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教育基本条例についてその1
意見は主に一般高等学校を視野において述べています。ただ、私は長く一般高校で勤務した後養護学校(近年支援学校と名称変更)で7年勤務、一昨年退職した経歴のため、近年の一般高校の様子から遠ざかっており、少し的はずれの部分があるかもしれません。
私が主張したいことの第一は、日本の学校はあまりにも多くの任務をかかえすぎているということです。ざっと考えても、1、教科指導(国語・数学・体育など)、2、人格形成指導(人権教育、自治集団づくりなど)、3、学校行事づくり(修学旅行、文化祭など)、3、部活動、4、生活指導(遅刻・欠席、服装、髪型などより飲酒・喫煙等の違背行為への対応など)、5、進路指導(就職生への企業斡旋、進学先情報など)、6、生徒間の人間関係(いじめ問題など)、その他いろいろ。とにかく、学校の教員のすべき任務は多彩です。日本にもいろいろの職場がありますが、これほど多彩な任務を同一人がしている(一部任務分担はあっるが)職場はあまりないと思います。そのため、正直なところ、「教育目標」どころの話でなく、毎日、目の前の課題に追われ、それをこなすのが精一杯といったところです。
橋下氏は「教育は2万パーセント強制」と仰ったそうですが、教員にとって、子どもたちにいろいろと強制して教育をすすめられたら、そんな楽なことはありません。「自律的な市民」となることを期していろいろと要求をするのですが、なかにはそれに従わない子どももいて心の葛藤を感じながら厳しくしかりつけたりする毎日です。ある集会で「橋下氏は自身が高校生の時清掃当番を徹底してしなかった」という噂話が語られていましたが、事実なら、担当の先生はどんなにか歯がゆかったでしょう。逆に、橋下青年が「強制」されていたら、青年どういうふうに成長していったのでしょうか。
「教育は強制」どころか、社会の動きによって教育現場がふりまわされている現実があります。ケイタイを例にとります。子どもたちを販売先としかみない業者によってここ十数年でケイタイはほとんど全員といってよいほど子どもに普及しました。社会の全貌もまだ十分わからず、メディアリティラシーも不十分なまま、子どもは通話・メールだけでなくさかんにウエブ利用をしています。ケイタイをめぐって学校は困りはてています。学校は「ケイタイ禁止強制」したいところです。
教育基本条例についてその2
さてさて、とにかく課題の多い教員にとって、いちばん「手抜き」しやすいところは何か、それは「教科指導」です。生徒にとっては初めての学習内容であっても、教員にとってはよく知っていることなので、「黄色ノート講義」も
できるし、さらには工夫した教材づくりをしても「教科書からはなれている」「入試に役立たない」などと批判されるのがオチで、工夫しない授業が一番批判されないという最近の情勢があるからです。橋下氏はひところ大阪市の中学校の定期テストの日程と問題を共通になどとおっしゃたそうですが、ますます工夫が禁じられることになります。でも、すこしおかしいと思いませんか。大人の人々がかつて受けた授業(先生)で今も覚えているのは、「森鴎外のことならやたら詳しいA先生」「野草探しの体験を目をかがやかせて話したB先生」「自分の絵の個展をひらいたC先生」「フランス革命を熱く語ったD先生」ではないでしょうか。
知事の松井氏は、記者に「教育目標の具体例」を聞かれ、「漢字検定合格とか」と答えたと報じられました。漢検の上位級合格のためにがんばるのも悪くはないですが、豊かな文章のなかで漢字を使いこなさないと意味がありませんし、漢検テストのためだけに覚えた漢字は忘れやすいです。そもそも、漢検のための授業とはどんな授業なんでしょうか。
