名張毒ぶどう酒事件・4夜連続特番その1~証言~(1987年作)
- 2010/12/17
- 16:00
先日の鹿児島夫婦強殺事件は一審の裁判員裁判で無罪が言い渡されましたが、もし検察が控訴すれば、高裁でひっくり返されて死刑判決が出る可能性もあります。
一審で無罪とされながら二審以降で逆転死刑となり、現在に至るまで約50年間無実を訴えて続けているのが名張毒ぶどう酒事件です。
以前こちらでご紹介した名張四部作ですが、視聴する機会がありました。動画はアップされてないようなので、これから連続で番組内容をかいつまんで記録しておきます。
冤罪というものが具体的にどういうものなのか、少しでも伝わればいいなと希望します。
(江川昭子さんが著書「名張毒ブドウ酒殺人事件ー六人目の犠牲者」で詳しく書かれています。オススメです。)
刑事裁判で有罪の認定をするには「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要」とされています。
果たして奥西さんが犯人だと認定するのに「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」がなされたかどうか。それを念頭に置いて読んでみてください。
**************
Ⅰー事件発生ー
昭和36年3月28日午後8時、三重県名張市葛尾の公民館で行われた村民の寄り合いで、振る舞われたぶどう酒を飲んだ女性17人が次々倒れ、うち、5人が亡くなる殺人事件がおこった。ぶどう酒に混入された農薬が原因と判明。
葛尾地区は18戸しかない小さく閉鎖的な山間の村で、村人は皆親戚同然だった。当時の状況から、外部の人間が入り込んでの犯行ではありえない。
当初警察は三人から事情聴取した。
・ぶどう酒を酒店から会長宅へ酒を運んだA氏
・A氏にぶどう酒購入を指示した会長B氏
・そして会長宅から公民館へぶどう酒を運んだ奥西勝さん
事件から5日後の4月2日、奥西さんは自分の妻がやったのではないかと供述したが(奥西さんの妻はこの事件で死亡)、翌日自分がやったと自供、逮捕された。
Ⅱー裁判の行方ー
昭和36年6月、一審、津地方裁判所で初公判が始まった。
そこで奥西さんは犯行を全面的に否認した。
起訴状によると、
『自分の妻と愛人C子さんとの三角関係を清算するため、村の寄り合いで出されるぶどう酒に農薬ニッカリンTを入れ二人を殺そうと計画。出席する他の婦人会員も一緒に死ねば誰が犯人か分からないと考え、前日の夜、自宅で竹筒に農薬を入れて準備した。
当日公民館に出かける前に会長宅に寄ったところ日本酒とぶどう酒があったため、それを公民館に運んだ。
そして一人になった隙に公民館の囲炉裏の間でぶどう酒の王冠を歯でこじ開け、竹筒から農薬をいれた』
とされている。
しかし
①囲炉裏で燃やしたとされる竹筒は燃えがらから発見されなかった。
②起訴状では農薬の瓶は近くの名張川に捨てたとされているが、潜水夫や海女を動員しても結局瓶は川から見つからなかった。
③奥西さんが歯で開けたとされる王冠について、4つの鑑定が行われた。
現場でみつかった王冠の傷と、逮捕された後警察で奥西さんが歯であけた王冠の傷が一致するか、という鑑定である。その結果、一致するという鑑定2つ、一致しないという鑑定2つに別れた。(Ⅵで後述)
このように、この名張事件は極めて物証に乏しく、証言が重要な鍵となった。
裁判では、何時にぶどう酒が会長宅に運ばれたかが争点となった。
当日A氏は、小型トラックで農協を出発、途中酒店で日本酒2本とぶどう酒1本を買い、会長宅に運んだ。
A氏は事件直後に、会長宅に運んだ時間を午後2時過ぎと証言した。
ところがA氏は事件から3週間後、突然午後5時頃だったと証言を変更する。
