コメント
今年もまたご迷惑をおかけするかと思いますが、なにとぞよろしくお願いします。
「絆」の強調=「自助努力」の強要にすぎない、という皆さんのご指摘が、すとんと胸に落ちました。あぁ、違和感の正体はこれだったんだと、納得です。
年の初めにまたひとつ勉強させていただきました。
改めまして、今年もよろしくお願いします。
お休み、ゆっくりなさってください。
「決意表明」を宜しくお願いします。
昨年は数多の話題で秋原さんの薫陶を受けて誤った考えを質す事が出来まして、本当に感謝の念に堪えません。
今年も沢山のことを学ぶ場として此方のブログで活発な議論がなされることを期待しております。
「絆」は「連帯」とは似て非なる物、ですか。
マスコミの「絆」という言葉の濫用には、私達が元来持つ「絆」に対する心理を逆手に取り、社会不安の解消方法を示さないまま藻掻く労働を強要し支配層が更に権力を蓄える隠れ蓑とする思惑があったのですね。
私も「絆」連呼の違和感の正体が掴めてスッキリしましたが、尤もらしい言葉(捕らえ所の無い「絆」という言葉)で国民を鼓舞しながら保身に走るなんて彼らは「日本人」ではないのでしょうか。
昨年末に従軍慰安婦問題の熱い議論?でもテーマ化された「被害者の気持を汲み取ること」を普遍的な事項として今年も徹底していかなければなりません。
秋原さんも「被害者側に心を寄せれる人間でありたい」と仰っていますので、残虐な事件の被害者となり苦しんでおられる方々とは程度は全く異なりますが、私も「被害者」の一人として「被害者の気持を汲み取ること」が如何に大事かを自身の経験を交えて訴えたいと思います。
新年早々記事を逸脱した内容で申し訳ありません。
私が小学校5年生の頃の話です。
当時、一応受験を見据え塾に通っていましたから「クラスで一番勉強が出来ると云う点で」クラスの他の子と違いはありましたが、当然友人も多くクラスの皆と仲良く楽しい学校生活を送っていました。
しかし当の5年生になり、学年でも有名な不良少年とクラスが一緒になりました。
その少年と顔を合わせて一週間程(四月半ば)で虐められ始めたのです。
当時私に落ち度があるとすれば「勉強が出来た」事だけですが、それを鼻にかけてはいませんでしたし、勉強が原因で周りから浮かないよう意識的に自制もしていました。
クラスにはもう一人勉強ができる子(クラスで二番手)がおり、私、その子、その他大勢という内訳でした。
その子にもお前は勉強が出来る割に謙虚で感心すると「友人」の一人として慕ってくれていました。
その子は虐められず、虐めに遭ったのはクラスで私だけです。
休み時間の度に暴力を振るわれ、私の行動を逐一妨害、広い場所ではプロレス技の試行に弄ばれ、その事故という名目で体を打ち付けられたりしました。
虐めが激化すると、授業中にも私の所持品を奪い、挑発するようになりました。
不運にも担任の先生が新任で気弱だったこともあり、クラスの他の子供は傍観に徹し、少年の命令時には私の虐めを手助けをする始末です。
勿論平時は一緒に遊んでくれますが、一度私の虐めが始まると自分に被害が及ばないように見事なまでに他人の振りをするのです。
結局、私が虐めから「救われた」のは5年生の2月でした。
中学校で主に教鞭を執っておられた先生が退職され臨時教員として本校に赴任してきて直ぐに、私の虐めの問題の解決に尽力してくれたお陰でした。
この先生が不良少年も身が竦む程怖い存在だったために虐めが「中断した」という訳で、その先生がクラスに居ないときは以前と同様の虐めが続けられました。
結局6年生になり、その少年と異なるクラスとなって漸く、私は虐めから「解放」される事となりました。
一応その後の概便を申しますと、前述の先生が少年の正規の担任となり、休み時間に私と遭遇すると、私を睨みつけて小突く程度に収まりました。
これでも以前と比較すると「更生」した方です。
もし6年時にも同じクラスであれば以前よりは程度の軽い虐めが続いていた可能性が高いので、結果は少年が完全に改心した訳ではありませんでした。
