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非正規雇用は直ちになくせ…。
法の下の平等に著しく反しているとしか言えません。1979年にわたしは、とある都市銀行に入行し法人向け融資を担当し、様々な規模の企業の取締役など役員と折衝したり、様々な融資先企業の経営、資産・負債の状態を示す損益計算書・貸借対照表などの財務諸表と毎日の様に睨めっこしてました。
その当時の経営陣と現在のそれとの大きな差は、“人間味”にあると思うんです。その当時の経営陣は、おしなべて、従業員とそのご家族の暮らしを守ることを第一に考え、内部留保(利益準備金等)なんか殆ど計上せずに、従業員の福利厚生や賞与支給に充てていましたよ。小泉政権で労働者派遣法が出来、非正規雇用形態が幅を効かせ、雇用形態は破壊され格差が固定化しています。非正規雇用の若者は経済的要因で結婚もままならない。こんな異常な状態が長く続くわけがありません。早晩、日本社会は崩壊するでしょう。この様な異常な状態を何とも思わない日本の現状にそこはかとない“怖さ”をひしひしと感じます。
石原慎太郎や橋下徹は、労働組合を目の敵にし、袋叩きにしてますが、それが一番怖いんですね…、個人個人がバラバラに分断されますと、大資本家などの奴隷になり、要らなくなったらゴミのように棄てられるのですよ…。新自由主義・市場原理主義に未来はないと思います。
新自由主義・市場原理主義の信望者である橋下徹陣営の台頭は心底、怖いです。次期総選挙での国民の賢明な判断に期待するばかりです。
まずは、正社員が当たり前の、まともな社会にすることを急ぐべきです。
http://bit.ly/OrYG1v
ギリシャの女子三段跳び選手、差別ツイートで五輪代表から除名
AFP通信 2012年07月26日 11:00 発信地:アテネ/ギリシャ
(引用ここから)
【7月26日 AFP】ギリシャ五輪委員会(Hellenic Olympic Committee、HOC)は25日、女子三段跳びに出場予定だった同国代表のパラスケビ・パパフリストゥ(Paraskevi 'Voula' Papahristou)がツイッター(Twitter)に差別発言を書き込んだことを受け、五輪代表から除名したと発表した。
23歳のパパフリストゥは「ギリシャにはたくさんのアフリカ移民がいるから、西ナイルの蚊たちは国産の食べ物を食べられるわね」と、ギリシャ国内のアフリカ移民を侮辱する書き込み行った。
この書き込みに対し大きな反発を受けたパパフリストゥは書き込みを削除したものの、HOCはロンドン五輪代表からの追放を決定した。
HOCは声明で、「五輪の意義や概念に反する発言を受け、女子三段跳び代表のパラスケビ・パパフリストゥをロンドン五輪代表から除名した」と発表した。
ギリシャ代表団105名の一員として数日後にロンドン(London)入りする予定だったパパフリストゥは発言について、「全ての友人や仲間である競技者のみなさんに恥をかかせてしまったことを許して下さい」と謝罪した。(c)AFP
(引用ここまで)
厳しすぎると感じる人もいるかもしれませんが、現実を人権教育に沿わせれば、人種差別は許してはいけない、という社会のコンセンサスを守ろうとする時、当然こういう処分になります。
逆に日本では「服装がだらしない」で処分されることはありますが、こうした差別発言があったら果たして適切な処分が行えるかと言う不安が確実にあります。
なにせオリンピックを承知しようとお金を湯水のようにどぶに捨てている某都知事がレイシズム全開ですから…(=_=;)
ヘイト発言にはこのような措置がとられるのが民主主義国のスタンダードです。
ヘイトクライム禁止法については前田朗さんがブログで詳しく書いてらっしゃいますし本も出してらっしゃるのでそれに基づいてかいてみたいとず~~~っと思いつつ未だにかけてない私です。
