コメント
酷い話です・・・
ちょっと別の話ですが、横浜市の格小中学校の特別支援級は以前は特殊学級(ひどい言われようだ)という名だったみたいで、障がい児(この言い方もあんまり好きじゃないですが)への教育レベルもかなり低かったみたいですが、他の県の特別支援の専門家が横浜市の教育委に指摘したところ、その後がらっと変わったとか(人づての話なので色々間違っているかもしれません)。
どんなに正しい事をしても、権力が相手だと間違いとされる・・・うーん、この先どうなんだか。
差別に大義名分を与える行為
久々にコメントさせていただきます。
以前、朝鮮学校無償化FAQで何度かコメントさせていだいた、在日韓国人のohdedeです。
私は、この問題がもう一つ、恐ろしいと感じたのは、「授業を受けた生徒が、2ちゃんねるで授業の内容を晒し、周囲レスに煽られて県教育委員会に告発。県教育委員会が問題視した」ところです。
告発した生徒は自ら「2ch脳だから」と、韓国人に対してゼノフォビアを抱いていることを認めています。
おそらく、神奈川県の教育委員会にしろ、保護者たちにしろ、告発した生徒の思想的な背景を理解していないでしょう。だからこそ、県教育委員会まで一体になって、あまりにも無頓着に差別する側にまわってしまっているのが恐ろしいです。
生徒に「嫌韓感情を抱くな」と強制するのは、思想の強制になりかねますがが、公平に議論する前提をなしに、「県民に疑義を持たれる行為」と断定するのは、ヘイトスピーチする連中に大義名分を与え、圧力に加担していることになります。
この問題と並行して、かなり気にしているのが、フジテレビの韓流報道に対するデモです。
表向きには「偏向報道(どこが?と思うのですが)に対して抗議する」となってますが、デモ参加者にとって本質的な動機は、韓国人・在日に対する差別感情です。
スポンサーに対する、不買運動にまで発展している自体に、ある種の異常性まで感じられずにはいられません。
彼らは俳優・高岡蒼甫が無神経にフジの韓流報道を批判したのは、きっかけに過ぎず、デモ参加者は堂々とヘイトスピーチを行う機会を得たにすぎないのです。
特に、ここ数カ月ネット上でのヘイトスピーチには、目に余るものがあります。
ヘイトする側の大義名分でさえ、冷静に考えればかなり怪しいです。
フジテレビは“企業”としてコストパファーマンスを追求した結果ですし、教師は道徳的に見れば「正しいこと」をしているわけですから、物事の根本を議論する前に、差別する事自体が安易に正当化される、昨今の情勢に、在日の一人として、危機感を抱いています。
非常識
授業中に脱線して
「ハングルではこうですよ」
ならわかりますが、
1時間別枠で教えるのは行き過ぎであり非常識で教師として問題ありです。
>AGENさん
教育委員会って政治的中立性の確保がその存在意義の一つなんですが、政治的中立どころか権力の傀儡になりさがってませんかね
すりかえ
>ohdedeさん
本人も自覚しているゼノフォビアに裏打ちされた高校生の言い分を県教委が丸呑みしてしまったのですね。
>公平に議論する前提をなしに、「県民に疑義を持たれる行為」と断定するのは、ヘイトスピーチする連中に大義名分を与え、圧力に加担していることになります。
仰るとおりだと思います。
最近は公的機関が公然と反民主主義的な主張にお墨付きを与えるようなことが多くなったと感じます。
ゼノフォビアとは違うのですが、真っ先に思い浮かんだのが、橋下氏に対する光市弁護団の損害賠償請求訴訟を最高裁が敗訴させ、橋下氏を勝たせたことです。
この判決は被告人の弁護を受ける権利など唾棄に値するという誤ったメッセージを社会に向かって発信しました。この司法のお墨付きがますます暴君を増長させているのが手に取るように分かります。
もちろん橋下氏が大阪の朝鮮学校にとった処置はご存じかと思います。
フジテレビの反韓流デモはあほらしいの一言ですね。
私としては、アメリカのドラマやハリウッド映画が次々放映され、ハリウッドスターが来日し、マクドナルドやスタバが建ち並び、横文字が氾濫しているの昨今の状況は目に余る「偏向報道」のせいですから、是非とも彼らに抗議してほしいのですけど(笑)。
ヘイトスピーチは本来人目が気になってなかなかリアルでは出せないものでしたが、最近は堂々とリアルで出すようになってきました。イシハラシや橋下氏なんかが平気でヘイトスピーチをまき散らし、マスコミはそれを批判するどころかまるで他人事扱いですから、そりゃレイシスト達も勇気を得るでしょう。
私も本当に危機感を抱いているのでこんなエントリーを書いたりしているのです。
>マリアさん
書きっぱなしなのでしたらどこかの掲示板へどうぞ。
こちらからの質問に答えていただけない限り次はコメントの承認を見合わせますし、こちらもお答えいたしません。
>なべさん
それから本文にもかいてありますよね?
世界史の時間に生徒が興味を示したので少々脱線してドイツ語やフランス語を教えたとしたら、あなたはそれを教育委員会に報告するんですか?それともドイツ語やフランス語ならいいけどハングルは駄目とでも?
>子供にも人権はありますので忘れないで下さいな。
こういうこと言う人って真面目に馬鹿じゃないかと思います。
この場合の子供の人権っていうのは、子供の教育を受ける権利であって、
教育委員会の統制と画一化された教育を受けさせられる権利じゃないですからね。
そもそも、
問題の授業は、2学期の学期末試験後、つまり冬休み前の授業ですよね。
私はずっと東京の学校に通ってましたけど、
学期末試験後の休み前の授業なんて答案返して解説が終わったら、
あとは、先生の自由講義の時間みたいな感じの時がざらにありましたね。
試験終わって、教師も生徒もほっと一息ついている頃ですよ。
今の時代って、そんなことも許されなくなってきちゃってるの??
どんだけ全体主義志向なんですか。一から十まで事細かに教育委員会に統制されて、どの先生によるどの授業も、まるで判を押したような、金太郎飴みたいな、
ロボットみたいにコントロールされた授業をしないといけないわけ??
まるでネトウヨさんがちが大嫌いなはずの国の授業みたいですよ。(笑)
横浜の学校ってことで、横浜って他民族都市なんですよね。
例えばイセザキモールのスターバックスの外のベンチに座って耳をすませれば、
ハングル、中国語、タガログ語、英語、ロシア語、などなど様々な言語が
飛び交っていることがわかります。
そんな町の学校の期末試験後、休み前の授業で、それぐらいの裁量さえ
奪われるなんて絶対不自然ですよ。
これが、ハングルじゃなくて、フランス語やドイツ語だったら、
多分問題にする人なんていないでしょうね。
ハングルだからですよ。
ウヨクの大嫌いなハングルだからでしょうね。
私はそこにレイシズムの匂いを感じますね。
>フリスキーさん
主役は生徒、偉いのは文部省、強いのは、教育委員会で、責任取りが教師って感じですかねー・・・。
欧米とかで同じことをしようとしても、多分市民の方が立ち上がると思いますが、日本はそういう運動には消極的ですからねー。
期末試験後の授業って言ったらもう、自由な時間が1,2時間くらいあった記憶があるのですが。ハングル教えるのが問題だと感じる人って、きっと同じ時間を使って受験勉強しても同じことが言えるんでしょうね・・・?(ちらちら)
そっから説明が必要ですか
>いつのまにか授業が脱線して、先生の失敗談で一時間が終わっちゃった、なんていうことは日常の授業風景でしょう?
不作為、と作為ではぜんぜん意味が違うと思いますがそんなことから言わないとわからないのでしょうか。
いちいち教育委員会に報告するかどうかはわかりませんが、すると仮定した場合、ハングル語、朝鮮語、中国語なら報告する可能性が高いですね。
日本に対してゆすりたかりを繰り返すような国の言葉を貴重な時間を使ってわざわざ義務教育で教える必要はないですから。
具体性に欠けすぎてると思いますが。ゆすりやたかりって具体的にどんな?
気に食わないから、学ぶ必要がないってのはなんとも保守的というか、進歩のない意見だと思いますね。
日中や日韓で両者の間に溝があるのは互いを理解しあおうとしない所から来ているのではないでしょうかと私は考えるのですが。
ハングルに興味を持ち、韓国と交流したいと思う子も出てくると思いますが、なべさん的にはそれはアウトなんですね?日韓の間で良好な関係になるのがいやだというなら、素直にそう言った方が健康的だと思いますよ。
追伸・ところで、あなたは実際に中国人や韓国人と会話したことってありますか?ネットや本で他の人が悪口言っているからでは、とても説得力のない話だと思います。
ナンセンスすぎる
>すると仮定した場合、ハングル語、朝鮮語、
>中国語なら報告する可能性が高いですね。
お馬鹿さんが多くて困りますわ。
現在、日本の国別貿易高は、アメリカを抜いて中国が一番になっている
という“現実”を見ましょうね。
ビジネスという点に限定しても、例えば、フランス語やドイツ語よりも
遥かに必要性が高い言語が中国語なんです。
大学での第二外国語の履修者数は、いまや中国語が一番です。
ところがこのお馬鹿さんにかかると、脳内ニッポソでは、中国とは
あたかも国交断絶状態にでもあると思ってるのかな(笑)
そんな国益に反するようなレイシズムにしがみつくのは、
反日的なのでさっさを現実に目を覚ますべきですね。
>なべさん
>
> 不作為、と作為ではぜんぜん意味が違うと思いますがそんなことから言わないとわからないのでしょうか。
↑
仰ってることが意味不明な上に
> いちいち教育委員会に報告するかどうかはわかりませんが、すると仮定した場合、ハングル語、朝鮮語、中国語なら報告する可能性が高いですね。
>
> 日本に対してゆすりたかりを繰り返すような国の言葉を貴重な時間を使ってわざわざ義務教育で教える必要はないですから。
↑
ご自分が恥ずべきレイシストであることを隠そうともしないヘイトコメントをどうも。
まあ「自分は朝鮮人が嫌い、ビタ一文あげたくない、差別したい」って堂々と開き直ってるわけですから、ある意味潔いですよね。
>みなさまへ
私の懸念していた通りの、コメントがでてきましたね。
> いちいち教育委員会に報告するかどうかはわかりませんが、すると仮定した場合、ハングル語、朝鮮語、中国語なら報告する可能性が高いですね。
>
> 日本に対してゆすりたかりを繰り返すような国の言葉を貴重な時間を使ってわざわざ義務教育で教える必要はないですから。
結局、2chで影響うけて、教育委員会に通報した高校生と同じ心理ですよね。
ヘイトを正当化する理由がほしいだけ。
まあ、Yahooニュースのコメント欄を見ると、韓国当局がGoogleを家宅捜索しただけで、「汚い国だ!」って論点のずれた、不可解なヘイトする人が溢れてくるわけですから、主体は、特定アジアを叩くことが目的ですから、授業を逸脱したことが問題ではないんでしょう。
「差別感情を燻らせる」
↓↓↓
「何か事態が起きる」
↓↓↓
「“意見”、“批判”などと称して、事態の本質とは関係のないヘイトを行う」
↓↓↓
「燻っていた差別感情に火がつき、ヘイトの連鎖が発生する」
こんなサイクルが、当たり前になりそうで危機感を感じます。
ところで、欧米では、日本人(というか、黄色人種)への偏見が意外と強いことはご存知でしょうかね。
なんか、ネトウヨの人って韓国や中国よりも自分達は白人に近いみたいな感覚を持っているみたいだけど、欧米の人には同じようにしか見えないんですよ。
うーん
発覚すれば当然注意ぐらいはひつようでしょう。
高校生の彼が韓国の事が嫌いなのも事実でしょう。だからと言って彼の主張が間違いだという事にはならないでしょう。歴史の授業で韓国語(フランス語でもドイツ語でも)を一時間教えるなんて事、文句が来たって当然という事です。
まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは言わないですよね。
そんな話じゃない
>だからと言って彼の主張が間違いだという事にはならないでしょう。
>歴史の授業で韓国語(フランス語でもドイツ語でも)を
>一時間教えるなんて事、文句が来たって当然という事です。
>まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは言わないですよね。
筋が通っていませんよ。
好悪に関係なく、歴史の授業で、外国語を教えることは脱線しているから、
どんな国の言葉でも駄目というのなら、未だわかりますが、
彼が韓国が嫌いだという感情による抗議、つまり、ある措置が個人の好悪により左右されることを容認するというのは筋が通っていません。
さらに言うと、たとえば、
「朝鮮人は、日本から出て行け」とか、「朝鮮人はキムチくさい」とかいう
ヘイトスピーチを撒き散らしながら街宣している在特会のような連中は、
コリアンが嫌いだからやってるわけですよね。
で、コリアンが嫌いなだけで、それは差別じゃないとか言い出したら、
あらゆる差別が、差別じゃないものとして肯定されることになりますね。
そんなふざけた話があるかいな(苦笑)
と記事にもあります。
ちょっと授業を脱線しただけでは?
これくらい私の学生時代は普通にありましたけどね…。
今の授業って授業が脱線しただけで指導を受けたりするんですか?
怖い世の中です。遊びがない、余裕のない世の中。
神奈川県教委の行動を肯定する人って、そんなギスギスした杓子定規な世の中が良いんでしょうか…。
しかし、ここでも見受けられますね。
ハングルだからではない、差別ではない。授業を脱線したことが問題だと。
本当に?
では、あなたが過去に受けた授業は全く脱線しなかった?少しでも脱線したらチクリました?好きなことを知る脱線、楽しいひと時だった脱線でもチクリました?
