コメント
時代錯誤の曲解
国旗を強制強制と言うのであれば法律も強制であり、このような気違いじみた教師に教育を受けるのも強制では?
公務員である以上、一定の制限は例えそれが自由であれ受けるのは当然です。
国の方針に従いたくないのであれば、辞職してからその様な運動をすれば良いことです。
このような自国の国旗に敬意を表すという「当たり前の事」を何やかんやと屁理屈をつけて拒否するのは、世界中を探しても残念ながらわが国だけです。
軍国主義云々と言うのであれば、原爆を落とした米国旗、未だに対外侵略を続ける中共などの国旗も同等に扱うのですか?
彼の国に行って、同じように国旗を侮辱したら良いのでは?
すぐ掴まり重罪に処せられますからw
>盡忠報國さんの時代錯誤の曲解
> 公務員である以上、一定の制限は例えそれが自由であれ受けるのは当然です。
> 国の方針に従いたくないのであれば、辞職してからその様な運動をすれば良いことです。
こちらをどうぞ。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-401.html
> このような自国の国旗に敬意を表すという「当たり前の事」を何やかんやと屁理屈をつけて拒否するのは、世界中を探しても残念ながらわが国だけです。
何故我が国でこういうもんだいがおこるか、それは凄まじい人権弾圧を行った戦前の軍国主義を彷彿とさせるのからだと私は理由を書いたはずですが、その理由を「屁理屈」と受け取るわけですから、盡忠報國さんの民主主義や人権に対するセンスがしのばれようというものです。
それにラ・マルセイエーズを拒否して歌わないジダンはフランス人じゃありませんでしたっけ?
> 軍国主義云々と言うのであれば、原爆を落とした米国旗、未だに対外侵略を続ける中共などの国旗も同等に扱うのですか?
そのアメリカでは、国旗や国歌を強制するのは憲法違反であるという最高裁判決が出てるんですけど。
> 彼の国に行って、同じように国旗を侮辱したら良いのでは?
> すぐ掴まり重罪に処せられますからw
式典で国歌斉唱を拒否すること=国歌に対する陵辱とする発想が凄いですね。自らの思想信条に基づき起立しない、歌わないという精神的な自由を「陵辱」することは平気なようですし。
それに式典で君が代を強制されたくないことが何故わざわざ中共にいって同じ事をしてみれば?になるのかも全く謎です。中国の国旗国歌を強制されるような立場でもありませんしね。
日本の国旗国歌に対してこういう抗議を表そうと思うのはそれが自分たちの国の歴史だからですよ?教師達は中国人じゃないし中国の歴史を負っているわけでもないんだから、意味合いが全然違うと思うんですけど。
、随分無理矢理で無意味な例えだと思いますよ。
ひょっとして、もしこの教師達が中国人で中国で同じ事したらつかまるだろうという意味ですか?
そうかもしれませんね。そして盡忠報國さんは中国当局のそういう処分を好ましいと思っていらっしゃるわけですか?それならある意味「親中」でいらっしゃるのですね。
信条に反しても尊重すべき
>(3) 国旗・国歌の指導
> 学校における国旗・国歌の指導は,児童生徒に我が国の国旗・国歌の意義を理解させ,これを尊重
>する態度を育てるとともに,諸外国の国旗・国歌も同様に尊重する態度を育てるために,学習指導要
>領に基づいて行っているものです。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpab200901/1295628_012.pdf
とのこと。
「外国の国旗・国家が強制されるような場」に参加する可能性は誰しもあり得ます。
スポーツの国際試合を観に行ったり、外国人を交えた公式の式典に参加したとき、
その国の国歌の演奏、国旗の掲揚がされることは想定されます。
そうした時に起立脱帽しないことは、その国に対する侮辱と取られることもあります。
外国の国旗・国歌が仮に人権弾圧を象徴していたとしても、
外国の国旗・国歌を変えさせる権利など我々にあるはずもないですし、
だからと言って無視したり侮蔑的な態度を取って良いわけではありません。
刑法には外国国章損壊罪が定められています。
例え自分の思想・信条に反するものであっても、儀礼上はそれらを尊重する態度が求められます。
学校教育の場で「我が国の国旗・国歌は(例え自分の思想・信条に反しても)儀礼上尊重すべきものであり、
同じように外国の国旗・国歌も(自分の思想・信条に反しても)尊重しなければならない」と教育することは合理的です。
授業の場で「日本の国旗・国歌にはこういう問題があるとする人もいる」と教えて、
生徒が議論を深めたり、多様な意見を考慮させたりすることは有意義でしょう。
しかし、「儀式の場で儀礼を軽んじても良い」と教えることは百害あって一利なしだと思います。
儀礼の対象に問題があるのであれば、儀礼の対象を変えるように世論や政治家に訴えるべきであり、
儀礼そのものをサボタージュすべきではありません。
私は、割とサッカーが好きなので意見させて下さい。
私は、割とサッカーが好きなので意見させて下さい。
> それにラ・マルセイエーズを拒否して歌わないジダンはフランス人じゃありませんでしたっけ?
