【問】式典で国旗、国歌に敬意を示すことは「世界の常識」でしょう?国旗、国歌の強制を是とする人々によると、
『式典で国旗、国歌に敬意を示すことは「世界の常識」、だから公務員が国歌斉唱を強制されるのは当たり前』なんだそうです。
他国の国旗国歌に敬意を示すのは礼儀ではあります。
しかし自国の国旗国歌を表敬を法や強制されるのは「日本の常識」であるかもしれませんが、決して「世界の常識」ではありません。
久しぶりの「中高生にもわかる日の丸君が代プチ問答集」シリーズは、まるっとお持ち帰りで楽をさせていただきましょう。
いつも本質を簡潔に鋭く突くコメントをくださるフリスキーさんが、ブログ
「フリスキーの日記」にて、コメンターさんとのやりとりを通じて実に明快に論証してくださっています。
これ、必読ですよ(^^)
なお、見やすくするため、コメンターさんの部分は緑色にさせていただきました。
◆フリスキーの日記
ふたたび君が代斉唱強制に関する議論から
http://d.hatena.ne.jp/furisky/20120206/p1
拙ブログの1月26日のエントリー『君が代日の丸強制は、世界の非常識です!(キッパリ)』
のコメント欄における議論から
http://d.hatena.ne.jp/furisky/20120126
以前の議論の蒸し返しのような内容なんで重複しますが、非常に大事な点なのでここに貼り付けておきます。
追記を加え、憲法学者の土屋英雄筑波大学教授の論考も引用しておきました。
(引用開始)
えまのん 2012/01/27 10:27
>こんなことをしているのは先進諸国の中で日本だけ。
韓国や、東南アジアにはありますね。あぁ、先進国ではありませんか。
欧米諸国のいわゆる先進国は、公の場で国際的な儀礼慣習に従わないような下品な人たちが教師にならないだけだと思いますよ。
furisky 2012/01/27 12:12
えまのんさん
あのね、私は式典で国歌を歌うこと自体ではなく、どうしても歌いたくない
思想信条を持つ個人への強制と処罰を問題にしているのです。
韓国も、個人への強制と処罰はしていませんよ。そんな法令も処分も存在していません。
先進諸国に中国や韓国を加えても、それらの国々の中で、強制と処罰をしているのは、中国と日本だけです。
また、アメリカにおける忠誠の誓いの儀式も、生徒および教師共に、個人としては、宣誓をしない自由を
認められています。そもそも式典で国歌斉唱は、しない国が多いんです。
あなたは事実に反することをおっしゃったのですから、今後、投稿するときは、まずこの点を認めて
下さい。
世界の常識は、国歌を歌いたくない個人にまで強制して処罰するような“下品”なことをしません。
国歌を歌わない教師が下品だと言う前に、彼らの主張をまず知ってください。
以下のURLをお読みください。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-date-20120118.html
あと、以前のコメント欄から私の投稿を転載します。
ギイ・モケの手紙というのは御存知でしょうか。
これはフランスのレジスタンスの闘士で17歳にしてナチスによって処刑された少年なのですが、
彼が死を前にして綴った名文があるのですね。
この内容は大変感動的なものなのですが、サルコジ大統領は就任早々に、ギイ・モケの命日の日に全国の高校で、
この手紙を朗読させることを義務化することを決めたのです。
しかしこの手紙を利用しての政治的儀式化、つまり、これを政治利用、ナショナリズムを喚起するための利用であるとして、
全国の学校現場で反発が起こりました。そして、サルコジはギイ・モケの母校である高校に訪問予定であったにも関わらず、
同校から抗議文を突きつけられキャンセルを余儀なくされました。
結局、ギイ・モケの手紙を強制することに対して、職務命令とはいえ、
現場から批判と反発の声が上がり、強制化ましてや処罰化などあちらでは許さない状況があるのです。
民主主義と自由主義とはそういうものです。
公務員なんだから上司の命令に従うのは当たり前とかそういうテンプレートコメントを目にしますが、命令の内容も問わず、
命令だから黙って従えというのでは、まさに全体主義的発想でしょうに。(苦笑)
そういう思考停止がまだまだ日本においては多々見受けられるのは、
この国の民主主義の後進性に他ならないと思います。
furisky 2012/01/27 17:37
去年、日本代表のサッカーの試合を見たとき、君が代斉唱の場面で、歌っている選手もいれば、けっこう歌っていない選手もいました。それでいいじゃないですか。フランスサッカーの英雄ジダンも、ラ・マルセイエーズを決して歌いませんでした。ノープロブレムです。それとも、歌わない選手は下品だとでもいうのか(笑)
