年の日本は、正社員・終身雇用が当たり前で、殆どの庶民の暮らしが安定していました。現在はどうでしょう…。社会が劣化してます。それは、風鈴草さんのご指摘通り、皆が“心の城”を持っていない不幸からきているものなんですね…。“人権屋”とか“人権弁護士”などと揶揄されること自体、日本社会が劣化している証左であると捉える必要があると考えます。人間の存在価値は、智慧を駆使して現実を理想に可能な限り近づけてゆく努力をすることにあると考えます。そうゆう個が集まれば、ポルポト石原慎太郎やヒトラー橋下徹、更には、渡邊美樹率いる和民の様な殺人企業を絶賛する様な“怖い社会”にはならないと思います。
強欲大資本家による造語である“自己責任”の呪縛から自己を解放しなければ、今の日本では生きていけません。
“心の城”…、ほんとうに素敵な言葉ですね…、頂きます。(^_-)-☆
ご意見ありがとうございます
青い鳥様
当エントリーやこのコメント欄では、かつての同和教育論争についてどちらの陣営が正しかったか論争する場ではないと思いますし、私には論評する能力はありませんので、意見はひかえさせていただきました。ただ、青い鳥様のご意見に関して少し述べるなら、部落解放同盟が自治体に要求した事項には必要以上に多額の予算を喰うものがあり、そのような要求はすべきではないと思いましたし、差別糾弾闘争として威圧的な態度で迫ったりましてや八鹿高校事件のように暴力におよぶのはたいへんなまちがいと思いました。
風鈴草様
私が一般高校に勤務したのは2003年までの30年間でしたが、この間、ずっと教科書中心でなく、私なりに探した具体的事例(逮捕経験談など)を示しつつ、お説の通り、理想的な民主主義社会はどうあるべきか、今の社会はどこがおかしいのか社会を鋭くみつめ、堅固な城を心の底にもつべき、といった授業をしてきたつもりです。残念ながら、私には人間的魅力がなく生徒からはあまり信用してもらえませんでしたし、とくに1990年代後半より生徒の反応がわるくなりやりにくさを感じるようになりました。まあ一応現役時代は授業についてはがんばったつもりですが、現在もし私が現役ならどんな授業をするかと問われると、マスコミのニュースはあまりにもひどいし、日の丸君が代の強制や校長等による授業監視なども強まってますし(専門外の教科の管理職の細かい意見にいちいち反論するのは消耗するだろうなあ)、答えにくいものがあります。
さきのコメントで、「民主主義は企業の門前で立ちつくす」と記しましたが、「立ちすくむ」の誤りです。失礼いたしました。
>元おちぶれ教員 様
偉そうな御託を並べている、わたくしめも、銀行員時代、マニュアル(手続き、内部規定)通りの融資体制に流され、ある零細企業の社長を自死に追い込んでしまった、痛恨の経験があります。悔やんでも悔やみ切れません。銀行からは、なんの咎めもないのですが、わたし個人は耐え切れませんでした。社長の奥様も優しい方で、「お気になさらないで下さい…。」と言ってくださったのですが、それが余計に辛くて…。
元おちぶれ教員 様、現実と理想の間で、人間は苦しむものかも知れませんね…。
民主主義と教育
元落ちぶれ教員様のような先生が、それだけご苦労されたあげくに、人権教育の未来に希望を失くされてしまわれたとしたら、とても残念なことだと思います。御自身が生徒さんにあまり好かれなかったように言われていますが、それはどうでしょうか?たしかに先生によっては、生徒が友達のように馴れ馴れしく出来ないような雰囲気を持った先生や「説教臭い」と生徒に反発されるような先生もおられます。でも、そうした先生方がみな、必ずしも嫌われているというわけではなく、後になって、その言われたことをしみじみと思い出すこともあるのではないでしょうか。三十年もの長きにわたって、御自身の経験に基づいて民主主義や人権について説かれていたのですから、生徒さんの中にはきっと、先生の教えを心の糧にした人たちが少なからずいたに違いないと私は思います。