⇒
いろいろな意見を闘わせるのは良い事だと思うのですが、スポーツを絡ませるのは良くない事だと思います。
また、フランスとアルジェリアの関係もありますし、日本との比較は、この場合、あまり適当ではないと思います。
それに、偽シラク大統領からの電話事件など、笑い話になっている部分もあるので、サッカーというスポーツと、スポーツ選手のジダンを例に出すのは止めて欲しいです。
NoTitle
あなた、生まれるのが70年遅過ぎましたよ。
もう“大日本帝国”じゃありませんから。お忘れなく。
それとも、国旗国歌への表敬を強制される“彼の国”と同じにしたいんですか?
NoTitle
国際試合だの何だのを例示されましたが、その“国際試合”で、敗者の健闘を称えて国歌演奏がされた事が、一度でもありましたでしょうか。
ないはずです。“勝者の栄光”をこそ、称えるためのものですから。
今次の件と比較するのはお門違いだ、と申し上げておきましょう。
ついでにですが、もう一つコメントします。
> そのアメリカでは、国旗や国歌を強制するのは憲法違反であるという最高裁判決が出てるんですけど。
⇒
「国旗 国歌」で検索すると、アメリカでの判例が沢山出てくるのですが、ベトナム戦争時の国旗冒涜処罰法、湾岸戦争時の国旗保護法等、立法⇒違憲判決の法律上の論争はまだ継続中のようです。
また、ネットで検索したところ、アメリカ合衆国のアリゾナ州では、州内の学校の教室に国旗を掲げることを義務づけているそうです。
それらの論争はまだ継続中な訳ですから、日本も継続論争中という事でよいのではないでしょうか?
争うのは自由だが・・・
左翼が道楽で公務員のやりたい放題「裁判ごっこ」するのならば、「勝手にすれば~」で済むのですが。そうもいかない。
左翼教員の「やりたい放題」を利用して、国家権力がさらに教育に口を出す理由にされてしまう可能性が高いから面倒になる。
誰が本当の犠牲になるのでしょうか?
元気にわめいている、団塊の世代の左翼正規公務員(教員)ではない事だけは確かです。
裁判なんて、灰色のものを無理に白黒つけるもの。
今の時期、無理に白黒つける意味があるのか?白黒で争って負けたら完全敗北になるだけです。
一番大変な30代40代の多くの教員は「この裁判をどう思っているのでしょうか?」こんなことで無駄な兵糧を浪費して騒いでいないで・・・
同じ兵糧を使うならば、まず20代・30代の教員が疲弊しないような仕組みを考えることが先ではないだろうか。
それが結果的に、左翼の望むべき方向に向かう事につながるでしょう。裁判をしている人たちが生きているうちに結果が出ることは難しいと思いますが・・・
田舎へタレ保守のぼやきでした。
NoTitle
表彰式で流される国歌は勝者の栄光を称えるもの(表彰式なんだから当然)ですが、
試合前に両国の国歌を演奏するのは、国際試合の格式を保つための儀礼ですよ。
ジダンも自ら国歌を歌わなくても、他の選手と共に整列してはいるので、
国旗、国歌への儀礼を否定しているわけではありません。
整列すらしなかった例としては、元NBAのマクムード・アブドゥル=ラウーフ選手があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%95
>彼はもしかすると、試合開始前のアメリカ国歌斉唱のときに、立ち上がらなかったことで知られた最も有名な選手かもしれない。
>(星条旗は抑圧や、専制政治の象徴とイスラム教徒に見られていた。)
>1996年3月12日、NBAは彼を1試合出場停止にしたが、2日後にリーグと彼は妥協して国歌が演奏されている最中、
>イスラム教の選手が、イスラムの祈りを立ったまますることができるようになった。
つまり、「外形的に起立という国歌への儀礼を否定しなければ、内心で何をどう思っていようと自由」ということです。
逆に言えば、「外形的に国歌への儀礼を否定すれば、ルール違反として処罰される」とも言えます。
NoTitle
「表現の自由」をご存知ですか?
表に出さない限り内心では何を考えようが自由、では自由権が保障されているとはいえません。
思想・良心の自由は、表現の自由に裏打ちされてこそ有効です。
だからこそブログ主・秋原さんも言っているように、中世には隠れキリシタンがいたのではないですか。
最大の問題は、国歌国旗法が定義法に過ぎないのに指導要領で強制を可能にした文科省にありますね。
相変わらず...