えまのんさんは、今後、強制化と処罰を肯定したいのならば、ご自由ですが、
それは、世界では非常識で、後ろ向きで、前時代的発想であることを踏まえて主張してくださいね。
furisky 2012/01/28 04:29
そもそも、歌わない教師たちは、己の歴史観 世界観、そして教育観に基づく信念によって、
歌わないのです。盗みやセクハラやいじめの類とは根本的に異なります。
歌わない行為をさして、“下品”という形容は、日本語の使い方を間違えています。
あなたのそのセンスこそが下品です。まずは人を批判する前に、そのゆがんだ根性と言葉の使い方を
勉強して出直してきなさい。
えまのん 2012/01/30 13:36
それでは「己の歴史観 世界観、そして教育観に基づく信念によって」、「先の大戦は聖戦であった」などと
教えるのも問題ないわけですな。
韓国には、「大韓民国国旗法」が制定されており、「行政安全部長官は、国旗の尊厳を維持するのに必要な教育、義務を負う」
って明言されてますな。
furisky 2012/01/30 16:10
えまのんさん
そもそも、私のエントリーとコメントをちゃんと読んでご覧なさい。
私が問題としているのは、式典における斉唱についての“個人への強制と処罰”
なのです。
>韓国には、「大韓民国国旗法」が制定されており、
>「行政安全部長官は、国旗の尊厳を維持するのに必要な教育、義務を負う」って
>明言されてますな。
文章読解の問題です。主語は誰になってるか見てごらんなさい。
式典において歌わない個人への処罰を規定する内容はどこにもありません。
個人として斉唱しないという“不作為”を指して、処罰している国は先進国に
中国や韓国を加えても、中国と日本だけだと言っているのです。
それと、聖戦論に基づいて君が代斉唱をするのは、それだけだったら、
内心の自由であって、私は問題にしませんよ。
問題にしているのは、国歌を歌わないという不作為に対する公権力による強制と処罰です。
こんなことは先進国はどこもしていません。
いい加減、客観的な事実は事実として受け止めましょう。
事実を捻じ曲げるのは誠に不誠実です。
私のブログにいつまでも見当違いで事実誤認に基づくコメントをよこされるのは
迷惑です。
えまのん 2012/02/02 16:10
>こんなことは先進国はどこもしていません。
>いい加減、客観的な事実は事実として受け止めましょう。
>事実を捻じ曲げるのは誠に不誠実です。
そっくりそのままお返ししますよ。
諸外国のどこに、公務員がその公の式典の場において(職務中において)、
国歌斉唱、国旗掲揚がなされる場合に不起立を慣行する事例がありますか?
furisky 2012/02/02 19:11
>諸外国のどこに、公務員がその公の式典の場において(職務中において)、
>国歌斉唱、国旗掲揚がなされる場合に不起立を慣行する事例がありますか?
慣行??
以下、詳述しましょう。
アメリカにおいては、
1943年のバーネット裁判において、生徒の着席している自由というものが
認められて以来、学校現場において、教師、生徒共に、忠誠の誓いの時に、
着席していることは人権として認められるよう判例が確立しているのです。
教師に関しては、例えば
1977年 マサチューセッツ州最高裁
「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、
教師が子どもを指導するよう義務づけられた州
法は、合衆国憲法にもとづく教師の権利を侵す。
バーネット事件で認められた子どもの権利は、
教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、
宣誓に対して沈黙する権利を有する。」
いいですか? 実際に立たない教師がいるから裁判になったのであり、
沈黙して宣誓を拒否することが個人に認められているのです。
そもそも、学校における行事では国歌を歌わないところが多いんです。
公権力によって強制されない、処罰されない。これが、世界の慣行であり、
“グローバルスタンダード”です。参考までに以下のURLなど見てみてください。
http://kokoro-no-jiyuu.blog.so-net.ne.jp/2008-04-08
また、世界の国民レベルでも国歌が強制されることはないし、
歌わない人、ブーイングする国民もいる(イギリスやフランスの事例)ことは、
神保信長著『国歌斉唱』(河出書房新社)を読んでも分かることです。
ベルギーの首相が国歌を歌おうとして、間違えてラ・マルセイエーズを歌ってしまった
ことは有名な笑い話です。
次に、あなたは我が国における“慣行”を言うのであれば、
