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連帯の精神が社会保障を実現した
フランス共和国のスローガンの友愛は、法的に実現しにくい理念でした。たとえば資本家は友愛の理念を労働者との協調に利用しようとしました。
しかし19世紀末に、連帯という理念を現実化する運動が生まれました。これによって、国民の権利が、法律において具体的に実現したと思います。
*訂正があります。社会保養制度は社会保障制度、フランスの象徴は省庁とご理解ください。すみません。
“連帯”・“共生”
わたしは、いつも思うのですが、日本でも1970年代から1980年代にかけては、社会が安定してました。 東京・美濃部知事、大阪・黒田知事、京都・蜷川知事、名古屋市・本山市長… 「太平洋革新ベルト地帯」と呼ばれ、どの首長さんも“日本国憲法を暮らしに活かす地方自治”をスローガンに掲げ、住民福祉の向上に、ご尽力されました。皆さん人格・品格ともに優れてみえ住民の皆さんから慕われてみえましたよ…。わたしの印象に残っていますのは、職業柄、蜷川虎三元京都府知事(元中小企業庁長官)が考案・立案された「中小零細企業向け無担保保証付融資制度」です。これは、瞬く間に全国に広がり、中小零細企業を助けました。現在でもその重要性はいささかも変わらず、全国の銀行はじめ金融機関の主力金融商品として位置づけられており、中小零細企業を支えている大きな柱になっています…。これは、jeanvaljeanさんが言われるところの“連帯”が金融経済界で具現化された最たるものですね…。
>民主主義を維持し発展させるに足る次世代の公民の育成をするために、民主主義教育、法教育、人権教育を施していく努力を惜しんではなりません。
やはり、この視点が重要であると思います。石原さんや橋下さんの様な政治家が喝采を浴び、跋扈している現在の日本をみますといつのことになるのかと、ため息がでるばかりです…。
>税は、基本的に再分配に使われるものであるし、応能負担が公平性にかなった原則だし、個々のサービスと自分の納税は等価交換の関係にないものです。社会保障だって「お恵み」ではなく「権利」です。
“共生社会”実現のためには、この考え、思想が根底に根付いてないと、とても覚束ないですね…。民主党の岡田克也氏などは、「消費税10%では足りない、17~20%はないと…。」とホザかれてみえた様ですが…流石に“イオンの御曹子様”、大企業に応分負担を強く求めるべきなのに、大企業優遇には一切きり込まず、疲弊しきっている庶民の財布に手を入れなけなしの金を抜き取ろうと企む始末…、呆れ返り涙も出ません。政権の中枢に鎮座する人物が、“これ”ですから、日本の庶民はいつまで経っても浮かばれません…。(。^p〇q^。)プッ
…なんと言いましょうか、会議のメンバーは明らかに生活保護受給者を対等の人間として見ていませんよね(=_=;)
> 人権感覚の欠如は政治家としての資格、能力の欠如
という秋原さんのお言葉は至言だと思います。国会と全国の地方議会の議場に大書して掲げておいてほしいです。
日本とフランスの「連帯」の違い
しかし、私たち社会保障運動の側では、この「連帯」という言葉には少なからず警戒感を持っています。
というのは、社会保障制度審議会の「95年勧告」を始めとして、日本の社会保障政策では公的扶助や垂直的再分配を否定する文脈でこの言葉が使われてきているためです。
公的サービス、公的施策に頼るのではなく「連帯」して助け合うのが21世紀の社会保障である、
国民相互の社会的連帯が社会保障の基本であり、企業が社会保障の財源を負担する根拠はない、
所得税など累進課税の財源に社会保障財源を担わせるのは「連帯」ではない、
個人が社会保障のための税金や保険料を「公平に」負担することによって、「社会的連帯」の意識が強くなり、社会保障の「権利性」も高まる
というふうに。
つまり、「相互扶助」と同じようなニュアンスで「(社会的)連帯」が使われているのです。
しかし、水平的な相互扶助の原理のみでは困っている人を救うことができず、社会の統合も崩れてしまうからこそ、
公的責任と垂直的所得再分配を含んだ社会保障制度が生まれてきたのが歴史の流れです。
相互扶助原理は、何がしかの条件を同じくする人たち同士の間でしか機能しませんし、負担能力が低く給付の必要やリスクが強い人を排除しなければパンクしてしまいます。
いかに国が締め付けようとも、国民健康保険が「相互扶助」原理では運営できないのと同じです。
本当に(社会的)連帯を言うのならば、それは社会全体の連帯、すなわち富める人貧しい人も、また社会的存在としての資本や法人も、