「民主主義は企業の門前で立ちすくむ」という言葉は、まさにその通りなのでしょう。結局、資本の側にとっての「理想の労働者」とは、いつの時代にも、厳しい労働や劣悪な待遇にも文句を言わずに(言えずに)働き続ける「寄る辺なき奴隷」なのであって、けして「人権意識に目覚めた自立した市民」などではないのですから。人権意識に目覚めた教師たちによって、子どもたちがそうした市民に成長していくような教育を施されることは、彼等にとっては何よりも避けたいことのなのかもしれません。そう思えば今、大阪で起こっていることもわかるような気がします。
でも、こうしたことは今に始まったことではなく、おそらく世界の近代史の中で、何度も繰り返されてきたことなのでしょう。言語学の世界的な権威でありながら、左派の論客としても知られるアメリカのノーム・チョムスキー教授は「民主主義と教育」という講演の中で、次ような話をされています。
民主主義と教育 マセード(編) 『チョムスキー教育論』 第2章 翻訳:寺島隆吉、公開2005年1月6日
http://terasima.gooside.com/talks941019education&democracy.html
(この講演録は寺島隆吉氏、寺島美紀子氏ご夫妻 (英語教育学) の翻訳による『チョムスキーの教育論』明石書店刊に収録されています)
--------------------(引用開始)------------------------
民主主義と教育という言葉は直ちに、二十世紀の傑出した思想家の一人であるジョン・デューイの生涯と仕事と思想を思い起こさせます。彼はその生涯と思想の多くの部分をこの問題にささげました。
<中略>
デューイは、晩年には幾分懐疑的になりますが、生涯の大部分を通じて、初等教育の改革がそれ自体で社会改革の大きな梃子(てこ)になり得ると考えていたように思われます。初等教育の改革が、より公正で自由な社会への道案内になると彼は考えていました。「より公正で自由な社会」とは、彼の言葉を用いれば、「生産の究極的な目的が、商品の生産にあるのではなく、対等の立場で互いに連帯する自由な人間を生み出すことにある」ような社会です。
デューイは「政治は大企業によって社会に投ぜられた影である」こと、また、そうである限り「その影が薄くなっても、その実態は変わらない」ことを明確に理解していました。つまり、表面的改革は限られた有効性しかないのです。民主主義は影の源が除去されることを要求するのです。なぜなら影の源が政界を支配しているだけではなく、巨大私企業という組織そのものが民主主義や自由を危うくするものだからなのです。
デューイは、自分の心に描いていた反民主主義的権力については極めて明解でした。彼の1920年代の言葉を次に引用します。
「今日では、生産手段、交換手段、出版手段、交通手段、コミュニケーション手段を支配するものが、権力を支配する。たとえ民主主義的な形式が残っていたとしても、これらを所有している者がその国の生命を支配するのだ。金融・土地・産業の私的支配によって私的利益を求める企業、これこそが実際の権力を握る組織であり、それは新聞・報道担当者や他の広報・宣伝手段の支配を通して強化される。これらが強制と支配の源泉であり、そのことが解明されない限り、私たちは民主主義や自由について真面目に語ることなどできない。」
デューイは、自分の語るような教育、すなわち自由な人間を育成する教育こそが、この絶対主義的怪物の足元を掘り崩して行く手段の一つになるものと考え、そのことに希望を託していたのです。
デューイの考えでは、自由で民主主義的な社会における労働者は、自分自身の産業の命運を握るべきであり、雇用者に雇われた道具でなってはならないのです。彼はその基本的な問題において古典的自由主義の創始者たちと意見が一致していましたし、民主主義的で自由意志論的な志向に賛同していました。そのような思想や志向は、産業革命の初期から、民衆による労働運動を活気づけてきたのです。残念ながら、暴力とプロパガンダが手をつなぎ、それを最終的には打ち倒してしまいましたが。
