コメント
むしろこういう非常時だからこそお金をためているところから強制的に切り崩させるような政策が求められると思います。
>nobuさん
政府「それもこれも被災した皆さんを救うお金を集めるためなんです、どうぞご理解を・・・」
という超本末転倒な会話が聞こえてきそうです。
またかと言われそうですが
たったの震度3の揺れで大阪府下で最大の損害を出した、天災に弱いと指摘されていた激安中古物件のビルを「大阪の津波発生を考えたとき、沿岸部に誰もいなくてよいのかと思う。指揮官がしんがりを務められ、津波で流されない、ベースキャンプが重要。WTCの方が防災拠点にふさわしいということになるかもしれない」とぬかして、自分の失政を正当化しようとする大阪のバカ殿。精神構造はお財界様と同レベルのようです。
ついでに、失敗を指摘されて逆切れするのはネトウヨそのものですね。
原発は、廃止しか考えられないです。廃止にしても莫大なお金が永遠にかかるかもしれませんが、それはたった一つの命と比べてもしょうがないです。(この時のしょうがないは使い方が正しいかわからないが、逆よりはマシ)
よっぽどの、離せない利益か、どこからか圧力があるのでしょう。か?
一番ショックだったのは
この後に及んで、まだ「困るから原子力発電所が必要」という思考回路に言葉を失います。
「被爆する」より「困る」のが嫌なんでしょうか?
しかし、多くの人はこういう感覚なんじゃないでしょうか?
それが一番悲しいです。
ドイツの首相の発言は国民の7割反対という世論がバックになるからこそ、なのではないか、と思います。
国民から変わらなければいけないと思うのです。
ひとのせい?
電力の多くを原発に頼っている以上、原発を廃止すれば電力はひっ迫しますから、企業活動が停滞して更に多くの派遣労働者や失業者を生むと思います。東京電力も企業ですから、利益が大切なのは当然で、採算が合わないことはやりたくないでしょう。原発事故は、監視を怠った政府に大きな責めがあります。では、政府の失策の責を負うのは?
一番大事なことは、原発政策を国民の大多数が理解し納得したか、少なくとも黙認した事ではないでしょうか。なにも考えずに選挙に行き、ましてや選挙にいかず、それがしたり顔で政府を批判する様子を見ると、私は失礼ながらぶん殴りたくなります。
乱暴な言い方ですが、全てを政府のせいにするのは間違いです。
小泉政権で小さな政府論に賛同しておきながら、震災では支援が足りないと言う。政府を選ぶのは国民です。政府の失策は我々の責任でもあります。それが民主主義です。
我々は自分自身の在り方について、良く考える必要があると思いますが、いかがでしょうか。
はじめまして。お説は一理あると感じると共に、反論させていただきたい事があります。
確かに原発の危険性がたびたび指摘されていたにもかかわらず、原発を推進する政権、地方自治体を支持してきたのは有権者たちです。原発の危険性を主張する人々を冷笑し、安全だと豪語する人々を信任し続けてきました。確かにその責任は問われるべきでしょう。
ですが、「有権者に一定の責任がある」事が、原発の管理運営を行う東京電力や日本政府、もしくは原発の誘致を行った地方自治体を免責するでしょうか?