1999年に国歌国旗法が制定されたわけですが、
それ以前の入学式・卒業式の 国歌斉唱率は、大阪では0%、
東京でも5.9%に過ぎません。ところが2000年に
なっていきなり大阪で100%、東京で99%に跳ね上がりました。
ということは、戦後、世界の多くの国々と同じく、
1999年まで学校の入学式卒業式において君が代を斉唱しないことが
慣行だったのです。
さらに、
6月6日の最高裁判決で反対意見を書いた宮川判事によれば、
2003年の10.23通達によって 国旗掲揚国歌斉唱の強制化が出されるまでは、
『東京都立高等学校において,少なからぬ学校の校長は内心の自由告知
(内心の自由を保障し,起立斉唱するかしないかは各教職
員の判断に委ねられる旨の告知)を行い,式典は一部の教職員に
不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた。』
とあります。立つ立たない、斉唱する斉唱しないについて各教職員の
判断に任せる告知が少なからぬ学校の校長によって出されていたわけです。
ということで、明確に2003年10・23通達によって、
強制化の徹底がなされたことは明々白々です。
つまり、公権力によって急に持ち出されたのが、
国歌斉唱、国旗掲揚の強制化と処罰化であり、これは慣行でもなんでもありません。
そんな慣行があるというのなら、先進諸国の中でその国名を上げてご覧なさい。
国歌斉唱が式典における慣行によって根付いているとは言えない状況があり、
その状況は世界では普通のことなのであり、昨今の日本においては、いきなり公権力の
通達や条例により強制化され、歌いたくないものは処罰する。
それは慣行とは言いません。
あなたは日本語の使い方を間違えていると何度言えばわかるんですか。
サッカーの国際試合において、国歌斉唱は慣行でしょう。
しかし、ジダンの例を挙げるまでもなく
現に歌わない選手はごまんといます。去年見た日本代表チームの試合前の君が代演奏時も
歌う選手、歌わない選手が混在していました。
慣行においては演奏する。そして、歌わない、歌いたくない選手に強制はしない。
これがサッカーの国際試合における慣行です。
あなたはいつまで事実を拒み続けるのですか。
あなたの思い込みに基づく、
事実に反する書き込みを私のブログにされるのは迷惑だと言っているでしょう。
いい加減にしてください。
furisky 2012/02/02 19:16
追伸
歌わない人を指して、あなたが批判するのは自由なのです。
しかし、
私が問題にしているのは、あくまでも、私人による批判ではなく、
公権力の強制と処罰を指しているのです。
Ping 2012/02/05 15:01
常識とか当たり前という言葉を論議の場で持ち出してくる時点で議論の目的が解らなくなる。
貴方にとっての当たり前が他の誰かの当たり前と相違するから話をしているというのに・・・。
他国の常識も歴史もどうでもよい。それが先進腐敗国の例であれば反面教師になりこそすれ見習うものではない。
お互いの理想の形を提示してみれば共通点は少なくないはずだと思うのだが、
理想など持ち合わせて居ないという事かしら。
furisky 2012/02/05 21:31
Pingさん
>常識とか当たり前という言葉を論議の場で持ち出してくる時点で議論の目的が解らなくなる。
ですから、世界の常識とか当たり前ということを、強制化を肯定する人たちが
持ち出してきたので、それは嘘だと指摘したのが今回のエントリーの趣旨です。
強制化を肯定するために世界の常識という論拠を持ち出してきている人に対して、
その論拠の間違いを指摘したわけです。
さらに、
理想系を言うのならば、国歌を歌いたくない人に強制して、どうしても嫌な人は処罰するなんてことを
している中国や北朝鮮(残念ながら、先進国の中で唯一日本もそれをしちゃってる。)みたいなやり方のどこが理想系なんだか。
furisky 2012/02/05 21:40
面白いですね。
強制化を肯定している人たちと議論していると、論拠に世界の常識をあげ、
その間違いを指摘されると、
今度は、世界の常識など関係無いと言い出し、
しまいには、理想系などと言い出す。
お話になりませんわ。
(引用終了)
付け加えますと、
強制化肯定論者は、国歌を会社における社歌に喩えているのを見たことがありますし、
君が代を歌わない教師を、会社では考えられないとか言っていますが、
例えば、A社の商品開発担当のB社員が、設立記念日の社歌斉唱の際に、宗教的な理由により、
どうしても歌えない箇所があるとして、斉唱を拒んだとします。
これで、一体会社にとってどんな不利益を被らせることになるのかさっぱりわからない。