いたずらに嫌悪感を抱くのは憂慮すべきことだと思いますが
その「普通」の定義が充分議論されたものなら、その通りでしょう。
>まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは言わないですよね。
分別や社会性において、未熟な高校生が他の国・民族に対して、いたずらに嫌悪感を抱くというのは非常に憂慮すべきことだと思いますが。
私なら、自分の子どもが他民族に嫌悪感を抱いていたら、放っておけません。
高校生を責めるわけでも、思想の強制ではありません。
嫌悪の感情は情緒の問題です。
理性的な解決を抜きに、嫌悪感を容認したら、クラスメイトや隣人、家族にいたるまで「嫌悪しても良い」となりかねません。
(「差別する側が自分を合理化する決まり文句を見てみる」のいじめの正当化に近い、ロジックになりますね)
例えば、問題の高校生の過去の経験がトラウマとなって、韓国が嫌いだと言っているのなら、然るべきメンタルケアと、元となった「経験」について追求が必要でしょうし、経験とは無関係に、ネットやマスコミの情報などから嫌悪感抱いているとしたら、高校生と充分議論し、相互理解に務めるべきだと思います。
一言ご忠告を
せっかくのご忠告ですが
>「自分はあなたの意見には反対だが、
>あたながそれを主張する権利を守るためには
>自分は命をかける」
ヴォルテールの有名な言葉ですが、この言葉の真意は、
表現の自由という人権を守るということです。
この場合、一義的に公権力による人権弾圧から
個人を守るということです。
Aさんは、表現の自由の元ある主張をします。
そのAさんの主張に対してBさんが表現の自由の元、
批判します。AさんがBさんに反論、さらにBさんが再反論。
この一連のやりとり全てが表現の自由のもと公権力から保障され
なければならないというのが、ヴォルテールの言葉の一義的な
意味です。
Aさんの主張に対して、
Bさんは黙っていろという意味じゃないですからね。
誤解なきよう。
その上で、
例えば、
表現の自由が無際限に認められて、人種差別的言動まで認められると、
表現の自由の元、他人の人権を脅かすことになります。
ちなみに、
ヨーロッパの人権先進国では、人種差別を禁ずる法律があって、
もし日本の在特会がやっているような言動があれば、それは
違法行為として処罰されるでしょうね。
これもまた人権を守るためです。
では、こちらからも忠告させていただきます
あなたの持ち出されたヴォルテールの言葉が、
いったいどういう時代背景、社会情勢の中で、どういう意味で
述べられたのか。
啓蒙思想の時代と市民革命の初歩的な歴史を調べておくことを
お勧めします。
>一ノンポリリベラリスト様へ
>人が何を好み何を嫌うかは完全なる内面の自由であって、それが自分にとって受け入れ難いものであってもそれも「人権」の一つであり
「嫌悪感を抱くな」というのは、突き詰めれば詭弁ですし、立場が違えば思想の強制と受け止められるでしょう。
また、嫌悪の対象が、意思や人格を持った人間でなければ、全く問題ないと思います。
仮に、対象が人間であったとしても、相互に権利を侵害しない、分別を持って接するのであれば、それこそ「内面の自由」といえるかも知れません。
では、その「内面の自由」を飛び越え、他人の「人権」を容易に侵害される事象に対しては、どうお考えになりますか?
事実、私は在日なのですが、新しい上司に「韓国人が嫌いだから」という理由で、パワハラを受け仕事を辞めさせられた経験があります。
子供の頃などは、日本人の子から相当いじめられました。
嫌悪感が、権力や腕力を得て、たやすく暴力に変質することは事実としてあるです。
ましてや、16~17才の未成年に相応の「分別」を求めれらるでしょうか?
私自身に置き換えた場合、高校生くらいのころは、自身の経験と周囲の影響から、少なからず日本人に対して、嫌悪感をいだいてました。
幸い、専門学校に進んで「むやみに嫌悪感を抱いてはいけない」と諭す大人に恵まれたので、日本人に対する嫌悪感も晴れ、自分は救われたと考えております。
「むやみに人を嫌ってはいけない」は、確かに綺麗事かも知れませんし、内面の自由を束縛するかも知れませんが、嫌悪がヘイトに置き換わる芽を摘み取るには、自身への戒めも含め、効果のある言葉だと思いますがいかがでしょう。
毎度の事ですが(^_^;)、長文にて失礼します。
なんと申し上げましょうか、情けない教育委員会だな、と思います。子どもの差別感情に対して教育者として真摯に向き合うどころか、追認してやるなんて、教育に携わる者の対応としては0点でしょう。もし実際に処分なんかされていたら0点どころか-100点です(怒)。
しかし、どうして教育の分野では現場性と言うものがここまで容易に無視されうるんでしょうね。
内田樹氏が自身のブログで
「残念ながら、今の日本の教育がここまで劣化したのは、維新の会のかたがたが考えているように、「民の力」が教育行政に及んでいないからではない。
及びすぎたせいである。」
http://blog.tatsuru.com/2011/08/22_1258.php
と述べてあるのは、実に慧眼であると思います。
「12月下旬、学期末試験終了後」に「生徒が関心を持った」ことについて1コマ使った授業をしたら、具体的に「何が」「どのように」問題なのか、この授業を問題視する人たちは誰一人として説明してくれないんですよね…。「日本史の時間に外国語の勉強をしてはいけない」なんて仰る人もいますけど、「どうしていけないのか」は全然説明してくれませんし。
子どもがどういう能力や才能をもっているか、外面上は判断できないのですから、興味を持った事はとりあえずやらせてみるというのも、子どもの能力を伸ばす意味で、教師の大切な役割だと思いますけどね。しかも、それで授業がカリキュラムが致命的に遅れたという情報は、この授業を問題視する側からも出されていませんし。結果的に生徒の一人が気に入らない授業だったってだけでしょうにね。
> うーんさん
> まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは言わないですよね。
ohdedeさんによると
> 告発した生徒は自ら「2ch脳だから」と、韓国人に対してゼノフォビアを抱いていることを認めています。
…ということらしいですけど、それでも問題なしとしますか?
外国を好きになれと強要する事はできませんが、生徒がとある国が嫌いであるがゆえに、その国の国民一般やその国の文化に対しても嫌悪感情をあらわに攻撃する言動をとるならば、それは指導の対象になりえます。
どういう経緯でその国を嫌いになったのかはさておき、「国家」と「国民」は別物だし、「国民」が「多様な個人」の集合である事は、いずれの国でも普遍的な現実です。それをその生徒には理解してもらわなければいけません。
「国家」に対する感情を個人や文化に相対する時の感情と切り離さなければ、それはその国民一般やその国の文化そのものへの憎悪へと容易に直結します。そして現実にそうなっていますね。在特会などがいい例です。相手が多様な個人であることを無視し、本人にはどうすることもできない所与の社会的な属性を殊更に取り立てて攻撃するのは、紛れもなく差別です。
また、在特会に象徴されるような嫌韓・朝鮮団体が、「韓国・朝鮮人は○○だ」と言う時の「韓国人」あるいは「朝鮮人」など厳密には存在しません。「普通人」なるものが現実に存在しないのと同じ事です。彼らは自分たちの頭の中で、自分たちの都合のいいように「憎むべき韓国人・朝鮮人」像を作り上げているだけで、その「脳内韓国人」「脳内朝鮮人」を槍玉に、「現実の韓国・朝鮮人」を攻撃するという、詐術を用いています(あるいは、そうした誤謬を犯しています)。
実体の伴わない「敵」を想定し、現実の人間をそこに当てはめて攻撃するのは社会性に乏しい卑劣な行為ですし、それを特定の国や国民に当てはめるのは、上述したとおり、やはり差別に当たります。
差別感情は、虚心坦懐の人間関係を許しません。相手の国籍や民族を常に監視し、相手の美点や特性よりも欠点や劣位点の発見にこそ関心が集中する傾向を伴います。また事実に基づかない先入観は、人間関係の構築において、それはとても不健全な要素であるとわたしは感じますし、そうした差別感情に端を発する関係が良好なものになるのは難しいとも感じます。
日本は国として、少なくとも建前上は差別を肯定していません。差別は撤廃されていかなければならないというのは、やはり建前上でもこの日本社会のコンセンサスとなっているとわたしは思います。
上記の内田樹氏のブログから再度引用しますが
社会的共通資本としての学校の目的はただ一つである。
それは「集団を支える成熟したメンバーを再生産する」こと、要するに「大人を作り出す」ことである。
(中略)
「公民」というのは「公共の福利を自己利益よりも優先的に配慮する人間」のことである。
これは形成することのきわめて困難な社会的存在である。
マルクスはかつて「公民」(citoyen)を「類的存在」と呼んだ。
孔子は「仁者」と呼んだ。
求めて得がたいものであるが、そのようなふるまいをする人物が一定数供給されないと、社会集団は維持しがたい。
差別の撤廃を建前上でも掲げる社会において、社会集団の維持を担いうる「公民」たる国民を育成する過程において、生徒が差別感情にとらわれていることが明らかになった場合、生徒を指導する大人の側、すなわち差別を否定する社会の側が毅然とした指導を行わなければなりません。それが教育の本義にかなう事です。
もちろん内心を強要する事はできません。国家を憎悪することがあってもそれを個人に及ぼしてはならないとする、差別を避けうる行動の原則を指導したとしても、彼(あるいは彼女)が今後それに倣うという保障はありません。ですが指導によっても彼(あるいは彼女)が変わらないという保障もまたないのです。であるなら、指導する大人の側がすべき事は、彼(あるいは彼女)の可能性を信頼して適切な指導を毅然と行う事です。最低でも内心の嫌悪を社会的に表明、ないしは行使しないという、本当に最低限度の社会的振る舞いだけでも身につけなければ、将来にわたって彼(あるいは彼女)が主体となって差別を行ってしまう危険性、あるいは彼(あるいは彼女)が差別感情を社会的に表明、あるいは行使したことによって彼(あるいは彼女)自身が社会から遠ざけられてしまう危険性を放置することになるのです。
彼(あるいは彼女)を指導監督する責任のある教師、学校、教育委員会がこの危険性を放置し、彼(あるいは彼女)の指導を怠ってはいけないとわたしは考えます。繰り返しますが、それが学校の役割に沿う事、つまりは教師、学校、教育委員会の責務であるからです。
まぁ、さすがにこの件の生徒を特定して個別の指導すべきとまでは思いません。そこまでしてしまうと件の生徒にはどうやっても圧迫的な印象しか与えないでしょうし、今後の件の生徒と教師、学校の関係を考えた時には大きなマイナス要因になるでしょうから。ただ、教育委員会がこういった「クレーム」には応じない事によって間接的な指導=この社会は差別的な言動を許容しないという表明を公に行うべきだったと思います。
それは当該生徒にとっても想定内のことでしょうしね。
しかし、現実はどうでしょうか。教育委員会は、彼(あるいは彼女)の「ゼノフォビア」をあろう事か是認し、教師への指導と言う形で追認さえしてしまいました。適切な指導をすべき側が、未熟な振る舞いをした生徒に媚びて、その役割を放棄したのです。
思いがけず大きな効果をあげてしまった彼(あるいは彼女)の事が、わたしは少し心配です。先生への処遇を気に病んでいたり、自分の力で先生にも被害を与えうるんだと慢心したりしていなければいいのですが。
うーんさんはそもそも学校の役割をどのように考えておられるのでしょうか?
子どもに教育を与え、子どもの能力を伸ばし、子どもを社会化すると言うのはどういうことかを考えた時、わたしは彼(あるいは彼女)の「ゼノフォビア」を放置するという選択肢はありえないと思うのですが。適切な指導を行うか、少なくとも教育委員会が彼(あるいは彼女)の差別感情を追認し、教師の側を処分するなどと言う事はすべきではありませんでした。
こうしてまた教育に対する「民の力」の干渉が「有効」であると証明されてしまった以上、類似の事件は今後何度でも起こるでしょう。大変気が重い事です。
嫌悪感情はいたしかなのない事としても、その感情を恣意的かつ無制限に拡大して良いと言うことはありませんし、責任のない外国人一般を憎悪し、攻撃してしまうのは、単純に社会生活を営む上においてだけでも大きな不利として働きます。「わたしは韓国人が嫌いだ」「わたしは日本人が嫌いだ」そうやって差別的な嫌悪感情を明け透けに吐露して、互いに憎み合うような社会が幸福な社会だとはわたしには到底思えません。
件の生徒が表明した嫌悪感情に対して、その感情の出所は果たして妥当なものであるのか、その感情の振り向ける先は果たして妥当なのか、その嫌悪感情とどのように付き合っていくのか、そういった指導を件の生徒個人に対してではなく、学校全体で腰をすえて取り組むことこそ、必要だったとわたしは思いますが、うーんさんはどう思われますか?
> 一ノンポリリベラリスト さん
> 人が何を好み何を嫌うかは完全なる内面の自由であって、それが自分にとって受け入れ難いものであってもそれも「人権」の一つであり、他者が侵してはならないものではありませんか。
だったらあなたも秋原さんやここで議論している方々の「人権」に干渉なさらないほうがいいのではないですか?少なくとも、うーんさんと議論しているどなたも(わたしも含めて)、うーんさんに「黙れ」とは言っていません。うーんさんはこのコメント欄でも、どこかにブログを開設しても、個別にメールを送ってもいいわけで、反論の機会は与えられているはずです。またおそらくわたしも含めてどなたもうーんさんに思想的な変節を強要できる立場も能力も持ち合わせていないと思います。つまり、うーんさんの「主張する権利」は一寸たりとも侵されてはいません。
また、うーんさんは議論相手の意見を受け入れる/受け入れないの最終的な決定権も侵されてはいません。反論があっても無視することもできます。これが「内面の自由」への侵害であるというのはいささかナイーブに過ぎると思うのですが。
もちろん、反論や批判を受けるのは「しんどい」ことで、それが批判や反論を受ける人の内面に影響を与える事はありえます。ですがそれは人が人と関わりあうこと=社会生活を営んでいれば、いくらでもありえる事でしょう。それとも人は他者に対して一切のいかなる影響も与えるべきでないとお考えなのでしょうか?であるならば、どうすればそのような社会が実現可能であるとお考えでしょうか?
そもそも反論や批判が怖いなら、こういった発言が無制限に近い形でオープンな場所で発言しない事です。クローズドなブログや、自身のパソコンのハードディスクの中のワード文書で、意見を書きとめて置くなら、誰もそれに反論も批判もしません。
しかし、少なくともインターネットと言う空間では、基本的に誰もが自由に発言できると同時に、誰もがその発言に対してレスポンスができるというのが前提としてあるはずです。このコメント欄はブログ主である秋原さんの私的な空間の一部ではありますが、同時にいろいろな人が意見を表明している公共のくうかんでもあります(もちろん最終的な管理の権利は秋原さんに属しますが)。公の場で意見を表明して、それが批判や論評の対象にならない、してはならないなどという事こそ、言論の自由を脅かすものでしょう。それとも「内面の自由」を「批判や反論を受けない権利」と勘違いされているのではないですよね?
少なくとも、誰かが言っていることを「間違っている」と感じたら、それを表明し議論することもこの国で認められた人権のひとつだとわたしは思うのですが。
以上、毎度の長文失礼しました。
一応ソースを
ヤフーニュースからです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110826-00000003-jct-soci
実際の2chのレスも、コピペブログなどから、結構でてきますが、このへんに関しては、嫌いな方もいらっしゃるのかも知れないで、興味がおありでしたら、ご自身で調べてくださいませ。
少しだけ。
今回のやり取りですが、自分と違う考え、意見に対しての反論は許されない、黙っておけ、スルーしろというのは問題ないですか?