彼と廊下で出会う度に虐められた時の内外的苦痛を否応無く思い出させるのです。
自身のこの経験から感じ得た事を書出してみますと、
~虐めを傍観視していた私の「友人」とクラスのその他「知人」のような存在を認識~
(特に「友人」の傍観視が精神的に徹える)
~加害者が虐め(差別)をする理由は大小様々~
(虐められ始めて1ヶ月頃、不良少年に虐める理由を聞くと、予想通り「勉強が出来て偉そう」だったが「勉強出来るくせに謙虚だから」と続けられた事に驚いた。ただ別の日に改めて問うとやはり「勉強出来て偉そうなのは当然腹が立つ」と言われたので、「能力」自体に嫉妬しており、自身の「能力」に対して謙虚でいるか高慢でいるかは加害者にとってさして大きな問題ではなかった)
~加害者は中々改心しない~
(不良少年は怖い先生の圧力に屈して虐めを渋々断念したように見えた。先生も正攻法で彼の考えを正そうとしていたが、聞く耳を持たなかった。現に彼と同じクラスの児童が私より程度は軽いものの虐められていた。その時の理由は「体操が出来て腹が立つ」だったが、当の彼もサッカーは巧かったのだが......。((この利己的な都合には、秋原さんの仰る>なぜなら、彼らは正確な知識を知らなかったが故にこれらの歴史問題を誤解していたワケではなく、最初から色眼鏡で見たくてそうしているからなのです。 ですから、彼らを説得しようと思って歴史問題を議論するのは、まず間違いなく徒労に終わります。 彼らに必要なのは歴史問題の議論ではなくもっと別のもの、人生上の大きな体験なのではないでしょうか。 自分の差別感情と向き合い自分自身を見つめざるを得ない人生経験をしないと、物の見方考え方というのはなかなか変わらないものです。 と同じ印象を感じました))
~一度標的とした者は逃さない~
(今顧みると恥じるべき行為だが、虐めから逃れたい一心で、例の私の次に出来る子の方が勉強が出来ると錯覚させるよう一定期間勉強が出来なくなったように装った。下手な小細工が見破られて逆上されるか賭けだったが、その点は杞憂だった。しかし、あの子の方が勉強が出来ることを彼に投げかけても「彼奴は関係ない。俺はお前を虐めている」という全く訳が分からない答えが返ってきたため、それ以来抵抗することを止めた。だからこそ臨時の先生の助けが無ければ不登校にでもなっていたと思う)
~「暴力」は周囲の潜在意識を覚醒させる~
(クラスのその他大勢の中に、不良少年のように暴力はふるわないものの、威圧的な態度で私に限らず大多数の人をなぶる者が二人いた。その二人も最初は私が彼の虐めに遭うのを傍観する者に含まれていたが、漸次少年の命令に消極的に従い、私を自然と弄び、積極的に私を苛むようにと少年に感化されていき、最終的に少年が「三人」になった。((この状態でもクラスの「友人」と「知人」がただ傍観視し続けることに何故か此方の心が壊れそうな思いをした))
~加害者意識はある様子~
(ある休み時間、他のクラスで友達と談笑していると、案の定彼が私を捉えて近づいてきた。しかし彼はその場で虐めずに私達のクラスに連れてきてから私を弄りだした。
当時休み時間は到底笑える状況になかったと記憶しているが、彼の行動に何処か可笑しみを感じたのかその時彼に連行されながら忍び笑いをして何時もより非道い目に遭った。後で私をそんなに虐めたいのなら場所を問うな、罪悪感があるのかと尋ねると、「他のクラスだとやりにくい。自分のクラスだと仲間(少年に感化された二人)が居るし、子分が居て見せ物になる」と自慢げに言われた。彼はクラスの皆を観客に、私の虐めを見せ物(ショー)に見なしているなんて、映画で見る集団リンチさながらの残酷さに自分が遭っている驚きの方が大きかった。しかも今顧みると、彼は小学生で集団リンチを体現しているとは暗澹たる気持になる)
私の身近な話題を少しでも「差別問題」分析の一助にして頂ければと思い書き込ませて頂きました。