昭和39年12月、一審の判決公判が開かれた。判決は無罪。
裁判所は、自白は信用できないと退け、午後2時過ぎに会長宅に運んだという事件直後のA氏の証言を採用した。
公民館にぶどう酒が運ばれたのは午後5時過ぎであるから、会長宅に約3時間ぶどう酒が置かれていたことになる。その間に奥西さん以外の人物が農薬を入れる機会もあったから、奥西さんが毒を入れたとは断定できない、として、奥西さんに無罪を言い渡した。
しかし昭和44年9月、二審の名古屋高裁は、A氏が会長宅にぶどう酒を運んだ時間について、事件から3週間後に変更された証言の方を採用、午後5時頃だったとした。そして、奥西被告は公民館で約10分一人になる機会があり、その時にしか毒を入れる機会は無かったと認定して、逆転死刑判決を言い渡したのである。
昭和47年には最高裁で上告が棄却され、奥西さんの死刑が確定した。
Ⅲー変転する証言ー
裁判中一貫して奥西さんは犯行を否認し続け、死刑確定後もずっと無罪を訴え続けてきている。
名張事件で死刑と無罪の分かれ目になったのは「何時にぶどう酒が会長宅に運ばれたか」だ。
A氏は事件から2日後の3月30日、ぶどう酒を運んだ時間をメモに残している。
それによると、農協出発は午後2時頃、途中酒店で日本酒とぶどう酒を買い、2時15分頃酒を会長の妻(この事件で死亡)に手渡したと書いてある。
ぶどう酒を売った酒店の店員は、4月1日の調書でぶどう酒を渡したのは午後2時半から3時頃でしたと証言している。
多少の誤差はあるが、A氏の証言とA氏にぶどう酒を売った酒店店員の証言は一致する。
農協に帰ったA氏はこの後、寄り合いに出す折り詰めを取りに自転車で弁当屋に向かった。午後5時頃弁当屋に行って折り詰めを取ってきた、と証言している。
弁当屋の店員も「生ものなのに遅いなあ、と思った。約束より1時間遅い午後5時過ぎに折り詰めを渡した」と証言している。
こうした一連の証言からすると、ぶどう酒が会長宅に運ばれたのは午後2時過ぎであり、奥西さんが会長宅から公民館へぶどう酒を運ぶ午後5時過ぎまで、奥西さん以外の人物がぶどう酒に毒を入れる機会があったことになる。
しかし4月20日になってA氏は突然「会長宅で奥さんに日本酒とぶどう酒を手渡したのは、午後4時半から5時の間だった。」と証言を変更するのである。
会長の妻は出かけていて帰宅したのは午後4時50分頃だったから、酒を手渡したのはそれ以降と言うことになる。
しかしそれではA氏は弁当屋に午後5時頃折り詰めを取りに来たという弁当屋の店員の証言と矛盾する。
弁当屋の店員は、店の時計は1時間ほど狂っていたかもしれない、と証言を変更した。
酒店の店員も、ぶどう酒を渡したのは昼ご飯から晩ご飯の間だったと時間の幅を持たせる証言に変更した。
こうして事件から3週間たって、会長宅にぶどう酒が運ばれた時間は、午後2時15分頃から午後5時前後に変更された。
(亡くなった会長の妻の妹は午後5時過ぎ、家の外で日本酒とぶどう酒を持っている姉から酒瓶を受け取ったと証言しているものの、酒を手渡したとされるA氏の姿は見ていないと言っている。)
番組スタッフは、A氏、酒店の店員、弁当屋の店員に何故証言を変えたのかについて取材した。
しかし三人からは、もう覚えていない、分からない、時間の話はやめてくれ、という回答しか帰ってこなかった。
Ⅳー問題の10分間は存在したのかー
Dさんの証言
Dさんは「5時過ぎに公民館に向かった。その時ぶどう酒の瓶を持った奥西さんが先を歩いていた。公民館に着き、テーブルを拭く雑巾がなかったのでそれを借りに会長宅に行き、すぐに公民館に引き返した。」と証言している。
この10分間奥西さんは一人になり、この時にぶどう酒に毒を入れたとされている。
