コメント
教育基本条例は不可避では?
彼らは、勉強の邪魔を煽り、妨害することを自己目的とし、難癖と人権弾圧にも先頭に立っていました。
こうした消耗戦に疲れるも「こんな生徒会潰せ」を目指して2年生と3年生の時喧嘩を繰り返し成績が落ちましたが、なんとかMARCHのある大学進学できました。
公立校の競争は、自治体の評価を高めるためには不可欠で、住民参加できる教育基本条例はそれを後押しできます。決してポピュリズムではありません。
教育基本条例は橋下氏の独裁的権限を強化するもの
そもそも教育とは自治体の評価をたかめるために行うものではなく、子供達が将来自らの力で生活を築ける土台となる知識・経験を身に付けるためのものです。生徒と教師に不要の競争を強いてはいけません。
>のんちゃん様…
>昔、東京都立”底辺校”で生徒会やバックス(はっきり言う。奴らは日本民主青年同盟高校班だ!!)に激烈・血みどろの対決をしてきました。
>彼らは、勉強の邪魔を煽り、妨害することを自己目的とし、難癖と人権弾圧にも先頭に立っていました。
何故、ここで貴殿が日本民主青年同盟のお話しを敢えて持ち出されたのか、わかりませんので、コメントさせて頂きました。
“民青”の名誉のために、コメントさせて下さい。
わたしは、1977~1979年の高校時代、“民青”に加盟し、生徒会長として、生徒会活動を通じ大変充実した3年間を過ごしました。わたしの頃は、校内暴力(岐阜の男子校)盛んなりし頃でした…、校内での飲酒・喫煙・暴力など日常茶飯事でした…、「このままでは、大切な高校時代が暗い思い出になる」と青臭い正義感でもって、仲間を募り、先生方の協力やPTAの皆さんとも協力しあい、全校集会を生徒会の呼びかけで2ヶ月に一度開催し、不満や要望を自由闊達にぶつけあい、先生方も真剣に向き合い、とことん話し合い、徐々に風通しの良い明るい学校になりました、2年ほどかかりましたが…。先生方や親御さんも、わたしが民青に加盟していることを承知のうえで、学生自治のためにいろいろ協力していただいて感謝してますし、民青の皆さんも、いろいろ相談に乗ってくださいました。貴殿の記された…
>彼らは、勉強の邪魔を煽り、妨害することを自己目的とし、難癖と人権弾圧にも先頭に立っていました。
の様なことは、少なくともわたしの周りでは皆無でした…。貴殿の記されたことを“民青”をご存じない方が読まれたらバイアスがかかってしまうのではなかろうかとの思いから投稿させて頂きました。
>公立校の競争は、自治体の評価を高めるためには不可欠で、住民参加できる教育基本条例はそれを後押しできます。
教育は“自治体の評価”のためのものなのでしょうか?…。
まさに子供たちを売った
>住民参加できる教育基本条例はそれを後押しできます
まったく意味が分かりません。どこにどう参加するのですか?それで何が良くなりますか?評価って誰が何の為にする評価です?住民参加って言いますがその中に「自分の利益の為に教育を利用する」人もいる訳ですよ。
すでに同じ条例をやった英国や米国では失敗しているんですよ。(自分の都合のいいところしかみない、わけのわからない屁理屈理論をこねるのは橋下信者によく見かけます)あなたの視点には「子供たち」が入っていないようです。
ああ、こういう人が「子供を売る条例」に賛成するんだな、とよく分かりました。
教育委員会も批判姿勢
http://www.asahi.com/politics/update/0323/OSK201203230038.html
のんちゃん様へ
高校への進学先は偏差値で細かく割り振られていましたが、(もちろん試験はありましたが、事前の度重なるテストで、どこを受けていいかが決められたのです)秀才の行く「受験校」でも、「落ちこぼれ」の行く「底辺校」でも、同じだったと思います。政治に関心を持つ人はいたとしてもごく少数で、周りからは変人扱いだったでしょう。受験校での関心は、どれだけ偏差値の高い有名大学へ進学できるか、そして最終的には有名大企業に就職して、高給ホワイトカラー(またはその妻)になって、人生の花道(?)を歩けるかどうかということで、その見込みはないと烙印を押された生徒の集まる底辺校は非行で荒れていました。
教師たちは、老舗の名門受験校では生徒の自主性を重んじるとか言って、細かい生活指導はしなかったようですが、秀才たちはどうせ「余計なこと」はしませんから、楽なものだったでしょう。これが、私が最初に通った(結局、中退して別の学校へ行きましたが)「発展途上の受験校」では、教師が必死になって生徒の尻を叩き「余計なこと」はさせませんでした。底辺校は・・・友人から聞いた話ですが、臨時の持ち物検査など、まるで、強制収容所か刑務所のようなプライバシーの侵害があり、スカート丈(当時は長くするのが不良の象徴だった)や学生服の丈(いわゆるガクランです)の検査まであって、生きのいい生徒はそれに抵抗して「非行」や「暴走」に走っていました。
どのみち、政治というのはダサくてつまらないもので、偉そうなお爺さんたちがぶつくさ言いながらやっている、自分たちとは関係ないものでした。もちろん、大学に進学しても同じことで、その分、遊びに精を出す人が多かったようです。(私自身、大学のキャンパスの片隅で、檄文を書いたタテカンを見たことがありますが、いまだにこんなことをやっている人たちがいるのかと「シーランカンス」を見たような思いでした)
そのころより、少し後になってですが、ある日雑誌を読んでいたら、ページの端にある大手進学塾の広告のキャッチコピーで、飛行機のファーストクラスの写真と一緒に「人生の特等席へ」と堂々と書かれていてちょっと唖然としたものです。私の青春時代はそんな時代でした。
もし、あなたが当時の首都圏の高校生だったら、きっと受験校へ行かれたことでしょう。そして、政治サークルや生徒会活動などに悩まされることもなく、ひたすら、自分のためだけの受験勉強に励むことが可能だったでしょう。そして、「人生の特等席」を手に入れられたかと思います。
>の様なことは、少なくともわたしの周りでは皆無でした…。貴殿の記されたことを“民青”をご存じない方が読まれたらバイアスがかかってしまうのではなかろうかとの思いから投稿させて頂きました。