国旗国歌強制肯定論者は、内心への強姦者であり、一種の覚せい剤中毒のようなものだという記事を私自身以前書いたことを思い出します。
NoTitle
またひどい判決が出たものですね(-_-;)
どこかで読んだのですが、都内の特別支援学校でも、この強制のために卒業式が大きく変質してしまったという話です。呼吸器をつけた子や、発達障害のために式典の雰囲気になじめない子もいる中で、都教委からの通達のために、国歌斉唱中教員は所定の位置から動くことができず、そうした子たちのフォローができなくなったということです。喉に痰がからむ子もいますから、下手をすれば命に関るとか。また車椅子の子は、これまでは車椅子に座ったまま、壇上ではなく体育館の中央部に作ったスペースに自力で行って卒業証書を受け取れていたのに、通達のおかげでわざわざ壇上まで長いスロープで介助付きであがらされ、そこで両脇から介助されて立たされ、証書を受け取らされたとか。卒業の段階で、わざわざそうした子に「他人の介助を受けなければ何もできない」と宣告するかのような仕打ちだと思います。その子のありのままで証書を受け取ることさえ許さないのが教育の姿なのかと、暗澹たる気持ちにさせられました。
またマンガ家の石坂啓氏がマガジン9条ですさまじい事例を話されてましたね。
http://www.magazine9.jp/interv/ishizaka/index2.html
学校がその校風や、生徒たちの状態にあった独自の卒業式をすることすら許されないのは、どう考えてもおかしいと思うんですけどね…。
> くろねこさん
ご無沙汰しております。
> 左翼教員の「やりたい放題」を利用して、国家権力がさらに教育に口を出す理由にされてしまう可能性が高いから面倒になる。
順序が逆転していませんか?
国旗国歌法が成立したとき、時の官房長官である野中広務氏は「強制はしない」と明言していましたし、実際に法律の中身は国旗はこれ、国歌はこれと書いてあるだけで、なんら義務を課すようなものではないのに、都教委が強制を始めた事に対するカウンターアクションとしてこの訴訟があるのだと、わたしは理解しているのですが。
それとも何か「都教委が政府答弁を無視して、強制の通達を”出さざるを得ない”ような深刻な事態」が、事実としてあったのでしょうか?
国家権力からの干渉を避けるために、あえて逆らわず従順に従うという理屈は、場合によっては有効でしょうが、なしくずしに国家権力の専横を容認し、結果として、より広く強い干渉を生むと共に、現場に事なかれ主義を蔓延させてしまう事になりはしないか、という危惧があります。
「干渉に逆らわず従順にしていれば、権力がほどほどのところで干渉をやめてくれる」という、権力性善説は、それを保障するものが何もない以上、とても危ういものだと思うのですが。
> 誰が本当の犠牲になるのでしょうか?
では、その「犠牲になる誰か」のために、「左翼教員」が犠牲の生贄になって強制に従ったとして、より広い範囲で干渉があったとき、「左翼教員」を見捨て、犠牲を強いたその「誰か」を、誰が助けてくれるでしょうか。ニーメラーの詩を読み返すまでもなく、マジョリティにとって迷惑だからという理由で、マイノリティの権利や尊厳をないがしろにする事は、「少数派は黙っていろ」と言うに等しく、そういった多数派の心情の延長線の先鋭化した部分が、在特会のような形で現実に噴出しているのでは、とわたしには思えるのです。
それは結果として、マジョリティのためにもならないと思いますし、人としてどうなのよとも思います。
> 同じ兵糧を使うならば、まず20代・30代の教員が疲弊しないような仕組みを考えることが先ではないだろうか。
二重に疑問があります。
まず第一に「20代・30代の教員が疲弊しないような仕組み」は「教員の思想信条の自由」とバーターでなければ実現されないのでしょうか。
第二に「20代・30代の教員が疲弊しないような仕組み」=教育予算の増額、少人数学級の実現、教員数の増加は「左翼教員」、たとえば日教組や全教が長年主張してきた事です。「左翼教員」が「20代・30代の教員が疲弊しないような仕組み」に対してなんら兵糧=リソースをつぎ込んでいないかのような仰りようは、事実に反します。
> 裁判をしている人たちが生きているうちに結果が出ることは難しいと思いますが・・・
この点は同意します。教育の成果とは長い目で見てはじめて解ってくるゆっくりとしたものだと思いますから。一方で、性急に成果を求めているのは「国旗国家の強制」を進めている都教委の方ではないかとも感じます。
以上、長々と失礼しました。
NoTitle
でも革命によって樹立され、国民の一体化・団結の印が必要な国ならともかく、1000年以上も続いている日本でそんなものが要るんですか?