これに対し、奥西さんはこの時仔牛の運動中で、一人で公民館に行くDさんを見たと述べている。
獄中の手記には、
「私が館内につくと表の雨戸が開け始めてあり、物置の間にしまってある長机が出し始めてあった。誰か来て準備し始めてあるんやわ、というとDさんが、うちがいっぺん先に来たんや、と言った」
と記されている。
これだと、毒を入れたとされる10分間は存在しなかったことになる(これについてはⅦで後述)
しかしもしDさんの言うとおり、奥西さんが10分間公民館で一人になる時間があったとしても、その時公民館の玄関ではEさんが電気工事をしていた。奥西さんもEさんが修理をしていたことは知っている。それで果たして奥西さんはぶどう酒の栓を開け毒物を入れることができただろうか。
スタッフがそうEさんに尋ねてみると、Eさんはこう答えた。
「そのへんがおかしい言うか・・理解に苦しむんやけどな。」
Ⅴー犯行の動機はあったのかー
この事件の動機は三角関係の清算と言われたが、果たして当時奥西さんはそんな切羽詰まった状態にあったのだろうか。
当時奥西さん、奥西さんの妻、愛人は一緒に石切場で働いていた。一緒に仕事をしていた仕事仲間達は
「三人はとても仲が良かった。いがみ合うとかは絶対になかった。三人の関係は村公認だったから、精算せねばならない理由もない。」と口を揃えて言う。
Ⅵー唯一の物証、王冠ー
奥西さんが歯で開けたときについたとされる王冠の傷は、果たして奥西さんの歯型なのか。
これについて東京歯科大学の鈴木和男教授は
「わからない。これが奥西の歯型と断定するのは困難である。というのが私の意見です。」
また、名古屋市工業研究所は、死刑判決の拠り所となった松倉鑑定(王冠の傷は奥西の歯形と一致するとした鑑定)を検証した。松倉鑑定と同じ方法(光学顕微鏡)で調べたのである。その結果、歯型が一致するという判断はできない、という結論を下した。
この件についてスタッフが松倉教授を取材したが、ノーコメントであった。
この王冠を物的証拠に白黒付けるのは困難であろう。
Ⅶー死刑判決に疑問を抱かせるFさんの証言ー
Fさんは取材を拒否していたが、事件から25年たった86年の冬にやっと取材に応じてくれた。Fさんの証言には奥西さんが犯人であることに疑問を抱かせる二点の重大な点が含まれていた。
・ぶどう酒が会長宅に運びこまれた時の状況について
Fさんは事件当日(午後5時頃の話だと前後から推測されます)、会長宅で米をといだ後、トイレに入った。
(このトイレは会長宅家屋外、玄関にすぐ近くの道に面した場所にある。腰の部分までしか板囲いがないので外は丸見えである。道とトイレとは2メートルほどしか離れていない)
米をといでいるときに車の音は聞いていない。
トイレに入る前にぶどう酒はなかった。
トイレにいる最中もA氏を見ていない。
トイレを済ませ、玄関に入るとそこにぶどう酒があり、会長の奥さんが立っていた。
(Fさんは、私の口からはこれ以上言えない、私はこれでだいぶ苦労した、と語っている)
つまりFさんの証言から少なくとも導き出せることは、午後5時過ぎ玄関にぶどう酒が置かれたときA氏が外からぶどう酒を運んだ事実はない、ということである。(とすれば変更後のA氏の証言の信憑性が揺らぐ)
・公民館へいく奥西さんとDさん
Fさんはトイレにいるとき、公民館へ行く奥西さんを見た。Dさんが公民館へ行くのを見たのは、奥西さんを見たときより前だ。(とすればⅤで書いた奥西さんの証言が正しく、問題の10分間はなかったことになる)
______
奥西さんは一審で無罪を言い渡された後、母と一緒に住んでいた。
二審の判決の朝、母は前祝いに赤飯をたくさん炊いた。食べきれなかった奥西さんは、帰ってきて食べるから残しておいてくれと母に言って家を出て行った。
