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このほかの国々について
このほかの国々、たとえば中国、北朝鮮、旧東独、旧ソ連、旧カンボジア、旧リビア、ジンバブエ、アミン時代のウガンダ、そしていうまでもなくナチ政権下のドイツ、などについても是非是非知りたう存じます。
日の丸・君が代に生涯をかけ抗う…
>「ヒトラーを生んだドイツでは、国旗・国歌や愛国心は、とてもデリケートな問題です。みんなで国歌を歌い、ドイツ人としての誇りを前面に打ち出した2006年のワールドカップは、まさに例外的な出来事でした」(ドイツ在住実業家)
日本は、過去の過ちに対し余りに、無頓着に過ぎると思うんですよ…。“日の丸・君が代”の下に徴兵され、アジア諸国へ土足で侵略しました。日本軍閥と旧財閥のエゴを満足させるべく、国民を帝(ミカド;天皇)の臣民(家来;奴隷)に貶め、東條英機の“戦陣訓”;「生きて虜囚の辱めを受けず」などの軍国主義教育で国民を洗脳し、国民の生命を殺め、アジア諸国民を虐殺したという事実をわたしたちは、忘れてはならないと考えます。“日本国憲法”で「主権在民」が規定されている現代に於いて、侵略戦争の象徴である“日の丸・君が代”を国家が強制することは、どう考えても道理がないと考えます。その意味で、“君が代起立斉唱の強制”に抗う教職員の皆さんは、讃えられるべきであり、分限若しくは懲戒免職の憂き目にあわれること自体、許されざることと言わざるをえません。
わたしは、死ぬまで一切、君が代を口にせず、日の丸に頭を垂れることは、しないつもりです。
強制しなければ、愛されない国って、一体、なんですかね~。人間の良心・信条・思想の自由を、束縛する権利は誰にもないと考えます。
日本は、過去の過ちに対し余りに、無頓着に過ぎると思うんですよ…。“日の丸・君が代”の下に徴兵され、アジア諸国へ土足で侵略しました。日本軍閥と旧財閥のエゴを満足させるべく、国民を帝(ミカド;天皇)の臣民(家来;奴隷)に貶め、東條英機の“戦陣訓”;「生きて虜囚の辱めを受けず」などの軍国主義教育で国民を洗脳し、国民の生命を殺め、アジア諸国民を虐殺したという事実をわたしたちは、忘れてはならないと考えます。“日本国憲法”で「主権在民」が規定されている現代に於いて、侵略戦争の象徴である“日の丸・君が代”を国家が強制することは、どう考えても道理がないと考えます。その意味で、“君が代起立斉唱の強制”に抗う教職員の皆さんは、讃えられるべきであり、分限若しくは懲戒免職の憂き目にあわれること自体、許されざることと言わざるをえません。
わたしは、死ぬまで一切、君が代を口にせず、日の丸に頭を垂れることは、しないつもりです。
強制しなければ、愛されない国って、一体、なんですかね~。人間の良心・信条・思想の自由を、束縛する権利は誰にもないと考えます。
世界でも稀な日本の異常性
閣僚が記者会見の際に、いちいち“国旗に一礼”したりするのも日本だけです。
アメリカや、一党独裁とか叩かれる中国国務院外交部の会見を見た事ないんでしょうね、強制論者たちは。
アメリカや、一党独裁とか叩かれる中国国務院外交部の会見を見た事ないんでしょうね、強制論者たちは。
ここのサイトは
論理的でとても参考になります。
ちょくちょく覗かせてもらってますよ。
できたらもっといろんなテーマについても論じて欲しいですが。
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普通の人が平気で言っているのが一番こたえる
フランスがうらやましいです…サルコジ大統領への批判とか。意識が違うんですもの~;
スポーツのブログなんか読んでいて、(ウヨクでもない)普通の人が「国歌斉唱の時に起立していない人がいた。ああいうのが失礼でむかつきます」なんて書いてあるの読むと…
やっぱり日本は精神的後進国なんだな~って思い知らされる時です;
スポーツのブログなんか読んでいて、(ウヨクでもない)普通の人が「国歌斉唱の時に起立していない人がいた。ああいうのが失礼でむかつきます」なんて書いてあるの読むと…
やっぱり日本は精神的後進国なんだな~って思い知らされる時です;
>うろこさん
強制されるのが通常になると、国歌は起立して歌わねばならないんだ、と無意識のうちに思い込むようになりますよね。こうして徐々に非民主的なメンタリティが形成されていきます。
私のブログに、あるコメンターの方から以下のような内容の投稿を頂いたことがあります。
『私は小学校から大学まで国立に通っており、国家斉唱の機会は式典などで多々ありました。しかし、教諭の中には起立斉唱している者もいれば、していないものもおり、生徒もまた同様でした。私自身は国歌や国旗に特に興味も意見もないので、気が向けば歌い、気が向かなければ歌いませんでした。