これ、志村建世・野ばら社編集長が下のURLにきっちりまとめてますんで、よ~くお読み下さい。
http://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=3451412
秋葉さん、トラックバックもお勧めです。
素朴な疑問
当方、NBAには疎いもので(今年の流行語大賞候補使っちゃった)是非お教えいただきたいのですが、何故NBAはラウーフ選手に対して妥協したのでしょうか?もしNBAの処分が正当なものならば別に妥協の必要もないし、処分後も同じことをすればさらに重い処分を科せばいいだけです。仮に裁判になっても処分が正当なものならば負けるはずもないでしょう。妥協したってことは処分に無理がある、またはラウーフ選手の権利を尊重するとの判断があったからではと思うのですがどうだったのでしょうか?
この事例から
>「外形的に国歌への儀礼を否定すれば、ルール違反として処罰される」
とおっしゃられてますが、私のような無学者からすれば逆に「外形的に国歌への儀礼を否定しても、ルール違反として一方的に処罰されることはない」という事例になると思うのですがいかがでしょうか。
ちなみにラウーフ選手は日本のbjリーグの京都ハンナリーズの選手として活躍していますね。今度見に行ってみようかな。
NoTitle
国旗国歌を強制するなら、それより古い伝統を持つ、雛祭りや端午の節句や七夕を強制してもよさそうなものなのに(実際されても困りますが)そこら辺は無関心みたいです。
要は、彼らの言う日本の歴史って、明治から始まるみたいなんです。
夫婦同姓論なんか典型的です。あと『新しい歴史教科書』でしたっけ?近代の記述がひど過ぎる、とはよく言われる話ですが、中世あたりの記述の内容の無さも大概だったような。こいつら、日本の歴史に対して、愛着どころか対して関心も興味も無いだろ、と感想を持った事を覚えています。(最も、初版をチラ見した程度なので実際は違うのかもしれませんが。)
故に、石坂啓氏がいくら卓見を述べようが、土台となる認識自体にズレがありますから、フェチの人達が理解できないのも当然です。彼らにとって日本の千年の超える歴史なぞ、デコレーション的な意味合いしか持たないのですから。
>匿名の臆病者さん
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-104.html
まさに匿名の臆病者さんの質問に答えたエントリーになっておりますので。
>「外国の国旗・国家が強制されるような場」に参加する可能性は誰しもあり得ます。
スポーツの国際試合を観に行ったり、外国人を交えた公式の式典に参加したとき、
その国の国歌の演奏、国旗の掲揚がされることは想定されます。
そうした時に起立脱帽しないことは、その国に対する侮辱と取られることもあります。
その「外国」では、国旗国歌を強制するような教育を行ってはいません。何故日本だけは行うのでしょうね?
あと、付け加えますと、観測霊さんもおっしゃってるように、国旗国歌法が制定された時の小渕内閣は、これは何が国旗で何が国歌なのかを定めただけであって、それを強制するものでは決してない、と言っていました。
それが今では卒業式にわざわざ教育委員会から派遣された職員が君が代を歌っているかどうか音量測定器を持ってものものしい検査まで行い、歌ってなかったら懲戒処分や減給処分までやり出したのです。
戦前の思想弾圧のシーンと同じです。異常な光景ですね。
>りらっくすさん
それから国旗を燃やす等のあからさまな陵辱行為は日本でも処罰の対象となっていますが、それと卒業式で君が代斉唱を拒む行為とは全く異なる行為でしょう?りらっくすさんが探された訴訟は事例が違うのでは?
国旗国歌を強制されないことについてのアメリカの判決はこちらです。
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col1200.html
■アメリカでの判例
1943年 バーネット事件 連邦最高裁判決
「国旗に対する敬礼および宣誓を強制する場合、その地方教育当局の行為は、自らの限界を超えるものである。しかも、あらゆる公の統制から留保されることが憲法修正第1条の目的であるところの、知性および精神の領域を侵犯するものである」(ウエスト・バージニア州 vs エホバの証人)
1970年 バンクス事件 フロリダ地裁判決
「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」
1977年 マサチューセッツ州最高裁
「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を有する。」
1977年 ニューヨーク連邦地裁
「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、個人の自由である」
1989年 最高裁判決(国旗焼却事件)
「我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる」
1989年 最高裁判決
上院で可決された国旗規制法を却下。「国旗を床に敷いたり、踏みつけることも、表現の自由として保護されるものであり、国旗の上を歩く自由も保証される」
1990年 最高裁判決
「連邦議会が、89年秋に成立させた、国旗を焼いたりする行為を処罰する国旗法は言論の自由を定めた憲法修正1条に違反する。
> 村野瀬玲奈さん
本文中に、「まずこれを嫁。それから反論しろ」って書いてるんですが、読んでないか、読解力が非常に残念なのか、どちらかですね。玲奈さんとこにもこの「読まない(or読めない)」人々がやってきてるのでは・・ヤレヤレです。
>ASさん
というか、非民主主義国家は強制してるのかもしれませんが、民主主義国家ではそもそも強制などしてない、というか、そんな問題が生じないというか。
民主主義国家では国歌って、国民の側から生まれたもので、専制的な権力によって押しつけられた歴史を持ってないから、君が代みたいに拒否反応を起こすひとがあまりいない、だから強制云々の問題がそもそも生じないと思うんです。日本でだって卒業式で歌う校歌や「旅立ちの日に」みたいな定番ソングでは、強制云々意識されないでしょう、それと似たようなものかと。
志村さんのエントリーご紹介下さってありがとうございます。トラバを送りました(^^)
私の素朴な疑問
1)1審と2審で正反対の違憲、合憲との判断が出る憲法て何だろう?やはり人により色々な解釈ができるのではないか。どちらが正しいのだろう、それを決めるのは最高裁の裁判官と言う事なのだろうが?