ヘイトクライム、ヘイトスピーチは犯罪です
そして民主主義はレイシズムゼノフォビアと手は結べません。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201207241537532
(ちなみに一水会のこの記事はかなりツイでも話題になってました。現在は削除され、謝罪文と言えないような謝罪文が載っています。)
こちらのジョージア州の姿勢が参考になると思います。
・白人至上主義KKKのボランティア参加に「ノー」 米ジョージア州
http://www.cnn.co.jp/usa/30006994.html
>12/07/28 15:13:51 の鍵コメント提供者さん
7,8,9?そのあたりを越えるとURLが超過してるから投稿できません、と出るんです。
このあたりを目安にしてみてくださいね
現場の思い出エトセトラ
<1> 教員のやることは多すぎ、一番大事な教科指導がおろそかになりがち
以前にも投稿させていただきましたが、教員の仕事は種々雑多に及びます。公共職業安定所(就職斡旋)、旅行業者(修学旅行)、イベント業者(文化祭)、司書(図書館)、など。いや、生徒諸君が毎日休まず定刻に学校に来てくれたらありがたいのですが、それ以前の問題がある場合は家庭に入り込み、ケースワーカーの仕事。いま、大津市の中学校でのいじめ自殺の問題が焦点になっていますが、私が当該担任であればどれだけきちんとかかわれたかと問いかけると自信がありません。
そのうえに部活動があります。この部活動問題については、ぜひ秋原様の力でエントリーをたてていただきたく思うところです。以前にも記しましたように、部活動は学習指導要領にも明確に位置づけられておらず、課外活動の扱いで、教員の人事計画もきちんとされていません。それなのに、「学校の特色づくり」などでは表面にでてしまい、ますます活発化させる方向になっています。自分の得意分野が部活動として活発であれば教員にとってやりがいがあるでしょうが、不得意分野の部の顧問をしなくてはいけない教員もいます。それにしても、多くの人が学校生活の思い出に部活動をあげ、ナマの生徒を紹介するときも部活動がでてきて、学校生活の大半である教科学習の話がでてこないのはどうしてでしょう。
これら、生徒にかかわる仕事のうえに近年急に増えた書類づくりがあります。少しでも空き時間をみつけては、職員室のパソコンに向かい、管理職むけの報告や計画書などの書類づくりにいそしまねばなりません。
そういうことで、結局一番力をぬいてしまうのが、本来生徒にとって一番大事なはずの教科指導のための教材研究(10を調べて3を教えるくらいがよいと先輩教員に教わりました。)やわかりやすい教材(プリントなど)づくりということになります。
<2> 日本では「教科教育論」追求が軽んじられている。
「よくがんばっている先生」としてマスメディアなどにとりあげられる先生は、部活動でなかなか勝てなかったチームを強くしたり、「夜回り先生」のように生徒により接近し、心を通じ合い開かせるような人格者の先生などの例が多く、教科指導でがんばった人の話題はあまりみません。国語の教員の場合、「何のために古典を学ばせるか」の哲学も考えず、やたらややこしい古典文法ばかり教えたり、自身が多くの現代文をよみこなしてこれからの世代に何が問われているか考えることなく、教科書のみの教材や漢字練習だけで終わる例はありませんか。以前、数学の教員に「例えば、微分積分は現実生活のどのような分野の計算に使われているか実例を出しながら授業しては」と話したら、「興味がない」の一言で終わりました。体育の教員はスポーツを通じてどのような人間形成をしようという哲学をもっておられるのでしょうか。教科指導は、常に、何のために、何をめざして教えるのかの問いかけを伴いながら研究していく必要があります。この、教科教育論研究が日本の教育界(少なくとも現場教員の世界で)決定的に不足し、ただ、「教科書を教える」だけになっているように私は思います。