全くデタラメです。自分たちと異なる学校生活を送る人を、イジメ・暴力・シカトで排斥弾圧していたのが彼らです。出会ったら殴り殺したいぐらいです。
本題に戻りますが、橋下維新の会は府市の教育水準を上げ、教育に力を入れる層に多く大阪に住んでほしい、という切なる願いから教育基本条例を出してきたのです。保護者が直接教育に参加できる画期的なものです。
また自治体生き残りと教育の本来の役割発揮は不可分一体。
厳しい競争原理と人間教育は両輪です。大阪・日本の経済が低迷するのも教育の欠陥からです。
>のんちゃんさん
橋下信者の生態を表すサンプルとして皆さんにご覧頂くためあなたのコメントを承認しているのですが、サンプルとしてはこれで十分ですので、これ以上あなたの願望と空想に基づくコメントを投稿されるようであればサイドカラムでお断りしているように「中身の乏しいコメント」として非承認になります。ご注意ください。
さて
1.>東京都立”底辺校”で生徒会やバックス(はっきり言う。奴らは日本民主青年同盟高校班だ!!)に激烈・血みどろの対決をしてきました
本当かどうかは知りませんが随分と時代錯誤な事例をもちだされたものですね。
で、今現在こういう高校が大阪にあるのですか?どの高校ですか
そしてこういう高校を廃校にするための教育基本条例だといつ橋下氏が言いましたか?
あなたの推測は要りません。事実を呈示してください。
2.>橋下維新の会は府市の教育水準を上げ、教育に力を入れる層に多く大阪に住んでほしい、という切なる願いから教育基本条例を出してきたのです。
いつ橋下氏がこんなことをいいましたか?あなたの推測は要りません。事実を呈示してください。
3.>保護者が直接教育に参加できる画期的なものです。
では保護者がどのように直接教育に参加できるのか、その条文と具体例を示してください。あなたの推測は要りません。
4.>>公立校の競争は、自治体の評価を高めるためには不可欠で、住民参加できる教育基本条例はそれを後押しできます。
>教育は“自治体の評価”のためのものなのでしょうか?…。
上の青い鳥さんの質問に対するあなたの答えが
>また自治体生き残りと教育の本来の役割発揮は不可分一体。
厳しい競争原理と人間教育は両輪です。大阪・日本の経済が低迷するのも教育の欠陥からです。
これではまるで答えになっていませんね。質問には正面から答えましょう。私が再度同趣旨の質問をくり返します。
「公立校の競争は、自治体の評価を高めるためには不可欠」だそうですが、教育は子ども達のためにあるのであって、自治体の評価のためにあるとは初耳です。
このような事を言っている人がいるのでしょうか?いるなら事実を呈示してください。
そして公立校の競争が実際に自治体の評価を上げたという実例を呈示してください。あなたの推測や感想ではなく、客観的事実を示してください。
以上の質問に事実を呈示していただけず、あいかわらずあなたの願望や空想に基づいてしかコメントを書けないのであれば、「中身のないコメント」として非承認の対象となります。(ひょっとしたらあなたの支離滅裂ぶりをご覧頂くためにきまぐれに承認するかも知れませんが)
あぁ、山田宏の東京杉並区がやってましたっけね。PTAを廃止して「地域本部」とかいうのを、区立和田中で。
でもこれで和田中のレベルが上がったという話は寡聞にして知りません。
“類は友を呼ぶ”ですかね。
のんちゃんさん
そんな私からみても、皆様がおっしゃるようにあなたのご意見は時代錯誤だと思いますよ。
頭の中身が時代相応に書き替わるまでにはそれなりの時間を要するのはわかりますけれど
。
まずはこれだけ申し上げておきましょう。
“のんちゃん”へ
随分面白い方とお見受けします。
失望・転向し現在は反代々木派ですか。
>のんちゃん様へ…
やはり、あなたは秋原さんご指摘通り、妄想癖があるようですね…。“殴り殺したい”とは、物騒で危険なお方ですね…、橋下市長の支持層には、のんちゃんさんの様な方がみえるのですね…、秋原さん、またひとつ勉強になりました…。民青は暴力、イジメなどを憎み暴力と勇気を持って対峙した民主的組織です。1960~1970年代の全国の大学に於ける学園闘争などでの極左暴力集団の暴力と理論で対峙し、反戦平和を旗印にした、民主的な組織であり、暴力を真っ向から否定する組織です。わたし自身、岐阜で高校生時代、民青での自主的活動の一環として、広島の原水禁世界大会に参加する為の交通費、宿泊費などを捻出する為、高校生の仲間・有志で廃品回収や街頭などでカンパを募りました。どれも民青の指導や強制など一切なく、自主的に『反核・平和の世界規模の運動の息吹を体感し、被爆された方々の貴重な生の声をうかがい平和の大切さを実感したい。』との熱い思いからの行動でした。岐阜へ帰り広島の思いを市民の皆さんに伝えるべく“報告会”などを開催し、核兵器廃絶の重要性について市民の皆さんと、ワイワイがやがや討論しながら深く考えたものでした。
橋下は、この様な、真っ当な平和運動や労働組合を叩き潰そうとしているところに怖さがあるのだと思います。
以上のコメントは、のんちゃんさんの何の根拠もない民青に対する差別的侮蔑捏造コメントに対する反論でありまして、これを最後にします。
>厳しい競争原理と人間教育は両輪です。大阪・日本の経済が低迷するのも教育の欠陥からです。
教育に厳しい競争原理を持ち込んではなりません。 橋下市長のような人間がたくさんできるだけで、想像するだけで… ゾーッとし、鳥肌が立ちます。
AIJの不祥事をみると良く解ると思いますが、強欲資本主義のなれの果ての醜態をさらけ出す新自由主義;ネオコン・市場原理主義の行き詰まり、破綻は明らかです。それに縋り付く橋下市長の考えそのものも破綻していることに気づく必要があると、わたしは考えます。
秋原様…、貴重な貴ブログのコメント欄を使用させて頂き(汚してしまい)、心からお詫びし感謝します。いつもながらの連投をお赦しください。m(__)m
のんちゃんさんへ
「今の現役世代は駄目な教育を受けた出来損ないだから捨てて、次の世代に賭けよう」
とでもおっしゃりたいのですかね?