2)国旗掲揚、国歌斉唱に反対の先生方は、悪法も法なりと一応従うのでしょうか?法が悪いのだから従う必要はないと考えているのでしょうか?最高裁の判決が出るまでは決定ではないので従わなくていいと考えるのでしょうか?
3)国旗、国歌の過去が悪いから従いたくないとの事ならば別のデザインの国旗、別の歌詞、メロディの国歌ならば(その先生方が気に入ればと仮定してですが)強制されると従うのでしょうか?それともあくまで強制には従いたくないのでしょうか?
4)旗のデザイン、楽曲自体が悪いとすれば、別の国旗、国歌を提案して、国民投票で決めるのが良いのではないか?それ以外の決め方はあるか?
5)戦争に利用された過去があるから国旗、国歌は悪いものだとの理屈は一理有ると思うが、ここ65年間は平和の象徴だったとも言えるのではないか?
6)引き合いに出して申し訳ないが、(国民の一体化・団結の印が必要な国ならともかく、1000年以上も続いている日本でそんなものが要るんですか?)この理屈でいくと憲法一条も不要と言う事になり憲法改正が必要ですね?
またまた、無知蒙昧の輩が妄想しています。お許しを。
>観測霊さん
原告の方々の怒りは相当なものです。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/0831e6d84293d63b01fff38b7319cfdd
裁判所は人権の砦の役割を捨てて、思想弾圧する側にたっているといっても過言じゃないです。最高裁にひっくり返されたくないんでしょうね、この東京高裁の裁判官は。
その特別支援学校の話、私も読んだことがあります。国民よりもご真影の方が大事、国民よりも国体の護持のほうが大事、というのと同じじゃないですか。国旗国歌のためなら卒業式で子どもが倒れたって平気なんでしょうね、さすが石原都政です。
>閑居人さん
>要は、彼らの言う日本の歴史って、明治から始まるみたいなんです。
そうそう、彼らの言うニッポソは、大ニッポソ帝国建国から歴史が始まるんです。それ以前は彼らには存在しません。本物の日本とは微妙に違うらしいですよ(笑)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%C3%A5%DD%A5%BD
NoTitle
つけていらっしゃる御仁がいらっしゃいますが、
その忠義を尽くす対象である天皇陛下ご自身が、
教育現場における国旗掲揚国歌斉唱について、
「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」
とお答えになっておられるわけです。
さて、陛下の意に反する忠義とはなんぞや・・・(^^;;
NoTitle
彼らにとって“天皇陛下”とは、
明治天皇
と
1947年5月2日までの昭和天皇
のみみたいです。
横スレ失礼いたします
私の天皇ただ一人を称える為の歌というのに、疑問を感じている・・というのが、私個人としての意見です。
平和な時代の中にあって、戦争に利用された「天皇の為」という歌は果たして似合う物だろうかと疑問に思うのですが。
NoTitle
生徒たちには強制するくせに自分の事となったら
思想良心の自由の侵害だ
ですか本当毎日ご苦労様です
NoTitle
秋葉月さんは何も、「教師だけ」の思想良心の自由を主張しているわけではないのですよ。記事をもう一度、読み返すなりしましょう。
それと感情だけのコメントはなんとも虚しい物ですので、もう少し冷静になることをお奨めいたします。
訂正
私のは、省いてお読みください。ミスです。私のw恋文か?
NoTitle
生徒は、規律に従う他ない(いや、そんなことない。直訴してやる!てなら頼もしい限りですが)。だから、教師が国と戦っている・・と取ることはできませんかね?
朝鮮学校
敬意を表するものは自分で決めるべきです
そして他国にそれについても口を出されるべき問題でもないと考えています
ちょっと話はずれますが朝鮮学校においては金親子の肖像が掲げられており毎日磨くことや崇拝することが強制されているそうです
民主主義国家である以上このことには日本という国が肖像画を外せなどと口を出すのは筋違いと思いますし教育方針にケチもつけられないかとも思います
ただ民主主義国家である以上、敬意を表するものを強制するような学校を無償化するような態度もおかしいと思うのです
話がずれた上にまとまりがなくてすみません
NoTitle
自分のコメントが言葉足らずでしたすみません
自分は国歌斉唱の強要のことを言ってるのではありません
内心嫌でもなんだろうが表面上はやるってことができないのでしょうか?