けれど上のコメントで仰っている通り、「強制されることで反発する」という気持ちになっています。国旗、国歌に関わらず、強制や処罰をすることは前時代的なことで、戦時中の日本に立ち戻ってしまいそうで怖いです。』
私も、これには同感なんですね。小学校時代に授業で君が代を習ったのですが、特に違和感も無かったです。君が代が国歌であるという認識は子供心に持っていました。ところが、
昨今の強制化と処罰の嵐を前にして、また、これを当たり前だとする風潮、歌わない者に
反日のレッテルを貼ったり、たかが国歌を歌わないぐらいの事で、それを反社会的行為や迷惑行為と吊るし上げる異常さを前にして、私は君が代に対する強い嫌悪感を感じるに至ってしまったのが正直な思いです。君が代そのものというより、君が代を盾に圧力をかけてくるこの前時代的なナショナリズムにです。左翼云々の問題ではありません。“自由主義”の問題です。新右翼の鈴木邦男はこのことを分かっているから、右翼に立脚し、君が代を誰よりも愛していると自負していながら、強制化に大反対しているのです。
『私は小学校から大学まで国立に通っており、国家斉唱の機会は式典などで多々ありました。しかし、教諭の中には起立斉唱している者もいれば、していないものもおり、生徒もまた同様でした。私自身は国歌や国旗に特に興味も意見もないので、気が向けば歌い、気が向かなければ歌いませんでした。
けれど上のコメントで仰っている通り、「強制されることで反発する」という気持ちになっています。国旗、国歌に関わらず、強制や処罰をすることは前時代的なことで、戦時中の日本に立ち戻ってしまいそうで怖いです。』
私も、これには同感なんですね。小学校時代に授業で君が代を習ったのですが、特に違和感も無かったです。君が代が国歌であるという認識は子供心に持っていました。ところが、
昨今の強制化と処罰の嵐を前にして、また、これを当たり前だとする風潮、歌わない者に
反日のレッテルを貼ったり、たかが国歌を歌わないぐらいの事で、それを反社会的行為や迷惑行為と吊るし上げる異常さを前にして、私は君が代に対する強い嫌悪感を感じるに至ってしまったのが正直な思いです。君が代そのものというより、君が代を盾に圧力をかけてくるこの前時代的なナショナリズムにです。左翼云々の問題ではありません。“自由主義”の問題です。新右翼の鈴木邦男はこのことを分かっているから、右翼に立脚し、君が代を誰よりも愛していると自負していながら、強制化に大反対しているのです。
付け加えるならば、
私は、天皇皇后両陛下について、テレビ画面を通しての表情やお言葉から、穏やかなお人柄が伺われて、悪い印象を感じたことは無いのですが、公権力が学校現場等で、ことあるごとに天皇家への礼賛、拝礼を持ち出してきたり、
さらには強制化などされた日には、君が代強制と同じく私には嫌悪感の対象となってしまうでしょうね。教育勅語や宮城遥拝、御真影の奉戴などの復活は、君が代強制が徹底された先には近いところにあると思いますよ。
ベクトルとしては同じですから。
そして、自由主義はどんどん押しやられていきます。
いつか来た道を舞い戻っていくことになるでしょう。
お上に従順な羊の養成です。
そうなっていって得するのは、ほんの一部の支配層だけです。
こんな世界の非常識を当たり前だと思う人たちは目を覚まして欲しいです。
日本の子供たちの未来のために。
私は、天皇皇后両陛下について、テレビ画面を通しての表情やお言葉から、穏やかなお人柄が伺われて、悪い印象を感じたことは無いのですが、公権力が学校現場等で、ことあるごとに天皇家への礼賛、拝礼を持ち出してきたり、
さらには強制化などされた日には、君が代強制と同じく私には嫌悪感の対象となってしまうでしょうね。教育勅語や宮城遥拝、御真影の奉戴などの復活は、君が代強制が徹底された先には近いところにあると思いますよ。
ベクトルとしては同じですから。
そして、自由主義はどんどん押しやられていきます。
いつか来た道を舞い戻っていくことになるでしょう。
お上に従順な羊の養成です。
そうなっていって得するのは、ほんの一部の支配層だけです。
こんな世界の非常識を当たり前だと思う人たちは目を覚まして欲しいです。
日本の子供たちの未来のために。
そもそも「国歌」って何?
あまりに幼稚な疑問で申し訳ないかもしれないけど、そもそも、「国歌」って何なんでしょうね?
たとえば、江戸時代の将軍や藩主が、家来や領民に「国歌」や「藩歌」を歌わせるなんて想像出来ないし、君が代の歌詞が作られたという平安時代の宮廷人に「これを国歌にしてみんなで歌います。いでしょう?」と言っても「???」でしょう。
「国歌を必要とする国家」って、いつ、どんなふうに生まれたのでしょうね?
たとえば、江戸時代の将軍や藩主が、家来や領民に「国歌」や「藩歌」を歌わせるなんて想像出来ないし、君が代の歌詞が作られたという平安時代の宮廷人に「これを国歌にしてみんなで歌います。いでしょう?」と言っても「???」でしょう。
「国歌を必要とする国家」って、いつ、どんなふうに生まれたのでしょうね?