※不良少年の言葉は実際はもっと口調は砕けており、少々整えてありますが、内容には寸分の狂いもございません。想像で付け足されているという恐れは絶対にあり得ません。今現在も思い出しただけで少年の言葉が一言一言鮮明に思い出されるからです。
これ迄の話とは全く関係ありませんが、ブログ「迎春閣之風波」さんの「Air左翼」というキーワードを検索にかけるとあるブログとの出会いがありました。
今迄無意識に受容してきた考えとのギャップに最初このような言論が「左翼」なんだと幼稚にレッテルを貼ってサイトから立ち去ってしまいましたが(本当に申し訳ありません)、秋原さんの基本姿勢を理解してからは違和感を感じた事がありません。
しかし、無知蒙昧なりに「愛国者」の大枠を知ったためか、次のブログの論調には直ぐに違和感を感じざるを得ませんでした。
「依存症の独り言」
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/09/post-66c2.html(コメント欄でii1920さんとその他の論争)
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/09/post-5331.html(コメント欄で上の続き)
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/cat6551955/index.html(従軍慰安婦&強制徴用カテゴリー)
このブログの著者は自身を全共闘時代の少し下の世代で極左の呪縛から脱したと称するから、上記のように韓国捏造(ネトウヨそのもの?)と盛んに云い続けているのでしょうか。(著者が左翼脳を語るhttp://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/12/post-66b3.html)
更に驚いたのは、この方のブログから人気ブログランキングを見てみますと、上位に嫌韓、核武装等此方で皆さんが非難されるキーワードが踊っています。
(2位が「正しい歴史認識、国益重視外交•核武装実現」、4位が上記の「依存症の独り言」です。政治ブログランキング上位にこの思想の偏りは「ネット」ではネトウヨ?の言論が多数もしくはブログランキング自体が恣意的な物なのでしょうか。)
秋原さんにとってはこのような方など既視感に溢れていると思いますが、端的に言うとこの類の人はどう認識すれば宜しいでしょうか。
お手間をおかけします。
この方は左翼の呪縛から解き放たれたと明確に仰り、ブログも明確な口調で書かれていますから、私のように「柱」が無く何方にでも引っ張られてしまう者にとっては根拠の無い妄言も真実のように聞こえてしまうのです。(こんな情けない言葉を吐かなくてよいように今後一層勉強に励みます)
最初の言葉を繰返しますが、秋原さんには短期間で本当に数多のことを教えて頂きました。
その上で皆さんの貴重なお時間を無駄にしてしまうこと、暴言を申し上げることをお許しください。
秋原さんや関連のブロガーさんは「普天間基地撤去運動の基本は「住民の安全と平和」ですが、その実態は反米・反日米安保であり、中国や北朝鮮に対する武装解除です。要するに米軍の存在が東アジアの抑止力として働いていることが許せないのです。が、それをあからさまに言うと支持者が減るから「住民の安全と平和」を唱えるのです。従軍慰安婦や強制連行、あるいは南京大虐殺も同じ構図です。従軍慰安婦、強制連行、南京大虐殺の否定=戦前の歴史の肯定。そのほかにも憲法改正、第9条の見直し、集団的自衛権の承認は戦争への道。教育基本法の改正、愛国心の奨励、教育現場における日の丸・君が代の義務化は軍国主義への回帰。もうことごとく現体制を弱体化させ、中国(中共)にひれ伏すためのプロパガンダ(上記左翼脳を語るの一節)をされている訳ではありませんよね?
このような妄言は「左翼の呪縛を脱した人」が誠実な思いで筆をとられる秋原さん達を貶める常套文句に他なりませんよね?