しかし高裁では死刑を言い渡されそのまま収監された。奥西さんは再び母と赤飯を食べることはなかった。
この事件では極めて物証に乏しく、決め手になるのは証言である。
その証言は、あるときを境に一斉に奥西さんに不利になる内容に変更された。それは何故なのか、歳月と共に真相は消えようとしている。
(以上、番組の内容をまとめてみました)
************
唯一の物証の王冠も、奥西さんの歯型だとする鑑定と、そうとは断定できないとする鑑定に真っ二つに別れているのですから、奥西さんを有罪とする決定的な決め手にはならないはずです。(もっとも二審では歯型が一致するという鑑定を採用しましたが、疑問)
決め手になるのは証言ですが、その証言が事件から三週間後に突然揃って変わるのも不自然です
(二審では、他にも証言が奥西さんに不利な方へ不利な方へともう節操ないほどコロコロ変遷しています。警察の圧力等、諸処の理由が推測されますが、ここで述べると長くなるので、詳しくは江川さんの著書をどうぞ)
何故村人の証言が一斉に変わるという不自然な事態がおきたのか、これについて合理的な説明もないのに変更後の証言の方が信用するに足りると言われても納得できません。
高裁は何故、記憶が鮮明な事件直後の証言でなく、変更された後の証言が信頼できるとして証拠採用したのでしょうか。
もう一度書きますが、
刑事裁判で有罪の認定をするには「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要」とされています。
物的証拠も決定的とはいえず、動機も今ひとつ。そんなコロコロ変遷するいい加減な証言だけでは「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の有罪立証」というにはあまりにもお粗末すぎやしませんか。
こんな程度の立証でお前が犯人だと決めつけ、お前は死ねと宣告していいのでしょうか。
是非考えてみて下さい。
(続く)
一審で無罪とされながら二審以降で逆転死刑となり、現在に至るまで約50年間無実を訴えて続けているのが名張毒ぶどう酒事件です。
以前こちらでご紹介した名張四部作ですが、視聴する機会がありました。動画はアップされてないようなので、これから連続で番組内容をかいつまんで記録しておきます。
冤罪というものが具体的にどういうものなのか、少しでも伝わればいいなと希望します。
(江川昭子さんが著書「名張毒ブドウ酒殺人事件ー六人目の犠牲者」で詳しく書かれています。オススメです。)
刑事裁判で有罪の認定をするには「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要」とされています。
果たして奥西さんが犯人だと認定するのに「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」がなされたかどうか。それを念頭に置いて読んでみてください。
**************
Ⅰー事件発生ー
昭和36年3月28日午後8時、三重県名張市葛尾の公民館で行われた村民の寄り合いで、振る舞われたぶどう酒を飲んだ女性17人が次々倒れ、うち、5人が亡くなる殺人事件がおこった。ぶどう酒に混入された農薬が原因と判明。
葛尾地区は18戸しかない小さく閉鎖的な山間の村で、村人は皆親戚同然だった。当時の状況から、外部の人間が入り込んでの犯行ではありえない。
当初警察は三人から事情聴取した。
・ぶどう酒を酒店から会長宅へ酒を運んだA氏
・A氏にぶどう酒購入を指示した会長B氏
・そして会長宅から公民館へぶどう酒を運んだ奥西勝さん
事件から5日後の4月2日、奥西さんは自分の妻がやったのではないかと供述したが(奥西さんの妻はこの事件で死亡)、翌日自分がやったと自供、逮捕された。