つまらないコメントですみません
すいません、前のコメント、一文字抜けてました。
訂正:「これを国歌にしてみんなで歌います。いいでしょう?」です。
なぜ、現代の私たちは国家を歌う歌わないで揉めなければならないのか?それをたとえば、江戸時代のご先祖(うちの場合は百姓ですが)、あるいは源氏物語の源氏の君にもわかるように説明できるのだろうか?とふと、思ったので。
訂正:「これを国歌にしてみんなで歌います。いいでしょう?」です。
なぜ、現代の私たちは国家を歌う歌わないで揉めなければならないのか?それをたとえば、江戸時代のご先祖(うちの場合は百姓ですが)、あるいは源氏物語の源氏の君にもわかるように説明できるのだろうか?とふと、思ったので。
> 風鈴草 様
初めまして。えぇ、私も疑問ですが、きっと意味なんてないんですよ。大日本帝国が大好きな人の気持ちと同じで。個人個人としての誇りが持てない人達なんですよ、君が代を強制してくる人って。権力に従う事で、あるいはそれを行使しているつもりになっていい気になっているだけ。国への誇りがあるのではなく、彼らにあるのは単なる見栄だけです。と私は思ってます。
「国のためにこの身を捧げてる俺SUGEEE。お前ら非国民ざまぁ」とまぁ、2CH風に言うならこんな所でしょうか。
「国のためにこの身を捧げてる俺SUGEEE。お前ら非国民ざまぁ」とまぁ、2CH風に言うならこんな所でしょうか。
歌も旗もシンボルに過ぎない
風鈴草さん
私は「シンボル」(象徴)だと思っています。
ちなみに、都道府県民歌というのは47都道府県全てに制定されています……が、全ての住民が自分の住むところのそれを歌えるとは限りません(そもそも教わらない。都道府県民手帳や、学校教育研究会が編纂した歌集には収録されている)。歌詞の内容は地域の自然の素晴らしさや発展を誇るだけです。個人崇拝になるものは絶対にありません。
市町村歌は制定しているところもあるようですが、全部を調べる気には到底なりません(大体2000箇所ありますので)。
私は「シンボル」(象徴)だと思っています。
ちなみに、都道府県民歌というのは47都道府県全てに制定されています……が、全ての住民が自分の住むところのそれを歌えるとは限りません(そもそも教わらない。都道府県民手帳や、学校教育研究会が編纂した歌集には収録されている)。歌詞の内容は地域の自然の素晴らしさや発展を誇るだけです。個人崇拝になるものは絶対にありません。
市町村歌は制定しているところもあるようですが、全部を調べる気には到底なりません(大体2000箇所ありますので)。
風呂の中で歌ってました
>AGENさん >ASさん
私のつまらないコメントにレスしていただいて、ありがとうございます。
>大日本帝国が大好きな人の気持ちと同じで。
思うに・・・身分の差がはっきりしていた時代には庶民は権力者に従っていれば良く、敵国との戦争はプロの軍人階級(サムライ)がすることになっていたので、取り立てて庶民の「愛国心」を鼓舞する必要はなかったのでしょう。日本を急激に近代国家にするに当たり、「生まれながらの身分」というものを無くし、一般庶民を兵士として戦争に駆り出すことになって、初めて「愛国心」を鼓舞することが必要になり、国歌も作られるようになったのではないかという気がするのですが。
しかし、今の「君が代問題」には、個人的にはちょっと不審に思うことがあるんです。今から、40年近い昔の私の小~中学校時代は、調べてみると日教組が全盛の頃で、今よりも左翼的な考え方の先生方が多かったようです。とくに私の小学校六年の時の担任だった40代半ばの男の先生は、人一倍、人情家で教育熱心な一方で、「俺は天皇なんて大嫌いだ!」と生徒の前で公然と語るほどの「サヨクな人」で、校長もその鼻息をうかがうほどの勢いでした。中学でも熱心な日教組の先生方が何人かいたらしいということは後で知りましたが、それでも「君が代」で揉めたような話は一度も聞きませんでした。おそらく、他の学校でもそうだったと思います。(入学式や卒業式では「君が代」は普通に歌われていましたが、先生方の中の誰かがが目立つような行動をしていた記憶はありません)私の記憶では、「君が代を起立して歌う、歌わない」が大きな問題になったのは石原慎太郎氏が東京都知事になってからだったと思うのですが・・・・
>ちなみに、都道府県民歌というのは47都道府県全てに制定されています……が、全ての住民が自分の住むところのそれを歌えるとは限りません
そういえば県歌ってありましたねえ。w 私もどうしても自県の県歌が思い出せず、検索してやっと思い出しました。私の場合、中学の頃に、1、2回歌わせられたような、幽かな記憶があります。大抵の人にとって、県歌なんてそんなものでしょうけど、例外は長野県人で、昔、長野の知人に、大抵の長野県人(県外からの移住者は除く)は「信濃の国」が歌えると聞いた時には驚きました。学校で教えているようですが、無理やり強制されて覚えるというよりも、各人に、そこそこ愛されて歌い継がれているようです。そのように愛されて歌われるならば、県歌も良いものでしょう。