あと、管理人さんでもないのに他者の主張する権利を奪うなんて物理的に無理だと思うですが…。
一ノンポリリベラリストさん、冷静にコメント欄を振り返ってみてください。
多勢に無勢、寄って集ってに見えたのかなぁ?
>授業で韓国語(フランス語でもドイツ語でも)を一時間教えるなんて事、文句が来たって当然という事です。
学習指導要領の授業計画をこなしてさえいれば、教師個人の考えに沿った授業がある程度認められている筈ですが。
例えば、数学の授業でも、単に教科書の問題を解いているだけの授業の教師もいれば、数学ゲームを交えて生徒の興味を引き出した上で授業をする人もいます。(正田 良著の算数・数学なんて怖くないとか読んでみるといいですよ。)
社会の授業では、映画を通して他の国柄とか、文化を学ばせる教師もいます。
なので、日韓の歴史を話題にした時、韓国語を授業に出したとしてもそんなに憤る事じゃないですよ。大体、行われた時期は期末試験の後で、授業ですべき事は大体済んでいるわけですし。
AGENさんへ
>文化を学ばせる教師もいます。
いたいた(笑)
中学時代だけど、映画を年間100本以上見ている映画好きの教師がいて、
よく映画の話をしていたよ。映画好きが興じて映画評論の本まで出してた
みたいだけど。あとプロレス好きで、脱線してプロレスの話をすると
止まらなくなるみたいな教師もいた。でも、そういう教師ほど、教科の指導もうまくて、もちろんノルマはきちんとこなしていたし、あきさせない授業を工夫して
いたようです。
そういった教師についていたときの方が、私の成績はマシでした。
なになに、
これからはそういった名物教師の存在も許されなくなるのかいな。
教育委員会にちくって、処分されちゃうってか。
ほんまに恐ろしいわ。
うーん
で、私はフランス語だろうがハングルだろうが指摘をされれば注意されて当然だと思うわけです。教育の機会を奪っているわけですからね。
で、この指摘をしたという生徒が差別的感情から言っているから問題だという方が多く見られますが、それは話が別の問題です。指摘自体が正しいかどうかが、問題なのです。
生徒の思想、信条は生徒のものであり矯正すべきものではありませんと、あなた方が言わなければならないのではないでしょうか。この生徒は何か差別的な行動を取ったのでしょうか?
だから筋が通っていない
ところがこの生徒については、うーんさんご自身が、
以下のようにおっしゃっているわけです。
>高校生の彼が韓国の事が嫌いなのも事実でしょう。
>まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは
>言わないですよね。
さて、
あらゆる措置、作為、不作為において大事なのは趣旨です。
例えば法令についても、その法令の執行においても、
その趣旨が問われるのは
言うまでも無いことです。
うーんさんは、どの外国語だろうと問題だという立場。
いっぽう
この高校生については、韓国に対する嫌悪、つまり嫌韓感情に基づいて
ハングルだから問題視していると推察されるわけです。
そして、その嫌韓感情に基づいた行動ゆえに、
そこに差別感情が見て取れると指摘しているのです。
そもそも、少年が一つの民族に対する嫌悪感情を持っていることを、
単なる好悪の問題で片付けていいのですか?
教育上、その少年と向き合って、その嫌悪感情はどこから来ているのか
話し合うのが、それこそ、“教育の機会”に資すると思いますね。
これからの国際社会において、様々な民族国籍の人と仕事においても、
私生活においても関わっていく事になるわけですから、
ある民族に対する嫌悪感情に取り付かれていようが、ほっとけという態度の
ほうが、よっぽど、“教育の機会”に答えていないことになりますよ。
“教育の機会”とは教科書どおりの授業をすることに限りませんよ。
もっと幅の広いものです。
そして、
問題とされている授業についてですが、この教師がきちんと学期における
所定の科目教育をこなし、ノルマを満たした上でならば、
期末試験後、休み前の授業において、その程度の派生的な内容の授業が
あったからと言って問題視するのはおかしいですよ。
私の学齢期の経験上、その程度の授業はざらにありましたからね。
そして、
そういう派生的な内容の授業をするぐらいの余裕、遊びを取り入れる
教師ほど、科目教育自体の指導も上手で工夫されていて、
私はむしろ好成績を取る機会に恵まれました。
そういった事情を鑑みずに、
一時間使ったから駄目と、杓子定規に決めてかかるのは、
知的情緒的未成熟に基づく思考停止に他ならないと思いますよ。
>この生徒は何か差別的な行動を取ったのでしょうか?
この生徒は、現に2chの影響で嫌韓感情を持ったと
認めているわけです。
一つの民族に対する憎悪に基づいての行動だったのならば
それは差別的な行動だということになります。
だって、それが他の民族の言葉で、その民族に対する嫌悪感が
無ければ、そういう行動は取らないということになるのですから、
そこに差別が見て取れるでしょう。
ですから、その場合、
あらゆる外国語であれ駄目だといううーんさんの立場とは
違う話になってくるのです。
そして、
そういう派生的な内容の授業をするぐらいの余裕、遊びを取り入れる
教師ほど、科目教育自体の指導も上手で工夫されていて、
私はむしろ好成績を取る機会に恵まれました。
教科書の内容をただ、暗記させるだけの教師ほど酷いものは無いなぁと思いますね。遊びを取り入れるのは大切だし、それが生徒の興味を引き立てて、ひいては学力も向上するんじゃないかなと。
反日反日ってネトウヨは呪文みたいに言ってるけどいっその事江戸時代の鎖国状態に戻ろう!って主張したらどうなんだろうなと考えてしまいます。
ためにする議論
うまい具合に、私がこの次のエントリーで書いたような姿勢がちょうどそのまま当てはまりますね(笑)
日本史で韓国に関する授業内容だったついでにハングルを教えたことは許されないと、何としても合理化したいようですが、こういう無理筋な理屈をつけようとすると、どうしても会話のキャッツボールができなくなることが往々にしてあります。
うーんさんが最初に仰ったこと
「うーん、フランス語でもドイツ語でもダメでしょ、普通に。
発覚すれば当然注意ぐらいはひつようでしょう。」
に対し既に何人ものコメンターさんが既に答えになっていますよ。期末試験が終わった後なんてみなほっとして先生の自由講義になることなんか普通のことだとか、先生は授業に関してある程度裁量権を持ってるのだから、ちょっとでも規格外になったら罰なんておかしいという趣旨のことを皆さん仰ってますよ。
私だって、授業で韓国について触れる機会があってそこからハングルの話になったら、中にはハングルを学びたいという意欲を抱く生徒が出てくるかも知れないわけで、そうやって生徒の学習意欲をわかせることもあるだろう、と書いています。これは生徒の学習する権利を奪うどころかかえって豊かにする機会を与えているわけでしょう?むしろ「教育を受ける権利」に沿うものではありませんか。違いますか?
ところがうーんさんはそれらにお答えにならないまま、また最初に言ってたこととほとんど変わりないことを繰り返しているだけですね
最初のコメント
「うーん、フランス語でもドイツ語でもダメでしょ、普通に。
発覚すれば当然注意ぐらいはひつようでしょう。」
他のコメンターさんたちのコメント後のコメント
「まず、今回問題になっているのは社会の授業中一時間使い、外国語の授業を行ったという事です。
で、私はフランス語だろうがハングルだろうが指摘をされれば注意されて当然だと思うわけです。教育の機会を奪っているわけですからね。」
↑
ね?同じことの繰り返しでしょう?他のコメンターさんのコメントはガン無視で、会話のキャッチボールになっていません。他のコメンターさんからの反論に対し、うーんさんは全く再反論できていないのに気付きませんか?
壊れたレコードのように最初と同じ事を繰り返されても無意味です。私のブログのコメント欄ではもう少し発展的なやりとりを心がけていただきたいと希望します。そういうやり取りがおできにならない方は見かねて非承認にすることがあります。コメント欄の浪費になりますから。
■さて、うーんさんの言い分に従えば、
例えば世界史でフランス革命を教えているついでに、革命時によく言われた「フランス万歳」はフランス語でビブ・ラ・フランスという、と説明したら生徒がフランス語に興味を示し、ビブ・ラ・フランスの「ラ」って何かと聞かれたので、フランス語には女性名詞と男性名詞があって・・というようにフランス語の文法の話が発展してきて生徒がノリノリになってしばしフランス語講座みたいになり、生徒がフランスの言語、文化に興味を抱くようになっても「それはけしからん授業だ、教育委員会に訴えてやる」ということになります。
違いますか?是非お答えください。
■教師は自分の授業に関しある程度の裁量権があるとされていることはご存じですか?しかしうーんさんはその裁量権を1ミリたりとも認めるな、と言ってるに等しいですね。
うーんさんは1ミリの規格外も許さない厳格で杓子定規な規範意識をお持ちのようですから、次のようなことはどのようにお考えになるのでしょうか?
1.ほんの少しの脱線さえも許さない規格通りの授業の提供は、それを行わない教師は処罰対象になるほどでなのですから、そういう規格通りの授業を受けることは生徒には何よりも大事な義務であると考えるのが一貫して筋が通りますね?
では、授業中にちょっとでもぼーっとしてたり、ちょっとでも居眠りしてしまうことは「まじめに授業を受ける義務」から逸脱したあるまじき態度であって、教師が教育委員会から何らかの処分を受けるのと同様の重い罰、例えば停学処分くらいに値すると思うのですが、どうですか?
内職なんてもってのほか、退学に値するんじゃないですか?
2.日本史の授業では何があっても日本史以外に絶対に話がそれてはならない、それが学習指導要綱に沿うことであるという非常に形式主義的な杓子定規さからすれば、決まり事からほんの少しでも外れることは許されないという態度でいらっしゃるのでしょう。
きっと、道路におちてた10円玉を拾ってこっそりポケットに入れたら、たとえ額が少額でも窃盗あるいは占有離脱淵横領に該当するわけですから、逮捕起訴されるべきとお考えですね?
以上3つ、是非とも質問に答えていただけますか?
もしもこの質問の答えがノーならば、私はあなたを都合のいいダブルスタンダードな方だと思うでしょうし、イエスならきっとどこかの独裁強権国家出身のかたなんだろうな、と思う次第です。
うーん
フランス語に興味云々の件
生徒全員が興味を示したのならある程度の範囲で許容はされるでしょう。当然今後のカリキュラムに影響のない程度に。
数人の生徒程度であればサラッと流して次に行くべきでしょう。もしくは放課後にでも集めてやってくれと言う事です。わざわざ授業潰してまでやる事じゃないでしょうに。
次に授業を受けるのが義務と考えるのが当然かどうかはあなたの考え方でしょう。給料もらって行う職業とお金払って授業を受けにくるのではかなり立場が違うと思いますがね。
まあ、授業をきちんと受けていないなら注意されてもっ仕方ないでしょう。ただなぜ停学や退学なんでしょうか?注意でよいでしょ、この教師が停職や懲戒免職にでもなったのでしょうか?注意されただけでしょ。
最後に、十円ポケットに入れて罪悪感もなく当然と思う方がおかしいですよ。
ご発言を勝手に引用させていただきましたところに、情報ソースの提示をいただきありがとうございました。
> うーんさん
> 今回問題になっているのは社会の授業中一時間使い、外国語の授業を行ったという事です。
なるほど、うーんさんはこれは自由裁量の範囲を逸脱している、なぜなら生徒たちの「教育の機会」が損なわれたからだ、というご主張なわけですね
「日本史の時間を1コマ使って外国語の授業をするのは、生徒の教育の機械を奪うから問題だ。よって教育委員会の教諭への注意は妥当である」
以上のようにまとめさせていただきましたが、よろしいでしょうか?
以下、よろしいものとしていくつか疑問を述べさせていただきます。
まず「日本史の時間を1コマ使って外国語の授業をするのは、生徒の教育の機械を奪うから問題だ。」と言う点ですが、まずその授業が行われた時期について、元記事でも、コメント欄でも何度も指摘されていることがあります。
12月の末、学期末試験の直後、というタイミングである事です。
さて、学校の授業と言うのは野放図に進められているものではなく、きちんと学習指導要領というものがあり、「○学年の□学期に、△△まで教えなさい」という規定の下に進められています。この「△△まで」という区切りは、当然学習するに当たって「きりのいい」点に設定されています。
たとえば古典で「源氏物語」を学習する時、この途中で学期が終わるというような事は基本的にはありません。なぜなら間に長期の休みが挟まると、「学習の連続性」というものが損なわれるからです。要するに休み明けにいきなり「はい、前回の続き」と言われても、生徒も先生も困ってしまいますよね。
この先生は期末試験終了後というタイミングからも解るとおり、授業を「きりのいい」ところまで進めてしまっていたと推察できます。ここで1コマを使って中途半端に次の単元に入ると、長期の休みを挟んでしまうことで、「学習の連続性」が損なわれてしまうでしょう。
そこで、この授業が行われたというわけです。こうした事情などから、1コマを使って脇道的な授業が行われることは決して珍しいことではありませんし、その動機が悪質であるという事もありませね。
さて、第一の疑問です。うーんさんは生徒たちの「教育の機会」を奪ったからこの授業は問題だと仰いました。しかし、生徒たちの「教育の機会」が損なわれたということが、果たして証明可能でしょうか。
言い換えれば生徒たちの「教育の機会」は、本当に損なわれたのでしょうか?
ここで言う「教育の機会」はフリスキーさんや秋原さんが仰るように、教科書どおりの授業に留まらないものだと、わたしも思います。うーんさんも教師の裁量権をある程度は認めるというお立場のようですから、この「教育の機会」の定義にはご同意がいただけるものと思います。
うーんさんが、この授業によって「教育の機会」が損なわれたと主張されるのであれば、たとえばこの授業のために日本史の授業が試験や受験に影響を及ぼすほどに遅延した、とかこの授業で生徒が排除されて学習に参加できなかった、などといった具体的な根拠に基づいてそのことを証明する必要があるように思います。
しかし、この授業を問題視した当の生徒でさえ、そんな事は一言も言っていませんし、教育委員会の注意の根拠もそんなところにあるのではありません。これは元記事や、このエントリ、あるいはohdedeさんが提示されたYahooニュースからも明らかです。
うーんさんが「教育の機会」を損なったと判断された根拠は一体なんでしょうか?またそれはどのようにして証明されるのでしょうか?お答えをいただければと思います。
第二に、その根拠に関連してですが、この問題で教育委員会の述べた、教師への注意理由は以下のとおりです。
> 「学習指導要領を発展させた授業を行う場合はあるが、今回は生徒や保護者、県民に疑義を持たれる行為だった」
> 「歴史事象に対して多様な考え方がある中で、一方的な解釈は望ましくない」
二点あるいずれにも”生徒の「教育の機会」を奪った”という、うーんさんが考える大変重要な指摘が欠けているのはなぜだと思われますか?