教員が工夫した授業づくり・教材研究から遠ざかる傾向はべつに橋下氏が登場しておこったわけでなく、かなり以前よりすすんでいて、それにとどめをさすのが橋下氏の政治と私は考えます。例えば、小中学校の「全国学力テスト」ですが(批判はさておき)、以前、橋下氏は大阪の子どもの平均点の全国順位の低さに激怒したといわれますが、思考力を問う問題、いわゆる応用問題の正答率や誤答例、類題の正答率の経年変化にこそ目をやるべきでした。それを上げるには、「強制」ではなく、工夫した授業をし、各学校での日頃のテストで工夫した問題を生徒にだしていくことが必要ではないでしょうか。それらを教員に求めるのは悪くないでしょう。残念ながら、よいテスト問題を作るのが苦手な教員もいます。ここ十数年、教員による研究活動、とくに労働組合やそれの関係団体がリードする研究活動が衰退させられていることが背景の一つと考えます。
教育基本条例の条文の一つに、教科書採択について、現場の教員に意見を言わさず、校長が学校運営協議会(保護者・教育関係者で構成)の意見をもとに決める、というのがあります。協議会のメンバーも必ずしも自分の得意分野でもない難解な教科書(例えば数学など)を見るなど大変でしょうが、そのようにして採択を決められた教科書での授業にたえられる教員は「手抜き」の得意な教員で、良心的に授業づくりに精を出したい教員はもはや耐えられず、現場を去りたい思いのみになるでしょう。さらには、ここ十数年来の教科書攻撃(従軍慰安婦、沖縄戦などの記述をめぐる)その他により、わかりやすく良心的な記述にがんばっていた教科書は現場で採択されない傾向もつよまり、出版社の倒産などにいたり、維新の会の人たちが危惧するような記述の教科書は出版すらされていないおそろしい状況です。
教育基本条例についてその3
そろそろ整理します。はじめに記したように、学校のはたすべき任務はあまりにも多すぎます。その状況を橋下氏、松井氏や維新の会の方々はおそらく考えおよばないでしょう。学校運営協議会のメンバーも似たりよったりでしょう。生徒の状況ももちろん知らないでしょうし、そのような方々が考える「教育目標」は思いつきの羅列の域を出ないことうけあいです。そして現場の教員らは「その目標の達成のための教育活動」に、実際は生徒たちの向上にさほど貢献しない活動であっても、力をそそがねばならず、ますます多忙となり、しぜん、教科指導の準備・工夫にかけるエネルギーは減っていきます。知事にしても、学校運営協議会にしても、校長にしても、机のうえで教育目標を考えることは楽しく、充実感をもてる作業かもしれません。しかし、目標達成の成果を目にみえる形で出るように教育活動をすることは簡単ではありません。生徒一人一人ちがう、能力・意欲・適性・得意・生育歴・考え方をもっています。飲食店のように、料理を工夫すれば客が増え売り上げが増えるという単純な話ではありません。しかし、これらを理解しない維新の会の面々はまたまた金切り声をあげるでしょう。毎日毎日工夫のない授業を聞かされ、点数点数と追いまくられる生徒たちこそ、もちろん、一番の被害者です。そして、すぐにはみえなくても、十年ほどたてば、文化的に単純で、幅広い教養も持たない若者が増え、国際競争の場では勝てない日本ができてくると考えます。
教員の評価について付記します。繰り返しになりますが、教員の仕事は多彩で、個々の教員がどの分野でがんばっているかは、校長でも十分掴めません。残念ながら、大阪の「評価育成システム」をめぐる訴訟では原告の方々が膨大な資料でそれを説明しましたが、高裁でも敗訴しました。「問題教員のあぶりだし」がねらいといいますが、えてして、仲間うちでは「サボリ気味」にみえる教員こそ、「校長への自分の仕事の成果報告」などではがんばり、校長もそれを見抜けず、あいかわらずその教員の手抜きした仕事を「成果報告」の苦手な教員がしていることが多いのが学校というところです。
>元おちぶれ教員さん
教員でいらっしゃった体験からの貴重なお話をありがとうございました。
いずれエントリーで私の感想も交えながらご紹介させていただきたいと思いますがよろしいでしょうか?