そもそも、B社員の職務の本分は、付加価値の高い、売れる商品を開発することであって、
社歌を歌う、歌わないは枝葉末節のことに過ぎない。
そんなことで処罰したり、ましてや社員失格の烙印を押したり、クビにしたりしたら
そんなのはトンデモ企業のすることで、ろくな会社じゃないでしょう。
スポーツでいえば、男子バレーの植田辰哉監督は、君が代を歌わないような選手は日本代表にいらないと
言ったそうですが、国歌斉唱を強制し、代表選手の条件にするようなことが、一体、競技の強化に
とってどんなメリットがあるんでしょうか。女子バレー代表のほうは、そんな強制化はされていないようで、
歌わない選手もけっこういますが、女子バレーの方が成果を上げていますよね。
1998年、サッカーワールドカップでジダンをはじめラ・マルセイエーズを歌わない選手がいるフランス代表について、
極右政治家ルペンは、「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と批判したようですが、
あっさりそのチームが優勝を遂げて、国民から大喝采を浴びての凱旋を遂げ国の英雄となってしまいました。
ルペンがいらないと言っていた選手の大活躍によってフランスサッカーは最高の実績を上げることになるのです。
教師について言えば、以前のエントリーで書いたように、
教員の本来的な職務は、 担当する各教科の知識をきちんと伝授し、 生活指導や部活動における指導などと
合わせて生徒の資質を伸ばし、 進路指導にあたっては生徒の将来を きちんと考え、また 壁にぶつかったり、
悩める個々の生徒の声を聞いて、ともに 考え、よりよい方向に導いていくことにあると考えています。
つまり、教師と生徒との関係性においてなされるところに
教師の任務の本分があるのであって、 言い換えれば、生徒との関係で、
生徒の教育を受ける権利を満たすところに本分があるのであって、
卒業式などの儀式の場において、 すべての参列者が立場の違いに関係なく
個々人として国旗国歌と向かい合うと言う儀礼的行為は、 教師の本来の任務とは異なる性質のものではないかと考えるのです。
学力という点に限った話でも、いわゆる有名進学校では、ナショナリズムを強調するような教育はしていないと思いますし、
右翼系の学校は総じて学力レベルが高いとは言えない学校ばかりです。
日の丸、君が代を強制化することと生徒の教育レベルの向上との相関関係はまったくないどころか、
逆行すると思いますよ。
商品開発担当社員Bさんにせよ、ナショナルチームのスポーツ選手にせよ、教師にせよ、
国歌や社歌を歌うことを強制され、歌わないと処罰されることと、職務の本分との相関関係が全く理解できないです。
やっぱり、あれでしょ。国歌斉唱強制&処罰ということを当たり前の事として、
受け入れちゃうということは、エントリーに書いたように、
『国歌斉唱強制化と従わないものへの処罰は、世界の非常識ではあれど、
日本は民主主義と自由主義を捻じ曲げても構わないので、
国民をお上に従順な羊の群れとするべきだ。
君が代日の丸は、そのための有効なツールとして最大限に利用するべきだ。
断固、強制化して、非国民を作り出し、彼らをみせしめとして弾圧し、排除することで、
国民を飼い慣らし、支配層に異議を唱えない従順な国民の群れをつくるべし。』
こういう効果しかもたらさないと思いますよ。
君が代強制を当たり前とか言って思考停止しちゃってる人は、
自身が政財官界の支配層やそれに近い立場にいるエリート層、富裕層など社会の上層にいる人なら
まだそのことでもたらされるメリットを享受しうるのかもしれないけど、
そんな階層はほんのひと握りであって、大部分の国民にとって、
そんな強制化されたナショナリズムを肯定しちゃうってことは
結局は自分で自分の首を締めることになっていきますよ。肉屋を賞賛する豚みたいなものです。
村野瀬玲奈さんの表現を拝借すると、“ロボット製造工場”へと教育現場を変容させていく
プロセスを容認しているだけに過ぎ無いと思います。
次に、憲法学者、土屋英雄筑波大学教授の法律時報2011年83巻(日本評論社)に掲載された論考
『「国旗・国歌」は「強制可能な公的利益」か』から引用させて頂きます。
(引用開始)
アメリカを例にとると、納税の義務、兵役の義務及び義務教育は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠があるが、
「国旗・国歌」関係の行為は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠はないので、「強制」がある限り、違憲とされる。
これは、1943年のアメリカ連邦最高裁判決以来、今日までの確立された判例法理であり、アメリカでの「国旗・国歌」関係の事件類型において、比較考量の基準が適用されたことはない。
