コメント
http://www.nkri.or.jp/PDF/archives/sogo_53_tokushu.pdf
[引用開始]
高福祉になると労働意欲が減退して生産性が悪くなる。失業
しても生活のできる給付が保障されているので、例えば1年働いて失業して、2年間失業給付をもらって、失業給付が切れたら1年働いてまた2年給付を受ける。
あるいは仮病を使って休むとか、まじめに働く人の数がどんどん減っていってしまうのではないか。
勤労意欲の減退、いわゆるモラルハザードが起こって経済はうまくいかないのではないか、とそう考えるのです。実はこの二つの考え方は完全に間違っている、といってよいのです。
そんなことは実際には起こらないのです。
私はスウェーデンで大使を3年やりまして、その前に一等書記官と参事官をスイスで3年、合計6年以上ヨーロッパに住んでいます。私の娘はフランス人と結婚してフランス
に住んでいますので、ヨーロッパの福祉国家といわれる国がそうなっていないことだけは、自信を持って言えるわけです。スウェーデンという国に先ほどのような常識が通用するのであれば、とっくの昔に経済は弱くなって、ざまあみろスウェーデンとか、それみたことかスウェーデンとなっているに違いありません。しかし、そうはなっていません。現実にはスウェーデンという国は、成長率が高くて失業率も低く、順調な経済状況を実現しているのです。
(中略)
1960年、エランデル首相はこの年、高福祉ヴィジョンを打ち出します。それまでスウェーデンは戦後の復興需要、日本でいう朝鮮特需と同じで、このおかげでものすごい高成長を遂げていました。15年たってふっと気がつくと、スウェーデンの1人当たり国民所得はアメリカに次ぐ水準になっていた。アメリカが圧倒的な世界一であることは仕方がなかったのですが、1人当たりの国民所得でみると、計算上は豊かな国になりました。
しかし「豊かな国」とは何かと考えると、国民が豊かさを実感できなければ何の意味もありません。スウェーデン人はそれをよく知っていました。つまり企業が利益を得る、あ
るいは働く人たちの所得が上がる、それが人生の目的ですかということです。
経済全体の規模が拡大して、企業は繁栄して利益がたくさん出て配当もできる。働く人の給料も上がる。それは非常に望ましいことです。望ましいことだけど、それは何かのた
めの手段にすぎない。それ自体が目的ではない。それ自体が目的だったら守銭奴にすぎません。
そうなってくると、人間は何のために生きるかという話になってしまいますが、そんな哲学的なことをいう前に、われわれは高い所得まで来たのだから、次はこれをベースとし
て、豊かさが実感できるような社会に持っていこうじゃないですかと、エランデルは市民に訴えました。豊かさが実感できる社会とは何かというと、結局は国が弱い者の味方つまり、貧しい者の味方、失業者の味方、破産した人の味方になるということです。味方といっても、そんな事態が起こらない制度にしようという計画経済の話とはまったく違います。計画経済まで行ったら、あれはだめだということになるのは当時からわかっていました。そうではなくて、market failureを修正して再チャレンジできる経済をつくるという意味です。それで彼が考えたのは、あまりにも格差があるというのは困るだろうから所得の不公平配分を
少しでもいいから修正しようではないかということです。
これは修正であって、悪平等にしようというものではありません。何億円というお金を稼ぐ人がいてもかまわない。しかし格差がどんどん拡大するようなことは少なくともやめ
て、少しでも格差が縮小するような方向へ持っていこうすることは、豊かな社会、豊かさを実感できる社会にとって絶対必要なmarketfailureの修正であると考えるのです。
不時の出来事(病気、失業など)に対するセーフティネットをつくる。だれにだってこういうことは起こります。そのときに安心できる社会をつくっておくのです。
[引用終了]
そして、
ヨーロッパでは「福祉国家は成長を促進する」という考え方が一般的だと指摘されています。
経済成長、出生率の維持、国土の均衡ある発展という点で、福祉国家はメリットがあるということが認知されているのだと。
政府の役割を、市場原理主義に置くことは、とんでもない疲弊を国土と国民にもたらし、経済的のみならず、人心を荒廃させることになるでしょうね。
既にそうなってきているのが嘆かわしいですが。
2012年もよろしくお願いします。
村野瀬さん、秋原さんと連日取り上げ、それに向川さんやjeanvaljeanさん、観測霊さん、不肖の弟子さん…コメンター皆様のご意見を拝見しています。どうにも『なんでもびじねす』という傾向についていけないのは私も同じ。
『何でもびじねす』や『何でもぐろーばる』の話を聞いていると、本来肯定的に使われるべき『ビジネス』や『グローバル』がバカにされているような気がして…『りすとら』だって、本来は「再構築」という意味がありましたが、今では「労働者の首を切る」言葉として使われていますから。
利益第一、もうけ第一、他人けってでも競争に勝て…という道の先には『その強欲・傲慢な思想は、やがて必要なものまで食いつくし、多くの敵を作って行き詰ると思います。“金になるから”と、その海域の魚をとりつくしてしまったある地域の漁民のよう(2日の拙稿)』に無残な道にされるのでは、という危惧を持っています。
ほんだから、連帯を忘れないで、本来持つ思いを気づかせに肩をたたきに歩いて行こうと。多くの仲間のようにはできませんが、この道を外さず生きていく事にします。
いまは“猛威”ふるっているのでしょうが、真摯に歩き続けりゃ道は…で。思ったことずるずる話してすみませんが、がんばっていきましょう。
今晩はここで失礼します。
少し、感じたのですが
橋下氏が「ビジネス云々」を強調するのって、彼一流の偽装のような気がします。
市長選の時の「既得権」のように、「言葉もつセンセーショナリズム」にあやかっているだけではないでしょうか?