第三にその指摘が欠けていても、この教育委員会の注意は妥当なものであると思いますか?注意の理由を明確にしない注意など、わたしは茶番か嫌がらせにしかならないと思うのですが、うーんさんはどう思われますか?
第四に教育委員会の述べた「生徒や保護者、県民に疑義を持たれる行為」という文言の中の、”疑義”とは具体的にどのような疑義だと思われますか?
第四点については、単純にわたし個人の興味に基づくものですが、お答えをいただければ幸いです。
以上、長文失礼しました。
> うーんさん
> 生徒が差別的感情から言っているから問題だという方が多く見られますが、それは話が別の問題です。
全く別の問題と言うわけでもないでしょう。だって件の生徒が授業後先生に抗議したり、ネット上で訴えたのは、生徒自身の「ゼノフォビア」が理由でしょう。教育委員会の行動(わたしが問題にしたいのはむしろこちらですが)がそれを結果的に追認する形になっている事と無関係だとは思えません。
> 生徒の思想、信条は生徒のものであり矯正すべきものではありませんと、あなた方が言わなければならないのではないでしょうか。
ですからこの点について、ohdedeさんも血を吐くような告白と共に論じておられますし、わたしもかなりのスペースを割いて説明しました。件の生徒に嫌悪を捨てなさいと、強要はできなくても、指導は必要である、と。
生徒個人の人格や尊厳を尊重する事は確かに大事です。ですが、それは生徒個人の内面に一切干渉しない事を意味しません。生徒の内面への干渉が禁じられるなら、生徒の悩みや葛藤に対して、相談に乗ることも援助することもできなくなります。
件の生徒は未成年=子どもであり、一般的には未熟な存在です。学校とは未熟な存在である彼らの能力と情緒を育てて「『集団を支える成熟したメンバーを再生産する」こと、要するに「大人を作り出す』こと」を目的として、彼らを教育する場所です。彼らは尊重される個人ではありますが、同時に教育の対象でもあるのです。生徒を個人として尊重する事と、 彼らに教育が必要であることは何ら矛盾しません。
何より、人を個人として尊重すると言う事は、その人の内面に一切の干渉をしないという事ではありません。そんな事になれば、人と人との係わり合い全てが否定され、社会そのものが成り立ちません。もし「個人の尊重」という概念をそのようにお考えなのであれば、それは間違っているとだけ申し上げておきます。
> この生徒は何か差別的な行動を取ったのでしょうか?
いや、何かもなにも…件の生徒は自身で、自分の行動は「ゼノフォビア」によるものだと認めているんですけど…。少なくとも子どもが自分には差別感情があると表明しているのですから、大人の側はそれに対応する義務あるでしょう。にも関わらず教師に注意を与える事で、生徒の差別感情にお墨付きを与えるなどもってのほかです。
以前にも申し上げましたが、この社会は一応差別の撤廃を目指す社会です。であるならその社会の成員である大人が、将来の成員となる子どもたちに差別感情があるとわかったとき、社会の成員にふさわしい大人に育っていくように、何らかのアクションを起こすべきでしょう。何もしないのはいわばネグレクトですよ。
水をさすようですが…。
私がソースを提示した理由は、教師が過剰なまでの社会的な制裁をうけているからです。
ソースのYahooニュースのコメント欄を見ていただければ、容易に想像できると思いますが、2chなどでの教師に対する人格攻撃は目に余るものがあります。
個人名や写真まで晒されたとの事です。
果たして、ここまでの制裁を受けるほど悪質な授業だったのでしょうか?
うーんさんがおっしゃるように、「注意だけで」済むとしたら、教師の「人権」がここまで侵害されても良いのでしょうか?
おそらく、観測霊様が指摘されるような、県教育委員会の不味い対応が招いた結果だと思います。
非道な中傷によって、教師が辞職せざる得なくなったら、懲戒免職に等しい制裁にはなりませんか?
※秋原葉月様
パスワードを設定せずに、投稿して申し訳ありませんでした。
「生徒自身」が告白しているように朝鮮、韓国への差別意識から県教委にチクった。
↓
公の県教委が一人の生徒の差別意識を容認して、教師を処分、注意をしてしまった。
ですよね?
う~んさんは、授業を逸脱したから教師が注意されただけだと仰ってますが、まず立脚点が事実と違う。
自分の都合の良い立脚点でお話されているので、話が噛み合わないんだと思います。
私も書き方が悪くて申し訳ありませんでしたが、私の要約した立ち位置から今回の問題を考えてみても、う~んさんは「何も問題なし」とお思いになるのでしょうか?
お返事
ではこの生徒が韓国人とフランス人に別々に一万円づつカツアゲされました。この生徒は差別的感情により韓国人から一万円カツアゲされたと警察に言いました。
これはこの生徒が悪いのでしょうか?
脱線しながら授業を行うやり方が詰め込み式より、教育効果が高いならそれで良いですけど、実証されたという話は聞きません。今のゆとり教育になってから学力が低下しているのは結果が出ていますけど。
観測霊さんへ
まず区切りがついたかどうかはあなたも書いている通り推測でしかなく、ついていなければ確実に教育の機会を奪っていますね。またテスト終わりの一コマであればテストの答え合わせや、普通に次の授業に入っていましたけどね高校では。脱線や冗談を言う先生はいましたが、興味のある事は楽しく聞いていましたが興味のない事は、早く終わらないかなと思っていました。先生は一人ですけど、生徒は何十人もいるのでいろいろ考え方があるでしょう。関係のない事で時間潰す位なら自習にしてくれと言う事です。
この様に考える生徒にとっては教育の機会を奪っていると思いますが。又、この教師は生徒が興味を持ったからと言っていますが、生徒が興味を持たなければ何を行う予定だったのでしょう。もっと歴史に近い授業を行っていた可能性もあります。またこの教師は他のクラスでは何を行ったのでしょうか、復讐でもしていれば、やはり教育の機会を奪っていると思いますが。
まあ、あなた方が教育の機会を広くとらえるのは勝手ですが、学校における教育の機会は知識の習得だと思いますし、歴史であれば歴史に対する知識の習得だと思います。
教育委員会の見解の一つ目は
この先生が、韓国人に生まれたかっただとか韓国大好きと言っていますよね。保護者からしてみれば歴史の授業もせずにハングル教えたとなれば、自分の趣味で授業を行っていると思われても仕方ないという事でしょ。これでフランス語やドイツ語も教えているんなら別ですが。まあ、フランス語でもドイツ語でも問題ですけどね。
また疑義と言う事の中に教育の機会を奪ったというのも入っているんじゃないでしょうか。いろいろ言うともめるから疑義とひとくくりにしてうやむやにする、お役所作文何じゃないですか。
二つ目は校外学習についてでしょう。
関東大震災の時の朝鮮人虐殺にはいろいろ見解があるという事でしょう。教育委員会では。
その事に関して私は何も言っていませんが。
残りは又書きます。
>ではこの生徒が韓国人とフランス人に別々に一万円づつカツアゲされました。この生徒は差別的感情により韓国人から一万円カツアゲされたと警察に言いました。
これはこの生徒が悪いのでしょうか?
一万円捨ててでも韓国人だけを貶めようという意思が見え見えですね。そうまでしてやりますか普通。
>脱線しながら授業を行うやり方が詰め込み式より、教育効果が高いならそれで良いですけど、実証されたという話は聞きません。今のゆとり教育になってから学力が低下しているのは結果が出ていますけど。
2CHあたりはゆとりゆとり言ってますが、ゆとり教育そのものが悪いのではなく、ゆとりのあり方に問題があったというのが、教育学者の間では言われてます。
ゆとりを持たせて余った時間を生徒のそれぞれ個人の自主性を育てる為の勉強にあてるというのが、ゆとり教育のそもそもの目的だった筈なんですが、そこで問題だったのはこの「ゆとりのある時間」を「だらける為の時間」にしてしまった事じゃないですかね。
ここでもっと教育者側が働きかけて生徒個人個人の興味に応じた授業をしていれば、よかったんでしょうけど。
>脱線しながら授業を行うやり方が詰め込み式より、教育効果が高いならそれで良いですけど、実証されたという話は聞きません。
そりゃあ、2chみたいなネットとかではそんな検証は行わないでしょうねw
教育学関連の本・・・というより、教え方が載っている本を探して読んでみるとよいですよ。「若い先生の為の教育~」みたいな本とか。ブックオフとかにもたまに売ってます。
でも、手っ取り早いのはNHKの教育関連の番組をウォッチングする事ですかね。
>秋葉原月さん
10月1日には六本木で日韓交流祭が行われるとかって新聞の広告に載ってました。都知事がまた、なんか、やらかさないかって事も気になりますが、何はともあれ交流が深まればいいなーと。
うーんさんへ
>一万円づつカツアゲされました。
>この生徒は差別的感情により韓国人から
>一万円カツアゲされたと
>警察に言いました。
>これはこの生徒が悪いのでしょうか?
被害にあった少年をA君としましょう。
犯罪被害による通報なんですから、その通報自体は、
当然のことです。善悪以前の問題です。
これは通報するべきことであって、もし通報しなければ、
その後、自分以外にも被害者が広がる危険がありますね。
ところが、A君は、韓国人についてだけ通報して、
フランス人の犯行については通報しなかった。
そして、その理由は、それは日頃からその少年が韓国人に対する
ゼノフォビアを抱いていたからだ、というのであれば、
通報の是非以前に、
犯人の国籍によって、その扱いが変わるという意識の中に
差別意識、差別感情、民族嫌悪がはっきりと見て取れます。
さらに、フランス人について通報しなかったということであれば、
通報しないことによる社会的デメリットを説くべきでしょうね。
あなたのような被害者がさらに続出する可能性があること、
またそのフランス人自身の更正の機会を奪うことにもなるのだという
ことを説くべきでしょう。
それを、そのまま問題無しとうーんさんが、お考えなのならば、
あなたは、この国の社会に差別意識、差別感情が広がっていこうが、
それは当人たちの自由の問題であり、放っておけということでしょうか。
また、特定の外国籍の人の犯罪ばかりを問題にして、他の国籍者の
犯罪については不問に付すということを容認するということでしょうか。
だとしたら、相当に問題ですよ。(笑)
もう少し頭を働かせてみてはいかがでしょうか。
むしろ、教育現場であれば、教師たちは、この国に生きる他民族との
関わりにおいて、国際的感覚の醸成、他文化理解、対話によって、
そのような先入観に基づく
ゼノフォビアを解いて行くべく教育的配慮をしていくべきだと
思いますよ。そんなことは世界の常識の範疇の話です。
ところが、うーんさんによれば、それは個人の好悪の問題であって
差別ではないとおっしゃるわけです。それは、明白に世界の非常識です。
世界には、人種差別撤廃条約というのがあり、日本はそこに加入している
ということを御存知ですか。そして、
既述したようにヨーロッパの人権先進国では、
レイシズム的言動に対しては、法的制裁を課す立法がなされているのです。
それぐらいに、人種差別および民族差別というものは人権と密接に絡む
大事な問題なんです。
次に、こちらから質問させていただきます。
うーんさんは、以下のようにおっしゃっていますね。
>高校生の彼が韓国の事が嫌いなのも事実でしょう。
>まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは言わないですよね。
では、
好き嫌いと差別の違いは何でしょうか?
“単なる好き嫌いで片付けて良いこと”と、
“差別の問題として捉えられること”の違いです。
その基準を教えていただけますか?
うーんさんへ追伸
二件の犯罪被害の件の話になり、A君に対して、
どうして一件しか通報しなかったの?と質問したとします。
そこで、A君が、
『だって俺、韓国人って嫌いなんっすよ。あいつらむかつくし、
反日的だし、マジきもいっすよ。でも、フランス人は、俺的に
イメージ良いんで、
韓国人だけ刑務所にぶち込んで欲しいっすよ。」
とか言い出して、それに対して、うーんさんが、
『そうか、それは個人の好悪の問題だな。それはそれで個人の自由だから
問題無いよ。』
とか答えたら、うーんさんは、教師失格だと思います。
即刻辞表を出すべきでしょうね。
うーん様へ 誤解しているようですが
>この先生が、韓国人に生まれたかっただとか韓国大好きと言っていますよね。
教師と生徒の間の話であって、教育委員会の見解とは文脈が違います。
なので、ここでこの話を持ち出すのは、適切といえるでしょうか?
ソースが悪かったのかも知れないので、原文を掲載します。
「超絶ゆとりで申し訳ない
高校の日本史の授業なんだが教師がハングルの練習をさせてくるんだがこれって問題じゃないのか
しかも校外学習では関東大震災時に朝鮮人虐殺となった場所の見学
苗字は左右対称
あまりにひどいので直談判しにいったんだが(もちろん抗議ではなく先生って韓国好きなんですか?程度)
韓国人に生まれたかったとかいう始末。テストも朝鮮多め。
いやまぁ2ch脳で韓国嫌いになったわけだが日本史の先生が朝鮮の話ばっかするのっていいのか?」
生徒は、「直談判しにいったんだが(もちろん抗議ではなく先生って韓国好きなんですか?程度)」と言っています。
教師は生徒の「韓国好きか?」との質問に対して、「韓国人に生まれたかった」と答えているのであって、それこそ、個人の趣向の次元の話ですよ。
しかも、「もちろん抗議ではなく」という前置きまでし「韓国好きなんですか?」“程度”と、生徒の文面からは“授業に対する直談判”という意図を、教師に伝える意思が見られない、というか敢えてはぐらかしているように見られます。
実際の所、教師は生徒からの世間話レベルの「韓国好きなんですか?」という質問に対し、「韓国人に生まれたかった」と答えているのであって、むしろ、生徒や、それらを後押しした2ch住民、そして報道したメディアが、「ハングルの授業をする理由」に結びつけ、解釈しているように見受けられますが。
ちなみに、私が知るかぎり、教育委員会が教師の「韓国に生まれたかった」という発言について、何らかの言及しているという報道は一切見かけません。
それとも、生徒と教師が個人の趣向について「自分は××が好き」と話すの事も問題なのでしょうか?