率直なご意見をお伺いしたいのですが。
民主主義の弱体化
実は・・
実は私も1990年ごろに都内の別の地域で非党員地方幹部に携わった者です。前記のような悪弊一掃のためにも身を挺して奮闘しました。
よく来てた人に田村智子現参議院議員がいました。
維新政治塾開講
同じ30代男としてショックです。私には政治で最も大切な民主主義を根底から否定する橋下氏とその取り巻きから政治を学ぼうとする考えが理解できません。
私は一人でも多くの参加者が一日でも早く「こんな政治思想は間違いだ。こんな塾にはもう関わりたくない。」と気づいてほしいと願わずにいられません。
>のんちゃんさん
事実の呈示は無しと言うことでよろしいですね
>関東の30代男さん
ほんとにヒトラーに熱狂した時にそっくりだと感じます
赤旗の「きょうの潮流」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-03-24/2012032401_05_0.htmlにあるヒトラーの言葉“この世でもっとも強力な変革を起こす原動力は、…大衆に生気をふきこむ熱狂・狂信と、彼らをかり立てるヒステリーだ”がぴったりです。
>風鈴草様…>jeanvaljean様…
>青い鳥さんとは同世代ですが、地域的な事情で、青い鳥さんの故郷とは、かなり雰囲気が異なっていたかもしれません…
>その見込みはないと烙印を押された生徒の集まる底辺校は非行で荒れていました。
まさに貴女の仰る通りでして、全共闘も下火となり、ノンポリが主流になった過渡期でしたね…。わたしが通う高校は、凄まじい荒廃ぶりで、授業中に麻雀はやるワ…煙草は吸うワ…、先生に暴力を振るうワ…もう無法地帯でした。しかし、殆どの先生方は体を張って、生徒たちの将来を考え、諌めるも、イタチごっこが続くなか、生徒のなかから誰からともなく『このままではいけない…。』という気運が湧き起こり、全校集会で教師と生徒が侃々諤々やりあい最後には理解しあえました。最初、どうすれば良いか途方に暮れましたが、お互い真剣に向かい合うなか、良い方向へ向かいました。高教組の教員の方々が熱心に学校正常化に向け健闘していただきPTAの皆さんも協力していただきました。今となっては、良い想いでです…。今、橋下市長は、その様な真っ当な教職員や労働組合などを“敵認定”し、袋叩きにしている様をみるにつけ、ハラワタが煮え繰り返るのです。あっ、また血圧が上がっちゃいました。o(^-^)o
>jeanvaljean様…
>…反対に民主主義が多数決の規則をかざしたり国家の理屈をもちだして、あるいは合法性や安全が危機にあると宣言することによって要求や個人の権利の拡大を窒息させるとき、民主主義は弱体化する…
まさに今の日本がそれですね…。
わたしたち市民の無関心が最も怖いと思います。日本はフランスと違い、法律遵守や人権教育が脆弱に過ぎるのだと考えます。欧州の様に子供を“権利の主体”として捉らえることが希薄に過ぎることも否めないと思います。 あと社会の成熟度が余りに低いとも考えます。
ここ数年、大企業などは保身のためのコンプライアンス;上辺の法令遵守なるお題目のみがひとり歩きし、身が入っていない…。大企業による非正規労働者の使い棄てにみる人権蹂躙や、ブラック企業などの跋扈が証左ですね…。
jeanvaljean様…、また人権先進国フランス事情をおってご教授頂ければ幸甚です。
そういう時代だったんですよ
確かに私の母校の府立高校も、当時の生徒会(ほとんど民青の人)やら教員の間には、「反・受験勉強」的な雰囲気はありました。
がつがつ勉強してばかりでは駄目人間になるといわんばかりに、学校行事に力を入れてクラスの「団結」を図るみたいな感じで。
文化祭の準備や球技大会の早朝練習にやたら一生懸命で、家が遠かった私にとっては正直いってかなり迷惑でした。
しかも何かと議論体質なので、体育祭で他のクラスに勝つために誰がどの競技に出るかまで、いちいち討論になっていたくらいです。
しかし彼らは、決して暴力体質ではなかったですよ。
まあ今思えば時代自体がそういう感じだったと思います。
実際はすでに受験地獄はかなり緩和されていましたが、それだけ前の世代の残像が強く残っていたのでしょう。
また、私の頃は既に下降線の一途だったのですが昔はそれなりのレベルの学校だったらしく、
「学校行事も部活も力いっぱいこなして、それでいてそつなく一流大学に合格」
という理想像を当時の教員たちが持っていたようです。
こんな高望みをされても、下位で合格した私の地アタマでは到底無理な話でしたから、無茶言うなよという感じでした。
そんなこんなで当時は結構反感を持って、生徒会の人や教員とはもめてましたね。
彼らからは、言うことをきかんイヤな奴だと思われていたでしょう。
いずれにしても、私の中ではとっくの昔にゲームセットになったことです。
今の左翼のトレンドは当時とはかなり変わっており、格差是正や貧困解消といった経済面が、教育においても大きなテーマになってますよね。
私が高校生の頃は、お金の話はこと教育に関しては今ほど語られていなかったように思います。