実は私は「君が代」は、結構、好きだったんですが、だからと言って、大勢で斉唱するのはあまり好きではありませんでした。あくまで「哀愁を帯びた古風なメロディーが好き」という、音楽上の好みの問題で、「こきりこ節」や「荒城の月」が好き、というのと同じレベルの「好き」でしかありませんでした。(そもそも、人前で歌を歌うこと自体が、あまり得意ではないのですが)中学の頃に親友と二人で川原の土手を歩きながら夕日に向かって歌ったような記憶があります。大人になってからも、風呂の中で「こきりこ節」と「かりぼし切り歌」と「竹田の子守唄」と「青葉の笛」と「荒城の月」をメドレーで歌った後のシメに歌ったりしてました。w
もちろん、当時から国旗、国歌についてはいろいろ議論があり、そのことは知っていましたが、それはそれとして、歌そのものは悪くないと思っていました。しかし、ここ十年余りの「君が代問題」が起きてからは、どうも歌う気がしません。
ちなみに、一昨年、劇作家の永井愛さんの「歌わせたい男たち」を観てきたのですが、あれは傑作でした。
私のつまらないコメントにレスしていただいて、ありがとうございます。
>大日本帝国が大好きな人の気持ちと同じで。
思うに・・・身分の差がはっきりしていた時代には庶民は権力者に従っていれば良く、敵国との戦争はプロの軍人階級(サムライ)がすることになっていたので、取り立てて庶民の「愛国心」を鼓舞する必要はなかったのでしょう。日本を急激に近代国家にするに当たり、「生まれながらの身分」というものを無くし、一般庶民を兵士として戦争に駆り出すことになって、初めて「愛国心」を鼓舞することが必要になり、国歌も作られるようになったのではないかという気がするのですが。
しかし、今の「君が代問題」には、個人的にはちょっと不審に思うことがあるんです。今から、40年近い昔の私の小~中学校時代は、調べてみると日教組が全盛の頃で、今よりも左翼的な考え方の先生方が多かったようです。とくに私の小学校六年の時の担任だった40代半ばの男の先生は、人一倍、人情家で教育熱心な一方で、「俺は天皇なんて大嫌いだ!」と生徒の前で公然と語るほどの「サヨクな人」で、校長もその鼻息をうかがうほどの勢いでした。中学でも熱心な日教組の先生方が何人かいたらしいということは後で知りましたが、それでも「君が代」で揉めたような話は一度も聞きませんでした。おそらく、他の学校でもそうだったと思います。(入学式や卒業式では「君が代」は普通に歌われていましたが、先生方の中の誰かがが目立つような行動をしていた記憶はありません)私の記憶では、「君が代を起立して歌う、歌わない」が大きな問題になったのは石原慎太郎氏が東京都知事になってからだったと思うのですが・・・・
>ちなみに、都道府県民歌というのは47都道府県全てに制定されています……が、全ての住民が自分の住むところのそれを歌えるとは限りません
そういえば県歌ってありましたねえ。w 私もどうしても自県の県歌が思い出せず、検索してやっと思い出しました。私の場合、中学の頃に、1、2回歌わせられたような、幽かな記憶があります。大抵の人にとって、県歌なんてそんなものでしょうけど、例外は長野県人で、昔、長野の知人に、大抵の長野県人(県外からの移住者は除く)は「信濃の国」が歌えると聞いた時には驚きました。学校で教えているようですが、無理やり強制されて覚えるというよりも、各人に、そこそこ愛されて歌い継がれているようです。そのように愛されて歌われるならば、県歌も良いものでしょう。
実は私は「君が代」は、結構、好きだったんですが、だからと言って、大勢で斉唱するのはあまり好きではありませんでした。あくまで「哀愁を帯びた古風なメロディーが好き」という、音楽上の好みの問題で、「こきりこ節」や「荒城の月」が好き、というのと同じレベルの「好き」でしかありませんでした。(そもそも、人前で歌を歌うこと自体が、あまり得意ではないのですが)中学の頃に親友と二人で川原の土手を歩きながら夕日に向かって歌ったような記憶があります。大人になってからも、風呂の中で「こきりこ節」と「かりぼし切り歌」と「竹田の子守唄」と「青葉の笛」と「荒城の月」をメドレーで歌った後のシメに歌ったりしてました。w
もちろん、当時から国旗、国歌についてはいろいろ議論があり、そのことは知っていましたが、それはそれとして、歌そのものは悪くないと思っていました。しかし、ここ十年余りの「君が代問題」が起きてからは、どうも歌う気がしません。
ちなみに、一昨年、劇作家の永井愛さんの「歌わせたい男たち」を観てきたのですが、あれは傑作でした。
>鍵コメント提供者さん
ありがとうございます。訂正しておきました
>panda009さん
ありがとうございます。
時間的にも能力的にも限界がありますので、できる範囲内でお許しください。
時間的にも能力的にも限界がありますので、できる範囲内でお許しください。
>うろこさん
強制が既成事実になればそういう人がどんどん増えていくと思います。
>風鈴草さん
>「国歌を必要とする国家」って、いつ、どんなふうに生まれたのでしょうね?