負担能力に応じて財源を拠出し、各自の「持分」や「取り分」にはこだわらないで社会全体で必要に応じて使う、
こうした連帯の在り方こそ必要であり、日本の政策における「連帯」には、この「社会全体での連帯」の視点が
欠落していると思います。
>「(社会的)連帯」が使われているのです。
>しかし、水平的な相互扶助の原理のみでは困っている人を
>救うことができず、社会の統合も崩れてしまうからこそ、
>公的責任と垂直的所得再分配を含んだ社会保障制度が
>生まれてきたのが歴史の流れです。
日本における右翼の人たちからの所得の再分配批判の言論を見ていてわかるのは、その水平的な相互扶助に対してさえ否定的なニュアンスを感じます。
生活困窮者、生活保護受給者に対するあからさまな蔑視、侮蔑がありますからね。
要するに家族か友達にでもなんとかしてもらえ。
いないなら自己責任なんだから、野垂れ死のうがなんだろうが知ったこっちゃねえ。
税金使うな。
こういうニュアンスですね。
新自由主義の本家アメリカには、まだキリスト教の隣人愛の文化がありまして、
慈善活動をはじめとして社会的活動に対する寄付の習慣がありますよね。
要するに親兄弟、恋人、友人以外の他人のために私財を差し出す文化があるわけです。
いっぽう日本の右翼のような寒々とした非情な自己責任論にかかってしまうとこの国は恐ろしいことになりますよ。
>フリスキー 様…
>いっぽう日本の右翼のような寒々とした非情な自己責任論にかかってしまうとこの国は恐ろしいことになりますよ。
本当に、わたしも同じ思いです。 ある“ネトウヨ”のblogに信じ難い内容のエントリーがあり、唖然としました…『生活保護で喰っている奴らは、働こうとしない“〇ジキ”だ。あんな奴らは、強制収容所へ入れて隔離しろ!自由を奪ってしまえ!。』というものでした…。余りに酷いので、抗議のコメントを投稿したら…、『あっ、反日左翼の馬鹿が現れた。w…反日左翼の朝鮮人どもは、早く半島へ帰りやがれ!!!お前の様な虫ケラに恵んでやる金など日本にはない!!!。』などの罵詈雑言の雨アラレ…。あぁ、日本人の心は、こんなにも荒廃してしまったのかぁ…、と、怖くなるとともに、情けない想い、やるせない想いをしました…。あの連中は、極少数のパラノイアだと思いたいのですが、公務員叩きをやる橋下に喝采を送る日本社会をみていると、危険水域を遥かに超えてしまっている様に思えてなりません。未来ある子供たちの教育も、橋下や石原の様なパラノイアたちのトンデモナイ思想に染められ、“共生社会”と真逆の方向へ日本社会全体が引きずられてゆく恐怖を感じます。なんとかせねばです…。
>向川まさひでさん
> 国民相互の社会的連帯が社会保障の基本であり、企業が社会保障の財源を負担する根拠はない、
> 所得税など累進課税の財源に社会保障財源を担わせるのは「連帯」ではない、
> 個人が社会保障のための税金や保険料を「公平に」負担することによって、「社会的連帯」の意識が強くなり、社会保障の「権利性」も高まる
> というふうに。
なるほど、ここで使われる「連帯」って、以前私が批判した「絆」の強調みたいなものですね。
フランスで使われているような本来の「連帯」は向川さんが仰る「社会全体の連帯、すなわち富める人貧しい人も、また社会的存在としての資本や法人も、負担能力に応じて財源を拠出し、各自の「持分」や「取り分」にはこだわらないで社会全体で必要に応じて使う」ものだとおもいます。
しかし「絆」はあってもこういう連帯を日本人はいまだかつて経験したことがないんじゃないかと思えます。
自裁の勧めなのかなぁ
ただ、こういう発言をされている方は、みな「勝者」であり、これからも常に勝ち続けると根拠無く考えているように見えます。こういう人たちにしてみれば、敗者の「連帯」というのは悪夢に等しいと思いますし、敗者と「連帯」するというのは思考の外で、それを阻止するためには、手段は選ばないような気がします。
PS:後、おそらくですけど、フランスの右翼:中道:左翼は、日本の左翼:極左:丸共(ちっと待て)と考えたほうがいいと思いますし、日本の中道は、フランス基準だと極右、右翼はネオ○チ(さらに待て)に分類されるような気がします…
(ただし当方フランスの事情は一切わからない田舎こっぱ公務員ですので、違っていたらお許しを)
向川まさひで様
国民相互の社会的連帯が社会保障の基本であり、企業が社会保障の財源を負担する根拠はない、
所得税など累進課税の財源に社会保障財源を担わせるのは「連帯」ではない、
個人が社会保障のための税金や保険料を「公平に」負担することによって、「社会的連帯」の意識が強くなり、社会保障の「権利性」も高まる.