ただ起立し君が代を斉唱するだけです
NoTitle
その考えは、かなり危険だと私は思いますね。
内心、嫌だけど歌う。内心嫌だけど、天皇崇拝。内心嫌だけど天皇の為に戦う。・・と言った具合に手がつけられなくなるのではと思います。
表面上やるというのも確かに社会の中で生きるにあたっては大切なことです。が、それのみに囚われていると、自らの生命、自由も奪うことになりかねないという事も多くあるんですよ。
高校生さんは、まだ高校生でしょうから(何言ってんの)まだ、そういう局面に出くわすことはないでしょうけど、社会には「主張しないといけない」時と言うものがあるんです。
偉そうな駄文失礼いたしました
NoTitle
面従腹背はこの場合通用しないという事を覚えておいて下さい。
何も感じずそれが当然と思えるようになったらそれこそ復古派の思う壺です。
フランク・パブロフの「茶色の朝」をお読みになる事をお勧めします。
“エンガワ”さん
異常だからといって外部から体制を転覆するような事は断じて許されません。
その国の人達が“おかしい”と思った時に自分から声を上げて変革すべきです。
サウジアラビアはサウド家独裁ですが、アメリカが体制打倒を狙う様子は微塵も見られません。
これが何を意味するか位はお分かりでしょう?
NoTitle
> 国歌を歌いたくなかったら歌わなくても別に非難されないし強制もされない例として、ジダンのラ・マルセイエーズ拒否を示しました。ご理解頂けると有り難いです。
⇒
はい、了解しました。
賛成派も、反対派も、例としてスポーツ選手を出すのは止めた方がいいと思います。
> それから国旗を燃やす等のあからさまな陵辱行為は日本でも処罰の対象となっていますが、それと卒業式で君が代斉唱を拒む行為とは全く異なる行為でしょう?りらっくすさんが探された訴訟は事例が違うのでは?
>
> 国旗国歌を強制されないことについてのアメリカの判決はこちらです。
⇒
リンク、有難うございました。
私も、こちらのサイトを見ています。
私が言いたいのは、アメリカでも、国旗、国歌法のようなものが出来ては、裁判になり違憲判決になっても、また立法されて裁判みたいな事を繰り返している最中なのだから、日本も、まだ継続中の認識で良いのではないかという事です。
今回の裁判では、「強制するものではない」という判決が出ていますが、多分、最高裁まで行くと思いますし、最高裁で判決が出たとしても、どちらの側も別の訴訟を用意するのではないでしょうか?
私は、正直、裁判では決着のつかない問題だと思っていまして、結局、国民の支持を得たやり方の方が残るような気がします。
> 国旗国歌強制肯定論者の言い分は、秋原葉月さんの緻密な説明によってすべて退けられているのですけど、それでも頑強に出てきますね。
⇒
以上のように書いていますが、私は、もっと賛成派も反対派も話し合うべきだと思います。
秋原葉月さんよりも法律のプロの裁判官が、そう言うのだからこちらの方が正しい、と言っても、反対派の人は納得しないと思いますし。
逆の判決が出ていたら、賛成派の人も納得しないでしょうし。
> Agenさん
> 私の天皇ただ一人を称える為の歌というのに、疑問を感じている・・というのが、私個人としての意見です。
⇒
反対派の人は、そんなに嫌なものなのですか?
賛成派の人でも、この歌は天皇陛下の事を歌っているのではなく~、と言う人がいますが、私は、天皇陛下を称える歌でいいと思うのですが。
権力者ではなく、為政者や法律の上にある権威として天皇陛下が居て、国民は、全て天皇の赤子というのは、いい事を言っているなーと思うのですが?
NoTitle
その“天皇の赤子”という語を使い、かつて教育勅語が何と教示していたかを再度御確認下さい。
これ以外に申し上げる事はありません。
総理大臣や大統領は国民が選べますが、天皇は選べません。
どんな暴君が上に立っても慄きながら受け入れねばならない、そんなのは御免です。
NoTitle
国民はすべて天皇の赤子というのは、
少なくとも日本国憲法下の象徴天皇制の日本にはない
観念です。
それは、大日本帝国憲法下の国家神道の観念です。
ただし、
大ニホソ帝國の住人の方にとっては
未だに自分たちは天皇の赤子だと思っているので
しょうけど。
時代錯誤も甚だしいです。
歌詞
天皇の存在自体が不合理と考えたり、感情的に嫌な人にとってはこの歌詞は違和感の塊でしょう。憲法改正により天皇の存在を否定する事は可能だと思いますが。
憲法第一条だけを読んでも日本語としては舌足らずなような気がします。
NoTitle
たしかになんでも表面上だけやればいいというのはどうかと思いますでも
小さすぎないですか?