秋原さんを含め現実問題の解決に真摯に向き合っておられる方を侮辱する暴言、本当に申し訳ありません。
秋原さんに限らず何方でも私の下らない確認に対して意思表明をして下されば結構です。
宜しくお願いします。
明けましておめでとうございます(*^▽^)/
『連帯・団結』が、一番大切な時代であるにもかかわらず、弱者同志で叩きあうなんて、ほんと悲しいですね…。
海外に視野を広げてみませんか?…。
北欧諸国では、共生社会の建設のために、市民レベル・草の根の民主的連帯からなるレジスタンス運動により、完璧なまでの微に入り細の社会保障制度が完成したんですよね…。 デンマークでは、1974年頃、オイルショックに端を発し、政府が火力から原発へエネルギー政策をシフトしようとした時、ほんの十数人のごく一般の市民が、「原発の是非について、もう一度国民的議論がしたいので政府にたたき台の資料を…」との要求に、原発を一旦白紙に戻し、デンマーク政府は中立的に、賛否両論併記の公正な検討資料を国民に提示し、国民的合意の下、脱原発に舵を切り、自然エネルギーを推進し、電力は充分に賄っているそうです…。 北欧諸国は、デンマークやスウェーデンなど…、市民は政府を信頼しているし、国(政府)も国民(市民)を信頼している…。 だから“共生社会”が、当たり前の様に構築できているんですね…。 日本の様に公務員や組合、更に生活保護受給者を袋だたきにする様な誠に悲しい惨めな発想自体存在していないんですね…。
日本も、このままですと確実に社会崩壊へ突き進むことは確実だと考えます…。 秋原さん…、今年こそ、日本社会が、まともな方向へ進んで行ってもらいたいものですね…。 (^_-)-☆
ごんさんへ
>秋原さん達にこのままついていっても大丈夫ですよね?
>秋原さんを含め現実問題の解決に真摯に向き合っておられる方を
>侮辱する暴言、本当に申し訳ありません。
ごんさんは、真摯で誠実でまた非常に分析的に御自身と他者を見ておられまして、
他者に対する侮辱や暴言と感じられるものはありません。
その上で、
私は、秋原さんとは、特に人権という点でほぼ同じ考え方を持っています。
ですので、秋原さんのブログからは共感的に学ばせて頂いてきております。
しかし、“秋原さんについて行く”という認識はありません。追従するとか群れるとかそういう感覚ではなくて、共感と共通認識と連帯ですね。そして、なぜそれが成り立つかというと民主主義と人権に対する根本的な理解が秋原さんと共有されているからだと思うのです。そして、その理解の仕方とは個人の尊前に行き着きます。決して、反米だの、軍国主義云々、中国云々が目的化したものではありません。
軍拡や軍国主義、慰安婦問題などを批判するのは、それが民主主義と人権、個人の尊厳を侵すものに他ならないから批判するのであって、それ自体が目的化したものではありません。普通の生活、普通のしあわせ、当たり前の個人の営み、それを守るために何が必要か、どうしたらいいのか?常に視座はここにあるのだと思います。
ごんさんへ2
さらに、労働問題も、貧困問題も、社会保障全般全て根は同じです。人権と個人の尊厳をいかに守るかということです。
>観測霊さん
こちらこそ観測霊さんにはすっかりお世話になりっぱなしです。
今年もどうか色々とご教授くださいませ。
絆も空々しく
仕事柄、広告や販促物に関連した企画に関わる機会が多いのですが、昨年は「絆」というキーワードが異常なブームでした。
大手ゼネコンから、小売店まで、公も民も挙って「絆」を使いたがるのに、ある種の空々しさを覚えました。
だからこそ、「アフガン・イラク・北朝鮮と日本 」の
>つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。これを仮に「絆バイアス」と名付けよう。
という一文が、リアリティを持って突き刺さります。
言葉の意味は変質します。
かつて尊敬語だった「貴様」が侮蔑の意味になったように、「絆」が空虚な関係性を意味する言葉とならない事を祈るばかりです。