この社会保障制度審議会の勧告は、社会的連帯の精神を著しく歪めたものです。また社会的連帯の意識を育てるために社会保障制度を後退させるという、転倒した論理です。フランスの社会的連帯は、100年を超える歴史があるのです。長い間公民教育の中で社会的連帯の意義をおしえ、社会の中に根づいたものです。
社会的連帯を概念化したのはデュルケムだと思うのですが、それを理論的武器にして社会保障制度の設立運動を始めたのが、共和主義左派のレオン・ブルジョアでした。19世紀末です。彼は連帯について次のように述べています。
「個人が予想しなかった病気、労働災害、強いられた失業などの不幸に襲われた時、その原因は個人の外にあり(自己責任ではなく)、他の個人にとっても起こりうる社会的なリスクであるから、社会は個人ひとりひとりに、生存、生命そのものに対する最低限の保障をすべきである。無駄遣いをしている人の脇で、人が餓死するのは許容できないというのは自然ではあるまいか。最も公正な経済は、人間的資本の保護にある。救われた人は『救われた労働』であり、それゆえ資本そのものにとっては『救われた資本』である」。
フランスは、福祉国家ではなく、連帯を基礎とした相互扶助を国が支えるという社会保障制度をとりました。そして低所得層のための全医療保障制度CMUによって、国民皆保険制度を実現しました。また就業連帯所得保障RSAなどによって、所得の垂直的再配分を行っています。
連帯はSolidalitéの和訳です。日本にはなかった概念です。連帯を端的に言えば、他人に関心を持つ→困った人を助ける努力をするということでしょうか(小学5年の教科書より)。この連帯の精神を社会保障改悪のために利用するという、無知にして姑息な審議会メンバーにあきれ果てました。
長文、おゆるしください。
フリスキー様、秋原様、jeanvaljean様
日本にまだまだ根付いていないと言えるでしょうね。
非常にあいまいな使い方で多用されているように思います。
「日本にはもともと『社会』はなく、『世間』がある」と社会学の基礎学習で学びましたが
近年は『世間』もまた失われているのかもしれません。
『世間』には個人の自由を内面的に抑圧する負の側面がありますが、
他方で強欲、過度の自己利益追求に歯止めをかける役目も
持っていたと思うのです。
有名なのは商人倫理の「三方よし」ですね。
(商売を行うには、その商売が売り手・買い手・そして世間の
三方すべてに良いものであることを心掛けなければ
ならないという意味)
福祉事務所に警察
※※拡散希望※※
【集会案内】それってあり?生活保護に警察官OB配置!~保護行政から住民を遠ざけ「餓死・孤立死」を増やすことに!~
日時:2012年5月27日(日)、12時30分会場、13時開会
場所:かながわ労働プラザ(横浜市、根岸線石川町駅徒歩3分)
参加費:500円(資料代)
事前申込みは不要です。
詳しくは下記URL(反貧困ネットワークのブログ)から
http://antipoverty-network.org/2012/05/02/527-%E7%AC%AC%EF%BC%92%E5%9B%9E%E3%80%80%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%80%80%E3%81%82%E3%82%8A%EF%BC%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E3%81%AB%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E5%AE%98%EF%BD%8F/