私なんか、イギリスのハードロックが好きで、本気で憧れていたときは、イギリスが好きかと聞かれたら「アイルランド系イギリス人に生まれたかった」と答えてましたよ。
それっても問題ですか。
お返事
先ほどカツアゲのたとえ話を出しましたが私もフリスキーさんと同様にフランス人も韓国人も通報されてしかるべきだと思いますし、ずっとそう主張しております。
で、私はカツアゲは良くないので通報は当然という事を言っているのです。つまり今回の件では授業の逸脱(カツアゲ)が激しい(良くない)ので指摘(通報)は正しいという事を言いたいのです。
だから議論されるべきは授業の逸脱についてとそれに対する処置の重さだと思います。私は注意されて当然だと思いますし、教育委員会もそう思ったのでしょう。停職や懲戒免職では確かに厳しすぎるでしょう。妥当だと思います。
この考えの中に生徒の差別感情を加味する必要はないと思います。
また、教育委員会の態度が問題だともおっしゃっておりますが、繰り返しになりますが注意をするぐらいは必要だと思いますが。
又、後でお返事続き書きます。
はじめまして
この騒動の事実関係について、そもそもの産経の記事自体の信憑性に疑問を感じています。
この件に関して「日本の自存自衛を取り戻す会」なる団体が『神奈川県教育委員会に質ただす』という奇妙なタイトルの動画を配信しています。
中身は、この教諭をけしからんとする質問者への教委の応答を録音したもので、県教委がどのように捉えているかの参考にはなるかと思います。
動画中で"質ただされて"いる県教委職員の話を聞いてまず感じたのは
産経は事実とかなりかけ離れた報道をしてるんじゃないかという疑惑です。
(この担当者が語った趣旨に「」をつけますがコメントを正確に書き起こしたわけではありません)
県教委としてはあくまでも「現在(9/5)調査中」とのことで、具体的な個々の事象については全く解釈や見解を示していません。
また「調査の開始は産経の報道と同時期」との事ですから、産経が報じたような処遇や根拠など到底コメントできる状況にはなかったと思われます。
「産経からの電話での問い合わせに対しても同様に、具体的な処分云々に言及できる段階ではない、という回答だった」とのことです。
不適切かどうかの判断すらしていないのだから、不適切として指導できるはずもありません。
調査のポイントとして語られていたのは
「学習指導要領に沿うか」「年間授業計画が適切か」「『全体像として』それらに沿った教育が実施されているか」
「全体として」というところは抑揚を変えて強調気味に話してる印象を受けたので、けっこー”ミソ”であるように思いました。
質問者の「通報があってから調査の開始までが開いているが、報道されて慌てて動き出したのではないか」という問に
そうではないと否定はしつつも「全くなかったかといえば否定しきれない一面もある」というようなこともチラッと言っており
教諭の授業自体を特段問題視していなかったのでは、と感じました。
ちなみに2chでのいきさつはいくつかメールなどで情報が届いていたそうで、
そのことについて学校側へ連絡した。(外で騒ぎになっているという注意喚起で。教諭への指導ではない。)
産経の報道が嘘かも、という前提で、すこし県教委を擁護してました。
ただ産経の報道が本当なのかについてはきちんと示しをつけて欲しいです。
一言言い訳を
報道の信ぴょう性
それについては、私も考えるところであります。
私が掲示した、Yahooニュースなど明らかに“ハングルだから問題”と誤読させるかのような「印象操作」していますから、産経に限らず報道の信ぴょう性を疑う余地はあるでしょう。(ましてや産経ですかね)
また、おっしゃる通り、これだけの騒ぎの中「教育委員会」が黙っているのもどうかと思います。
>一ノンポリリベラリスト様へ
民族・人種差別は、医学・生理学的な「先天的」な要因より、文化・社会的な「後天的」要因からくるものです。
民族・人種差別が、文化・社会的要因から来る以上、それらを「根絶」することはできなくても、改善することはできるのは、歴史が証明しています。
一方、セクシャルマイノリティーの場合、性同一性障害のように、現代の医学で先天的と考えられ性転換手術によって「治療」するものもあれば、「先天的」か、「後天的」か、充分な解明がなされていないものもあります。
ですので、民族・人種問題と、セクシャルマイノリティーの問題を、同列に扱うのはいかがなものでしょう。
なにより、差別やマイノリティの問題を扱うときは、「なんでも一緒」にするのは危険です。
それぞれ、要因となる個別の背景を考え、理解することが、解決の近道だと思います。
意味がつうじないようですね
私の書き方が悪いのでしょうか。
簡単なことが通じないようです。
>> 不作為、と作為ではぜんぜん意味が違うと思いますがそんなことから言わないとわからないのでしょうか。
↑
>仰ってることが意味不明な上に
授業中に脱線して、自然な流れでハングルの話になるのと、ハングルを教えるために別枠で時間を取るというのではぜんぜん違うでしょと言っているのですが難しいこと言っていますか。
カルトの信者の先生が、別枠で時間をとってそのカルトの教義を生徒に教えるのはマズいと思うのですが。
>まあ「自分は朝鮮人が嫌い、ビタ一文あげたくない、差別したい」って堂々と開き直ってるわけですから、ある意味潔いですよね。
私がいつ、「自分は朝鮮人が嫌い」と書きましたか?
何日のコメントのどの部分か指摘して下さい。
もしかして妄想癖がおありでしょうか。
お返事
生徒への内面の干渉はある程度であれば構わないかと思いますが、干渉する側の大人には厳しい倫理観、道徳観が必要だと思います。それが満たされているのであれば構わないと思います。
次に彼の内面には差別的感情があったとは思いますが、外面的な行動自体は差別的な行動がとられているとは思いません。また彼の差別感情にお墨付きを与えているかどうかはこの記事だけでは分かりません。
ohdedeさんへ
確かに名前などを晒すというのはやり過ぎでしょう。改められるべきでしょうし、法に触れるのであれば罰せられるべきでしょう。しかしこれは二次的な事で私には何とも言いようがありません。
氷室さんへ
彼に差別意識がなくおかしいと思って指摘を行った時と、差別意識から指摘を行った時でこの教師の行った授業の良し悪しに変わりはないという事です。
うーんさんへ
>先ほどカツアゲのたとえ話を出しましたが私も
>フリスキーさんと同様にフランス人も韓国人も
>通報されてしかるべきだと思いますし、
>ずっとそう主張しております。
>で、私はカツアゲは良くないので通報は当然という事を
>言っているのです。つまり今回の件では授業の
>逸脱(カツアゲ)が激しい(良くない)ので指摘(通報)は
>正しいという事を言いたいのです。
>だから議論されるべきは授業の逸脱についてと
>それに対する処置の重さだと思います。
韓国人とフランス人の恐喝の事例についてですが、
A君が、韓国人の犯人を通報すること自体は正当です。
当たり前のことをしています。
しかし、
フランス人については、その当たり前のことを
していないのです。
で、その理由が、民族憎悪による差別化なのであれば、
そのことを、単なる好き嫌いの問題として不問に伏そうとすることの
問題がどうしてわからないのですか?
それと同じように、
百歩譲って今回の授業は不適切なものだったという
立場に立っても、それが民族憎悪という動機に基づくものであれば、
その動機自体を、単なる好き嫌いの問題として、不問に伏すという
こともまた問題なのです。
そして、
私の立場は、今回の授業は不適切とは言えないというものです。
よって、
>だから議論されるべきは授業の逸脱についてと
>それに対する処置の重さだと思います
処置されるべき逸脱では無いと考えています。
処置されるべき逸脱では無いという立場に立つ以上、
問題とされるべきは、
その動機にある民族憎悪の問題のみなのです。
で、うーんさんの質問には私はお答えしていますので、
私の質問にもお答えいただけると有り難く思います。
>高校生の彼が韓国の事が嫌いなのも事実でしょう。
>まさか韓国が嫌いだというのが差別だとは言わないですよね。
では、
好き嫌いと差別の違いは何でしょうか?
“単なる好き嫌いで片付けて良いこと”と、
“差別の問題として捉えられること”の違いです。
その基準を教えていただけますか?
お返事をいただきありがとうございます。
> まず区切りがついたかどうかはあなたも書いている通り推測でしかなく、ついていなければ確実に教育の機会を奪っていますね。
ええ、まぁそうなんですが、あなたの「教育の機会を損なった」という推測に比べれば、まだしも合理的な推測だと自負しております。
前のコメントで申し上げましたよね。「この授業が教育の機会を損なったと仰るのなら、この授業のために日本史の授業が試験や受験に影響を及ぼすほどに遅延した、とかこの授業で生徒が排除されて学習に参加できなかった、などといった具体的な根拠に基づいてそのことを証明する必要がある」と。
たとえ1コマ使って脇道的授業をしたとしても、結果的にカリキュラムを全て終了していれば、問題はありません。必要な日本史の知識は学習できたのですから。
このハングルの授業のために「必要な日本史の知識を学習できなかった」という証明がない限り、「教育の機会」が損なわれたというあなたの主張には一切の根拠が無いことになります。ただ”1コマを使ってハングルの授業をした”という出来事に過剰な違和感を表明しているに過ぎません。
何度でも繰り返しますが、この先生を批判したいだろう件の生徒や、先生に指導を加えた教育委員会は、「教育の機会」が奪われたという明白な過失が先生にあったとしたら、当然そこを追求するでしょうに、どうしてそうしないのでしょう?
先の書き込みでもお尋ねしましたけど、どうして明確に「教育の機会を奪った」と、この生徒も教育委員会も先生を糾弾しないのですか?そんな明白な過失をスルーして、「疑義」などといった曖昧な言葉でお茶を濁してしまわなければならない理由が、「お役所作文」だから?ですって?これはちょっとごまかしにしても酷いです。
だとしたら二重三重に見下げ果てた教育委員会だと言わざるを得ません。生徒の人権が侵害されたのに、それを明白に指摘して指導もできないなんて最低じゃないですか。そう思いませんか?
どうしてうーんさんは教育委員会の「疑義」という言葉の意味を過剰に忖度する一方で、その事なかれ主義な態度は批判されないのですか?
まぁ、有体に申し上げますけど、こういった指導で明確な過失がある場合、「疑義」なんて言葉でお茶を濁すような指導はありえません。ことに本当に、この先生が生徒の「教育の機会」を奪ったと証明するにたる事実があるのなら、”指導”程度で済むはずがないじゃありませんか。そう思いませんか?
にもかかわらず、生徒本人も教育委員会も先生が「教育の機会」を損なったと言ってもいなし、現実に損なったことを、誰一人として証明できてもいません。要するに教育委員会は、「この授業で生徒の教育の機会が損なわれたとは言うことができない」のです。それはなぜですか?そんな事実がそもそも存在しないと考えるのが妥当でしょう。
「先生は教育の機会を損なったが、生徒も教育委員会も、な ぜ か それを明言せず曖昧にお茶を濁した」
などという、陰謀論めいた推測よりは
「先生はそもそも教育の機会を損なってはいなかった。教育委員会の”指導”はそもそもそこを焦点にしていない」という推測のほうが、まだしも合理的で妥当だと思いますけど。
> まあ、あなた方が教育の機会を広くとらえるのは勝手ですが、学校における教育の機会は知識の習得だと思いますし、歴史であれば歴史に対する知識の習得だと思います。
あなたが教育の機会を狭く捉えるのはご自由ですけど、あなたの狭い枠からはみ出たために、教育の機会を奪われる子がいるとしたら、大変気の毒な事です。
あなたはやたらと狭い「教育の機会」を俺定義で持ち出しているに過ぎません。1ミリも裁量を認めないわけではないと仰りながら、
> 関係のない事で時間潰す位なら自習にしてくれと言う事です。
> この様に考える生徒にとっては教育の機会を奪っていると思いますが。
と脇道や、脱線についても「教育の機会」を損ないうると仰ってますね。これは論理的帰結として即ち脇道や脱線と言った「裁量」さえも糾弾されうるという主張になりますよ?この際、1コマ使おうが、5分だろうが、「教育の機会」を奪ったという点では変わりありません。その線引きは誰がどうやって定めるものなのでしょうか?
更に申し上げれば、わたし以外の方から、脱線や脇道的授業の事例はいくつも例示がされています。つまり脇道や脱線はそれほど珍しいことではなく、ありふれて行われていることであり、いちいち指導の対象にはなっていないという現実を、あなたは「自分は指導が当然だと思う」という一点突破で押し切ろうとしているだけに思えます。
要は、うーんさんの仰っている事は「何が『教育の機会』を損なうのかは俺が決める」と言っているに過ぎないんですよ。あなたにそんな権限があるんですか?
おまけに「(「教育の機会」を奪ったという)指摘が欠けていても、この教育委員会の注意は妥当なものであると思いますか?」という質問にも答えていただいてませんね。つまりあなたは「指導は当然」と仰りながら、その指導の理由についてはひたすら言及を避けておられます。
理由をはっきりしない指導など、教育委員会の職務としても怠慢でしょう。あなたの立場ならここは批判しなければいけないところです。なのにそれはお役所作文に含まれているんだろうからという推測でスルーしてしまっています。あなたが当該教育委員会の一員でもない以上、あなたが思う「指導の理由」と教育委員会の「指導の理由」が一致してる証拠なんて何一つないではないですか?
あなたが仰る生徒の「教育の機会」が損なわれたという主張にはそれを裏付ける根拠がありません。日本史の時間にハングルの授業をしたとしても、結果として「この授業のために日本史の授業が試験や受験に影響を及ぼすほどに遅延した」こともなければ、「この授業で生徒が排除されて学習に参加できなかった」事もなかったわけです。少なくとも件の生徒も、教育委員会も、それを理由に先生を訴えたり指導したという証拠はどこにもありません。あなたを含めた周囲の無責任な輩がそう言っているだけです。
結果として日本史のカリキュラムが全て終了したのなら、授業としては何の問題もありません。必要な歴史の知識は学習できたのだから、そこから排除されてもいません。もしカリキュラムが終了できていなかったのならば、それが指導の理由として明確に上げられますよ。だって、文字通り生徒の学習権に関わりますからね。そこを曖昧にして良いことではありませんし、曖昧にする理由もありません。にも関わらず指導の理由に挙がっていないという事は、この先生はきちんとカリキュラムを終えたと考えるのが妥当ではないですか?