Ⅱー裁判の行方ー
昭和36年6月、一審、津地方裁判所で初公判が始まった。
そこで奥西さんは犯行を全面的に否認した。
起訴状によると、
『自分の妻と愛人C子さんとの三角関係を清算するため、村の寄り合いで出されるぶどう酒に農薬ニッカリンTを入れ二人を殺そうと計画。出席する他の婦人会員も一緒に死ねば誰が犯人か分からないと考え、前日の夜、自宅で竹筒に農薬を入れて準備した。
当日公民館に出かける前に会長宅に寄ったところ日本酒とぶどう酒があったため、それを公民館に運んだ。
そして一人になった隙に公民館の囲炉裏の間でぶどう酒の王冠を歯でこじ開け、竹筒から農薬をいれた』
とされている。
しかし
①囲炉裏で燃やしたとされる竹筒は燃えがらから発見されなかった。
②起訴状では農薬の瓶は近くの名張川に捨てたとされているが、潜水夫や海女を動員しても結局瓶は川から見つからなかった。
③奥西さんが歯で開けたとされる王冠について、4つの鑑定が行われた。
現場でみつかった王冠の傷と、逮捕された後警察で奥西さんが歯であけた王冠の傷が一致するか、という鑑定である。その結果、一致するという鑑定2つ、一致しないという鑑定2つに別れた。(Ⅵで後述)
このように、この名張事件は極めて物証に乏しく、証言が重要な鍵となった。
裁判では、何時にぶどう酒が会長宅に運ばれたかが争点となった。
当日A氏は、小型トラックで農協を出発、途中酒店で日本酒2本とぶどう酒1本を買い、会長宅に運んだ。
A氏は事件直後に、会長宅に運んだ時間を午後2時過ぎと証言した。
ところがA氏は事件から3週間後、突然午後5時頃だったと証言を変更する。
昭和39年12月、一審の判決公判が開かれた。判決は無罪。
裁判所は、自白は信用できないと退け、午後2時過ぎに会長宅に運んだという事件直後のA氏の証言を採用した。
公民館にぶどう酒が運ばれたのは午後5時過ぎであるから、会長宅に約3時間ぶどう酒が置かれていたことになる。その間に奥西さん以外の人物が農薬を入れる機会もあったから、奥西さんが毒を入れたとは断定できない、として、奥西さんに無罪を言い渡した。
しかし昭和44年9月、二審の名古屋高裁は、A氏が会長宅にぶどう酒を運んだ時間について、事件から3週間後に変更された証言の方を採用、午後5時頃だったとした。そして、奥西被告は公民館で約10分一人になる機会があり、その時にしか毒を入れる機会は無かったと認定して、逆転死刑判決を言い渡したのである。
昭和47年には最高裁で上告が棄却され、奥西さんの死刑が確定した。
Ⅲー変転する証言ー
裁判中一貫して奥西さんは犯行を否認し続け、死刑確定後もずっと無罪を訴え続けてきている。
名張事件で死刑と無罪の分かれ目になったのは「何時にぶどう酒が会長宅に運ばれたか」だ。
A氏は事件から2日後の3月30日、ぶどう酒を運んだ時間をメモに残している。
それによると、農協出発は午後2時頃、途中酒店で日本酒とぶどう酒を買い、2時15分頃酒を会長の妻(この事件で死亡)に手渡したと書いてある。
ぶどう酒を売った酒店の店員は、4月1日の調書でぶどう酒を渡したのは午後2時半から3時頃でしたと証言している。
多少の誤差はあるが、A氏の証言とA氏にぶどう酒を売った酒店店員の証言は一致する。
農協に帰ったA氏はこの後、寄り合いに出す折り詰めを取りに自転車で弁当屋に向かった。午後5時頃弁当屋に行って折り詰めを取ってきた、と証言している。
弁当屋の店員も「生ものなのに遅いなあ、と思った。約束より1時間遅い午後5時過ぎに折り詰めを渡した」と証言している。
こうした一連の証言からすると、ぶどう酒が会長宅に運ばれたのは午後2時過ぎであり、奥西さんが会長宅から公民館へぶどう酒を運ぶ午後5時過ぎまで、奥西さん以外の人物がぶどう酒に毒を入れる機会があったことになる。