まず、東京電力は国と地方自治体の認可によって原子力発電所を建設し、その運用、つまり放射性物質の取り扱いをする事を許されていますが、それは「安全、かつ安定的に電力の供給を行う」ためのものであり、またそれを条件として、国も自治体も原発を認可しています。そして、それに基づいて電気を利用するすべての顧客と契約を結んでいるはずです。それがわたしたちが払う電気料金の根拠ともなっているのですから。
今回の地震と津波の被害によって「安全、かつ安定的」な電力供給が行えなくなった時点で、その一義的な責任が、国と自治体の認可に伴う義務と、顧客との契約を履行できなくなった東京電力に帰せられるのは当然だと思われます。災害と言う非常事態なのだから、と言ういい訳は今回はできないはずです。なぜなら災害時に原発は危険だと指摘してきた人たちに対して、災害時でも安全だと言い張ってきたのはほかならぬ東京電力自身だからです。
以上は法的な責任ですが、関東地方におけるほぼ独占的な電力供給を行うという社会的、道義的責任においても、その引責は免れないと思われます。
あなたは東京電力も利益を求める企業である以上、採算を重視して(安全管理を怠って)も当然である、ゆえに責任は監視を怠った政府にあるとしていますが、利潤の追求という理由で幾度もの危険性の指摘にも関わらず、その対策を講じてこなかった東京電力が免責されるのであるならば、東京電力という企業は、法的、社会的、道義的責任よりも自社の利益を優先させた、著しく社会性を欠いた独善的な企業であるという事になります。繰り返しますが、関東一円に独占的に電力を供給し、市民生活を根底から支えるという、社会的に極めて重要な事業を担っているのが東京電力という企業です。その企業が社会性を欠如し、責任感を伴わないのであれば、その点において、東京電力は批判されるに値すると、わたしは考えます。
さらに申し上げれば東京電力は3万人もの社員を擁する巨大企業であり、その社員、そして契約する多くの下請け企業に対しても、東電は責任を負うべきでしょう。少なくとも東電が企業としてもっと安全管理に留意していれば、先日三人の下請け作業員の方々が重度の被曝にさらされるような事は起こらなかったはずです。
もっと申し上げれば、わたしは戦後、日本の国民広くが「原子力発電の推進」を東電その他の電力会社や政府に要望したという事実を寡聞にして存じ上げません。平たく言えば、顧客である市民が頼みもしていないのに原子力発電を推進しておいて、手に負えない事故が起きたから、その詰め腹を顧客である市民に切らせようとするなど、とても手前勝手な話だとわたしなどは思います。
加えて申し上げれば、自らが社会的責任=「安全かつ安定的に電力を供給する」を果たせなくなったことを棚に上げて、「原発を止めれば経済が落ち込む」「原発を止めたら停電する」「原発を止めたら生活が不自由になる」などと、イモハダシ論(http://ww36.com/m1Dz248pb)を用いて顧客である市民を「恫喝」して、自身が起こした事故の重大性を糊塗しようとする会社が法的、社会的、道義的に一切責任を負わないとするなら、わたしは日本と言う社会を企業無法地帯であると断言してかまわないと思います。
第二に、日本が民主主義国である以上、その政治的な責任は国民に帰せられるとするのは正しいとわたしも思います。しかし、わたしたちはなぜ議員や首長といった代理人を、選出するのでしょうか?それは全員参加の直接民主制が実質的に不可能であるからなのですが、わたしたちが代表者を選出し、その権利の一部を委託するとき、当然委託された人には、我々国民が負うものとは別の責任が生じます。つまり自分の意思と行動で多くの人々の生活に影響をもたらしうる市民の代理人、議員や首長としての責任です。当然の事ですが、議員や首長というのは、わたしたち庶民には及びもつかない権力を与えられています。彼らが何かを決めれば、法に沿う範囲で社会は決めたとおりに動きます。法律ひとつで人の人生は容易に変わってしまうこともあるのです。その巨大な権力ゆえに、社会に大きな影響を及ぼしうるのです。そのようにして、わたしたちの権利の一部を預かるのですから、なにか過失があれば、その権利を適切に運用しなかった、できなかった責任は問われなければなりません。彼らの仕事はそうしたものであり、それに比例した法的、社会的、道義的責任が生じるのは当然の事です。