もし、先生本来の業務を満足に終えていないのなら、な ぜ か それを無視して、「疑義=疑いをもたれるようなことをするな」という指導で済ませる理由がわかりません。お役所作文だからはっきり書けないだけとか仰いますけど、法律の抜け穴を作ってるんじゃないのです。具体的な事例に基づく具体的な指導でしょう、これは。であるなら何が問題で今後どのように改善するか明確化しないでどうするのですか。
つまりうーんさんの仰る事は、教育委員会が明確な指導の根拠を把握しているにもかかわらず、 な ぜ か 理由を明確にしないまま、「教育の機会」を損なったことに対する指導をしたという、非常に無理のある推測が根拠になっているのです。ですがそういった推測は、はっきり申し上げて合理的ではありません。
それに学校で教わるのは知識だけではないですよ。知識だけでいいなら塾で十分です。他文化理解と言う情緒面を育てるのも学校の大切な仕事です。ハングルも知識ですし、元記事には「日朝貿易」から話が派生したときちんと書いていますよね。後の時代に進めば、植民地持代にハングルが禁止された事実にも触れるでしょう。他文化の一端に触れておけば、それを政治権力で圧殺することの非道さがより伝わると思いますし、それでなくとも他文化交流の端緒ともなりえましょう。
> テスト終わりの一コマであればテストの答え合わせや、普通に次の授業に入っていましたけどね高校では。
まぁ、そんな先生もいるんでしょうけど、ずいぶん心ない事をされる先生に当たってしまわれましたね。同情します。一方でわたしが言ったような理由から、脇道的な授業をする先生もいますよ。
> この先生が、韓国人に生まれたかっただとか韓国大好きと言っていますよね。
> 保護者からしてみれば歴史の授業もせずにハングル教えたとなれば、自分の趣味で授業を行っていると思われても仕方ないという事でしょ。
で、そう言っている保護者はどこですか?
まぁそれは置いておくとしても、たとえ保護者がそういう疑問を抱いたとしても、結果として日本史の授業に遅れが生じたりはしていない、少なくともそういった訴えをこの生徒も教育委員会もしていません。つまりこの先生はやるべき仕事はきっちりとこなしているわけです。きっちり仕事をこなした上で、空いた時間で生徒に異文化に触れる機会を作る授業をしたということではないですか?
だいたいそういう事は、実際に保護者からそういう疑問が寄せられた時に対応すればいいことでしょう。きちんとカリキュラムに沿ってやっていますよ、全てのカリキュラムを終えましたよ、と説明すれば事足ります。教育委員会が先回りして指導するほどの事ではないと思いますが。
あと、趣味を交えて授業をするのはいけないことなんですか?フリスキーさんが教わった映画好きの先生の授業なんて、わたしはむしろ受けてみたいですけどね。
> その事に関して私は何も言っていませんが。
これはそのとおりですね。失礼しました。
> 授業の逸脱(カツアゲ)が激しい(良くない)ので指摘(通報)は正しいという事を言いたいのです。
カツアゲは犯罪です。「授業の逸脱」は犯罪でもなんでもないです。
違法行為でもなんでもないものを通報するしないに、正しいも何もないでしょう。
> 生徒への内面の干渉はある程度であれば構わないかと思いますが、干渉する側の大人には厳しい倫理観、道徳観が必要だと思います。それが満たされているのであれば構わないと思います。
そうですね。仰るとおりだと思います。ご理解をいただけて嬉しく思います。
> 彼の内面には差別的感情があったとは思いますが、外面的な行動自体は差別的な行動がとられているとは思いません。
いえ、あなたも問題視しているとおり、件の生徒はフランス語だったならばこういった行動は取らなかったでしょう。生徒自身が「ハングルだったから」と表明しているのですから。「フランス語では起こさなかった行動をハングルだったら起こす」という時点で差別的でしょう。
> 彼の差別感情にお墨付きを与えているかどうかはこの記事だけでは分かりません。
結果的に、と申し上げました。差別感情から「告発」を行ったと生徒本人が表明している行動に対しては慎重な対応が必要でしょう。にも関わらず安易に先生に指導を加えたことによって、結果的に生徒の要求が実現されてしまっている事が問題なのです。
まぁこの問題に関しては走り高跳びさんが報道自体の信憑性に疑問がある旨を仰ってまして、確かに、とわたしも納得するところがありました。全くの事実無根ではなくても、いささか扇情的な報道だったのかもしれず、「指導すらしていなかった」のだとすれば教育委員会を批判するのは勇み足だったと思います。
この点深く反省すると共に、報道自体の検証を提起してくださった走り高跳びさんにお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
またまた、水をさすかも知れませんが
特にうーん様に向けてではなかったのですが、少し、センシティブな言い方になりましたね。
多分に、「教育委員会の指導をきっかけとしてメディアスクラムが起こっている」という先入観が私の中で、あったのかもしれません。
その事で、この場全体に混乱を招いたとしたら、申し訳ありません。
走り高跳び様の指摘通り、冷静に反芻すると、授業内容や教師に対する批判や攻撃を中心とした、メディアスクラムが先に(おそらく2chが先行して)始まっていて、県教育委員会がそれらへの対応に追われているうちに、報道系のメディアが「大変な問題が起こっている」かのように発表した。―可能性も充分考えられます。
少し、議論が授業の妥当性と教育委員会の対応に偏っている感じもするので、もう少し、情報を収集して経緯を整理しても良いかも知れません。
お返事
この生徒はフランス語の授業だったら指摘しなかったか?それは分りませんね。例として挙げたカツアゲの件で今回の場合フランス人がいなかった設定になります。となるとフランス人との差別は存在しない事になり、あなたもおっしゃるとおり通報は当然という事になり、差別的な行動ではないという事になります。
つまり外国人にカツアゲされた場合ゼノフォビアであろうが無かろうが通報するという事です。
又、ゼノフォビアだからと言って通報してはいけないともならないでしょう。
だから、内面に差別意識があり、その事は問題かもしれないが、「この授業はおかしくないか」という訴えをしてはいけないという事にはなりません。
次に
好き嫌いと差別の違いですね。
差別とは優劣をつけて分けるという意味だそうです。
という事は二つ以上を分けるときに使いますね。しかも優劣で分ける事のようです。
好き嫌いの場合対象は一つでしょう。対象に対する個人の評価と云う事になるのではないですかね。
まあ、これは私個人の考えですので、何か学問的にきちんと区別、あるいは同一という定義があるのであれば、ご教示ください。
うーんさんへ
当初、あなたの挙げた事例は以下のものですよ。
>ではこの生徒が韓国人とフランス人に別々に
>一万円づつカツアゲされました。
>この生徒は差別的感情により韓国人から
>一万円カツアゲされたと
>警察に言いました。
>これはこの生徒が悪いのでしょうか?
それに対して私はお答えしたのです。
この事例を元にした議論をしようとすると、
後から事例を変えるというのはいい加減すぎますよ。
で、結局、あなたは、
私が上記の質問への答えの中であげた以下の事例
>たとえば、うーんさんがA君の担任の教師だったとしましょう。
>二件の犯罪被害の件の話になり、A君に対して、
>どうして一件しか通報しなかったの?と質問したとします。
>そこで、A君が、
>『だって俺、韓国人って嫌いなんっすよ。あいつらむかつくし、
>反日的だし、マジきもいっすよ。でも、フランス人は、俺的に
>イメージ良いんで、
>韓国人だけ刑務所にぶち込んで欲しいっすよ。」
>とか言い出して、それに対して、うーんさんが、
>『そうか、それは個人の好悪の問題だな。それはそれで個人の自由だから
> 問題無いよ。』
>とか答えたら、うーんさんは、教師失格だと思います。
>即刻辞表を出すべきでしょうね。
この教師の態度を容認するということでOKですか?
だとしたら、
あなたがもし教師であればすぐに辞職された
ほうがよろしいですし、
もし、教師でないのならば、教師の道に進まれなかった事は
賢明な選択でしょうね。
子供たちの教育の機会にとって不利益が大きすぎますから。
さて、
次に、
>この生徒はフランス語の授業だったら指摘しなかったか?
>それは分りませんね。例として挙げたカツアゲの件で
>今回の場合フランス人がいなかった設定になります。
>となるとフランス人との差別は存在しない事になり、
>あなたもおっしゃるとおり通報は当然という事になり、
>差別的な行動ではないという事になります。
ちょっと乱暴な議論をしないでください。
あなたは、件の授業は不適切であるという立場。
私は不適切ではないという立場ですよ。
私は後者なのですから、当然とはなりませんよ。(笑)
“あなたもおっしゃるとおり”などという
私が言ってもいないことを言わないでください。
私は犯罪行為についての通報が当然と言っているのであって、
いつ、件の授業が犯罪行為と同列のものだと言ってますか。
その上で、
件の授業とは別に、恐喝行為について通報したA君が、
『あいつら、韓国人だろ? 俺、韓国人嫌いなんっすよ。
反日的だし、馬鹿だし、日本から出て行って欲しいっすよ。』
かりにこんなレイシズム、排外主義に基づく発言をしているのを聞いて
もし、あなたがA君の担任だったのならば、この発言を
単なる好き嫌いとして容認できますか?
通報自体は正当です。でも、この子供のレイシズム、排外主義を
容認する教師でいいと思いますか?
そのことを踏まえて、
>好き嫌いと差別の違いですね。
>差別とは優劣をつけて分けるという意味だそうです。
>という事は二つ以上を分けるときに使いますね。
>しかも優劣で分ける事のようです。
>好き嫌いの場合対象は一つでしょう。
>対象に対する個人の評価と云う事になるのではないですかね。
上記のA君の発言であれば、二者を対照させています。
A君と韓国人
及び、
日本人と韓国人です。
さて、
私が考える単なる好き嫌い、批判、非難と差別の違いの基準を示したいと
思います。
人が人を嫌ったり、批判、非難するとき、その対象は、
1、相手の考え方や思想、それに基づく言動、性格的相性、趣向、性向など
2、相手の人種、民族、国籍、国、出身地、門地、性別など
相手の先天的な属性および人の身体、生命、社会的地位、経済状況etc
こう分けられます。
人権弾圧、排外主義、差別主義、レイシズムに見られるのは、
1のみならず2なのです。
ここで、
1と2の決定的な違いが重要です。
1に対する批判は、相手の考え方や思想、それに基づく言動への
評価の問題になります。
2については、人がこの世に生命を授かったと同時にその人を
規定するもの、及びその人がこの社会で存在している有様に
関するもので、
これは、人にとってかけがえないものです。
つまり、これを蔑視、嘲笑、冒涜することは、
個人の出生にさかのぼる人の尊厳及び、
人がこの社会で生きている有様を汚そうとすることに
他なりません。
特定の民族を指して、その属性を持って人を嫌悪、非難、排除する
ということは、差別、レイシズムに他なりませんよ。
同一視は早計かも・・・
コメントに触れていただきありがとうございます。
なにしろ歴史修正主義教科書を招き入れた実績があるので、神奈川県教育委員会ならありうると感じてしまったり
また各地でそうした傾向が強まってることもあり、こりゃ大変だという思いが先走ったりしてしまいますが、
考えてみれば、教科書採択にあたるのは首長が選んだ数名の教育委員なわけで、
私自身「県教委」とひとくくりに書いてしまってますが、そのくくり自体適切でないのかもしれませんね。
実際のところどうだかわかりませんが、誤報による誤爆はあってほしくないと思う次第です。
お返事
県教育委員会の発言を記事から見ると「県教委では授業は学習指導要領に定められたものといえず教育内容として不適切と判断。」「学習指導要領を発展させた授業を行う場合はあるが、今回は生徒や保護者、県民に疑義を持たれる行為だった」と言っております。
明確な理由はもともと書いてありません。要約すると何らかの疑義があって検討した結果何らかの理由により不適切と判断したということ。
実際こうしてみるといかにも御役人が書きそうな形式の文章じゃないですか?
どうとでも取れるようになっている。
責任を取りたくないためにこのような文章になったのではないですか?当然教育委員会は怠慢だし、疑義や理由を明確にすべきでしょう。
ただ私が教育の機会が奪われたというのは、授業を逸脱してもそれは教師の裁量の範囲だということに対し今回の件ではいきすぎだと述べ、なぜだということになり、それは教育の機会を奪うからだと言ったわけです。
確かに教育員会の発言では教育の機会が奪われたとは言っていませんが、逸脱していることは認めていると思われます。(まあこれも明確には書いてありませんが文章からのすいそくですね。)逸脱していることが問題になる場合、教育の機会が奪われたと考えてもよいのではないでしょうか。
授業の逸脱が問題にならないのであれば、教育の機会が奪われていないと云う事です。
で、教育委員会は、今回の件は指導要領にはない授業であり疑義や理由は不明ですが不適切と判断しています。問題ありという事かなと。
書いていて気付きますが確かに推論が多すぎますね。すみません。
しかしそもそも論で言うと、この県教育委員会の発言ではハングルを一時間授業したことが駄目だとは一言も書いてありません。今回の授業は指導要綱にないと言っているだけです。
となるとブログ主の今回のエントリーもそんなことは言っていないでかたずけられます。
こうしてみると教育委員会の言い方はうまい逃げだな、と思いますし、こうなるとあとは見えている事柄を対象に推論して自分の考えを言うしかないのかなと思います。
つまり
日本史の授業でハングルを一時間教えた。
この授業を受けたと思われる生徒が2Chに書き込んだ。
教育委員会が何らかの理由により何らかの指導をした。
この三つの事柄から広げていくしかないんじゃないですかね。
だからブログ主の意見も私の意見も見解にすぎないのではと思います。
それでは続きのお返事はまた。
う~んさん
彼に差別意識がなくおかしいと思って指摘を行った時と、差別意識から指摘を行った時でこの教師の行った授業の良し悪しに変わりはないという事です。
まったく答えになっていないです。
別のあなたのコメントでも
>まず、今回問題になっているのは社会の授業中一時間使い、外国語の授業を行ったという事です。
と仰っていますが、まったく違います。
今回のエントリーをよく読みましょう。
記事にある通り問題は「教育の現場がいかに民族差別に歪んでいるか」です。
あなたは問題を矮小化しているだけです。
あと仮に授業内容について論じるとして
数学の時間に「今日は天気が良いから皆でスポーツしよう!」と先生が言って、その1コマを皆でキックベースに費やしたとします。
それに対して「教育の機会を奪った!」と真剣に言う人間がいるとすれば、それは只の馬鹿でしょうし、実際にはいないでしょうね。
お返事
続けます
証明できるかと言われれば証明はできません。出ている事が少ないですから、私の推測になります。しかしカリキュラムが終わったと言うことも証明されておりません。実際教育委員会にはきちんと説明していただきたいとは思いますし、見下げ果てたというか逃げるな、仕事しろと言いたいですね。
では理由としては、この高校生は授業について興味を示しているとは思えません。さらに何をやってもかまわないという事から余った一コマを興味を持つ生徒のためだけに日本史の時間に語学の授業を行う事は,興味のない生徒にとり無駄以外の何物でもないと思います、興味のない生徒は切り捨てですよね。ハングルの歴史も説明しただろうとのことですがこれも推測で、それこそ耳に入ってくることはハングルで名刺を作らされたということです。また日朝貿易から派生したといわれますが、木綿をハングルで言うと日本語に似ていると言うことに興味を示してハングルの授業を行ったとのことでは?あと授業は別々に行われたと私は理解していたのですが、一緒だったのでしょうか?プリントが用意されていたことから別の授業だと思っていたのですが。
この生徒はこの授業から何を学んだのでしょう?