いちいちこんなことで文句たれてたらやってられないと思いますが…
観測霊さん
>> 左翼教員の「やりたい放題」を利用して、国家権力がさらに教育に口を出す理由にされてしまう可能性が高いから面倒になる。
>順序が逆転していませんか?
そうは思いません。どうしてか?
「式典(セレモニー)」は「慣習」だからです。時代によって変化していきます。
もしも慣習に対して行政が強引に介入すれば(父兄や来賓や生徒に対して日の丸君が代の強制の通達を出せば・・・)その時こそ考えなくてはいけません。その時は戦をせざろう得ないでしょうね。
正規公務員である以上、通達に従うのはやむをえません。秩序がなくなります。正規公務員が思想の自由を盾にとってあらゆる通達を無視して、各公務員が恣意的な対応をしたらどうなるでしょう?
恐ろしい社会になります。各公務員個人に圧力をかける胡散臭い連中の思う壺です。
今回の通達とて、「慣習」に従わない左翼教員を、東京都教育委員会(石原さんたち)が、上手に手玉にとって利用しただけでしょう。それに見事に乗っかってしまっては(ため息)。石原さんたちがシメシメでしょう

>まず第一に「20代・30代の教員が疲弊しないような仕組み」は「教員の思想信条の自由」とバーターでなければ実現されないのでしょうか。
バーターではなく優先順位を考えろということ。
お願いだから、上手く立ち回ってちょ

「慣習」をゆっくり変えるには何が必要か?それを考えれば解は出るでしょう。
>ojamaさん
> 1)1審と2審で正反対の違憲、合憲との判断が出る憲法て何だろう?やはり人により色々な解釈ができるのではないか。どちらが正しいのだろう、それを決めるのは最高裁の裁判官と言う事なのだろうが?
最高裁の憲法判断がいつも正しいとは限りません。一票の格差だって違憲の基準が滅茶苦茶です。
ojamaさんが何をお尋ねになりたいのかいまひとつつかめないのですが・・・
> 2)国旗掲揚、国歌斉唱に反対の先生方は、悪法も法なりと一応従うのでしょうか?法が悪いのだから従う必要はないと考えているのでしょうか?最高裁の判決が出るまでは決定ではないので従わなくていいと考えるのでしょうか?
君が代を斉唱しろと言う法は存在しません。あるのは教育委員会の通達です。
ちなみに君が代の伴奏を拒否した教師を処分したのは合憲という最高裁判決がありますよ。承服できない判決ですから他の事例で争っていますが。
> 3)国旗、国歌の過去が悪いから従いたくないとの事ならば別のデザインの国旗、別の歌詞、メロディの国歌ならば(その先生方が気に入ればと仮定してですが)強制されると従うのでしょうか?それともあくまで強制には従いたくないのでしょうか?
他の歌詞他のメロディなら歌うかは人によるんじゃないでしょうか。私はもし島唄が国歌なら歌いますよ。但しそれを歌いたくないという人に強制はダメです。
> 4)旗のデザイン、楽曲自体が悪いとすれば、別の国旗、国歌を提案して、国民投票で決めるのが良いのではないか?それ以外の決め方はあるか?
国旗国歌法で日の丸が国旗、君が代が国歌と定められましたが、改正は可能です。他の法律が改正可能なのと同じです。
> 5)戦争に利用された過去があるから国旗、国歌は悪いものだとの理屈は一理有ると思うが、ここ65年間は平和の象徴だったとも言えるのではないか?
そう考える人もいるかもしれません。ひょっとしたらドイツでも戦後66年も立ってるからハーケンクロイツに違和感ない、という人もいるかもしれませんね。(日の丸はドイツのハーケンクロイツと似たような存在でしたから)
でもとてもそう感じることはできない人もいるわけです。未だにハーケンクロイツに嫌悪を感じる人がいるように。
そう感じる人に掲揚や斉唱を強制するな、ということです。掲揚したい人、斉唱したい人がするのは構いません。それ国旗国歌訴訟はそれに尽きます。
私としてはこちらのような歴史を持つ君が代を何の変更もなくそのまま使い続けて、それで歌の持つ意味が変わったとはとても感じることはできませんけど。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-232.html
> 6)引き合いに出して申し訳ないが、(国民の一体化・団結の印が必要な国ならともかく、1000年以上も続いている日本でそんなものが要るんですか?)この理屈でいくと憲法一条も不要と言う事になり憲法改正が必要ですね?