ウィキペディアによれば
「ヨーロッパでは国歌に対する関心が19世紀に高まり、ナショナリズムの台頭とともに、各国が独立国家として国歌を採用した。ヨーロッパによる植民地統治を乗り越えて成立した多くの国はヨーロッパ式の国歌を採っている。」ということのようです
ウィキペディアによれば
「ヨーロッパでは国歌に対する関心が19世紀に高まり、ナショナリズムの台頭とともに、各国が独立国家として国歌を採用した。ヨーロッパによる植民地統治を乗り越えて成立した多くの国はヨーロッパ式の国歌を採っている。」ということのようです
日経の記事より
チベット自治区の寺院に国旗や肖像掲揚 中国が義務付けか
2012/3/5 22:19
中国チベット自治区の政治協商会議幹部は5日、同自治区内の全ての寺院に対して中国の国旗や共産党指導者の肖像の掲揚を義務付ける政策を実施、掲揚を終えたと発表した。中国の通信社、中国新聞社(電子版)が伝えた。
肖像掲揚の政策について、幹部は愛国教育を実施して「党や政府に対する関心や愛情」を高めるためと説明、「僧侶から感謝された」と強調した。
また、テレビやラジオ、新聞なども寺院内で利用できるようにしたと表明。修行のため外界の情報を遮断している寺院に設置することで、党や政府の宣伝活動を浸透させる狙いがあるとみられる。(北京=共同)
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C9381959FE2E7E2E1828DE2E7E2E1E0E2E3E09494E3E2E2E2
日の丸君が代強制派と、嫌中を叫ぶ人たちは層が重なる印象があるのですが、
そうした人たちであればどのような感想を述べるのでしょうか。
>風鈴草様
私も「歌わせたい男たち」を観に行きました。傑作ですよね。
この問題を深刻な政治劇ではなく、平凡な人々の悲喜劇として描いた秀逸な作劇でした。
再演の予定はないようですが、DVDはアマゾンでは売っていないようなので、
上演した二兎社のサイトの物販のアドレスを貼ります。興味のおありの方は是非。
http://www.nitosha.net/omise/list2.php
2012/3/5 22:19
中国チベット自治区の政治協商会議幹部は5日、同自治区内の全ての寺院に対して中国の国旗や共産党指導者の肖像の掲揚を義務付ける政策を実施、掲揚を終えたと発表した。中国の通信社、中国新聞社(電子版)が伝えた。
肖像掲揚の政策について、幹部は愛国教育を実施して「党や政府に対する関心や愛情」を高めるためと説明、「僧侶から感謝された」と強調した。
また、テレビやラジオ、新聞なども寺院内で利用できるようにしたと表明。修行のため外界の情報を遮断している寺院に設置することで、党や政府の宣伝活動を浸透させる狙いがあるとみられる。(北京=共同)
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C9381959FE2E7E2E1828DE2E7E2E1E0E2E3E09494E3E2E2E2
日の丸君が代強制派と、嫌中を叫ぶ人たちは層が重なる印象があるのですが、
そうした人たちであればどのような感想を述べるのでしょうか。
>風鈴草様
私も「歌わせたい男たち」を観に行きました。傑作ですよね。
この問題を深刻な政治劇ではなく、平凡な人々の悲喜劇として描いた秀逸な作劇でした。
再演の予定はないようですが、DVDはアマゾンでは売っていないようなので、
上演した二兎社のサイトの物販のアドレスを貼ります。興味のおありの方は是非。
http://www.nitosha.net/omise/list2.php
「歌わせたい男たち」について
ドロップさんもあのお芝居をご覧になったのですね。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-861.html
たしかに永井愛さんの作品は政治的なことを前面に持ち出したりしません。というか、「政治的」という“非人間的な立場”を突き放していると思います。立場にこだわって硬直している人たちの人間性を「温かく暴き出す」といった感じでしょうか。突っ張って立っている人の膝の裏をパッと突いて、コケさせるみたいな面白さがありますね。その点でも『歌わせたい男たち』は君が代強制派の人にも反対派の人にも、是非、観せたくなるような傑作です。
(以下、観ていない方には多少、ネタバレかも?)
あのお芝居の中で、私が特に印象に残っているのは、君が代不起立を守る社会科の先生と、彼を脅したりすかしたり、泣き落とそうとしたり、あの手この手で説得しようとする校長先生との対比です。
今はただ御身大切で、文部省や教育委員会の顔色をうかがい、生徒や部下に君が代斉唱を押し付けようとする”ヒラメ”のようになってしまった校長先生ですが、かつては教育の理想に燃えて教師仲間との自主研究会に参加し、その機関誌に「教育とは自主的に考える力を持つ人間を育てること」というような論文を書いていました。「教師の考えを押し付けるのではなく、生徒たちが自身で考え、判断できるようにすることが大切」と書いていた、その若き日の論文のコピーを、退職した不起立派の教師に学校中にバラ撒かれてしまってパニックになります。
一方、現役のまま、独り不起立を守り続ける社会科の中年教師は(団塊の世代らしいのですが)学生時代はノンポリで、政治的なことにはまったく関心がなく、現在も、特定の政治グループに参加しているわけでもない。その自分が、なぜか他の「不起立の同志たち」が次々に脱落していく中で、とうとう最後に残ってしまった、その皮肉を語る場面がありました。