理想を追求するという感じではなく実質的になってきたという面と、それだけ世の中が厳しくなってきたんだなという両面を感じます。
ちなみに、大阪府立高校に関しては色々な改編がなされ、すでに10年前くらいにかつてのような雰囲気はなくなったことをとあるルートで確認しています(まあ元々一部の学校だけの話だったんですが)。
教職員組合が支配する云々の話は眉唾モノです。
>元大阪府民からの伝言様…
そうでしたか…同じ世代の方なんでしたか…。よろしくお願いします…。
確かに仰るように時代時代によって、それぞれの“色”みたいなものってありますよね…。僕らの時代は割とおおらかだったように思います…。全共闘時代が去り“シラケ”という言葉が流行ったような記憶がありますが違いましたっけ?…。のんちゃんさんのお影で高校時代の風景が蘇り、感謝かも…。o(^-^)o “左翼ノスタルジア”みたいなものって、わたしのなかにはあるんですが、昔の古典的な思考回路では、今の時代は、受け入れられないのかも知れませんね…。いつまでも若い積もりでいましたが、もう若くはないんですね…。いやはや…、、、 しかし、今の若い人たちが、本当にお気の毒で…。わたしらの時は、就職難なんてなかったですものね…。少子高齢化…待ったなし、なんとかせねば社会そのものが成り立たなくなりますものね…。橋下ひとりに振り回されている場合ではないんですけどね本当はね…、なんとかせねばです…。
教育条例について
私は教育条例に対して一部賛成、一部反対です。一字一句全てに反対ではありません。
まず、皆さんが子供の過度な競争をあおると批判されているテスト結果の公表等について。
学区廃止、学力別のクラス分け、学校の選択制、テスト結果公表、私はこれらの施策は実施するべきだと考えています。学区制はもちろん必要が有って作られたはずですが、生徒の選択肢を狭めるものでもあります。私自身受験生の時あこがれていた北野高校を学区が異なるため泣く泣く諦めた苦い経験が有ります。学区制によるデメリットは確実にあります。
またクラス分けについても、最近の生徒はテストのたび点数を「見せあいっこ」していたり、友達の多い子なら学年のほぼ全員の点数を把握していたりして、自分や友達が学力的に学年の中でどのあたりに位置しているのかかなり正確に認識しています。そんな状況のもとで学力別でクラス分けしたとしても、生徒の中に特別変な劣等感や対立意識は生じないと思います。それよりも、クラス分けによって出来る子やそうでない子それぞれに合った授業が効率よく出来るメリットの方がはるかに大きいし、全体のレベルの底上げにもつながるでしょう。
教育には数字で見えにくい部分は確かにありますが、そのために数字で評価しやすい部分をむやみに犠牲にする必要はありません。
学校選択制とテスト結果の公表についても、「我が子をアホな学校へ行かせたくない」という願いは子を持つ親の素直な感情でしょう。保護者の知る権利を学校が拒否することは出来ないはずです。また定員割れ学校についても、統廃合までするのは子供たちに不便を強いることになるので避けるべきですが、学校の縮小など何らかの整理は行うべきです。その地区に合った規模の人員と予算にするだけでも良いのです。
一方で、教師の評価方法に関しては私は疑問が大きいです。
校長や保護者で多数の先生たちの評価を決めようとするならば、両者に多大な労力と長い期間が必要になります。非常に効率が悪く、そもそも正当に評価される保証もありません。そんなことしたくないという保護者の方もいるでしょう。
また先生の方々が校長の評価を気にしてそちらに時間を費やし、授業の質が下がっては本末転倒です。
教師として不適格な先生もいるでしょうが、そういう人たちへの対策は別の方法で行うべきです。相対評価とクビでは解決しません。
長文失礼いたしました。
杉並つながり
>あぁ、山田宏の東京杉並区がやってましたっけね。PTAを廃止して「地域本部」とかいうのを、区立和田中で。
でもこれで和田中のレベルが上がったという話は寡聞にして知りません。
>検索したら、山田は現在、大阪市特別顧問になってるそうです。人数の多さと高額報酬が問題になってる大阪市特別顧問に。 “類は友を呼ぶ”ですかね。
山田宏氏は、杉並区長時代に「つくる会」の教科書を採択したり、教育バウチャー制度を導入したりしようとした人物ですね。そういえば、その山田氏が抜擢し、リクルート出身の民間人校長として話題になった杉並の和田中学の元校長、藤原和博氏も現在、大阪府教育委員会特別顧問です。(民間の進学塾に補習授業を委託する「夜スペシャル」の導入でも有名になった方)そもそも藤原氏が現職に就いたのも当時、府知事だった橋下氏の招聘であったとか。どうも、このあたりの方たちのお考えが、橋下氏や維新の会に影響しているようですね。
Wikipadiaより
> 藤原和博(ふじはら かずひろ、1955年 - )は、元公立中学校校長、著述家。東京都生まれ。
> 東京都初の民間人校長として杉並区立和田中学校の校長を務めた。現在は大阪府教育委員会特別顧問、東京学芸大学客員教授、構想日本政策委員、特定非営利活動法人子供地球基金顧問などを務めている。サッチャー型の新自由主義の教育関係者[要出典]。