あなたが仰った「東電を監視する責任」もここに含まれます。わたしたち庶民には、東電と言う巨大企業を監視することはできません。ですから政府にそれを委託していたのです。しかし、結果的に政府はその責任を全うできませんでした。現在政府が問われているのはその部分だと、わたしは解釈しています。確かに最終的には彼らを選出した国民に責任があるといえるでしょう。しかし議員や首長として責任をとるべき人々を飛び越えて、いきなり国民に全ての責任があるとするのは、結果的にわたしたちの権利の一部を預かった人たちの過失を免責することにもなりかねません。政府や自治体は国民の信託に応える事ができず、東電の監視を十分に行うことが出来ませんでした。ここに二義的な責任が生じていると思います。
国民の責任とは、少なくともその次、三義的なものでしょう。東電を監視する能力のない政府を、自民党一党独裁時代から代々信任して来たと言う責任です。確かにこれは問われねばなりません。ですが、そのためにはまず、一義的、二義的責任の所在を明確にして、現在の事態の収拾を図らなければならないと考えます。このままでは放射性物質の被害は無制限に拡大する恐れがありますから。
余談ですが、一義的、二義的責任を負うべき東電、政府の責任の所在を曖昧にしたまま国民の責任のみを主に問うておいて、「事態の収拾に尽力している」として、現場の個々の作業員の方々に対してはともかく、一義的、二義的責任を負うべき東電や政府に「感謝」や「敬意」や「賞賛」を送るべきとする言説がある(Ryu777さんがそうだと言っているのではないです)のは、わたしなどにすれば倒錯の極みとしか思えません。
以上、長文失礼いたしました。
Ryu777さんの反論にかこつけて、書きたいことを書いてしまったようで、半ば八つ当たりのようなところもあり、大変申し訳なく思います。主旨としては「東電、国の責任をまず問うべき」という事です。より正確には、個々の東電社員をつるし上げるのではなく、東京電力という企業=社長以下、経営責任者の責任が問われなければならないと思います。
続きです
初めに、私は地方自治体や政府関係者、当事者の東京電力が免責されるとは考えていません。この点をまず強調しておきたいと思います。東京電力は原発の管理責任者であり、事業でこれほど深刻な被害を出した責任の重大さに疑う余地はありません。また、政府は国民の信託を受けて政治に当たる以上、大きな責任を伴うことは御説の通りだと思います。
その上で申し上げたいことがあり、前回こちらに書き込みを致しました。
私が申し上げたい事は以下の2点(主に後者)です。
1.東電叩きについて
東電はインフラを担う企業であり、また放射性物質を扱います。高いレベルの安全管理が求められるのは当然でしょう。ただし、1000年に一度(1000年前の地震も信憑性が怪しい)の大地震まで含められるのか?誤解を招かないように書きますが、安全管理は妥協が許されない分野です。1000年に一度だったから仕方が無いと言いたいのではありません。しかし、東電は民間企業です。企業は本質的に利潤を求めなければならず、事業はコスト削減と安全管理のバランスの上に成り立つものです。繰り返しますが、最大利潤の追求は企業体の「本質」だと考えます。東電経営陣が一般的に妥当と思われるラインで、危機管理の線引きをしようとするのは、私はある程度理解できます。そのような企業的発想を監督するのが政府である。しかし政府はこれを怠った。ゆえに政府の
責任がより重いと私は申し上げました。
企業の道義的責任を追及する向きもあるでしょう。ただ、たとえば以前話題になった2000年問題(まさしく「1000年に一度」の災害でしたが)で多くの企業は対策をしていませんでした。これがランダムに起きたと同じことだと考えると、道義的責任と責め立てるのは少し酷かな、と思います。
それでも何とかしたいなら、いっそ電力事業を国営化すればいいのではないでしょうか。私はそのあたりの議論はあまり知らないのですが…(なぜ水道は公営なのかなど)
2.国民(我々)の当事者意識の欠如
言いたいのは基本的にこちらです。
東電が悪い。政府が悪い。これは事実です。
また、頻繁に報道されています。
我々は「やっぱり東電が悪い、政府が脳なしだ」と考える。それでいいのでしょうか。
現在の報道は、基本的に「ひとのせい」です。
私が書き込んだようなことを、ほんの少しでも、考えた人がどれだけいるのでしょうか。
一言反論しますと、国民が原発を求めた事は無いという表現に違和感を覚えます。直接的に求めずとも、日々多くの電気を使い、ビルの夜景に喜び、歓楽街ではネオンが争いながら点灯する→国民は電気を大量消費します。オイルショック以降の安全保障面から、火力一辺倒も良くないと言われました。水力発電は環境面、能力面から今後の期待は出来ず、風力、地熱は全く焼け石に水です。
この状況を放置すれば、原子力くらいしか手段が無いのは自明でしょう。そして実際に原発が作られるのを放置しておきながら「原発など作れと言っていない」は、少し身勝手すぎるのではないですか。
