ファシズムとマインドコントロールについて、アメリカでの実話と、それに基づいた作られたドイツの映画をご紹介します。
◆虹色の夢
なぜ ドイツ民衆はヒトラーについていったのか?~私たちにもその可能性が・・・ http://nijiiro-no-yume.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-da25.html (引用開始) 民衆が いとも簡単にマインドコントロールされてしまう こんな過程を鮮明に示したある 実験学習が アメリカの歴史教師によって行われたことがありました。 『ザ・ウェーブ』 1969年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。 教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。 つぎの歴史の授業においてもそれは続いていた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウェーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。 この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。 結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。 生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。 マインド・コントロールとは何か (単行本) 西田 公昭 (著)より (引用ここまで)
少々恐ろしい実話であり実験ですね。
それにしても、アメリカのこのクラスは自由を謳歌する普通の子ども達だったと思われます。特に「ファシズムが生まれる要因」がこのクラスにあったわけではないでしょうに、何かのきっかけにいとも簡単に全体主義に陥らせることが可能なのだという現実を見ると、人間の心理の脆さ、危うさを痛感します。
どんな優秀な人間でもカルト集団のマインドコントロールに絡め取られる危険性があると言われています。自分だけは大丈夫、ということはありません。
それと同様、いつ、いかなる状況でも、人間は全体主義に陥る危険性を潜在的にはらんでいる、ということが実証されたのがこのアメリカの高校での実験ではないかと思います。
この警告は心にとめておきたいです。
この実話はドイツで2008年に映画化され、日本でも2009年に公開されました。また、この実話を元にした小説も出版されています(モートン・ルー著『ザ・ウェーブ』)
私も先日レンタルして鑑賞しましたが興味深かったです。皆さんにもお勧めします・・・が、ここでほとんどネタバレになっちゃってますからご注意を(^^;
映画のサイトはこちらです→
http://goo.gl/JF59b あらすじですが、
舞台は現代のドイツのハイスクール。生徒は皆学生生活を楽しんでいます。週末にはパーティーを開き、中にはドラッグをキメる子もいます。トルコ人もいれば東ドイツ出身の子もいる、ようはどこにでもいる今時の普通の高校生たちです。
ある日生徒たちは民主主義について学ぶため月曜から金曜までの一週間の実習を選択することになります。コースは「無政府主義」と「独裁」
教師のライナー・ベンガーは気が進まないながらも「独裁」の実習受け持つことになりました。
月曜日、教室はラフで自由な雰囲気で始まります。
さすがドイツの生徒だけあって、高い失業率と社会不満、知識不足、政治への幻滅が独裁の要因になることを既に知識として知っていました。
「また第三帝国か。ナチがくそったれなのはもう十分わかってる」「もうドイツでは独裁はあり得ない。そんな時代じゃない」という生徒たち。
そこでベンガーはある「気楽なゲーム」を始めますが・・・。
以下はこの映画のレビューが書かれてるブログを拝借しましょう。レビュ-と言うよりは鋭い精神分析です。
◆伊那谷牧師の雑考2.0
ウェイヴ [映画・動画] http://inadaniboxi.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301222303-1 (前略) 映画と実話を絡めた記事として以下のものがあった。参考までに。マインドコントロールの恐怖I~その戦慄のメカニズム~ 映画の中で、教師のベンガーが、独裁制のリーダーとしての立場に、いつの間にか酔ってしまっているという描写がある。組織内の支配・従属関係におけるマインドコントロールは従属側のみならず支配側にも起こる。教師ベンガーは最後までフランクで自由な人間である。最も独裁的でない人物として描かれている。にもかかわらず「リーダーとしてかしずかれることを楽しんでいる」(ベンガーの恋人教師からの指摘)のであり、それがために、「ウェイブ」の解散を遅らせてしまったのである。 マズローの欲求段階説もあるように、人間には所属欲求というものがある。ティムという登場人物がいる。ティムは家庭環境が複雑な上にいじめにもあった。ティムは現実世界に居場所を失っていた。所属欲求の不満のために、彼は「リーダーに従いたい」という思いを増加させた。他にも、移民の子、成績の悪い生徒などにもその傾向があった。 所属欲求の変形として従属欲求もあろう。人間には人を支配したいという支配欲求と、人に支配されたいという従属欲求がある。両者は同一の人間の中に同居し、また時と場合によって両者のバランスは変動する。支配欲求と従属欲求は対立的なものではなく、一体のものである。 