橋下氏は「政治はビジネス」足り得ないことをわかっていて、確信犯的に、問題を単純化、議論を二元論的進める手段として「民間では…。」とわめいているかも知れません。
「政治はビジネスか」という問題については、もちろん“否”ですけど、議論がそちらに引きずられ過ぎると、市長選の時のように、彼に術中にハマってしまうのでは?と少しばかり懸念してしまいます。
支持層にとっては「民間が…」、「ビジネスが…」というと、政治がとても“身近”で“合理的”で、“ソフィスティケート”されたように感じるんでしょうね…。
(実際、商売ってとても非合理的で泥臭いもんなんですが…。)
しかし、よく語られる、自治体を株式会社に、住民を株主に擬する議論は根本的な間違いであり、
住民自ら、自治体の公共性を壊してしまうことにつながります。
住民が株主なら、「出資金(税金)に応じた配当(公的サービス)」を求める権利が生じてきます。
しかし、住民の中には「出資」のできない人がいます。そうした人たちこそ生きるためには公的支援が必要なのですが、
それらの人々への税やサービスの分配を否定することになります。出資していないくせに、何の権利があるのかと。
さらに言えば、高額納税者を役所窓口や公立病院などで優遇すべきという考え方にもなります。
(今でも本気でそう考えている人はいますね。某掲示板で「高額納税者でも、公立病院では生活保護の患者と同じように待たされるんだから、税金払い損じゃないか」というあきれた意見をみました)
税金の使い方に関心を持ち、厳しくチェックすることは必要ですが、そこに「配当」や「持分」の考え方を持ち込むべきではありません。住民全体の生活の向上、地域の安全など、公共の目的に正しく効率的に使われているか、無駄遣いや不公平がないかという公共性の視点で考えるべきものです。
同じ「権利」という言葉でも、株主が配当を受け取る権利は、金銭など対価支払いによって発生する「私権」ですが、
公的サービスのよりどころは、各種の人権、すなわち「公権」です。
「公権」であっても権利には義務が伴いますが、「私権」と違い、権利と義務は交換関係ではありません。〇〇の義務を果たさなければ、人権のうちの××権がはく奪される、というものではないのです。
社会保障をめぐる議論(「保険原理で応益負担のほうが『権利性』が強まる」など)でもそうですが
日本ではこの2つの「権利」がごちゃまぜにされています。
>フリスキーさん
「福祉国家は成長を促進する」
これはお花畑の妄想なんかではなく、既に実証された事実ですね。とっくに沈没したネオリベという船にいつまでしがみついているのでしょうか、不幸が量産されるだけです。
エランデル首相のヴィジョンはすばらしいものですね。しかもこれはもう50年も前の話なのですね。
スウェーデンには日本からも議員が視察にいってるはずなのですが、理念なりシステムなり日本に持ち帰って生かされたという話は一切聞きません。
「経済全体の規模が拡大して、企業は繁栄して利益がたくさん出て配当もできる。働く人の給料も上がる。それは非常に望ましいことです。望ましいことだけど、それは何かのた めの手段にすぎない。それ自体が目的ではない。それ自体が目的だったら守銭奴にすぎません。
次はこれをベースとして、豊かさが実感できるような社会(国が弱い者の味方つまり、貧しい者の味方、失業者の味方、破産した人の味方)に持っていこうじゃないですか」
全ての面においてmarketfailureを拡大しようとしている某市長の市長室の壁に貼っておけと言いたいです。
>伊東勉さん
いえいえ、私の方こそいつも返事サボり気味&超亀レスで申し訳ありません。
「なんでもびじねす」の新自由主義では立ちゆかないという結論はとうに出ているのですけどねぇ。
未だに破綻した市場原理主義にしがみついているのを見ると、この国は情報がまだ鎖国時代何じゃないかと思ってしまいます。
Re: 少し、感じたのですが
> 市長選の時の「既得権」のように、「言葉もつセンセーショナリズム」にあやかっているだけではないでしょうか?
彼自身ビジネスにはとんと疎いようなので、多分そうだと思います。村野瀬玲奈さんのところで小野哲さんが指摘されています^^
今彼はのりにのってるので、みな?と感じてもなるほど、とわかったふりをする「裸の王様効果」も絶大でしょう。
彼の極論やすり替えに対しては、いろんな切り方のパターンがあると思います。その場面ごとに一番効果的と思われる方法を選択しないといけませんね。
>向川まさひでさん
一つ言い訳。
ひとつまえのエントリーで、私は地方自治体を株式会社になぞらえていますが、その比喩には向川さんの仰る難点があることを承知した上で、本文中にもあるように「無理矢理」例えています。
これは、バカ殿があまりに「民間なら」を連発するので、「でもあなたのやってることは民間で例えるなら取締役の背任行為に当たるんだよ」ということを指摘したかったので、無理矢理株式会社に例えました。
コメント引用いただきありがとうございます
おかげで励みになります。
それにしても、ハシゲ(井上静さんいわく恥下)の自信のなさは高校生に逆切れした「大阪府知事」時代から相変わらずなのですね。
佐高信さんに「橋下ツィッター徹」と皮肉られ、その引きこもりぶりをコテンパンに論破されて反論できないものだから、テレビでその八つ当たりをしているに過ぎないのですね(労働組合からも突っ込まれて反論できないからぎゃあぎゃあわめいているだけでしょう)。
それなら弁護士として失格としかいえない行動ばかり繰り返していることを証明できるのでしょう。いずれにせよ、ハシゲには出て行け、お前は裸の王様だと怒鳴り続ける必要があるのです。それも、最初は小声から始めて、最後には抑えきれない大声に持っていくのが効果的でしょう。