藤原氏は2009年には民主党が選抜した「事業仕分け人」にも選ばれ、以下のような発言をしたことが知られてもいるようです。
しんぶん赤旗:事業仕分け 「民業圧迫」と予算減 企業名がポンポン
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-11-12/2009111202_03_1.html
kojitakenの日記 のkojitakenさんも取り上げておられました。
橋下徹が喜びそうな「事業仕分け」http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091115/1258243655
>「子どもの読書活動推進事業」をめぐり藤原和博氏(大阪府知事特別顧問)は学校での「朝の読書は成功している」としつつ、「子どもが一人も借りていない本がある。(古書店)ブックオフにでも売ればいい」と同事業は「廃止」の結論に。
小~高校時代、図書室で、他の人がめったに借りないような本ばかり読みまくった記憶のある私としては、そういうのは困るなあ・・・(;一_一)
(今はどこもパソコン管理だろうけど、当時は本の裏の見開き部分に表が貼ってあって、貸出しの日付のハンコを押すようになってました。前に借りた人が7年前とかだと、誰だかわからない、会ったこともないその先輩に親近感を持ったりしたものですが)そりゃあ、民間の書店が5年に一冊、誰かが買うかもしれないような本を置いたりはできないでしょう。でも、7年に一遍でも、誰かが読むかもしれない本を置いてくれるのが学校の図書室や公共の図書館じゃないの?それが文化ってもんじゃないの?とか思いますけどね。
> 青い鳥さん
本当に先行世代から比べて、急激にノンポリ化したのが私たちの世代でした。以下は以前、youtubeで見つけた映像ですが、たった10年で、人間は変われど、同じ年齢層に属する若者たちがここまで変わったのかと思うと不思議です。
昭和43年新宿騒乱事件 昭和44年東大安田講堂占拠事件
http://youtu.be/ON5hqsBEBcw
1980年(昭和55年)の東京の若者たち
http://youtu.be/jslBNqKd11I
たった10年ちょっとでこうなったんですね。今思えば不思議な気がします。(そこに何者かの“意図”が働いていたのか・・・と言ったら、インボー論になってしまいそうですが、(^^;) 思えば、ここからしばらくは、“パンとサーカス”に踊った時代でした。)そして最近になってしきりと思われるのは、私たちの世代以降の多くが、長らく政治に無関心でいたことが、この国を誤らせる大きな要因にもなったのではないかということです。
青い鳥様
私もフランスにいる限り、情報を発信していこうと思いますのでよろしく。(なにか自分のブログのようにコメントして申しありません)
19ヶ月後、彼らの戦略は破綻した。ヒットラーの独裁が誕生したのだ。
時代と状況が全く違いますが、橋下人気にあやかろうとする政党の役割がどういうものかを示唆する歴史的事実です。
19ヶ月後、彼らの戦略は破綻した。1934年8月2日、ヒトラーはドイツ大統領と首相を兼任した。そしてドイツ国軍に、今後ヒトラーが軍の最高司令官であることを宣誓させた。(仏独共同歴史教科書)
時代と状況は全く違います。しかし今の大阪の状況を彷彿とさせる歴史的事実ではありませんか。公明党は、職員基本条例には相対的評価をすべきではないと反対していましたよね。また教育行政基本条例も取り下げを主張していました。党利のために主張を変えたのです。こうしたことが、まさにファシズムを助長させるのです。
支配層による強権弾圧の結果が現在ある
新宿駅西口広場はかつてフォークゲリラの牙城でした。
のちに東京都が集会などに利用されないよう、道路条例(だったかな?)を変えて、「歩道」の扱いにしてしまったんです。
こうすれば公安条例を使うまでもなく歩道不法占有で取り締まり対象に出来ますから。
この程度はちょっと現代日本政治史をかじれば幾らでも学べます。
写真家の福島菊次郎は、「DAYS JAPAN」2010年3月号の連作「首都騒乱」(渋谷暴動事件などが撮影されています)で、“日本の若者が大規模デモも出来ないほどおとなしくなったのは政府が牙を抜いたからだ”と断じています。
>ガリクソンさん
確かにメリットもありますが、デメリットの方が大きいから反対しているんです。
メリットがあまりに小さすぎるし、一部の人達に限られすぎです。
>学区廃止、学力別のクラス分け、学校の選択制、テスト結果公表、私はこれらの施策は実施するべきだと考えています。
まず、何故実施するのか?目的は?と問えば「学力向上の為」と答えるかと思いますが、実施した国や自治体で「学力向上にならなかった」という結果が出ています。
>学区制はもちろん必要が有って作られたはずですが~
はい、これもどういう必要があったのですか?それを理解しないまま反対ですか?
行きたかった高校に受験できなかった経験を書かれていますが、学区が廃止されたら人気校に受験者が殺到するでしょうから、合格率が高くなって結局いけなかった、という事もありえるのでは?