また、「強制禁止」テストの趣旨は、1993年の自由権規約委員会の思想・良心の自由についての「一般的意見」及び1996年の
ザンビア政府報告書に対する当該委員会の「最終見解」においても示されている。
日本でも、「国旗・国歌」関係の行為を強制可能とする憲法上の根拠がなく、かつ、国旗・国歌関係の行為が、
強制可能な政府の利益(権限)であることが憲法法理上で論証されたこともない。
「国旗・国歌」だから強制できるとするのは錯覚に基づく。
〈中略〉
また、ほとんどの先進国が加入している個人通報の自由権規約選択議定書(2011年3月現在、加入国数は113か国)に
日本はいまだ加入していないが、いつまでも加入拒否し続けることは困難である。
最高裁が、仮に都教委「10・23通達」関係の全ての事件において、
原告らの主張を否定することで終結した場合、将来的には次の舞台は自由権規約委員会になると思われる。
その場合、当該委員会が「国旗・国家」関係の強制事件を審査するとすれば、普遍性を有する国際基準として、
「強制禁止」テストを適用する(フリスキー注、つまり違憲と判断される)可能性が高い。
某新聞は、5月の最高裁判決によって、「憲法論争は決着した」と断じたが、マスコミらしい浅薄な論である。
最高裁判決は、起立・斉唱は儀礼的所作であるという。しかし、儀礼的所作と強制可能な行為とは法的には次元が異なる。
両者を区分するのが国際常識である。儀礼的所作だから強制できるとするのは法理的にありえない。
欧州では、強制している国は一つもなく、そもそも卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない国が多い。
都教委は、裁判で、国際常識の例として起立・斉唱を強制している中国を持ち出している。
その中国は、自由権規約を1998年に署名したまま批准していない。
外務官僚出身の竹内行夫裁判官は、5月30日の最高裁判決の補足意見で、先年、
「ある外国」での国際サッカー試合の前に「君が代」が演奏された際、その国の観客が起立をしなかったことが、
「国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判された」が、
「他の国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、
まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要であり、
学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然である」と述べる。
ここでの「ある外国」とは中国をさす。中国の国歌は「義勇軍行進曲」であり、これは、抗日戦争を鼓舞する歌である。その抗日戦争の時期、日本を象徴していたのは「日の丸」と「君が代」である。中国では「国旗・国歌」が強制されており、そして日本もその強制を合憲とした。自国内で「国旗・国歌」を強制することは、排外主義を強める機能を有する。
「国旗・国歌の強制」を競い合うことが「国際常識」ではあり得ない。最高裁は、いかなるアジアを展望しているのであろうか。
(引用終了)
>都教委は、裁判で、国際常識の例として起立・斉唱を強制している中国を持ち出している。
笑ってしまうのが、
都教委は、ネトウヨがことさらに嫌う中国を国際常識の例として持ち出しているところですね。
ところが、実情はアメリカを含む先進国、欧州はどこもそんなことはしていないのです。
君が代強制と処罰に反対すると、ネトウヨからは、日本人であることを否定されたり、極左扱いされることが
多々あるのですが、だとすると、世界の常識は極左であり、ネトウヨが大嫌いな極左の国、北朝鮮や中国こそが、
まともなことをしている国になってしまうという自家撞着に陥っちゃうことに自分で気づかないかな・・・・(笑)
国歌強制&処罰化肯定論者のいう常識は、北朝鮮や中国の常識であって、世界の常識ではないことを、そろそろ
認めましょうよ。
日本は全体主義国家のやり方に見習っちゃってOKなの???
こんな非常識なことを、常識だと思い込んでいる国民が多過ぎるところに、
日本という国の後進性がよく現れています。
日本は経済においては先進国に躍り出て久しいですが、民主主義と自由主義においては、まだまだ
根付きが浅く、先進国足り得ていないところがなんとも嘆かわしいと思います。
いや、それどころか、後退させていってしまうことをしているんだから、危険ですよ。
先が思いやられます。
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