>ごんさん
年月を経てもふとした拍子にまざまざと当時のつらさがよみがえる感覚はイジメにあった人にしか分からないものだと思います。
そんな思いをもう誰にも味わって欲しくないと尽力できる側にまわるひともいれば、
自分だけがそんな辛い思いをするのは不公平だとばかりにいじめる側にまわる人もいます(そんな政治を特に大阪に見る思いです)
ごんさんはきっと自分の苦しみを糧に社会をよくしていこうと力を尽くせる方になれると私は思っています。
低賃金労働を強いたあげく使い捨てにする非正規切り、
ほんの1%の富裕層ばかり優遇する措置をとり、社会保障は削り、低所得者ほど負担を強いられる消費税増税をしようとするこの国の政治そのものが、いじめだとつくづく感じます
私には何の力もありませんが、せめて「傍観者」になるのはやめようと、こんなブログを書いたりもしています。
「依存症の独り言」というブログを私は知らないのですが、自称「元極左」だそうで・・。
極左って、いわゆる過激派です。(もちろん私は極左なんかではありません(^^;)
極左もネトウヨも狂信的な信念に少しでも疑義を挟もうものなら集団で制裁を加えるという全体主義的な性質が共通していますから、このブログの管理人さんのように、元極左、今ネトウヨ、というのはありえる話じゃないでしょうか。
ネットではネトウヨのような意見が大多数を占めるように見えますね。在特会や維新政党新風のような団体を推すブログがランキングの上位に来るのですから。
もしかしてごんさんはそれに不安をお感じになってしまったのでしょうか?
それは決して実際の世論の縮図そのままではありませんからどうぞご安心を。
もしそれが世論の縮図そのままなら維新政党新風はとっくにちゃんとした政党になってるでしょうし、たちあがれ日本のような極右政党が第一党になっていることでしょう。
一昨年の衆議院選挙で、麻生元総理は、ネットで自分への支持が多数だったのをみてあぐらをかいたために負けた時は呆然としていました。蓋を開けてみたらネット世論と現実の世論は大違いだったんです。
しかしこのようなネトウヨ思考に惹かれる人々はだんだん増えてくると思いますし、程度の差はあれ、差別感情を持っていたり人権感覚に欠けていると思われる人はネトウヨでなくてもたくさんいます。
今は幸いに自分の意見を不特定多数に発信できるブログというツールがありますから、私も時間が許す限り自分の考えを発信し続けたいと思っています。
私はいつも原点に立ち返って考えようと試みているつもりです。
その原点とは、人類が歴史の中で勝ち取ってきた民主主義であり、基本的人権の尊重という崇高な理念であり、それを明文化した世界人権宣言だったりします。
あとはフリスキーさんが仰ってくれたとおりです。
(蛇足になりますが、沖縄の在日米軍は「日本の対中国、対北朝鮮防衛」のためにいるのではありませんし、思想信条の自由を守るために君が代強制に反対することがどうして中国を利するのかさっぱり???です。)
最後に、私も人間ですから誤った判断をすることもあると思います。
誰かを教祖のように信じることはオススメできません。誰かが言ってることは絶対正しいのだと自分で思考することを停止してしまってはいけません。
人間は必ずあやまちを犯す存在です。ですから常に自分の頭で何が正しいのか考え、悩み続け、苦しみ続けなければならないのです。
でもそれは他人の意見に聞く耳を持つことと相反することではありません。
他の意見に耳を傾けながら自分の考えも主張し、何が一番いいのかを考えていくのは産みの苦しみが伴います。
でもそれが崇高な意味での民主主義なんです。
新年あけましておめでとうございます。
今年も過去記事含め、拝読させて頂きます。
どうぞよろしくお願いいたします。
「絆」という言葉の濫用は、「国家の品格」という本が
品格という言葉の値打ちを大暴落させたのを思い出させます。
昨年4月の朝日新聞で、俳優の小沢昭一が下記のように語っていたのが印象に残っています。