又、他の方から脱線はよくあることだという指摘は確かにありますし、私もあっても良いとは思います。ただ基本的には教師は脱線せずに興味を持たせるよう努力が必要だろうし、教育の機会を奪っている可能性があると認識しておくべきとは思います。それがたとえ5分だろうがです。
ではだれが決めるのかといえば、学年主任、校長、教育委員会あたりにでも決めてもらえばよいのではないでしょうか。つまり責任のとれる第三者です。そこまでする必要はないとは思いますが弁護士でもよいでしょう。
しかしすべての授業を監視するわけにはいかないだろうしする必要もないとは思います。ではどうやって知るのかといえば、学生や、話を聞いた保護者でしょう。
そこからの指摘があれば調べ、問題があれば教師に注意を与え、問題なければ学生や保護者に説明すればよいでしょう。
また問題になったと聞いたことがないとも書かれていますが、ただ今回のように新聞に載らなかっただけではないですか?いちいち新聞が取り上げないとは思いますし、学校に指摘(クレーム)は結構来ているのでは?
私の師事した高校の先生方は、授業はそんな感じでしたけど別にひどい先生ではなかったですよ。学祭ではいろいろ手伝ってもらったし進路指導などいろいろな先生にお世話になりましたよ。映画の話をする先生だけが良い先生ではないと思いますよ。
保護者が言った言わないも、きちんと説明すれば良いというのはその通りだと思います。今回の件でもそうしてほしいものです、教育委員会には。
残りはまた
あまりにもあれなんで
じゃあ、興味がある生徒がいるのに、「自習」で1コマ消したとしたら、どうなんでしょう?「教育の機会」を奪うことになりませんか。それにカリキュラムを達成しているのだから、「教育の機会」を与えることにはなっても奪うことにはなりえませんよ。興味がない生徒はその授業から受けることは0ですが、興味のある生徒にとっては+になることですから。
>ただ基本的には教師は脱線せずに興味を持たせるよう努力が必要だろうし、教育の機会を奪っている可能性があると認識しておくべきとは思います。それがたとえ5分だろうがです。
えー。確かに教師は生徒に興味を持たせる努力が必要でしょう。だけど、余談話をしてそれをいちいち「教育の機会」を奪ったかどうかなんて検証するのは馬鹿げてませんか。そもそも、何をして「教育」というのか。教科書に載ってない知識を与えたら「教育の機会」を奪ったと言えるのでしょうか?先生が作った資料やプリント(教科書に載っていない)を使って授業をしたら、それは「教育の機会」を奪ったと言えるのか?
教師の評価基準の中には、独創性があるかないかってのがあるんですが、うーんさんにとってその独創性ってなんなんですかね。
>ではだれが決めるのかといえば、学年主任、校長、教育委員会あたりにでも決めてもらえばよいのではないでしょうか。つまり責任のとれる第三者です。そこまでする必要はないとは思いますが弁護士でもよいでしょう。
スケールがどんどんでかくなってんですが…。弁護士?教育の専門家じゃない人間がでしゃばって何を決めるんですか。
>また問題になったと聞いたことがないとも書かれていますが、ただ今回のように新聞に載らなかっただけではないですか?いちいち新聞が取り上げないとは思いますし、学校に指摘(クレーム)は結構来ているのでは?
まるで推測の域を出てないというか、あなたがそう思いたいってだけでしょう?クレームが来たっていう確かな証拠はあるんですか?
それに保護者からのクレームってすごいですよ?それでうつになる教師がどれだけいるか。それこそ新聞に載るくらいに。
以上でしゃばってすみませんでした。
お返事
カツアゲは犯罪、授業の逸脱は犯罪ではない。それはその通りなのですが、構図が同じなので例えとして用いました。
どういう事かと言えばカツアゲを受けただけでは現行犯逮捕をこの生徒が行わない限り、申告しないと捜査は行われません。つまり授業がおかしい時でも生徒が申告しなければ発覚しないという構図です。
さらに申告したからと言って刑が確定するわけでもなく、警察検察による取り調べの後裁判により、有罪、無罪、有罪なら刑の重さが確定します。今回の場合も教育委員会が裁定しており、上にも書きましたが問題があれば教師に指導などを行えばよいし、問題なければ理由を説明すればよいと思います。似たような構図だと思いますが。
「問題」が起こり「当事者」が「しかるべき所」へ「申告」する。その後「しかるべき所」が「裁定」し「問題」を解決するという流れです。
差別的な行動を取ったかどうかという事についてですが、ではこの高校生は「日本史の時間にハングルの授業はおかしい」と申告してはいけないという事でしょうか?また動機が「日本史を学びたい」と云う事から「日本史の時間にハングルの授業はおかしい」と言うのは構わないのでしょうか?
フランス語なら言わなかったというのも推測ですね。「ハングルだったから告発した」と彼が言ったと言う話は聞いていないのでわからないですが、告発の内容が差別的でなければ告発自体に正当性はあるでしょう。
何度も言っていますが彼が差別的な人間だと言う事と告発の正当性は話が別です。
うーんさんへ
授業の逸脱(カツアゲ)という表現を使っています。
>私はカツアゲは良くないので通報は当然という事を
>言っているのです。つまり今回の件では授業の逸脱(カツアゲ)が
>激しい(良くない)ので指摘(通報)は正しいという事を
>言いたいのです。
AGENさんもおっしゃっている通り、
この教師は指導要領に則った授業を
ずっとしてきて期末試験を済ませていることは
報道でも述べられていることです。
違法行為でも犯罪でも不法行為でもなんでもない、
教科から派生した教育的行為に対して、
このようなカツアゲと同列に論じるあなたの感覚が私には
理解できません。
もし、あなたがこの生徒の保護者だとして、このような表現で
教師に異議を唱えてきたとしたら、教師に対して甚だ失礼な態度ですし、
一種のモンスターペアレントだと思われても致し方ないでしょうね。
あなたは、どういう教育を受けてきたのかは知りませんが、
初等教育レベルの情操教育をこれから受けなおしたほうが
良いかもしれませんよ。
お返事
事例を変えたと言われますが基本は変わっておらず、条件が変化しただけで、別の事例になったという訳ではありません。どちらかと言えば近づいたかなと思います。
あなたの挙げた事例であれば注意はするでしょう。カツアゲは犯罪だからフランス人も通報しなさいと。あまり差別的な考えを持つのは宜しくないと。
ただやはりこの発言
「だって俺、韓国人って嫌いなんっすよ。あいつらむかつくし、 反日的だし、マジきもいっすよ。でも、フランス人は、俺的に イメージ良いんで、 韓国人だけ刑務所にぶち込んで欲しいっすよ。」
から指導を行うとしたら教師にはかなりのスキルが要求されるのではと思います。
理由は又次に書きます。
お返事をいただきありがとうございます。
一点先に申し上げておきますが、走り幅跳びさんのコメントから、この産経新聞の記事自体が「飛ばし記事」だった可能性が強く感じられていますので、その点は踏まえた上で、仮にこの記事内容が事実であったと仮定してのお話となります。その点、ご留意ください。
さて
> 実際こうしてみるといかにも御役人が書きそうな形式の文章じゃないですか?
> 責任を取りたくないためにこのような文章になったのではないですか?
ですから何度も申し上げているとおり、本当に「教育の機会」を損なったのなら、それが明確に書けない理由はないはずです。だって明白な生徒の学習権への侵害なんですから。
ちなみにわたしも教育委員会の曖昧な物言いは「責任回避」のためのものだと思いますが、「回避」しようとしている「責任」の内容が、あなたとは異なります。
本当にあなたが仰るような「責任」を回避するための「お役所作文」だったとして、その怠慢と卑劣さは批判に値しますが、そもそもあなたは「疑義」という言葉に「教育の機会を損なった」という意味を過剰な忖度から読み取っていたのではないのですか?
まぁ、教育委員会の態度が批判されるべきものと言うご理解がいただけたのは良かったですが、批判の内容が失当であったら、批判の有効性そのものが問われますので、教育委員会を批判するのならば「指導の理由を明確に書け」と言う程度に収めていただきたいと思います。
>逸脱していることが問題になる場合、教育の機会が奪われたと考えてもよいのではないでしょうか。
これには氷室さんが的確かつ端的にツッコミを入れてくださっているので、そちらをご覧ください。
> 数学の時間に「今日は天気が良いから皆でスポーツしよう!」と先生が言って、その1コマを皆でキックベースに費やしたとします。
> それに対して「教育の機会を奪った!」と真剣に言う人間がいるとすれば、それは只の馬鹿でしょうし、実際にはいないでしょうね。
蛇足ながら付け加えますと、学校と塾とは違います。以前にも申し上げましたが、知識の習得だけが大事なのならば塾で十分です。学校、特に公立学校は知識の習得だけでなく、情緒や運動能力などの総合的な成長を促す場です。
クラスで問題が起きた時、担任の先生が一時間使って、クラスで話し合いを持たせたり、お説教をしたことって無かったですか?
知識の習得が大事なら、そんなトラブルは放っておいて授業をしてしまえばいい。実際にそうする先生もいるでしょう。でもそのトラブルがいじめや暴力などと言った、子どもたちの成長のために看過し得ないものだった場合、それを解決せずに放置するのは、学校と言う場所の役割を放棄することと同義となります。
> しかしそもそも論で言うと、この県教育委員会の発言ではハングルを一時間授業したことが駄目だとは一言も書いてありません。今回の授業は指導要綱にないと言っているだけです。
> となるとブログ主の今回のエントリーもそんなことは言っていないでかたずけられます。
あの、何度も言っているのにわかっていただけてないようなのではっきり申し上げますが、問題は件の生徒が「2ちゃん脳だから」という理由でハングルの授業に問題を感じてした「告発」に、教育委員会が教師への指導という形で結果的にお墨付きを与えてしまった事(更に言えばそれをこのような形で産経新聞が報道したことで、それが広く周知されてしまった事)です。
教師の授業が逸脱か否か、教育の機会を損なっているのか否か、はすべてあなたがこのコメント欄で持ち出してきた、あなたが設定した問題です。
それに対して氷室さんがやはり的確かつ端的にツッコミをいれてくださってます。
> 問題は「教育の現場がいかに民族差別に歪んでいるか」です。
> あなたは問題を矮小化しているだけです。
> だからブログ主の意見も私の意見も見解にすぎないのではと思います。
だったら、もうあなたの問題提起は終わり、そしてあなたが「問題」とする程度の「逸脱」は、どこの学校でも恒常的に起きていて、いちいち問題にされるような事ではないと、皆さんのコメントで既に論証されています。
それに対して、あなたはひたすら「いや、自分は問題だと思う」と、それこそあなたの見解、感想を繰り返しているに過ぎません。そのあなたの見解は私もよく解りましたが、その見解の問題点は上述したとおり、一通り指摘されています。正直に申し上げて、秋原さんの仰るとおり「ためにする議論」に陥ってしまっていて、あまりに議論に発展が感じられないのでいささか疲れてしまいます。
> カリキュラムが終わったと言うことも証明されておりません。
ですから、何度も申し上げているとおり、終わっていないのならそれは具体的な問題であって、教育委員会が明確にそれを指摘、指導しないのはおかしいです。ただ、それを「責任回避」という理由だと仰るのなら、件の生徒はどうですか?彼、あるいは彼女が、抗議先の先生の明らかな過失をスルーするのはなぜですか?これも前にお尋ねしましたけど、お返事がいただけていませんね。
>この高校生は授業について興味を示しているとは思えません。
この点、AGENさんが的確かつ端的にツッコミをいれて下さっています。
> じゃあ、興味がある生徒がいるのに、「自習」で1コマ消したとしたら、どうなんでしょう?「教育の機会」を奪うことになりませんか。
あなたの言う「教育の機会」だとこういう事、つまり生徒同士で「教育の機会」が衝突するという事が起こってしまいます。先生はいずれの教育の機会を尊重すべきでしょうか?
またあるいは、こんな場合はどうでしょう。
ひとつ、たとえ話をしましょうか。
A君、は前にフリスキーさんが例に出されましたので、Bさんとしましょう。Bさんという高校生がいたとします。彼女は家庭科の授業をまじめにきかず、なにやら「内職」ばかりしているので、先生が「授業を真面目に聞きなさい。授業に参加しなさい」と言ったところ、彼女はこう言い返しました。
「こんな授業でやっていることなんて、受験で役になんかたたないじゃないですか。それよりも塾の宿題や予習・復習をしていたほうがいいです。家庭科のテストは一夜漬けでもなんとでもなりますからわたしの事は放って置いてください」
彼女の家庭科の筆記テストの成績はたしかに優秀です。
さて、先生は彼女に「内職」を止めさせるべきでしょうか?この場でのBさんの「教育の機会」とは塾の宿題や予習・復習のことになるのでしょうか?
> 興味のない生徒は切り捨てですよね。
わたしが「排除」という言葉を使ったのでそれに対して反応されたのだと思いますが、「排除」とはそういう意味ではありません。件のクラスでハングルの授業を受けさせてもらえなかった生徒などいなかったし、日本史のカリキュラムを終えさせてもらえなかった生徒もいなかった。あの先生の担当する授業から不当に排除された生徒などいなかった。そういう意味で申し上げました。
それに「興味のない生徒は切り捨て」などと仰るのなら、そもそも日本史に興味がない生徒はどうなりますか?
結論を申し上げるなら、「教育の機会」とはあなたが考えているほど単純な「望む教育を受けられる」という程度のものではなく、社会的に就学が可能であることから始まり、その中で社会生活に必要とされるであろう知識や技術を学べること、興味のある知識や技術を学べること、興味のない知識や技術にも触れられること、たくさんの多様な先生に学ぶこと、多様な同年代の子どもたちと出会うこと、社会の多様な人々と出会うことなどなど、それらが子どもたちの人種、民族、性別、家族の状況、信条などによって差別されずに平等に与えられることです。
「望む教育を受けられる」という事もはそれで大事な権利ですが、「教育の機会」というのはもっと広い概念で捉えるべきだとわたしは思います。
> 学年主任、校長、教育委員会あたりにでも決めてもらえばよいのではないでしょうか。つまり責任のとれる第三者です。そこまでする必要はないとは思いますが弁護士でもよいでしょう。
まさかマジレスされるとは。AGENさんも仰ってますが、無駄に話が大きくなりすぎてきてますね。どさくさ紛れに教育の管理を強化し、先生を監視下に置こうとでも言うのでしょうか。常時監視されているとなれば、先生たちだって萎縮しますよ。興味を引こうとした脇道や脱線が、問題にされかねないとしたら、当然そうなります。結果どうなりますか?