自信を失った人々は、どのようにして自信を回復するか。大別して2つある。「私(たち)は偉大なことを成し遂げることが出来る」と思うか、「私(たち)は偉大なものに帰属している」と思うかである。そもそも人間には「偉大なものに帰属したい」という帰属欲求と「偉大なことを成し遂げたい」という達成欲求がある。社会学者の宮台真司は、先の大戦で敗れた日独伊の枢軸国側の特徴として帰属欲求があることを挙げている。枢軸国側は、連合国側の英米仏のような自力の市民革命によらず、「追いつき追い越せ」で急速な近代化を遂げた。急速な近代化のために共同体や自然が失われて疎外感を抱く者が量産され、寂しさを着地させる場所として、自らが一体化すべき国家=崇高なる共同体が見出される、と述べる(『天皇ごっこ』の解説)。達成感ではなく、「自分は偉大なものに属している」という帰属感を膨らませた。前者が英米仏で後者が日独伊と宮台真司は述べる。その分析はおおよそ合っていると思う。ただしカリフォルニア州のカバリー高校の事件のように、アメリカの高校生も帰属欲求が強いということを考えると、アメリカ人だからどうだとか、ドイツ人だからこうだ、ということはない。「自分も出来ると思いたい」という達成欲求と「自分は偉大なものに属していると思いたい」という帰属欲求は同一の人間の中に同居している。 (後略・引用ここまで)
「教師のベンガーが、独裁制のリーダーとしての立場に、いつの間にか酔ってしまっている。」
これ、橋下氏にも思い当たることがあります。
例えば「たばこを吸った地下鉄の職員を免職にする。裁判闘争になっても構わない」と激高、どんどん自信をつけて異常さをヒートアップさせているのも「マインドコントロールは従属側のみならず支配側にも起こる」という現象なのではないでしょうか?(もっとも橋下氏はベンガーとはだいぶ性格が違いますが)
余談ですが、「煙草一本で免職する、裁判になっても構わない」という発言は、20年前にどこかの地方自治体の首長がしたらマスコミも市民も総叩きしただろうと思います。ところが今は独裁発言しようが明白な憲法違反しようが逆ギレしまくろうが市民の多くの反応は鈍いです。
中曽根時代には教科書の記述を「侵略」から「進出」に変えただけで大騒ぎでした。ところが今の教科書はそんな生やさしいレベルではない「つくる会」がのさばっています。それに対して市民の反応は「無関心、無反応」です。
先日石原都知事は朝日の記事が気に入らないからと「みんなの前で殴ってやるからな」と鉄拳制裁を予告、威圧しました。信じられないくらい立派な脅迫です、20年前なら速攻クビが飛んでいたでしょう。しかし今は責任を問う声すら聞きません。
国民全体のゆゆしき病状はかなり進行しているといえましょう。
これは批判的に報じようとしないマスコミの責任が大きいのですが、マスコミに指摘されなければ批判の声が大きくならないという主体性がなさ、リテラシーのなさもおおいに問題だと思います(そういえばメディアリテラシーの授業は日本の学校では行われてませんね。)
このレビュ-で指摘されている「帰属欲求」にはネットではしょっちゅうお目にかかりますね。
「帰属欲求」は多かれ少なかれ誰にでも備わっていますが、特に「日本が嫌いなら半島に帰れ」と言いたがる人々は彼らが好ましく描いている「日本(またはニッポソ)」への帰属意識がとても強いです。
そういう人々は通常その帰属意識を他にも強く要求する傾向にあります。
だからその帰属集団の象徴である日の丸君が代に対する忠誠をあれほど強要し、それに従わない者は帰属する集団から排除し「半島に帰れ」と言うわけです。
人にはもともと支配されたいという欲求があります。それは支配したいという欲求と裏表の関係です。
そして支配されたい欲求を強めるには、当ブログのサイドカラムにも書いてあるように、人を閉塞感蔓延する状況に追い込み自信を喪失させればいいのです。
国は知ってか知らずかずっとそういう状況~格差社会を維持することに躍起になっていますね。
少数の異論を否定し服従を求めるようになったら、もうその集団、社会は全体主義の危険な兆候が現れてると言っていいと思います。
例えば911直後のアメリカ社会は「テロとの戦い」やイラク戦争を否定する少数の市民に対してどうだったでしょうか。
ブッシュを支持しない、イラクへの攻撃は間違っている、なんてとても口にできる雰囲気ではありませんでした。まさに全体主義的な空気が支配していたと思います。
そして大阪を筆頭とする今の日本社会はどうでしょうか。
言わずもがなですね。
君が代を歌わない教師、橋下市長にたてつく公務員は徹底的に排除され攻撃されてます。
全体主義に陥っている現実を「それはおかしい」と批判する者が排除されていくさまは、現在私たちが毎日目にしていることと被ります。
「異常が正常になるとき、少数の正常者は異常とされる」という精神科医の野田正彰氏の言葉がありますが、まさに今の日本がそれだと思わざるをえません。
少数を排除せず、多様性を許容できるかどうかがその集団の健全さのバロメータですが、日本社会ではその健全さはすっかり失われてしまっているのです。
ファシズムは人間の感情、心理の問題ですから、理屈では太刀打ちできないところがあります。
政治において正論を展開しよりよい政策を提示する王道は外せませんが、ハシズムに対抗するにはそれだけでは絶対に足りません。社会心理学やカルトの心理学を理解し駆使できる人間がいないとダメだと思うのです。
・・・などなど、映画を見終わってからこんな感想を徒然に抱いたのでした。
●関連記事
社会心理学のススメ
関連記事
スポンサーサイト