若き日の己を裏切って、組織の中で出世して行った人と、他の誰かに影響されたわけでもなく、ただ、己自身の「内心の声(良心の自由)」に従って、どこまでも行動しようとする人。私には、まるで「二つ巴」のようなこの二人の人物の配置図がとても面白かったです。そして、元々は好人物かと思える校長と、誠実な教師、この二人をとことん対立させ、追い詰めていく「権力」というものの恐ろしさを感じました。
それにしても、もし、国歌が「君が代」のような、太平洋戦争敗戦前の日本の体制を引きずるものでなかったなら、たとえば、民主的に公募されて新しく制定された歌であったなら、国や自治体によって、歌うことを強要されてもかまわないのでしょうか?たとえば、あのお芝居の中の先生は、そういう国歌なら、喜んで起立して歌うのでしょうか?私はふと、疑問に思いました。
以下は英語学者の寺島隆吉・美紀子ご夫妻によるノーム・チョムスキーのインタビューの英訳です。
「家畜化」教育を超えて:対談 (ちなみにこのインタビューは、寺島ご夫妻訳の『チョムスキーの「教育論」』という本にも収録されています)
http://terasima.gooside.com/dialogue1999domesticatingeducation.htm
(引用開始)
ドナルド・マセード:
私は数年前にボストン・ラテン語学校の一二歳の生徒デビッド・スプリッツラーに興味をかき立てられました。彼は忠誠の誓いを朗唱するのを拒否したことで退学に直面しました。彼は忠誠の誓いは「愛国心を偽善的に勧めるもの」であり、その中では「自由も正義もまったく」ないと考えました。私がお尋ねしたい質問は、教師や役人ができなかったのに、なぜ一二歳の少年が忠誠の誓いに存在する偽善性を容易に見通すことができたのかということです。教師は仕事の性質上、自らを知識人だと考えているものですが、その教師が、そんな少年に明確に分かっていることが分からない、あるいは故意に分かろうとしていないということは、実に驚くべきことです。
ノーム・チョムスキー:
これは理解しにくいことではありません。いまあなたが描写されたことは、学校でいつも起こっている深層レベルの教化の兆候です。それが一二歳の少年でも理解できる初歩的考えを、教育のあるひとに理解できないようにしているのです。
マセード:
高い教育のある教師と校長が、忠誠の誓いを朗唱するよう要求して、生徒に服従を強要しようとして、忠誠の誓いの中身を犠牲にしようとしたことに私は仰天しています。
チョムスキー:
その仰天が私にはまったく分かりません。実際、デビッド・スプリッツラーに起こったことは学校に要求されていることなのです。学校とは教化のための服従を強要するための機関ですから。学校は歴史を通して常に、支配と強制という体系のなかで、自力でものを考える人間を作り上げるどころか、それとは逆の制度的役割を果たしてきました。そしていったんうまく教育されれば、権力側を支援するやり方で社会化されてしまったことになり、権力側はそのお返しに莫大な報酬で報いることになります。
(引用終わり)
ちなみに、アメリカの学校における「忠誠の誓い ( The Pledge of Allegiance )」がどのようなものかにつていは、英語タウンの西森マリー先生の解説が詳しいです。
アメリカン・カルチャーを知る英語講座6 忠誠の誓い
http://www.eigotown.com/eigocollege/marie_english/backnumber/marie_english06.shtml
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-861.html
たしかに永井愛さんの作品は政治的なことを前面に持ち出したりしません。というか、「政治的」という“非人間的な立場”を突き放していると思います。立場にこだわって硬直している人たちの人間性を「温かく暴き出す」といった感じでしょうか。突っ張って立っている人の膝の裏をパッと突いて、コケさせるみたいな面白さがありますね。その点でも『歌わせたい男たち』は君が代強制派の人にも反対派の人にも、是非、観せたくなるような傑作です。
(以下、観ていない方には多少、ネタバレかも?)
あのお芝居の中で、私が特に印象に残っているのは、君が代不起立を守る社会科の先生と、彼を脅したりすかしたり、泣き落とそうとしたり、あの手この手で説得しようとする校長先生との対比です。
今はただ御身大切で、文部省や教育委員会の顔色をうかがい、生徒や部下に君が代斉唱を押し付けようとする”ヒラメ”のようになってしまった校長先生ですが、かつては教育の理想に燃えて教師仲間との自主研究会に参加し、その機関誌に「教育とは自主的に考える力を持つ人間を育てること」というような論文を書いていました。「教師の考えを押し付けるのではなく、生徒たちが自身で考え、判断できるようにすることが大切」と書いていた、その若き日の論文のコピーを、退職した不起立派の教師に学校中にバラ撒かれてしまってパニックになります。
一方、現役のまま、独り不起立を守り続ける社会科の中年教師は(団塊の世代らしいのですが)学生時代はノンポリで、政治的なことにはまったく関心がなく、現在も、特定の政治グループに参加しているわけでもない。その自分が、なぜか他の「不起立の同志たち」が次々に脱落していく中で、とうとう最後に残ってしまった、その皮肉を語る場面がありました。