「一致協力」とか「絆」なんてことが強調されるのが
実はちょっと心配なんであります。
いつかまた、あの忌まわしい「一億一心」への
逆戻りの道になりゃしないかと、そんな気がするんですね。
だから私たちの世代には「絆」ってのはちょっと怖い言葉なんです。
耳にタコで、こりごりしてる。
でも若い人たちには初めての新鮮な言葉なんでしょう。
いつの間にか意味がすり替わらないように、気をつけなくちゃいけませんよ。
謹んで新年のご挨拶を申し上げます
ブログネタが尽きない悲しさを、それをネタに秋原葉月さんとここに集う皆さんと連帯する喜びに変えていきたいと思います。
葉月さんには、いつもいつもお世話になっています。私のところにもコメントをいただいたり、いっぱいリンク紹介していただいたり...。さっそく今年もこの記事の中でリンクしていただきましてありがとうございます。私も葉月さんの記事をいっぱい使わせていただいていますので、今年も頼りにしています。葉月さんに「ついては行きません」が、並走する、という感じで。
で、「絆」と「連帯」ですが、私は「連帯」という言葉には思い入れはずっとありましたが、「絆」という言葉にはあまり関心はありませんでした。(現実の絆そのものがどうでもいいというのではないですよ。「言葉」としての話です。)だけど、確かにそこには意味の違いがあることが納得できて、皆さんの指摘が腑に落ちました。
で、「明るくスタート」に期待したら、「あと一週間ほどお正月休みをくださいね」とは見事なフェイント!笑
秋原さんや村野瀬さんたちのブログの読者の一人である私は、拝読することで共感したり学んだりしていますが、そこで得たものの考え方やデータは私の思考形成に有益ですし、他所で他者と議論するときにも使えるものになっていくのです。ブロガーと読者が価値や情報を共有し、読者もどこかで何らかの形で発信者になっていく。これもまた連帯の一つのあり方じゃないかと思っております。
いざというときには、いわゆる“偉い人”や知識人もあてになりません。大事なのは一人一人の市民の自覚なんだと思います。
ごんさん
他者を暴力を使って支配したがる個人が徒党を組み多数の人間を獲物の如く扱って競い合う権力嗜好は、歴史上に呆れるくらい無数に存在しました。被支配層が反乱に成功して支配層に代わった例もあれば再び被支配されてさまったり、数百年の長いスパンで見れば頻繁に繰り返されていますよね?例えばカトリック教会、元は弾圧される側で弱小の一カルトだったのが中世には世俗の領主としても欧州の過半を制覇していました。
政治・軍事・宗教を巡る騒動が現在も進行中なんだと思います。その覇権を奪い合う競争に対して、どんなスタンスを取るのか。どんな目線を送るのかで、その個人の立場が明確になるのかも知れません。競争が至上命題だと言う困った人物群は、民主制度が整った世の中であっても”違う!これは未開のジャングルだ”と倒置して全くはばかりません。意図的に混乱を引き起こしておいて、サバイバルなんだから敗れる方が悪いの一点張り。彼らにあるのは弱肉強食、力の論理のみです。
この手のアウトロー・無法者って普通は暴力団とかチンピラとかをイメージしやすい訳ですが、実は彼らに止まりません。最近クローズアップされてきた1%の超富裕層と彼らを保護する権力中枢、ここが弱肉強食・力の論理の本丸なんですよ。99%の被支配層を支配するには99%の中から、少数の手下を選抜・養成する必要があります。かつてナチスの強制収容所で被差別民が被差別民を自ら殴る役割だったカポ、彼らと同じ任務を与える訳です。
ごんさん、これはあくまで私の推測でしかありませんが、貴方に危害を与えた子って家庭内暴力の影響を受けていませんでしたか?侵略戦争終了後も、我々の一部には他罰的な嗜虐性が負の遺産となって受け継がれています。高度成長期には見せかけの経済繁栄で薄らいで見えましたが、到来して久しい格差社会が貧困化を加速させています。ふさがったと楽観していた古傷が口を開いたって感じでしょうか?