【まとめ】
今回の事故を、ああ東電が酷かったな、俺達かわいそうだよな、で終わらせてはいけないと思います。第一義的な責任が東電と政府(それも歴代の)にあることは重々承知の上で、世論があまりに東電と政府が悪者、自分は被害者といった感じなので、我々だって責任の一端はあるのだぞと申し上げたく、先のコメントに至った次第です。
**************
ここから余談です。お許しください。
日本の多くの大学・研究機関では遺伝子組換え生物や農薬を扱います。また動物実験で動物を犠牲にします。知人曰く、そのことで多くの方から要望書(遺伝子組換えは危険だから即刻廃止せよ、動物が可哀そうだからやめろ)が届くそうですが、失礼ながらあまりに考えのない意見が多いのです。
遺伝子組換えといっても、様々な手法、段階があります。当然封じ込めはしますが、万一漏れ出しても危険なことはほぼ皆無です。農薬にしても、現代の農薬は分子標的薬といって、ヒトには無い代謝経路などを標的としますから、人体に影響を与える可能性は極めて低いものです。非難される方が、科学的な根拠に基づいて論理的にお話をされる事はあまりないとのことです。一方で研究者は文字通り心身を削って、この根拠を得るために働いています。現在の研究者の待遇と勤務条件を御存知でしょうか。
一般の方は遺伝子組み換えを忌避する一方、遺伝子組換えによってどれだけ多くの人命が飢餓から救われたか、救われ得る可能性があるかについては信じがたいほど無関心です。また動物実験にしても、病気で命を落とす方の事を考え、他に手段が無いから、断腸の思いで実験をしているのです。あまりに無責任な非難は、彼ら研究者の努力に対する冒涜とも思えます。
話がそれましたが、すべからく世論の態度はいわゆるNIMBY(Not in my back yard)だと感じます。必要なのは分かるけど、うちの側は嫌だという考えです。原発に対する世間の風潮も、震災以前に私は同じような感触を持っていました。遠くに作ったから良いやと思っていたら、自分にも影響がありそうだから大いに怒っている、そのような風潮は無いでしょうか?
返信、どうもありがとうございます。
> 地方自治体や政府関係者、当事者の東京電力が免責されるとは考えていません。
了解しました。彼らには彼らの責任において、事態の収拾、および事後の補償をきっちりとやってもらいたいと思います。
> ああ東電が酷かったな、俺達かわいそうだよな、で終わらせてはいけないと思います。
この点も、了解しました。わたしたちにも責任の一端があるのはまさにそのとおりで、今回の原発事故を東電叩きで終わらせてはいけません。強く賛同します。今の原子力行政、原子力発電への疑義を風化させず、わたしたち自身が、安全で安心できる電力供給というものを積極的に希求していかなくてはと思います。
以上、二点につきまして御同意をいただきましたので、わたしとしては大いに満足なのですが、何点か反論をいただきましたので、それに対する応答をしたいと思います。
> 企業は本質的に利潤を求めなければならず、事業はコスト削減と安全管理のバランスの上に成り立つものです。
基本的にはそうだと思います。しかし、「企業の社会的責任」という言葉があるように、企業は決して利潤の追求”だけ”をやっていればいいというものでもないですよね。東電に限っても巨大な経済力を持ち、関東一帯への独占的な電力供給という、社会の基盤を支える産業に従事するのですから、より大きな責任を要求されるのは、先のコメントで述べた首長や議員と言った政治家と同じ事です(その責任もまた利潤に深く関わるでしょう。即ち「流通と経済によって社会に貢献し、人々に雇用とサービスを提供する」こともまた、わたしは「企業の本質」だと考えます)。
しかし、あなた自身も仰るとおり「安全管理は妥協が許されない分野」であるにも関わらず、少なくとも福島第一原発においては、東電はその責任を全うできませんでした。安全管理が十分でなかったために、炉心溶融、水素爆発、放射性物質の飛散・漏出による周辺住民の被曝および周辺地域の放射性物質汚染、計画停電という名の電力供給停止、そして復旧作業に携わる作業員、消防隊員、自衛隊員の広く深刻な被曝が起きています。結果として東電は、企業として著しい損害を被りました。それは施設の破損というだけではなく、原子力発電、および東京電力という企業そのものへの不信という、にわかには補いがたい損害です。コストと安全を秤にかけて、現在の安全管理体制を定めたのは、他ならぬ東電自身です。東電はそのバランスを誤ったということでしょう。そのために、東電は追求すべき利潤を大いに損ないました。「企業の本質は利潤の追求」であるとするなら、利潤を追求したあまりに、利潤を損なうという皮肉な結果を招いたことになります。