先生たちの裁量権は限りなく小さくなり、教科書どおりのつまらない授業が量産されるだけですよ。それで生徒がやる気をなくしてしまったら、それこそ「教育の機会」が損なわれないとも限りませんが、それでよろしいですか。
> 今回のように新聞に載らなかっただけではないですか?
なるほど、暗数があるからそれを無視するなと言う事ですね。確かにそれはそうかもしれません。わたしたちが知らないところで、脇道や脱線に対するクレームがたくさんあるのかもしれません。
でしたらそれは生徒、保護者、先生、教育委員会などを対象に詳細な調査を行うべきことで、その調査や結果もないまま、「暗数の可能性」に怯えて先生たちを萎縮させても仕方がないでしょう。
しかし、それでそういったクレームが増えているとしても、
> 数学の時間に「今日は天気が良いから皆でスポーツしよう!」と先生が言って、その1コマを皆でキックベースに費やしたとします。
> それに対して「教育の機会を奪った!」と真剣に言う人間がいるとすれば、それは只の馬鹿でしょうし、実際にはいないでしょうね。
という氷室さんのツッコミに尽きます。それは一種のモンスタークレーマーとして対応する以外にないと思いますけどね。
> 私の師事した高校の先生方は、授業はそんな感じでしたけど別にひどい先生ではなかったですよ。
これは失礼しました。いろんな先生がいるという事を知っていただきたかったというだけで、うーんさんの恩師を誹謗中傷する意図ではありませんでしたのに、明らかに筆が滑っておりました。この点は謝罪して「心ない事をされた」という文言は撤回いたします。
大変申し訳ありませんでした。
> カツアゲは犯罪、授業の逸脱は犯罪ではない。それはその通りなのですが、構図が同じなので例えとして用いました。
構図が同じでも、犯罪行為とそうでない行為では、社会での取り扱いがまったく異なります。同列に語るのは議論を混乱させますし、たとえとしては適切ではないでしょう。
授業の逸脱を犯罪行為に等しいと考えているなら、それもひとつの見方だとは思いますが、賛成はできません。
> ではこの高校生は「日本史の時間にハングルの授業はおかしい」と申告してはいけないという事でしょうか?
差別感情に基づく申告であるなら、そもそもすべきではなかったでしょう。しかし、繰り返しになりますが件の生徒は未成年=一般的には未熟な存在であって、間違いを犯すことは十分にありえます。間違いを犯した=その生徒が差別的な理由から申告を行ったのならば、それを指導する必要があったという事です。ただ、先生に対してはこの生徒が「韓流好きなんですか?」程度の言い方しかしておらず、生徒の差別的感情に気づいていなかった可能性があります。
この生徒が普段どんな生徒であるのか、詳しいことが解りませんので具体的にどのように指導すべきか、そもそも教師でもないわたしには申し上げられませんが、申告そのものが問題なのではなく、それに対する教育委員会の対応が問題であるし、その申告の動機が差別感情にあるのならば、それは指導の対象になると言っています。
> フランス語なら言わなかったというのも推測ですね。
自称「2ちゃん脳」の生徒が「ハングル」の授業に異を唱えたという事実だけを見ても、フランス語なら言わなかっただろうという推測はそれ程蓋然性がないとは思いませんでした。少なくとも2ちゃんねるで韓国、朝鮮に対するのと同程度に、フランスに対する差別的言辞が横行しているとは寡聞にして存じません。
そういった事実があるのでしょうか?
> 何度も言っていますが彼が差別的な人間だと言う事と告発の正当性は話が別です。
繰り返しますが、それは問題を「矮小化」したいあなたが、このエントリで挙げられた問題を恣意的に切り分けているに過ぎません。何度も繰り返しになって申し訳ありませんが、差別感情を自認している生徒が、その差別対象を「問題」として「告発」した時、それに対して教育委員会が先生に対する指導を行うという事は、生徒の差別意識を追認し、お墨付きを与えることに他ならないという事です。この問題意識ならば、生徒の差別意識を先生に対する指導と切り離しては意味がありません。
そもそも問題設定が異なるという事です。
うーんさんは授業の逸脱だけが問題だと仰っていますが、わたしはそうだとは思いません。多くの方が挙げられているように、この程度の逸脱でいちいち指導されるなどありえない事です。ですから、今回の異例の処置があったのは、何らかの理由が特別に存在したのだろうという推測が成り立ちます。その推測が一定の妥当性を持つことは、以前に説明させていただきました。
ですがうーんさんはそれを「推測に過ぎない」と繰り返されるだけで、その推測がどのように妥当性を欠くのか、説得力のある論証をなさっていただけていないのです。
「授業を逸脱したことだけが問題で、差別は関係ない」
↓
「いや、この程度の逸脱は恒常的に起きている。この件だけ指導するのはおかしい。それは差別ではないのか」
↓
「そうかもしれないが、この逸脱はやはり問題だと自分は思う。差別は関係ない」
長いコメント欄なってしまいましたが、うーんさんとのやり取りは、ひたすらこの繰り返しです。うーんさんがハングルの授業を指導が必要なほどの逸脱だとお考えなのは、よく解りました。ですがあなたが問題だと考えていても、現実にはそうではない事なのです。もちろん、そういった現実がおかしい、システムを見直すべきだという主張はあって当然です。うーんさんは、生徒や保護者からの申告があった場合、わずかな逸脱や脱線でも教育委員会が指導するような体制に、学校全体を変えていくべきだと、そうお考えであると理解してよろしいでしょうか。
であるならば、わたしはそれに対して、そういった体制は、「民意」に対する過剰な恭順を教育に強いて先生たちを萎縮させ教育の独立や独自性を損ない、生徒たちにとっても悪影響であると、上述のとおりに反論します。
このコメント欄で最初にコメントした際に、引用した内田樹氏のブログの一文を再度引用しますが、
「残念ながら、今の日本の教育がここまで劣化したのは、維新の会のかたがたが考えているように、「民の力」が教育行政に及んでいないからではない。
及びすぎたせいである。」
http://blog.tatsuru.com/2011/08/22_1258.php
最後に、コメントを引用させていただいたことを氷室さん、AGENさんにお礼とお詫び申し上げます。
以上、長文失礼しました。
続きはまた、とあなたの投稿には頻繁に見受けられますが、
続きがあるのなら、その都度レスを完成させてから投稿するべき
ではないでしょうか。その間、何日も間が開いた場合、
こちらは、その間あなたへのレスが足止めを食らう形に
なるのですから。
私はこの件の報道に接したとき真っ先に脳裏をよぎったのは、
七生養護学校事件です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%94%9F%E9%A4%8A%E8%AD%B7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
これは、あきらかにサンケイの悪意ある報道だったと思っています。
単なる取材のみならず、極右系都議二人に帯同して学校に乗り込み、
翌日、『過激な性教育』なる見出しの記事によって、この学校の事情、
どれだけここの教師たちが生徒たちの置かれた状況の中で創意工夫して
この問題に取り組んでいたのか、また、保護者たちの要望と教師たちを
支える想いをも一切無視して、扇情的な偏向報道によって教師たちを
バッシングの嵐におとしめました。
関連する裁判としては、昨日、こういう判決も出ています。
「過激な性教育」と批判の都議ら、2審も敗訴
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110917-OYT1T00236.htm
この土屋都議らの視察に帯同しているのがサンケイで、サンケイは、
この都議らの見地に添うような報道をしたんですからね。
教師どころか、子供たちと保護者の思いを踏みにじったのは、
まさにこの都議とサンケイ報道でした。
教育問題に関するサンケイの報道はそれこそ偏向がひどくて
問題あるメディアだと思っています。
さて、件の授業もサンケイが取り上げたところに
『またか』という思いを持ちましたね。
そろそろ議論を切り上げましょう。
うーんさん、もう結構ですよ。
あなたのコメントは繰り返し同じ事を言ってるだけに過ぎないのですからこれ以上言葉を重ねても無駄です。
観測霊さんが仰っていますね。
もうあなたの問題提起は終わり、そしてあなたが「問題」とする程度の「逸脱」は、どこの学校でも恒常的に起きていて、いちいち問題にされるような事ではないと、皆さんのコメントで既に論証されています。
それに対して、あなたはひたすら「いや、自分は問題だと思う」と、それこそあなたの見解、感想を繰り返しているに過ぎません。そのあなたの見解は私もよく解りましたが、その見解の問題点は上述したとおり、一通り指摘されています。正直に申し上げて、秋原さんの仰るとおり「ためにする議論」に陥ってしまっていて、あまりに議論に発展が感じられないのでいささか疲れてしまいます
「授業を逸脱したことだけが問題で、差別は関係ない」
↓
「いや、この程度の逸脱は恒常的に起きている。この件だけ指導するのはおかしい。それは差別ではないのか」
↓
「そうかもしれないが、この逸脱はやはり問題だと自分は思う。差別は関係ない」
長いコメント欄なってしまいましたが、うーんさんとのやり取りは、ひたすらこの繰り返しです。
そういうわけで、また同じ事を繰り返されるだけのコメントはもういりませんし承認もいたしませんが、発展的なコメント内容と判断できたら承認いたします。
いわゆる嫌韓とか右派とか保守とかを自称する人のコメントの特徴
これにつきあうのは徒労です。(なのにしばらく放置状態ですみません。)
ですから私ははループに入ったと判断したと同時に大概非承認にします。
しかし承認されなかったコメンターは「管理人に都合の悪いコメントだから承認しなかったんだろう」と半ば勝利感を味わうようですね。
今回はもう一つの記事とも併せてなるべく表に出しました。
嫌韓レイシズムは許せないものがあるので一度彼らの正体を剥いでやりたい、と思ったからです。
(なのにほとんど参戦しなかった管理人をお許しください)
>フリスキーさん
恩を仇で返すってこのことかも。
うーん
ヘイトスピーチとヘイトな人のスピーチは全く別物と言う事です。
差別的な感情を持つこと自体は内心の自由です。これが無視される世の中はお嫌いだったのでは?
思想が間違っているからなどと言う事で起こした行動すべてが問題だとするなら、やってる事は昔の特高警察と同じですよ。
うーんさんへ
あったとして、これも内心の自由なんですよ。
どんな恐ろしいことを考えていようが、それが内心にとどまっている
限りは内心の自由なんです。
問題は、何らかの形でそれが表に出たときです。
それが他人の人権を侵害する、あるいは他人の人権を侵害する心情に
基づく言動なのならば、その自由を放置しておくことは危険なんです。
親や教育者であれば、子供に対してなおさらそういう配慮が求められます。
そんなことも解らないで今まで話していたのですか。
あきれました。
ましてや、特高云々のくだり。
あなたは人権についていろはのレベルから
勉強してくださいとしかいえません。
追伸
たえず目を光らせてこれらに民主主義が犯されないよう
気をつけるよう
公立小学校の教科書で教えているのを知っています?
これは内心の自由を侵害する問題教育なのかな?
>うーんさん
私からも一つ。
名誉毀損罪ってありますね?
他人の名誉を毀損するような言動はそれを内心にとどめているか「公然と」に当たらない限りは内心の自由の範囲内です。
しかしそれを公然と外に向かって表現すれば犯罪として取り締まりの対象になるのです。
それと同じ事でしょうに。
>フリスキーさん
>どんな恐ろしいことを考えていようが、それが内心にとどまっている
限りは内心の自由なんです。
問題は、何らかの形でそれが表に出たときです。
それが他人の人権を侵害する、あるいは他人の人権を侵害する心情に
基づく言動なのならば、その自由を放置しておくことは危険なんです。
親や教育者であれば、子供に対してなおさらそういう配慮が求められます。
そんなことも解らないで今まで話していたのですか。
あきれました。
おそらくうーんさんは人権や民主主義について学ぶ機会に恵まれなかったのでしょう。
こんな基礎的な教育は民主主義社会なら当然学校教育で行われるべきなんですが(事実先進国では学校教育でやってますよね)、それを全く行ってない日本の教育に呆れるばかりです。
民主主義や人権のイロハを教えないんですから当然うーんさんのような方がわさわさでてきますよね。
何度もいっていますが
授業を逸脱したからではなく、自分達とは思想が違うから問題なのではなく、
子供の差別意識を教育者を監督する立場の教育委員会が容認して、教師を処分(例え口頭注意であろうが何であろうが)することが問題なのです。
>差別的な感情を持つこと自体は内心の自由です。
他の方が仰るように自由ですよ。
しかし、件の高校生は表に出して行動してますよね?
これは当然問題です。
>差別感情を自認している生徒が、その差別対象を「問題」として「告発」した時、それに対して教育委員会が先生に対する指導を行うという事は、生徒の差別意識を追認し、お墨付きを与えることに他ならないという事です。
という 観測霊 さんの仰る通りなのです。
だから、問題なのです。
もうすでに、皆さんがご指摘のとおりですし、氷室さんもわたしの書き込みを引用くださっているように、わたしもかつて申し上げた事です。
生徒の内心を強要する事はもちろんできません。ですが、差別感情を表明する生徒に対して、それを放置しておくのは、将来的にその生徒が差別的行為を行ったり、差別的行為を行うことによって社会から遠ざけられたりする危険を放置することに繋がります。ですからせめてそういった感情は表明しないようにという指導は必要なのです。
それに「内心の自由」には立ち入れないから、と生徒の内面の問題に踏み込めないのでは、生徒の悩みや葛藤にも先生は手出しができない事になると、以前にも申し上げました。
繰り返しますが、子どもたちの尊厳を守り、内心の自由を尊重することと、彼らが教育、指導の対象であるという事は矛盾しません。
この点に関しては、御同意をいただけたものと思っていたのですが…残念です。
いや、観測霊さんの仰る通りなんです。
本当は法律上問題があるなしではなく、子供達に倫理観、人権意識、道徳というものを学ばせるのが教師であり、親だと思います。
家庭で子供が「俺は法律さえ許せば韓国人をボコボコにしたいんだよなぁ」
親「そうか。でも表に出すと差別だし、法律に触れるから、その気持ちを閉まっておくんだぞ。それなら内心の自由だから問題ないからな」
なんて、まともな親や教師なら言うわけがありません。
>鍵コメント提供者さんへ
一つの良いアイディアですね。
歴史修正に反対する書籍は既にその逆のことをやられちゃってるようです。