先ほど比喩に使ったカポの一人が、大阪市長に選ばれてしまいました。彼ら”この世はジャングル”一派は取り分け自分の子ども達に、幼い頃から競争と弱肉強食を強いる傾向があります。家庭内暴力行為も含まれるでしょう、一種の病癖なのかもしれませんね。橋下氏が知事時代に教育条例を変えた動機も、この病癖と関係があると思っています。
ごんさん、貴方は学校で酷いイジメを受けても居直らずに加害者側に加担しなかった。そこが大事なポイントだと思います、苦痛の中にあっても負の連鎖を断ち切ったのですよ。ぜひ誇りにして、どうぞ胸をはって下さい。秋原さんが主張されているのは、そう言う負の連鎖を止めましょう。99%のサイレントマジョリティが反目するんじゃ無くて連帯して、格差とか貧困とかの差別がない公平な社会を目指しましょう。そんな内容だから私なども賛成しています。
最後に勝手な推測をもう一つ、ごんさん。貴方の文章には整然とした知性があふれていますね。ただ行間に混乱しがちな気持ちを自制された痕跡があった様にも思えました。私なんぞの駄文よりも貴方に必要かもしれない、詩のタイトルを紹介させて下さい。茨木のり子さんの”汲むーY.Y.にー”です、すでにご存知でしたらごめんなさい。
>青い鳥さん
・超重税、高い消費税率
←担税力ある人が負担する応能負担の原則、再分配が行き渡っている。消費税も生活必需品の税率は低く抑えられているので重税感があると訴える人はいない。
・国の人口が違いすぎる
←少人数国家でないと福祉国家が実現できないという理屈が成り立つとは思えない
・経済成長のためには社会保障を犠牲にして市場原理に委ねるべき
←このような新自由主義はタコが自分の足を食べているようなもの。結局日本は経済成長が落ち込んでいる。それに比して労働者を手厚く保護する北欧では順調に経済が成長している。
経済成長にも国民の暮らしにも有害でしかない新自由主義を信奉するのはよほどの自虐趣味があるとしか思えませんね。
北欧では公務員の数も多く公務員の給与比率も高いですが公務員叩きなんて目が点、「なんでそんなことするの???」だと思いますよ
マスコミも「税と社会保障の一体改革」なるものに無批判ですし、消費税増税にむけて「仕方がない」の連呼だし。日本のマスコミの罪は大きいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
>フリスキーさん
軍拡や軍国主義、慰安婦問題などを批判するのは、それが民主主義と人権、個人の尊厳を侵すものに他ならないから批判するのであって、それ自体が目的化したものではありません。普通の生活、普通のしあわせ、当たり前の個人の営み、それを守るために何が必要か、どうしたらいいのか?常に視座はここにあるのだと思います。
実に明快で思わずメモしちゃおうと思ってしまいました。
いつもクリアなコメントをありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
>ohdedeさん
みんなが一斉に同じ方向を向く国民性ですから、余計に鼻につきました。
野田内閣はショックドクトリンを不退転の決意で断行しようとしています。「絆」の連呼は「ショックドクトリンを甘受して堪え忍ぼう」になりがちです。連帯してショックドクトリンを食い止めねばならない、国民が向くべき方向はそちらだと何度でも言いたいです。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
>ドロップさん
>「一致協力」とか「絆」なんてことが強調されるのが
実はちょっと心配なんであります。
いつかまた、あの忌まわしい「一億一心」への
逆戻りの道になりゃしないかと、そんな気がするんですね。
げにげに。
震災直後、「自粛」の見えない圧力が広まったことを思い出します。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-677.html
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
猫は、みんなが一斉に同じ方向を向くことをしませんし、群れること、媚びることをよしとせず、孤高に生きています。だからヒトラーは猫を嫌ったのです。私は前世が猫だった関係で、 この点は異議ありです。
>村野瀬玲奈さん
書いておきたいけどたくさんすぎてとても書ききれないネタを玲奈さんが精力的に網羅してくださり、その筆力には頭が下がる思いです。私の方こそ今年も玲奈さんの記事をばっちり使わせていただきますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
とりあえず三日で記事上げしましたが、また何日かお休みの予定です^^
>フリスキーさん
http://gogen-allguide.com/ne/nekomosyakushimo.html
もともと動物の「猫」がモトではなさそうな説が有力。
まあ慣用句と言うことで見逃してくださいな