人権教育も同列です。村野瀬様がフランスでの人権教育について紹介されていますが、恥ずかしいかぎりながら、私は今まで全く知りませんでした。若い頃、いくつかの教育雑誌にふれたこともありましたが、紹介はされていなかったように思います。教育界への市民からの提言は、君が代斉唱などでなく、このような内外のすぐれた実践をひきあいに出すなどして「より効果ある教科指導」を求めていくのなら、教員にとって必要な刺激と考えます。
<3> 各個別教員への助言、相互の高めあいのよりよい姿は遠く。
かつては、各教員の授業のしかたなどについて校長らが意見を言うことはほとんどなく、各教員にまかされていました。ところが、大阪府では「評価育成システム」なるものが橋下知事登場以前にシステム化され、橋下施政下で拡充されました。それにより校長が授業を見て意見を言うこともおこってきました。さてそこで出される校長の助言はどうでしょうか。「教員の先輩」として、「あなたが扱っていたような教材なら、すぐれた実践がこの本にあるよ。参考にしてもっと工夫してくれ。」なんて、より高める助言をできる校長なんてそんなにいません。教科のちがいもありますし、何よりも、いろいろの教育実践にふれる教員人生を送っていたら、校長登用試験への道とは違う道になってしまいます。(校長らはそんなことにふれることなく登用試験受験への道) 民間からきた校長はなおさらです。
校内各教科準備室内での教員同士の話し合いなどで、実践や研究を出し合い相互に高めあうことも大事でしょう。しかしながら、上述した「教科教育論」追求が軽んじられている風土もあり、教科に関する学問について高度な知識をもっておられながら、「授業の工夫」にはあまり熱心でない同僚もいたりしました。大阪の「評価育成システム」で教育目標などが一方的に校長からきめられるなどでしらけた雰囲気もでてきました。それに、「相互批判」が必要であることがわかりながら、なかなか同僚の授業のしかたについてまで意見を出せないのが、私の経験した教員の世界でした。小学校などにくらべて高校では校内研究活動が組織化されていない例が多いとも思います。
本題である人権教育について考えます。現在の日本でこれについて授業する場合は、豊富な実例の紹介とその解説が必要と考えます。自由権では、一市民として道路を歩いていただけなのに警察官の職務質問をうけて逮捕された例、宅配ピザのビラならよいのに政治的内容のビラをポストに入れただけで逮捕された例など、国家権力との関係によるもの、労働に関する人権問題として、労働相談によせられる、ひどすぎるとしかいいようのない、多種多様の悪行。ありったけの実例と、それぞれについて、憲法や各法律ではこう規程され、政府当局もこう判断しているということ、(残念ながら争われている部分については、それぞれの主張を併記)を生徒たちに印刷してあげるべきです。たくさんの例だと、授業ではとりあげきれないかもしれませんが、家で暇な時に残りの部分に眼を通してもらえればよろしい。ごく普通の姿勢として労働条件をよくする工夫をしている企業の例とか、労働組合ががんばって労働条件をよくさせた例などもいれてはどうでしょう。いじめや差別など、私人間の人権侵害の例もあわせ紹介し、これは権力とは別に各人の自覚でなくしていくべきものであることを説明すればわかりやすいと思います。テストなど、授業後の成績評価方法がむつかしくなりますが、ぜひこのような実例中心の教材による授業が一般化してほしく思います。
全高校生のうち、政経や現代社会を大学の入試の科目として必要とする人はごくわずか。したがって、「入試があるから授業内容に制約ある」はいいわけにすぎません。教員自身の旧い授業観、安易な姿勢が丸覚え中心の授業になっていると思います。