しかし4月20日になってA氏は突然「会長宅で奥さんに日本酒とぶどう酒を手渡したのは、午後4時半から5時の間だった。」と証言を変更するのである。
会長の妻は出かけていて帰宅したのは午後4時50分頃だったから、酒を手渡したのはそれ以降と言うことになる。
しかしそれではA氏は弁当屋に午後5時頃折り詰めを取りに来たという弁当屋の店員の証言と矛盾する。
弁当屋の店員は、店の時計は1時間ほど狂っていたかもしれない、と証言を変更した。
酒店の店員も、ぶどう酒を渡したのは昼ご飯から晩ご飯の間だったと時間の幅を持たせる証言に変更した。
こうして事件から3週間たって、会長宅にぶどう酒が運ばれた時間は、午後2時15分頃から午後5時前後に変更された。
(亡くなった会長の妻の妹は午後5時過ぎ、家の外で日本酒とぶどう酒を持っている姉から酒瓶を受け取ったと証言しているものの、酒を手渡したとされるA氏の姿は見ていないと言っている。)
番組スタッフは、A氏、酒店の店員、弁当屋の店員に何故証言を変えたのかについて取材した。
しかし三人からは、もう覚えていない、分からない、時間の話はやめてくれ、という回答しか帰ってこなかった。
Ⅳー問題の10分間は存在したのかー
Dさんの証言
Dさんは「5時過ぎに公民館に向かった。その時ぶどう酒の瓶を持った奥西さんが先を歩いていた。公民館に着き、テーブルを拭く雑巾がなかったのでそれを借りに会長宅に行き、すぐに公民館に引き返した。」と証言している。
この10分間奥西さんは一人になり、この時にぶどう酒に毒を入れたとされている。
これに対し、奥西さんはこの時仔牛の運動中で、一人で公民館に行くDさんを見たと述べている。
獄中の手記には、
「私が館内につくと表の雨戸が開け始めてあり、物置の間にしまってある長机が出し始めてあった。誰か来て準備し始めてあるんやわ、というとDさんが、うちがいっぺん先に来たんや、と言った」
と記されている。
これだと、毒を入れたとされる10分間は存在しなかったことになる(これについてはⅦで後述)
しかしもしDさんの言うとおり、奥西さんが10分間公民館で一人になる時間があったとしても、その時公民館の玄関ではEさんが電気工事をしていた。奥西さんもEさんが修理をしていたことは知っている。それで果たして奥西さんはぶどう酒の栓を開け毒物を入れることができただろうか。
スタッフがそうEさんに尋ねてみると、Eさんはこう答えた。
「そのへんがおかしい言うか・・理解に苦しむんやけどな。」
Ⅴー犯行の動機はあったのかー
この事件の動機は三角関係の清算と言われたが、果たして当時奥西さんはそんな切羽詰まった状態にあったのだろうか。
当時奥西さん、奥西さんの妻、愛人は一緒に石切場で働いていた。一緒に仕事をしていた仕事仲間達は
「三人はとても仲が良かった。いがみ合うとかは絶対になかった。三人の関係は村公認だったから、精算せねばならない理由もない。」と口を揃えて言う。
Ⅵー唯一の物証、王冠ー
奥西さんが歯で開けたときについたとされる王冠の傷は、果たして奥西さんの歯型なのか。
これについて東京歯科大学の鈴木和男教授は
「わからない。これが奥西の歯型と断定するのは困難である。というのが私の意見です。」
また、名古屋市工業研究所は、死刑判決の拠り所となった松倉鑑定(王冠の傷は奥西の歯形と一致するとした鑑定)を検証した。松倉鑑定と同じ方法(光学顕微鏡)で調べたのである。その結果、歯型が一致するという判断はできない、という結論を下した。
この件についてスタッフが松倉教授を取材したが、ノーコメントであった。
この王冠を物的証拠に白黒付けるのは困難であろう。
Ⅶー死刑判決に疑問を抱かせるFさんの証言ー