今回の震災を「1000年に一度」と仰いましたが、実際には少なくとも明治三陸地震(1896年。津波の高さは38mとの記録があります)や、昭和の三陸大津波(1933年)は明確に記録に残っています。それを教訓とした石碑も現地にあるとの報道があります。
http://ww36.com/w0Ej312lk
また、福島第一原発についてはこれまで再三危険性の指摘があったことが、以下の秋原さんのエントリでもわかります。
http://ww36.com/i4Vm112hb
これは「これほどの被害を想定できなかった」という東電の言い分が、実際には「想定はされていたが、安全対策には盛り込まなかった」だけであったことを裏付けています。
もし安全を重視することでコストがかさみ、利潤が得られないのであれば、そもそもそんなものは事業として採用すべきではありません。「利潤の追求」という「企業の本質」に東電が忠実であるならば、原子力発電事業から撤退するのが筋でしょう。
にも関わらず、東電をはじめとした電力会社が原子力事業を推進するのかと言えば、歴代自民党政府、そしてそれを引き継いだ民主党政府が、原子力発電事業を国策として推進してきたからです。それに乗っかって多額の補助金や援助を受け、地域的独占企業と言う優遇された立場にあって、更には安全管理のコストを切り下げ、現場労働者を恒常的な被曝に晒し、危険施設である原発や核廃棄物処分施設を地方に押し付けることで、はじめて原子力発電事業は成り立っていたのです。以上の理由からわたしは原子力発電が安価かつ、安全かつ、安定的という電力各社や政府の主張を疑わしく、欺瞞と感じています。
> 道義的責任と責め立てるのは少し酷かな、と思います。
道義的責任が問われるのは、放射性物質の飛散で被曝した周辺住民や、過酷な現場での作業を余儀なくされた社員や関連企業、土地を汚染され、作物を廃棄せざるを得なかった農家の人々、海洋汚染の被害を蒙る漁業関係者、さらには計画停電という名の電力供給停止によって被害を受けた東電管内地域の人々、企業への補償、加えてこれだけの大事故を引き起こしたことに対する日本全国、ひいては世界中の国々と人々への謝罪と、再発防止のための具体的な取り組みといった、これから東電と政府が果たすべき諸問題に関わってでしょう。そしてこれらは追求されてしかるべきものと考えます。酷だからとこれらを免責する事は、原子力発電事業における無責任体制を追認するということであり、それを認めてはいけません。
また、東電の社会的責任として、管内への電力供給を安全かつ安定的に行い、顧客から報酬を受け取り、それを社員や関連企業に還元して、彼らの健康で安定的な生活を保障する事です。東電は今回の事故で、そのほとんどをまっとうできませんでした。その結果に対する責任も同時に問われるべきだという点では、御同意をいただいているものと思います。繰り返しますが、不測の事態だったんだから仕方ない、では済まされません。災害時でも安全と言い張ってきたのは東電と政府自身なのですから。
なお、
> 国民が原発を求めた事は無いという表現に違和感を覚えます。
との事ですが、直後にご自身も「直接的に求めずとも」と仰っているとおり、国民が少なくとも明確な意志の下に、「原子力発電の推進」と言う具体的な要求を、電力各社や政府にした事はありません。「推進という既成事実」の下に誘致を要求した事はありますが、これはそもそも「推進」という方針がなければありえない要求でしょう。ほぼ例外なく、候補地を募っているので、それに地域振興を託して応募するという形がとられています。
ちなみに「建設反対運動」ならば、わたしもいくつか知ってます。それらはほとんど強引に排除されるか、金銭的な妥協の落ち着いて失敗していきましたし、現在進行形のものも決して旗色が良いとはいえません。
原発反対運動が実った事例としてわたしが寡聞にして知っているのは、新潟県巻町での住民投票で建設反対が決まったことと、宮崎県串間市で今回の地震を受けて建設を見送ったことくらいでしょうか。
http://ww36.com/e0Ro374bl
「反対」という「明確な意志」が存在したことを無視して、「直接求めていない」=あるかどうかもわからない意志の方を優先したのは、政府や電力各社にその意志があったからと解釈するのが自然です。
一方で、危険だとは思いながらも建設に積極的に反対してこなかった責任は、確かに国民にもあると思います。ですが、それは身勝手というより、「安全」を強調する国や電力各社を信頼した、あるいは単に「お上に従順」だったということではないでしょうか。もちろん見る目がなかったという結果責任はありますが、国民の信頼、あるいは「忠誠」を裏切った国や東電の責任がより重いのは自明でしょう。
