現代思想10月号より、裁判員制度を考える(2)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」
- 2008/10/28
- 00:16
何故刑事司法はこんなにポピュリズムに流されるようになったのでしょうか。
引き続き、現代思想10月号の安田弁護士と森氏の対談を要約して紹介していきたいと思います。
これは司法だけでなく、社会全体が変わったのだろう。
近年国民は国家に対する従属度が強くなった。ピラミッド構造に組み込まれ,国家権力、権威に逆らわず、批判しようとしない。
検察や裁判所は国家権力の出先で、弁護士はそれに相対する在野だから、それも弱体化の要因だろう。
また弁護士も、弁護士会のトップが政府の顧問になったり、大企業の顧問になって刑事弁護をまともにやったことのないような大事務所の人間が会長に選ばれるのが主流になってきている。
在野にいるべき弁護士が在野でなくなってきた。足腰が弱ってきた弁護士が、この変化にきちんと検証したり警笛を鳴らしてこなかったのが原因だ。
在野であるべき弁護士が体制にくみこまれ在野でなくなってきたー橋下氏などはその先頭を行ってるのでしょう。
また、国民がピラミッド構造に組み込まれ国家に対する従属度が強くなることによって、 国民自身が強者、支配者の論理に立ち、自分と同じであるはずの被支配者層、社会的弱者を攻撃するようになります。
さきのエントリーであげた私学助成金カットをやめるよう陳情にきた高校生を橋下氏と同じ目線で甘えていると決めつけたり、個人の財産権という人権を無視した代執行を、2週間早く芋掘りをしなかった園が悪いと責任転嫁するのがそれでしょう。
司法の場においては、転機は麻原裁判だった。地下鉄サリン事件で社会の危機管理意識が激しく上昇した。
何故地下鉄にサリンをまこうとしたのか、その理由をこの社会は獲得できていない。ところがこの国の司法やマスメディアは、動機解明よりもオウムへの憎悪を煽ることを優先した。
裁判所も沸騰する世論に合わせて自ら刑事司法の原則(弁護人先任権や当事者主義)を破壊した。今の裁判はことごとくこの延長線上にある。
高揚したままの不安や恐怖は悪への徹底した対応を望むようになる。
こうしてテレビなどのマスメディアを境界線におきながら、向こう側の悪とこちら側の善の純度が急激に上がった。実際には犯罪は増えていないのにマスコミはそれを黙殺、治安悪化のイメージが広まったこともあり、異質な悪はとにかく排除してしまえ、徹底的に抹殺してしまえとの意識が全面に出てくる。だから厳罰化が加速し、その究極に死刑がある。
その結果、オウム事件をはさんだ90~95年の5年間と、2000~2005年の5年間では、死刑判決が3倍にもなっている。
光市裁判も結果は最初から決まっていた。順手や逆手も含め、弁護団がいかに検察の主張を覆す新事実を立証しようとも、メディアが正確に報道しないから「あんなやつは死刑だ」との民意は変わらない。民意に従属する裁判所の姿勢も変わらない。
従来の刑事司法が成り立たなくなってしまった要因の一つに映像的なもの、デジタル的なメディア=媒体の問題がある。
映像はほんのわずかな時間に凝縮してわかりやすく表現する。見ている人間は自分で考えるのではなく、結論をその中で理解していく、という作業になる。
映像は思考の単純化、簡略化を促す。一つ一つのディテールとか時間がたって要約現れるものといった複雑な出来事は全て捨象されてしまう。捨象される複雑な要素は、刑事司法で弁護側が拠って立つ論理とかさなる。
しかし、善悪二元論から導かれる勧善懲悪譚のほうが単純で分かりやすいから、複雑なプロセスやディテールに多くの人が関心を示さなくなってる。単純な色分けでしか物事を考えないようになってきている。多種多様な中間は存在しないのだ。
今後は映像やネットなども複合化して単純化、簡略化がさらに加速していくだろう。
これは司法そのものではなく、社会全体の問題だ。
複雑なディテールを社会全体が考え模索することを放棄しかけています。
例えば、押し入れのどらえもんや、復活の儀式など、マスコミも裁判所も荒唐無稽だと一刀両断しました。自分たちが簡単に理解できないものは即否定してしまい、そこにある複雑なありのままの事実の意味を考えてみようとしません。たとえ不合理でわかりづらくとも、そこに真実があるのかもしれないのに。
マスコミが提供するのも、健気に闘う被害者遺族vs悪の21人の弁護団という「ドラマ」です。その方が感情移入できるし、分かりやすくて複雑なことを考える重荷から逃れられる。そして自分は明確にに引かれた善と悪の一線の善の側におり、そこから純粋な悪を糾弾することにより、正義感を満足させ、溜飲を下げることができる。
そんな心理が働いているのではないでしょうか。
この心理はやがて司法以外の場でも、つるし上げの対象ースケープゴートを求めることにつながらないでしょうか。たいていの場合、そのスケープゴートは権力側が用意した弱い立場の人間であることが多いのです。
続きます。
- 関連記事
-
- 現代思想10月号より、裁判員制度を考える(3)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている (2008/11/26)
- 現代思想10月号より、裁判員制度を考える(2)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」 (2008/10/28)
- 現代思想10月号より、裁判員制度を考える(1)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」 (2008/10/22)