しかしながら、昨今、もし、私が上に例示したような自主教材を作って授業をやりだす教員がいたら、保護者などから校長や教育委員会にクレームが届くことでしょう。校長らは、どんなに苦労して作った教材であってもその評価はせず、教科書中心に授業しろと言うでしょう。一方で、全く工夫しない授業をし続けていても、年に二度の入学式卒業式で大声で君が代を歌うだけでその教員は高く評価されるでしょう。
元おちぶれ教員さま >現場の思い出エトセトラ
<1>教師の仕事の種類について。特にクラブのこと。
そうですよねえ。仕事の守備範囲が広すぎますよねえ。
前に秋原さんのエントリーに載せて頂いた拙稿もそれが主題だったのに,教師の仕事詳細より枠組みが主になったため,あそこで書き忘れました。が今回,元おちぶれ教員さまのエトセトラを読んで思い出しました。私は児童相談所の人と話さないといけない機会,児童養護施設の館長と話をしに通わないといけないことがありました。他県の同業者の友人は,鑑別所と関わったそうです(うわー)。
部顧問の話。人事異動である部顧問のポストが空き,でも転入教員の中に適当な人がいないというので,(前からの担当クラブにそれを上乗せして)私が2つ持たされたことがありました。メインで長年持っていた方は,部員数はあまり多くはないけど個人指導が必要で,指導に時間を取るので,1つで勘弁してもらいたいところでしたが,空いた方の部顧問は女性じゃないとダメ,他にいないと懇願されたので,引率要員という守備範囲を確認の上,渋々引き受けました。でも,生徒は先生〜,練習見に来てぇと言ってきます。全く行かないのも悪いので,放課後頑張って見に行きましたが(指導は無理なので見るだけ),疲れていて見学中に眠ってしまい…(あっちゃー)…生徒にはごめんなさいしか言えませんでした笑。こんな場合でも,うちでその話を聞いた親がもし「学校評議会」とやらに申立てをしたら,私は職務怠慢のダメ教員の烙印を押される??まあ,生徒はある程度わかってくれていたので(先生ら忙しいなーと),がっかりはしても責めなかったけど…でも私は生徒をがっかりさせてしまい,がっくりでした。
今後少子化で1つの学校あたりの生徒数は減って来ますが,クラブ数は早々減らせません。続けて所属している子がいるからです。でも教員も生徒数に合わせて減りますから,結局教員数がクラブ数に比べて少なくて,私のように2つの部を持たされる教師が増えるのではないかと思います。
↓↓↓ポイント↓↓↓
そういった事情も考えた上で,文科省には時代に合わせて人的配置(教員定数)を決め直してもらいたく思います(生徒数と授業数のみで教員定数を割り出すのでなく,割り出す根拠や規準を新しくすべき)。他にも,例えば学校の広報活動(体験入学,中学周りなど)も,今の教員定数が決まった頃(何十年前?)は,あまりなかったのではないかと思います(自分が高校生のときを考えると)。このように,教員の仕事の種類が,時代の流れに沿ってどんどん増えていることを考慮して頂く必要があると思うのです(私は退職していますが)。
特に今,中学でのいじめ問題に現場が対処できてないと思われる現況も,多忙を極める教師が,仕事が多すぎて個々の生徒に関われなくなっている状況と無関係ではないと私は思っています。
…と思っていたら,同じことを仰ってる方がおられました笑。先生経験者かな??
→http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/12226698.html
貧困家庭が増えている世情もありますが,中学は義務教育なので,高校のように「入試によって,ある程度入学生徒の学力が均される」ということがありません。つまり学校での学力指導だけでも,生徒個々を考慮して丁寧に対処しようとすると,高校より大変なはずです。でも,中学の教師の定数や担当授業数はどうでしょう?そういった事情が反映されているでしょうか?