また
> 原子力くらいしか手段が無いのは自明でしょう。
との事ですが、電力需要の増加がある時、それに応える手段が原子力のみだったというのは本当に自明のことなのでしょうか。日本で原子力発電が始まった当時、地熱や太陽光、潮力といったその他の発電技術が日本において技術的に未確立だったのは確かですが、それは原子力も同じだったはずです(なお、廃炉や廃棄物の処理について考えると、原子力もいまだに技術としては未確立だという見方もできます)。実際に日本で最初に稼動を始めた原子炉は、確かアメリカ製のものを輸入したものだったと思います。
では、なぜ、同じように未確立だった技術の中から、よりにもよって原子力が選ばれたのか?その理由は解りませんが、少なくとも国民が要求した結果ではないですよね。
さて、「余談」という事で書いてくださったお話ですが、興味深く拝見しました。ですが、このエントリとは直接的に関係がない話題ですので、手短に思うところを申し上げておきます。
研究開発に取り組む方々が、大変な苦労と試行錯誤を繰り返しておられるのは存じていますし、その知的探究心や、科学の向上を目指す熱意を、わたしは基本的に疑っていません。
ですが、その方たちの技術は誰のためのものかと言えば、そういった研究開発には日常的に携わっていない、多くの一般の人たちのためのものですよね。その人たちから寄せられる懸念や不安は、たしかに非科学的で取るに足らないものかもしれません。ですが、だからといって研究開発に携わる専門職の人たちが、それを「非科学的」の一言で切り捨ててよいのかと言うと、どうでしょう。
どんな技術も利用されて初めて社会的に価値を持ちます。ですが、その科学的根拠や安全性の周知を怠ったまま、「人々が無知だからいけないのだ」では、せっかくの新技術も持ち腐れでしょう。
未知のものへの恐怖、不安は人間として自然な事ですし、動物がかわいそうと言うのも、それはそれで尊い感情です。わたしは専門職のひとたちには、素人の疑問や懸念に直面したとき、それを笑い飛ばしたり、無知を蔑んだりするのではなく、自分たちの技術をわかってもらう機会、対話の機会と考えてもらいたいと思います。同時に科学に疎い者として、どこかで得た生半可な知識でもって、一方的に感情的な糾弾を、専門職の人々に浴びせるようなことがないようにしたいと思います。
以上、以前にも増して長文になってしまいましたが、ご容赦いただければ幸いです。
冒頭書きましたとおりの二点について、ご同意がいただけたことに感謝します。
それでは。
> 秋原さん
毎度の長文&やたら編集してごめんなさいm(__)m
>ただし、1000年に一度(1000年前の地震も信憑性が怪しい)の大地震まで含められるのか?
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110327k0000m040036000c.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87
他のエントリーのコメントでも触れましたが、このように最低でも2009年の段階で今回のような巨大地震とそれに伴う巨大津波が約1000年間隔で繰り返されている事が指摘されています。1000年前の地震も信憑性が怪しいとのことですが、このような研究を踏まえたうえで、この研究自体が眉唾だと言われているのでしょうか?これも繰り返しになりますが、産業技術総合研究所活断層・地震研究センター長の岡村行信氏が言われている通り
「原発であれば、どんなリスクも考慮すべきだ。あれだけ指摘したのに、新たな調査結果は出てこなかった。『想定外』とするのは言い訳に過ぎない」
のです。絶対の安全を約束しながら、巨大災害の発生を想定されながらそれを無視し、約束を果たせなかった東電の責任は重大と言わざるを得ません。
想定外に関しては、いよいよ財界からも苦言が出始めてますね。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110331/plc11033121190036-n1.htm
本当に反省してるの?
まあ確かに時間がなかったのかもしれませんが、それならそれで、他社を含めて震災の影響を考慮できるように提出期限を延長してもらうなりの対応ができなかったのでしょうか?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110331-00000181-jij-pol
こんなことがあっても何が何でも原発とは。