実施したアメリカやイギリスでは結局、人気学校の周辺には裕福層が集中したそうです。
“経済発展思想”によって、つぶされた“豊かさ”
“風鈴草”にダブルクォーテーションが付いているのはなぜ?と思ったら、「風鈴草」という名前のフォークグループ(ペア)がいらっしゃるのですね。存じませんでした。HNは適当につけました。(^^;)(ちなみに私は他人様に聞かせるような歌は歌えません。w)
>支配層による強権弾圧の結果が現在ある
>写真家の福島菊次郎は、「DAYS JAPAN」2010年3月号の連作「首都騒乱」(渋谷暴動事件などが撮影されています)で、“日本の若者が大規模デモも出来ないほどおとなしくなったのは政府が牙を抜いたからだ”と断じています。
当時の体制側が若者たちの怒りや労働運動をなんとか抑え込もうとしたのだろうということ、私も最近、当時を振り返って、うすうすは感じるようになりました。でも、それは必ずしも強硬な手段だけによるものでもなかったと思うのです。この前、ダグラス・ラミスさんという人の『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』という本を読んでいたら、初めの部分で以下のような文章があって、ハッとさせられました。(結局、私たちはこのような経済思想に抱き込まれて、多かれ少なかれ、その“共犯者”として今日まで生きて来てしまったような気がします。)
(以下引用)
所得倍増論は政府によって一九六〇年に提案されたが、それはもうひとつの、もっと奥行きのある豊かさを目指していた思想の代替物として、つまりその運動をつぶす武器として提案されたことを忘れてはならない。六〇年安保闘争が目指した豊かさには、経済的豊かさだけでなく、平和、民主主義(職場での民主主義も)、社会的平等、正義なども含まれていた。所得倍増論、つまり、社会の豊かさはGNPによって計られるものだという、貧弱な豊かさを求める論理は、当時の民衆闘争に対する政府の答えだった。
そして所得倍増論はイデオロギーとして著しい成功を収め、主流の常識となった。もっと深みのある豊かさへの思想は完全につぶされてしまったわけではないが、社会の片隅へと追いやられた。
「それは理想としてはいいかもしれないが、なんだかんだ言ってもお金を稼がなくちゃね」とか「いやだけど、仕事だから仕方がないよ」など、私たちがよく耳にするこのようなセリフは、「所得につながることにのみ現実性がある」という、経済発展論の発想である。
私はこういう位置づけに対して疑問を投げかけるためにこのタイトルを選んだ。
(平凡社ライブラリー C・ダグラス・ラミス著『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』「はじめに」「では、なぜこのタイトルか?」 より)
(Wikipadiaより)
ダグラス・ラミス(Charles Douglas Lummis、1936年 - )は、アメリカ合衆国の政治学者、評論家。専門は政治学。日本在住。
サンフランシスコに生まれ、カリフォルニア大学バークレー校卒業。1960年に海兵隊員として沖縄県に駐留。1961年に除隊後、関西に住み、ベ平連の一員として日本での活動を始める。1980年津田塾大学教授。2000年退職。以後は沖縄に移り住み、非常勤講師を勤める傍ら、執筆や講演活動を行っている。日本人論批判で知られ、のち平和運動家、左翼として文筆活動をする。
保護者ネットワークのツイートを読むと、保護者の皆さんの切実な声が、この条例が保護者、ひいては子どもたちを向いて作られていない事を証明してくれているように思えます。
子どもたちの方を向かずに作られた条例ということは、つまりそれはこの条例を作った人たちが教育を自分たちの目的のために利用してるって事ですよ。
教育の質の悪いところに人は来ません
徹底的なレベルアップがなければ、低賃金フリーター量産工場になります。それが嫌なのです。
西成もそうでしょう。西成に似た地域は東京では北東部。
手っ取り早いのは学力と人間・スポーツ・文化教育を徹底し、東大・京大・早慶など高レベル大学で学ばせる層を厚くすること。なお「俺は知能指数が高い」とひけらかす社会人がたくさんできる埼玉県東部の有名公立進学校がありますが、こうしてはもちろんいけません。グローバリズムによる賃金激減時代に耐えられる人間を多く育てないと、日本は潰れます。
同時にと府外住民に府立高校解禁して競争させないとたぶん淘汰が進みます。
>風鈴草さん…
>もっと奥行きのある豊かさを目指していた思想の代替物として、つまりその運動をつぶす武器として提案されたことを忘れてはならない。
>六〇年安保闘争が目指した豊かさには、経済的豊かさだけでなく、平和、民主主義(職場での民主主義も)、社会的平等、正義なども含まれていた。
示唆に富んだ指摘ですね…。わたし自身ハッとさせられましたよ…。平和・民主主義などの大切さは、頭では理解していたつもりであったのですが、経済一辺倒の自分の職場に長年身をおいて、転向に等しい、長いものに巻かれる無難な生き方をしてしまったな…、という忸怩たる思いに苛まれています。やはり“楽な道”を安易に選択してしまった後悔が正直ありますね…。確かに経済発展は必要ですが、もっと大切なものを大切にしなかった皺寄せが、今、一気に日本社会を覆っているとつくづく考えます。『昨年の 3.11の震災で、日本に澱(おり)のように溜まっていたあらゆる深刻な問題が、顕在化した。』と、作家の高村薫さんが述べられてましたが、今までの価値観に縋り付いている限り、日本の再生は不可能でしょうね…。この様な重要な時期に橋下徹のような輩が台頭するということは、日本社会の最大の不幸に思えてなりません。橋下ひとりに振り回されている場合ではないと強く思います。あとは野となれ山となれ…的な刹那の道(新自由主義・市場原理主義)を覚悟を決めて突き進むか、あるいは、人間の尊厳が何より大切にされる“北欧型共生社会”を目指すのか?…。大切な岐路に立っていると思います。
風鈴草さん…、考えさせられましたよ…。(^_-)-☆
>のんちゃんさん
そのようなコメントは予告通り今後お断りいたします。
競争してもレベルは上がらない
答えはノーです。
学校の知名度やイメージに強くひかれ、合格の可能性が低い生徒がいわばチャレンジ校として大量に押し寄せて受験すれば倍率だけは上がります。
しかしながら合格ラインは上がりません。