そうそう,「人権教育への提言2」の方で,元おちぶれ教員さまが(このpen nameなんとかならないんですか〜?)挙げておられた4つの制約のうち,2つめの「古い授業観」については,私の担当教科は,赴任校ではどこでも当てはまらず,いつも皆すごく準備していました。私が高校生の時,先生は授業に教科書しか持ってこなかったけど笑→ラクでええやんな〜,自分が教師になってから教科書だけで教室に入ったことは(私の担当教科の先生は他の誰も)一度もなく,自作教材,宿題,集めた間違い直し,小テスト等々,配るもの集めるものがいつも複数ありました(学校にもよるでしょうが)。
ですから,それの提出チェックや配布・返却のためのセッティングも,すごく大変でした。点数のついたものを返す時,名前が見えないようにして返して欲しい子もいるからです(点数が見えないように 折って返す)。印刷やそういう準備を手伝ってくれるアシスタントがいて下さったらどんなに助かるだろう,と同じ教科の仲間内ではいつも言い合っていました。
でも,教員やスタッフなど,学校で子らに対応する人を増やす方向には全くいかないままです。
教師の仕事が増大の一途をたどっている今,それこそが,先生を無気力や過労死から救う道であるばかりか,それ以前に生徒のためであることは明白なのに。組織を変える必要性について先生から声があがらないのは,忙しすぎてそういう現状を訴える暇がないからですよ(私もそうでした!)。この先,教員はますます過酷な労働条件になりそうで,親としては,子には教員は奨められません。内容的にはいい仕事だけど,過労死が怖いからです。
<2>教科教育について。
これは,個人によるところが大きいと私は思います。伝えたいことがある教師は,何やかや,何かに関連づけて授業で発信しているのではと。それが教師のささやかな楽しみであり,教師にとって数ある仕事の中で授業がオアシス的な役割を持っている理由だと思います(私の場合)。でも,困難校の教師は,その前に生徒指導と授業の成立に腐心せざるを得ない傾向があるため,教科教育に楽しみや生き甲斐を見いだすところまで,なかなか行かないのかもしれません(経験者にきいた話)。
各科通じて言えることは,とにかく『教えないといけない内容が多すぎるので,なかなか色々はできない』ということ。同じ教科の他の教師の授業を見に行きたくても,見に行きたい時間=(自分の)空き時間,のここでこれをしておかねば次の自分の授業で返せない・配れない,ので,見学を諦めてその作業をする,というのがよくあるパターンでした。それから,習熟度別授業になると,「自分の授業時は,同学年の他のクラスでも,自分と同じ科目の授業が行われる」(つまり同じ学年の同じ教科の教師は総動員)ので,物理的に絶対見に行けない事情も発生します。公立では,教師に保証されているはずの研修権は有名無実化しています。空き時間に他の教師の授業を見に行くこともできないのだから,さもありなんです。
教育実習生の時,校長に「忙しそうにするな。実習生が忙しそうだと,先生も『〜を教えてあげようかな』と思っていても遠慮してしまうから」と言われましたが,とにかく忙しすぎると,あれこれ考えずにそのまま流れて行く傾向に傾かざるを得ないと思うので,教える内容の多さと他の業務の(方が)多い点,両方とも何とかして欲しかった笑。(私は結局,体がもたなくて辞めました。)
あと,研究機関(大学)に言いたいのは,学会などに研究発表を聴きに行くと,教科研究が教育現場から離れたところでなされている感が拭えません。教育大付属校などでの,能力の高い生徒対象の研究は,普遍的なことを探る基礎研究にはなっても(基礎研究が学問上重要なことも承知していますが),現場の助けにはなりません。これは教科教育に関してのみならず,例えばいじめ問題に関わるであろう教育心理学や児童/青年心理学,社会(教育)学,集団〇〇学(笑。無知ですいません)といった分野にも及ぶ話かもしれませんが,研究ではせっかく膨大なデータを取り,労力と時間をかけて分析するのですから,「出て来た研究結果が教育現場で活かせる提言に繋がるようなもの」だとありがたいのですが…。
元おちぶれ教員さまの論説文を拝読し,特に,「子らと,子らがいずれ出て行く現実の社会」とを繋げるため,学校で習う社会科(公民,政経,歴史含む)と人権教育には,本当にたいへん重要な役割があると実感しました。
教科としての知識を身につけることのほか,それで学んだことがらが現実の生活のどのようなところで自分に関わって来るか,どんな問題が起こるか,その時どうするか,どうする術があるか。生徒が学校で何を学び,社会に出てからどう動くかによって,社会のあり方まで変わって来る可能性があるのですから,社会科の扱い方,関わらせ方については特に,小中高通じての社会科のカリキュラム,実生活や現実と社会科という教科の関連のさせ方については,LHRや総合学習での取り扱いも含め,考え直しが必要ではないでしょうか。