若き日の己を裏切って、組織の中で出世して行った人と、他の誰かに影響されたわけでもなく、ただ、己自身の「内心の声(良心の自由)」に従って、どこまでも行動しようとする人。私には、まるで「二つ巴」のようなこの二人の人物の配置図がとても面白かったです。そして、元々は好人物かと思える校長と、誠実な教師、この二人をとことん対立させ、追い詰めていく「権力」というものの恐ろしさを感じました。
それにしても、もし、国歌が「君が代」のような、太平洋戦争敗戦前の日本の体制を引きずるものでなかったなら、たとえば、民主的に公募されて新しく制定された歌であったなら、国や自治体によって、歌うことを強要されてもかまわないのでしょうか?たとえば、あのお芝居の中の先生は、そういう国歌なら、喜んで起立して歌うのでしょうか?私はふと、疑問に思いました。
以下は英語学者の寺島隆吉・美紀子ご夫妻によるノーム・チョムスキーのインタビューの英訳です。
「家畜化」教育を超えて:対談 (ちなみにこのインタビューは、寺島ご夫妻訳の『チョムスキーの「教育論」』という本にも収録されています)
http://terasima.gooside.com/dialogue1999domesticatingeducation.htm
(引用開始)
ドナルド・マセード:
私は数年前にボストン・ラテン語学校の一二歳の生徒デビッド・スプリッツラーに興味をかき立てられました。彼は忠誠の誓いを朗唱するのを拒否したことで退学に直面しました。彼は忠誠の誓いは「愛国心を偽善的に勧めるもの」であり、その中では「自由も正義もまったく」ないと考えました。私がお尋ねしたい質問は、教師や役人ができなかったのに、なぜ一二歳の少年が忠誠の誓いに存在する偽善性を容易に見通すことができたのかということです。教師は仕事の性質上、自らを知識人だと考えているものですが、その教師が、そんな少年に明確に分かっていることが分からない、あるいは故意に分かろうとしていないということは、実に驚くべきことです。
ノーム・チョムスキー:
これは理解しにくいことではありません。いまあなたが描写されたことは、学校でいつも起こっている深層レベルの教化の兆候です。それが一二歳の少年でも理解できる初歩的考えを、教育のあるひとに理解できないようにしているのです。
マセード:
高い教育のある教師と校長が、忠誠の誓いを朗唱するよう要求して、生徒に服従を強要しようとして、忠誠の誓いの中身を犠牲にしようとしたことに私は仰天しています。
チョムスキー:
その仰天が私にはまったく分かりません。実際、デビッド・スプリッツラーに起こったことは学校に要求されていることなのです。学校とは教化のための服従を強要するための機関ですから。学校は歴史を通して常に、支配と強制という体系のなかで、自力でものを考える人間を作り上げるどころか、それとは逆の制度的役割を果たしてきました。そしていったんうまく教育されれば、権力側を支援するやり方で社会化されてしまったことになり、権力側はそのお返しに莫大な報酬で報いることになります。
(引用終わり)
ちなみに、アメリカの学校における「忠誠の誓い ( The Pledge of Allegiance )」がどのようなものかにつていは、英語タウンの西森マリー先生の解説が詳しいです。
アメリカン・カルチャーを知る英語講座6 忠誠の誓い
http://www.eigotown.com/eigocollege/marie_english/backnumber/marie_english06.shtml
>ASさん
>全ての住民が自分の住むところのそれを歌えるとは限りません(そもそも教わらない。都道府県民手帳や、学校教育研究会が編纂した歌集には収録されている)。歌詞の内容は地域の自然の素晴らしさや発展を誇るだけです。個人崇拝になるものは絶対にありません。
考えて見たら他国の国歌だって多分こんな感じかもしれませんよね、スポーツの祭典で歌うことがあるから都道府県歌よりは有名ってだけで。
そういえば子どもの頃は君が代もただ単に流れてるって感じだけだったような気がします。先生達も別に歌ったり歌わなかったり好き好きでそんなこと良いとか悪いとかそんなこと誰も意識すらしたこと無かったんじゃないでしょうか。
それから大阪府職員や大阪市職員は地方公務員なのだから、歌わすなら国歌じゃなくて県歌や市歌にすべしw
考えて見たら他国の国歌だって多分こんな感じかもしれませんよね、スポーツの祭典で歌うことがあるから都道府県歌よりは有名ってだけで。
そういえば子どもの頃は君が代もただ単に流れてるって感じだけだったような気がします。先生達も別に歌ったり歌わなかったり好き好きでそんなこと良いとか悪いとかそんなこと誰も意識すらしたこと無かったんじゃないでしょうか。
それから大阪府職員や大阪市職員は地方公務員なのだから、歌わすなら国歌じゃなくて県歌や市歌にすべしw
>風鈴草さん
> しかし、今の「君が代問題」には、個人的にはちょっと不審に思うことがあるんです。今から、40年近い昔の私の小~中学校時代は、調べてみると日教組が全盛の頃で、今よりも左翼的な考え方の先生方が多かったようです。(略)それでも「君が代」で揉めたような話は一度も聞きませんでした。おそらく、他の学校でもそうだったと思います。(入学式や卒業式では「君が代」は普通に歌われていましたが、先生方の中の誰かがが目立つような行動をしていた記憶はありません)
そうなんですよね、私も子どもの頃、歌う人がいてもいなくてもそんなこと誰も気にもとめなかった記憶があります。もしネトウヨが青の頃にタイムスリップして君が代を歌ってない先生にも事を「歌わないことで自分のイデオロギーを生徒に押しつける」だの「自分の政治主張をする」だのキイキイ言ったら、みな多分ポカンとしてしまうんじゃないでしょうか。何も問題視なんかされてませんでした。