Fさんは取材を拒否していたが、事件から25年たった86年の冬にやっと取材に応じてくれた。Fさんの証言には奥西さんが犯人であることに疑問を抱かせる二点の重大な点が含まれていた。
・ぶどう酒が会長宅に運びこまれた時の状況について
Fさんは事件当日(午後5時頃の話だと前後から推測されます)、会長宅で米をといだ後、トイレに入った。
(このトイレは会長宅家屋外、玄関にすぐ近くの道に面した場所にある。腰の部分までしか板囲いがないので外は丸見えである。道とトイレとは2メートルほどしか離れていない)
米をといでいるときに車の音は聞いていない。
トイレに入る前にぶどう酒はなかった。
トイレにいる最中もA氏を見ていない。
トイレを済ませ、玄関に入るとそこにぶどう酒があり、会長の奥さんが立っていた。
(Fさんは、私の口からはこれ以上言えない、私はこれでだいぶ苦労した、と語っている)
つまりFさんの証言から少なくとも導き出せることは、午後5時過ぎ玄関にぶどう酒が置かれたときA氏が外からぶどう酒を運んだ事実はない、ということである。(とすれば変更後のA氏の証言の信憑性が揺らぐ)
・公民館へいく奥西さんとDさん
Fさんはトイレにいるとき、公民館へ行く奥西さんを見た。Dさんが公民館へ行くのを見たのは、奥西さんを見たときより前だ。(とすればⅤで書いた奥西さんの証言が正しく、問題の10分間はなかったことになる)
______
奥西さんは一審で無罪を言い渡された後、母と一緒に住んでいた。
二審の判決の朝、母は前祝いに赤飯をたくさん炊いた。食べきれなかった奥西さんは、帰ってきて食べるから残しておいてくれと母に言って家を出て行った。
しかし高裁では死刑を言い渡されそのまま収監された。奥西さんは再び母と赤飯を食べることはなかった。
この事件では極めて物証に乏しく、決め手になるのは証言である。
その証言は、あるときを境に一斉に奥西さんに不利になる内容に変更された。それは何故なのか、歳月と共に真相は消えようとしている。
(以上、番組の内容をまとめてみました)
************
唯一の物証の王冠も、奥西さんの歯型だとする鑑定と、そうとは断定できないとする鑑定に真っ二つに別れているのですから、奥西さんを有罪とする決定的な決め手にはならないはずです。(もっとも二審では歯型が一致するという鑑定を採用しましたが、疑問)
決め手になるのは証言ですが、その証言が事件から三週間後に突然揃って変わるのも不自然です
(二審では、他にも証言が奥西さんに不利な方へ不利な方へともう節操ないほどコロコロ変遷しています。警察の圧力等、諸処の理由が推測されますが、ここで述べると長くなるので、詳しくは江川さんの著書をどうぞ)
何故村人の証言が一斉に変わるという不自然な事態がおきたのか、これについて合理的な説明もないのに変更後の証言の方が信用するに足りると言われても納得できません。
高裁は何故、記憶が鮮明な事件直後の証言でなく、変更された後の証言が信頼できるとして証拠採用したのでしょうか。
もう一度書きますが、
刑事裁判で有罪の認定をするには「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要」とされています。
物的証拠も決定的とはいえず、動機も今ひとつ。そんなコロコロ変遷するいい加減な証言だけでは「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の有罪立証」というにはあまりにもお粗末すぎやしませんか。
こんな程度の立証でお前が犯人だと決めつけ、お前は死ねと宣告していいのでしょうか。
是非考えてみて下さい。
(続く)
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