したがってデューイの考えでは、教育の領域で「自由で知性的なやり方ではなく、儲ける仕事のために」子供たちを訓練する事は「非自由的で非道徳的」なのです。その場合、子供たちの活動は自由な参加を許されていないのだから、自由ではないのです。これは再び、古典的自由主義や労働運動の考え方に戻ることになります。それ故、デューイによれば、産業もまた働く人々による統治と自由な連帯に基づいて、「封建主義的な社会秩序から民主主義的な社会秩序へ」と変化しなければならないのです。これは、またしても古典的自由主義と啓蒙主義を源泉とする伝統的アナーキストの思想と同じものです。
<中略>
イェール大学の優れた労働史家であるデビット・モントゴメリーが最近出版した著作があります。そこで彼は、近代米国が労働者の抵抗運動を通じて創出されたことを指摘しています。彼の見解は全く正しいものです。
この抵抗は大変に活発かつ率直なものであり、それは特に労働者階級とその共同体の新聞の中で明確に表明されていました。その新聞は米国で19世紀の初頭から1930年代まで盛んに発行されていましたが、その後、最終的に巨大私企業によって破壊されてしまいます。同じように英国でも、その約30年後に労働新聞や地域新聞は息の根を止められてしまいました。
<中略>
ウェアは主として十九世紀中頃の労働者の新聞を再吟味しているのですが、それによると、それらの新聞は女性労働者たちによって運営されていることが稀ではありませんでした。また、労働新聞の話題は長期にわたって一貫していました。彼らは、いわゆる「退廃」に関心をもっていたのです。すなわち、「労働者が『賃金奴隷制』に支配されることによって、品位と独立を喪失し、自尊心を失い、人間としての労働者性が衰弱し、文化水準や文化技能が急落するのではないか」と案じていたのです。彼らは「賃金奴隷制」を「家財奴隷制」とそれ程違うものとは見なしていませんでした。なぜなら、このような「人間を家財と見なす奴隷制」を根絶するためにこそ南北戦争を戦ったのだと彼らは信じていたからです。
特に劇的であり、今日の話題である「民主主義と教育」と大いに関連するものは、私たちが「高級文化」と呼んでいる古典文学や現代文学の読書が急速に衰退したことでした。ローウェルの工場の少女たちや職人や労働者たちは古典文学や現代文学を読んでいました。職人たちは仕事をしている間に本を読んで聞かせてくれる人を雇おうとしました。なぜなら彼らはそれらに関心を持っていたし、図書館も所有していたからです。しかし、それら全ては消え去ってしまわねばならなかったのです。労働新聞で、彼らは次のように述べています。
「もしあなたが自分の作ったものを売るならば、自分の人間性を保持することになる。しかしあなたが自分の労働を売る時、自分自身を売ることになり、自由な人間としての権利を失い、金銭貴族の巨大な体制の臣下になってしまう。というのは、彼らは自分たちの「人間を奴隷化し抑圧する権利」を疑問視する者は誰であれ抹殺すると脅すからである。製粉所で働いている人は自由な人間としての権利を所有すべきであり、私的専制君主によって支配される機械の身分に陥ってはならない。私的専制君主たちは、民主的な土壌の上に君主的原理を確立し、自由と権利・文明・健康・道徳と知性を新しい商業的封建制度の中に堕落させようとしているからだ。」
皆さんが困惑しないように付言しますが、これはマルクス主義のはるか以前の1840年代に、米国の労働者たちが、彼ら自身の経験を語っているものなのです。
また労働新聞は彼らが「買収された聖職者」と呼ぶ人たちを非難していました。この言葉は、メディアや大学や知識階級の人々、すなわち絶対的企業専制主義を正当化する「新しい時代精神」を擁護し、その卑劣で屈辱的な価値観を人々に植え付けようとする護教家たちを指していたのです。約一世紀前の十九世紀後半、アメリカ労働総同盟の初期指導者の一人は労働運動の使命を述べる際に、その標準的な見解を表明しています。すなわち労働運動の使命とは「働く人々が民主主義を拡張することにより産業を制御し、市場の罪悪を打ち破り民主主義を防御することにある」と表明しているのです。