今も昔も大阪の公立高校にはこういう現象はあり、一部の学区ではかなり顕著でした。
難易度的には中堅から中位の高校にありがちなことで
、そういう学力層は学校を必ずしも中味で選んでいるわけではないのです(実は私もそうでした)。
むしろ学区のトップ校や二番手校においては倍率は低いが、実力の拮抗した少数激戦が繰り広げられていた時期があったのです。
むやみやたらと競争しても効果はありません。
件の高倍率の高校の中には進学成績が昔より下降している高校もあります。
「競争をくぐり抜けてホッと気を抜いてしまうのではないか」
なんて話も一部では囁かれているくらいですから。
のんちゃんさんへ
私の直前のコメント、のんちゃんさん宛てのものです。
情報
http://mobile.twitter.com/hironicok/status/184528878025457664
http://mobile.twitter.com/hori_shigeki/status/184545069959880705
>青い鳥さん
> 確かに経済発展は必要ですが、もっと大切なものを大切にしなかった皺寄せが、今、一気に日本社会を覆っているとつくづく考えます。『昨年の 3.11の震災で、日本に澱(おり)のように溜まっていたあらゆる深刻な問題が、顕在化した。』と、作家の高村薫さんが述べられてましたが、今までの価値観に縋り付いている限り、日本の再生は不可能でしょうね…。
私もそう感じました。しかし、ダグラス・ラミスさんは本の中で、更に踏み込んで言うのです。とかく世間は、環境保護活動や憲法9条の平和主義、反原発運動、などを「非現実的な理想主義」と見なすけれど、「経済発展を何より優先する思考こそが、本当は“非現実的”なものなのではないか?」と。そして環境破壊や、いずれは必ず来る資源の枯渇という「現実」から目を背けて走り続けるこの社会を、氷山に向けてひたすら進むタイタニック号に例えています。船の外に目を向ければ、もはや氷山が見えて来ているのに、誰も「船を止めよう」とは言い出さないタイタニックの船内に。
そして・・・・去年の3月11日、日本社会はついに、ひとつの大きな氷山にぶつかりました。(ラミスさんの著書の単行本は、2000年に初版発行です)
これまでは自然環境の保護を経済発展よりも優先させようとすると、それは「非現実的な理想主義」のように言われてしまいました。しかし、人間もまた自然の中で暮らす生き物であり、“自然”そのものでもあることは、この現代においても変えようのない「現実」です。放射能汚染が生死にかかわる問題として私たちの上に降りかかって来ている今、このことを無視するとしたら、それこそが非現実的な態度でしょう。
地震学者によれば、すでに日本列島は地震の活動期に入っており、東北大震災の余震だけでなく、その他の大地震も起こる可能性が高まっていると言われています。こんな状態で「経済のために原発の再稼働を目指すのが現実的な選択で、脱原発は非現実」、そんな言葉は、もはや過去の幻想にしがみつくだけの非現実的なものになったと感じています。
>風鈴草様…
経済最優先が曲者なんですねぇ…。誰しも豊かな暮らしをしたいというのは、ごく自然なことですが、日本の経済は、歪に過ぎるんですね昨年、勤労者の35%に当たる約1700万人が非正規雇用労働者で、その3/4が年収200万円以下、わたしたちの世代が当たり前であった“正社員・終身雇用”を現代日本人の殆どが『そんなのは今の日本では、できっこない…』と為政者と強欲大資本家に洗脳されてしまっているんですね…、日本のFundamental(経済的基盤)は、世界一強固で盤石であることを忘れてはならないんですよ…。輸出大企業のみに富が集中したり、ひと握りの富裕層に富が集中する不公平な税制を民主的抜本的に切換え、再分配のシステムをつくれば、今の格差社会は簡単に是正できます。
庶民の暮らしを安定させた後、落ち着いて冷静に、少子高齢化に伴う社会保障制度維持について、考えれば良いと思います。14年連続で自殺者数が30000人を超える日本は、とてもではありませんが、先進国なんて言えません。ジミンシュトウなど大政党は、大資本家から多額の袖の下をせしめていますので、本当のことなんて言いっこないのです。橋下市長のような政治家は、格差社会を肯定し、グローバル社会で生きれる人間をつくろうと、教育に厳しい競争を持ち込もうとしているのですから、AIJの賭博でも明らかなように、破綻した新自由主義・市場原理主義に縋り付く政治家のもとでは庶民の暮らしは、いつまで経っても楽にならないのは当然なんですね…。
フクシマで、レベル7の大事故を起こしながら、再稼働・原発施設輸出をしようとしている政府は、明らかに異常ですね…。2000ヶ所以上の活断層が在る地震国でまだ原発に縋り付く態度は、理解できません。
風鈴草さん…あなたのご指摘通り、今の日本は、非現実的な方向へ驀進しているんですね…。いやはや…。(。_゜)〃ドテッ!
(いい小学校・中学校)→いい高校→いい大学→一流企業(or国家上級キャリア)→生涯安泰、なる道筋(「パイプラインシステム」といいます)は、とうの昔に崩壊していることを知りなさい。
今や、博士号を持つホームレス、実務経験積む機会のない公認会計士補、免許を取ったはいいが仕事がなくて活動出来ない(弁護士会費を払えないから)弁護士さえいるんですよ。
学校選択制の現実
(引用開始)
学校選択制見直す動き・・・特定校に希望者集中(東京多摩)
子どもが通学する小中学校を選べる「学校選択制」を巡り、多摩市は2013年度から選択の条件を制限し、見直す方針を固めた。制度導入から10年余り、全国的にも見直しの動きが進んでおり、専門家は「大規模校に人気が集まるばかりで、公立学校間で教育内容を競い合う資源や仕組みがない」と指摘する。
■多摩市は条件制限
公立の小中学校は通学区域の「指定校」に通うのが長年の仕組みだったが、1997年に国が通学区域の弾力運用を打ち出したことがきっかけで、2000年以降、選択制が全国に広がった。〈1〉市区町村内の学校を自由に選べる〈2〉地域で分けたブロック内で選べる〈3〉指定校はあるが隣接校への通学が可能――などのタイプがある。都教育委員会によると、都内では中学で19区10市、小学校で15区8市で実施されている。
多摩市では「教育水準の向上」「特色ある教育づくり」を目指して03年度から導入。小学校では隣接区域から、中学校では市内全域から選ぶことができ、小学校で平均6・7%、中学校で同10・1%の児童生徒が、制度を利用していた。