強制しだしてからおかしくなったのです。仰るとおり、石原都政下の10/23通達以後顕著になったようです。
ちなみに私は「ダサイメロディだなあ」と思ってました(笑
)
そうなんですよね、私も子どもの頃、歌う人がいてもいなくてもそんなこと誰も気にもとめなかった記憶があります。もしネトウヨが青の頃にタイムスリップして君が代を歌ってない先生にも事を「歌わないことで自分のイデオロギーを生徒に押しつける」だの「自分の政治主張をする」だのキイキイ言ったら、みな多分ポカンとしてしまうんじゃないでしょうか。何も問題視なんかされてませんでした。
強制しだしてからおかしくなったのです。仰るとおり、石原都政下の10/23通達以後顕著になったようです。
ちなみに私は「ダサイメロディだなあ」と思ってました(笑
)
>ドロップさん
>日の丸君が代強制派と、嫌中を叫ぶ人たちは層が重なる印象があるのですが、
そうした人たちであればどのような感想を述べるのでしょうか。
大阪の橋下元知事は朝鮮高校に「君が代の強制をやめろというなら金総書記の肖像画を撤去しろ」とかいってませんでしたっけ?少なくとも、君が代の強制は金総書記の肖像画と同種だという自覚はあるようです。
そうした人たちであればどのような感想を述べるのでしょうか。
大阪の橋下元知事は朝鮮高校に「君が代の強制をやめろというなら金総書記の肖像画を撤去しろ」とかいってませんでしたっけ?少なくとも、君が代の強制は金総書記の肖像画と同種だという自覚はあるようです。
>風鈴草さん
拒壬生会コメントをありがとうございます。
「歌わせたい男達」俄然見たくなってきました。
ご紹介のインタビューも大変興味深いです。
以前ご紹介くださったサイトもこれも、エントリーでメモしておきたいです。
「歌わせたい男達」俄然見たくなってきました。
ご紹介のインタビューも大変興味深いです。
以前ご紹介くださったサイトもこれも、エントリーでメモしておきたいです。
秋原さんに同感です。
よく歌わない教員を取り上げて、子供たちが主役の大事な式典で
迷惑をかけているとか、騒いでいるとか言うテンプレコメントを見ますが、現在に至る事の経緯を知れば知るほどに、君が代を使って騒ぎ立てているのは強制する方なのであり、たかが国歌を歌わないぐらいでギャーギャー騒ぐ側にあるんです。国歌斉唱を強制するなどという、どこの民主主義国家もしていない非常識なことを押し付けて、迷惑をかけているのは、強制している方なんです。
P.S
子供の頃から、君が代が日本の国歌だという認識はありましたが、私も君が代のメロディーは重苦しく、ダサいと思ってきました。愛着を感じたことは一度もありません。
それに加えて、昨今の強制化を容認する世論の風潮を前に曲を聴いただけでその場を離れたくなるほどの、テレビであればすぐに番組を変えてしまうほどの強い嫌悪感を感じさせる曲となりました。ちなみに私は無名人でこういうことを言っていますが、この程度のことで抑圧されるような、脅迫されるような時代が訪れそうで不安ですね。
よく歌わない教員を取り上げて、子供たちが主役の大事な式典で
迷惑をかけているとか、騒いでいるとか言うテンプレコメントを見ますが、現在に至る事の経緯を知れば知るほどに、君が代を使って騒ぎ立てているのは強制する方なのであり、たかが国歌を歌わないぐらいでギャーギャー騒ぐ側にあるんです。国歌斉唱を強制するなどという、どこの民主主義国家もしていない非常識なことを押し付けて、迷惑をかけているのは、強制している方なんです。
P.S
子供の頃から、君が代が日本の国歌だという認識はありましたが、私も君が代のメロディーは重苦しく、ダサいと思ってきました。愛着を感じたことは一度もありません。
それに加えて、昨今の強制化を容認する世論の風潮を前に曲を聴いただけでその場を離れたくなるほどの、テレビであればすぐに番組を変えてしまうほどの強い嫌悪感を感じさせる曲となりました。ちなみに私は無名人でこういうことを言っていますが、この程度のことで抑圧されるような、脅迫されるような時代が訪れそうで不安ですね。
>フリスキーさん
「卒業式を教師の政治運動の場にするな!」とネトウヨはのたまいますが、措置業式を政治運動の場にしてるのはあなたたちでしょうがと小一時間問い詰めたいです
私も子どもの頃はダサイと思ってたけど歌詞の意味も知らなかったし特に反感は感じてませんでした。でも「君」は天皇で、ソレを歌えと強制されだしてから俄然反感を持つようになりましたね。
私も子どもの頃はダサイと思ってたけど歌詞の意味も知らなかったし特に反感は感じてませんでした。でも「君」は天皇で、ソレを歌えと強制されだしてから俄然反感を持つようになりましたね。
>秋原さん
拒壬生会コメント?
ああ、「きょうみぶかい」のミスタッチですね。(一瞬、そういう特殊なネット用語があるのかと思って焦りました。(^^;) )
そういえば『歌わせたい男たち』にも「ミスタッチ」という言葉が出てくるんですよ。(あんまり本筋と関係ないんですが)作者の永井さん演出による二兎社の公演は、役者さんもうまくていいお芝居でした。(最近は他の劇団による公演もあるようです)機会があればぜひご覧になってください。
拒壬生会コメント?
ああ、「きょうみぶかい」のミスタッチですね。(一瞬、そういう特殊なネット用語があるのかと思って焦りました。(^^;) )
そういえば『歌わせたい男たち』にも「ミスタッチ」という言葉が出てくるんですよ。(あんまり本筋と関係ないんですが)作者の永井さん演出による二兎社の公演は、役者さんもうまくていいお芝居でした。(最近は他の劇団による公演もあるようです)機会があればぜひご覧になってください。