裁判の結果を記録しておきましょう。
結果は、
(1)のエントリーで掲載した処分の基準(引用させていただいたMatimulogの(7)の部分と櫻井裁判官の補足意見)に当てはめて、
・不起立だけだった河原井さんは停職は違法(この部分だけが大阪教育基本条例への若干の歯止めとなる)
・不起立以外の積極的な行動を取ってきた根津さんは停職は適法
という「分断判決」でした。
◆薔薇、または陽だまりの猫
「君が代不起立処分」 3 つの最高裁判決(16日)「一定の歯止め」と「見せしめ」
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/b3247faf7fd104a38f972c296272fb3d
(引用開始)
1時半を過ぎること数分。中から出てきた岩井信弁護士が持っていたのは「逆転勝利判決」ではなく「分断判決弾劾」の旗だった。勝利とばかり思いこんでいたわたしは一瞬旗の意味が理解できなかった。岩井弁護士によれば、河原井純子さんの停職処分は取り消し、しかし根津公子さんの上告は棄却というものだった。同じように生徒を思い「君が代」不起立を続けてきた二人に、なぜ最高裁は、まったく正反対の判決を出したのか。心の中では、最高裁に裏切られたという思いと、早く判決の理由を確かめたいという思いが交錯した。
記者会見(写真上)は午後2時半から始まった。戸田綾美弁護士は、判決理由について「今回の判決は、減給以上の処分には慎重な考慮が必要と述べている。判決は、河原井さんは、不起立を続けただけで行事の妨害もせず、処分回数も多くない。だから停職処分は裁量権の濫用に当たるとした。一方根津さんは過去、再発防止研修でゼッケンをつけたこと、卒業式で国旗の掲揚を妨害したことなどを理由で上告を棄却された。」と語った。つまり、根津さんは「不起立」とは直接関係ない過去の処分歴を問題にされ、上告棄却となったということだ。あまりにもアンフェアーだ。「君が代」不起立のシンボル的存在であり、しかも主体的な抵抗をし続けた根津さんの処分だけは何としても取り消したくないというのが最高裁のホンネではないかと思った。
判決報告会で岩井弁護士は、「今日の判決では、秩序は個性を嫌う、もしくは、秩序は秩序に歯向かうものを嫌う、と感じた。判決は非常に露骨に、学校の規律と秩序の保持の必要性と処分による不利益の内容を較べて処分を決めるべきだと言っている。根津さんが過去にしたことに対する非常な嫌悪感を示している。今回は行為を処罰したのではなく、態度を処罰している。人格を非難している。これは法律的な判断ではなくて非常に政治的な判決だ。」と語った。処分を取り消すといった度量を示しつつ、一方では権力の秩序を乱すものは絶対に許さないというのがこの判決のもう一つの顔だった。
(引用ここまで・強調は私)
不起立行為以上に明確に君が代に反対する意思表示は決して正当な抗議行為と評価されず、許してもらえません。なぜならそれは「秩序を乱すから」
たとえ不起立行為だけでも、君が代斉唱が職務命令として正当とされる以上どうしてもそれは「命令に反したいけない行為である」という評価は免れないです。
しかし不起立行為程度の消極的な行為だったら「秩序を乱すまでに至らないから」お目こぼししてやってもいい、気持ちもわからんでもないし。
だが、お上に楯突くならそのくらいにとどめておけ、それ以上は許さない。
最高裁判決はそう言ってるのだと思います。
次の動画もどうぞ
◆最高裁で3つの「君が代」裁判判決
http://youtu.be/8BLF26S3Bzg「私は子供達に最高裁は最高の憲法の番人であり人権の砦だと教えてきたのに、それが根底から崩れる思いだ。中学生にどういったらいいのか、頭の中で混乱している」と語った原告の島崎さんの言葉が印象的でした。
先進民主主義国で、憲法の番人たる司法がこんなにも権力寄りに偏っている国ってあるのでしょうか?「憲法の番人」ではなく「権力の番人」と揶揄されるのもごもっとも。
司法は信頼できない、とういのは人権や民主主義を担保する上で致命的です。
◆「君が代」最高裁判決について〜岩井信弁護士のコメント
http://youtu.be/o2JRe3c2RuQさて、宮川裁判官は以前も君が代斉唱の職務命令は違憲との少数意見を書かれており、そのときと同じ論旨を展開されております。
詳しくはこちらを。
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大阪の君が代起立強制条例に断固抗議します(3)今回は宮川裁判官の意見のうち、新たに付け加えられた部分をご紹介しましょう。ちょっと目ウロコものです。
本件では,さらに多数意見が指摘する「地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性」について,私の意見を付加しておくこととする。
第1審原告らは,地方公務員ではあるが,教育公務員であり,一般行政とは異なり,教育の目標に照らし,特別の自由が保障されている。すなわち,教育は,その目的を実現するため,学問の自由を尊重しつつ,幅広い知識と教養を身に付けること,真理を求める態度を養うこと,個人の価値を尊重して,その能力を伸ばし,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うこと等の目標を達成するよう行われるものであり(教育基本法2条),教育をつかさどる教員には,こうした目標を達成するために,教育の専門性を懸けた責任があるとともに,教育の自由が保障されているというべきである。もっとも,普通教育においては完全な教育の自由を認めることはできないが,公権力によって特別の意見のみを教授することを強制されることがあってはならないのであり,他方,教授の具体的内容及び方法についてある程度自由な裁量が認められることについては自明のことであると思われる(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)。上記のような目標を有する教育に携わる教員には,幅広い知識と教養,真理を求め,個人の価値を尊重する姿勢,創造性を希求する自律的精神の持ち主であること等が求められるのであり,上記のような教育の目標を考慮すると,教員における精神の自由は,取り分けて尊重されなければならないと考える。
個々の教員は,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するという場合,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。したがって,「日の丸」や「君が代」の歴史や過去に果たした役割について,自由な創意と工夫により教授することができるが,その内容はできるだけ中立的に行うべきである。そして,式典において,教育の一環として,国旗掲揚,国歌斉唱が準備され,遂行される場合に,これを妨害する行為を行うことは許されない。しかし,そこまでであって,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては,自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められることはないというべきである。音楽専科の教員についても,同様である。
このように,私は,第1審原告らは,地方公務員であっても,教育をつかさどる教員であるからこそ,一般行政に携わる者とは異なって,自由が保障されなければならない側面があると考えるのである。
特筆すべきは、今まで一般的に「公立校の教師は公務員だから命令に従え」という風に言われてきましたが、逆に、教師は教師であるが故に一般に行政に携わる他の公務員よりも自由が保障されなくてはいけない、としたことです。
岩井弁護士が報告集会で「秩序に盾をつかない限りでなら許される、というのでは、顔色をうかがった教育しかできなくなる。教師の人格がポッキリ折れてしまうような現場の雰囲気を最高裁判決はそのまま言っている」との発言をされていますが、「顔色をうかがった教育」にさせないために、教員には他の一般公務員より自由が保障されなくてはならないわけですね。
宮川裁判官の意見は判決文の中にありますから、(1)のエントリーでリンクした先で是非全文をお読みください。
最高裁で宮川裁判官の意見が多数意見になって初めて、この国の司法は基本的人権を守る最後の砦としての役割を果たし得るていどに成熟した国家に成長したと言えるのでしょう。
そのときまで先生達のたたかいは止むことはないと思います。
日本の民主主義は、こういう先生達が決して諦めず自ら犠牲を払って戦い続けているからまだ踏みとどまっていられるのだと思うと、頭の下がる思いです。
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