しかし特定の学校に希望者が集中し、学校規模の格差が拡大。区域内に住む生徒数はほぼ同じなのに、隣接する二つの中学校の一方に、他方の倍以上の生徒が集まるケースも。大規模校は部活動や行事が活発になり、ますます人気が高まり、小規模校は年々生徒が減ってしまうといった、悪循環が浮き彫りになった。
また生徒の居住地域が広域化し、学校と保護者、地域のつながりが薄れたといった声や、東日本大震災の発生を受け、遠方から通う生徒の登下校時の安全確保を懸念する声も出ていた。
このため市は先月、制度の大幅見直しの素案をまとめた。指定校への通学を原則とした上で、区域外に通うことができるのは、通学に30分以上かかり(小学生で1・5キロ以上、中学生で2キロ以上)、隣接校に通うことで通学時間を半減できる場合など、特例とすることにした。市は「地域のつながりの核として、改めて学校を位置づけたい」とし、3月末には正式決定する予定。13日までパブリックコメントを実施し、市民からの意見を募っている。
学校選択制に詳しい国立教育政策研究所(千代田区)の葉養(はよう)正明教育政策・評価研究部長は「現状の学校選択制では、子どもが大規模校に集まるケースが多い。自治体は選択制を導入するだけでなく、各校が特色を出せるだけの予算や、教育プログラム、評価システムをつくることが必要」と語る。
■全国でも相次ぐ
学校選択制を見直す動きは、全国でも相次いでいる。前橋市は11年度から、都内では江東区が09年度から、学校間の人数格差や地域との関係の希薄化を理由に、選択の条件を狭めた。長崎市は11年度末で小中学校の選択制を廃止、長野市は12年度末で小学校の選択制を終了させる方針で、新宿・江戸川区でも、見直しに向けた検討が行われている。
森上教育研究所(千代田区)の森上展安代表は「平均的な教育が求められる公立校では、教育内容で競い合える資源や仕組みがなく、選択制の導入は準備不足だったのでは」と話す。「代わり映えのしない教育内容では、保護者や生徒は選ぶ基準が見いだせず、部活動や生活の利便性などで選ぶしかない。自治体は、まずは地域の実情に沿った教育ニーズをくみあげることが必要」と話している。
(2012年3月6日 読売新聞)
(引用終了)
そして、バカ殿の特別顧問のお一人がいた杉並区でもこうなりましたね。
http://www.asahi.com/national/update/0331/OSK201203310060.html
(引用開始)
杉並区、学校選択制廃止へ 「教育内容で選ばれず」
東京都杉並区教委は、小中学校で実施している学校選択制を2016年度に廃止する方針を決めた。競争原理導入による学校活性化を目指したが、校舎の新しさなど、教育内容と関係ないことで学校が選ばれる傾向があるためという。
学校選択制は、一定の地域内で、通いたい学校を自由に選べる制度。東京23区のうち19区が選択制を導入しているが、廃止方針を決めたのは杉並区が初めて。杉並区が導入から10年になるのを機に検証したところ、一部の学校に人気が集中したり、事実に基づかないうわさで希望者が激減したりするなどのデメリットが目立ってきたという。
PTA役員や校長らを対象にしたアンケートでは、3分の2が「制度の廃止か見直しを」と回答した。東日本大震災を機に登下校時の安全を重視する保護者も増え、「選択制は地域と学校のつながりを希薄にするのでは」との問題意識も高まっているという。
(引用終了)
以前、「橋下流 考」の記事の中でも指摘されていた事態が先行して実施された地区で確実に起こっているわけですね。バカ殿は「失敗例だけ報道するな」と逆切れしていますが、こういう事実にほっかむりして自己正当化するのはいただけないですね。失敗事例から学ぶことも必要なのでは?
学校選択制の「今さら感」
学校選択制の見直しが各地で起きている件、興味深く拝見しました。
学校選びの基準が教育内容以外のものになってしまうというのは、ある程度は仕方のないことだと感じています。
今の公立小中学校が、学校ごとに特色を出せるしくみになっていないことを識者は記事中で指摘していますが、そのことが主たる原因ではないと私は思います。人気校が必ずしも教育内容で選ばれているわけではないというのは、大阪の私学無償化の件でも一緒ですもんね。
教育内容一辺倒で学校を選択するというのはごく一部の人々にすぎないでしょう。
多くの人は、それ以外に通学のしやすさや設備の充実度など、複数の要素を比較検討して学校を決めると思います。
なかでも小中学校の場合は、「隣近所の子供がどの学校を選んでいるのか」というのが重要なファクターで、大抵は「近所の子がたくさん行ってるからウチもここ」という感じになりそうな気がします。
教育を受けることもまた、生活の一部です。
与えられる教育内容が例え他よりも優れたものであっても、無理な遠距離通学で校舎はオンボロ、しかも近所の友達は一人もいないというのでは考えものでしょう。
学校生活に無理が生じては、質の良い教育を受けても当の子供がそれを存分に吸収しきれないでしょうし。
ただ、内部進学が可能な有名私大の付属小中学校なら、それでも人はくるでしょうけど。
少なくとも、「有名大学に推薦入学できるかもしれない」という可能性だけは確実にゲットできますから。そうではない公立小中学校の場合は、選択制も有効に機能しづらく、結果として選択範囲の縮小を余儀なくされたということでしょう。
最初から過大な期待を持つこと自体が夢物語だったんだと思います。
今さら大阪市で学校選択制を導入するメリットを、私は感じません。
よく指摘されるいじめや不登校などに関しては、別途柔軟に対応するというのが良いでしょう。
当時“茶と赤、どちらを選ぶか”というのがドイツ国内で言われてました。
茶は国家社会主義労働者党、赤はいうまでもなく共産党です。
そして一時の打算で保守が茶と手を結んだ結果、どうなったかは歴史に見るとおり。
ナチ台頭前夜から崩壊までを描いた、ハンス・ペーター・リヒターのドイツ三部作にも出て来ます。
AS様へ
高校生用の仏独歴史教科書には次のような設問があります。ご一緒に考えてみましょう。
「ドイツとフランスにおいて同じような情勢の展開があったにもかかわらず、ドイツにおいて民主主義が挫折したのはなぜか、説明せよ。二つの共和制の間の本質的な違いは何であったのか説明せよ」