このような見解は全て、例えばヴィルヘルム・フォン・フンボルトのような古典的自由主義の創始者たちには完全に理解できたはずです。というのは、フンボルトは、他の人々との連帯の中で自由に企てられた創造的な仕事が人間生活の中心的価値であるべきだと考えていたからです。このような考え方は、ジョン・スチュワート・ミルに影響を与え、また、同時代人のアダム・スミスも全く同様な考えを持っていました。
フンボルトは「もし人が命令によってあるものを生産したなら、私たちはその人が行ったことを賞賛するかもしれないが、その人の人格については軽蔑するだろう。その人は、自分自身の内なる衝動や欲求に基いて行動する『真の人間』ではなかったからだ」と書いています。「買収された聖職者」は、労働市場で自らを売る人々の間に、このような「真の人間」という価値観を衰退させ破壊することを務めとしているのです。
同様の理由により、アダム・スミスは、分業が人々を「愚かで無知な被造物」に変えてしまうことがないよう政府が仲裁しなければならない、と警告しました。文明化された社会の中では人間がそうなる可能性があるからです。彼は「諸条件が真に自由であるならば、市場は完全な平等へと導いてくれるであろう」という命題に基づいて、市場に対する相当に微妙な支持を表明したのです。それは道徳的な理念に基づく市場の正当化だったのです。これら全てを買収された聖職者たちは忘れ去ってしまいました。彼らの説く話はアダム・スミスのものとは全く異なったものなのです。
-----------------------(引用終わり)--------------------------
( ちなみに、チョムスキー教授のアダム・スミスについての見解は、同じく寺島ご夫妻の翻訳で、こちらにあります。
Education is Ignorance 教育は無知 1. 市場原理主義者たちによるアダム・スミスの誤読
http://www42.tok2.com/home/ieas/Chomsky.Education%20Is%20Ignorance.pdf )
チョムスキー教授は、人間が作ってきたこの世界がどんなに残酷なものであるか、たいへんよくご存じです。でも希望は捨てない。私はそんな教授の言葉を読むことで励まされて来ました。
>風鈴草さんへ…
>アダム・スミスは、分業が人々を「愚かで無知な被造物」に変えてしまうことがないよう政府が仲裁しなければならない、と警告しました。
今現在の日本社会は、新自由主義・市場原理主義が跋扈し、格差の固定化や金融市場に於けるマネーゲーム(賭博経済)にのめり込み、にっちもさっちもの最悪の状況にもがいている様なものに、わたしの目には映ります。新自由主義は、橋下市長やみんなの党などが信望する、“小さな政府論”に依拠する思想なんですね…。早い話しが、政府などの介入や、あらゆる規制を排除し、勝手気ままに“錬金に勤しむ”ことを推奨する考えであり、そこには、人間性や人権、共生思想は、邪魔物でしかなくなってしまう訳なんですね…。圧倒的多数を占める庶民が犠牲になるんですね…。
>デューイは「政治は大企業によって社会に投ぜられた影である」こと、また、そうである限り「その影が薄くなっても、その実態は変わらない」ことを明確に理解していました。
やはり、民主主義が企業論理の前に立ちすくむ事態があってはならないんですよね…、企業には社会的責任を果たす義務が厳然とあることを再認識しなくてはなりませんね…。
>教育の領域で「自由で知性的なやり方ではなく、儲ける仕事のために」子供たちを訓練する事は「非自由的で非道徳的」なのです。
橋下市長、維新の怪が推し進めていることは、まさに“これ”なんですね。口を開けば、「グローバル社会に対応できる教育を…」などとホザイて憚らない。恐ろしいことなんですよ。 彼の教育思想は、人間性を削り取るだけだと、わたしは考えます。
人間の“業”なるものと訣別することは、人類の永遠のテーマと言っても過言ではないかも知れませんが、現実に“共生社会”を営々と構築している国が、少なからず在るのですから、このままで良いのか否か、深く冷静に考え直す最後の分岐点に、日本がある様な気がします。
風鈴草さん…、あらためて貴重なご示唆に感謝します。