ご質問の趣旨がちょっとよくわかりませんでした。
>フリスキーさん
いったい彼らの崇拝するニッポソって・・・何?www
>エンガワさん
現在は肖像画を飾らない学校もあるようですし崇拝強要もされてないようですよ。
> ただ民主主義国家である以上、敬意を表するものを強制するような学校を無償化するような態度もおかしいと思うのです
無償化の対象は学校ではなく生徒です。
話がずれてますからこれで打ち切ります。次のエントリーで書きますのでよろしければどうぞ
>りらっくすさん
ですからそのような戦前を引きずった考え方は民主主義社会にふさわしくないと抵抗を感じ拒否したい人がいるのは至極真っ当だし、その考えは当然尊重されるべきで、懲戒処分を持って斉唱を強制するのは憲法19条に違反するだろう、と言ってるのです。
りらっくすさんの考え方は民主主義に合致しない時代錯誤的な考え方だし賛成はできませんが、りらっくすさんがそう感じること自体は自由ですし、それを懲戒処分を持って強制的にやめさせる権限は誰にもありません。それが憲法19条の思想良心の自由というものです。
同じように君が代を歌いたくない人間にも思想良心の自由を認め歌わない自由を認めろ、懲戒処分を持って強制するなと主張しているのです。
国旗国歌訴訟において何が問題なのかをもう少しご理解ください。
>馬鹿な高校生さん
学校で基本的人権について学びませんでしたか?
人類は血を流して圧政に打ち勝ってこの基本的人権を勝ち取ってきたのです。
それに対する侵害を我慢せよと言うなら、戦前の思想弾圧だって我慢すればいいのに、といってるのと同じです。
>くろねこさん
>正規公務員である以上、通達に従うのはやむをえません
何度も書いてますが、ちゃんと過去記事を読んで理解した上で書き込んでください。これについては既に論述済みです。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-401.html
この論述を理解すること無しに単に蒸し返すだけのコメントはお断りします。
NoTitle
言っている意味がよくわかりません
>馬鹿な高校生さん
それではさぞかしこのエントリーの主張を理解できなかったことでしょう。
是非勉強を積んでから再びいらしてください。
NoTitle
小さすぎませんかとのご意見ですが、そう言った小さいことが重ねに重なって、ついにはとんでもない事が起きるんですよ。
小さい、小さいと思って無関心を貫いていると、「ある朝、起きてみたら民主主義はなくなっていました」というような事になりかねないのです。
たとえるなら、病みたいなものですかね。「まだ大丈夫、これくらいどうということはない」とか言っているうちに、手がつけられなくなるという感じです。
「国歌斉唱を強制しているだけだ、まだ大丈夫。天皇を崇拝せよと強制しているだけだ、まだ大丈夫・・・」てな具合ですかね。
因みに手遅れになってから(問題が大きくなってから)これは間違いだ!と主張しても「非国民」か「売国奴」の扱いを受けるかと。
ところで、高校生さんは、この問題に関心があるのでしょうか?ないのでしょうか?わざわざ、コメント欄に書いてくる所を見ると関心がおありのようですが。
従うしかないと言いつつ、心の中では嫌だと思っているような感覚を、今までのコメントから感じ取れるのですが。
NoTitle
教師も個人として尊重されるべきと思います。
しかし、学校行事で生徒の規範たる教師が嫌だからという理由で
(嫌にもいろいろ理由はあるでしょうが)拒否するのは違和感を感じます。
主張すること自体は構わないと思いますが時と場合を選んだ方がいいのでは?
NoTitle
その、時と場合というのは、具体的にはどういう時と場合のことでしょう?
生徒の規範とおっしゃいますが、教師は「主張すべきことはきちんと主張する」という規範を示していると思いますが?
精神的苦痛は我慢するべきものという規範を示すべきだと、えーるさんはおっしゃりたいのでしょうけど、それじゃあ生徒達は、何か嫌なことをされても「ただ、黙ってろ」というのと変わらないでしょう。
NoTitle
NoTitle
自分のコメントが言葉たらずなせいでしょうか
話がまったくかみ合ってないような気がします
>Agenさん
話が飛躍しすぎだと思います
無関心と無知は違うものだと思います
>たとえるなら、病みたいなものですかね。「まだ大丈夫、これくらいどうということはない」とか言っているうちに、手がつけられなくなるという感じです
これは極論ですが
その人に医学的知識があれば自分で判断できると思います
これぐらいなら大丈夫だ
ここまでいくとやばいかもしれない
こんな感じでしょうか
ある程度は自分で判断してもらわなければ
病院はパンクしてしまいす
>従うしかないと言いつつ、心の中では嫌だと思っているような感覚を、今までのコメントから感じ取れるのですが。
嫌だからやらないそうなったら終わりだと思います
NoTitle
> その“天皇の赤子”という語を使い、かつて教育勅語が何と教示していたかを再度御確認下さい。
⇒
1. 親に孝養をつくそう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしもう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめよう(徳器成就)
10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
12. 国難に際しては国と天皇のため力を尽くそう(義勇)
wikipediaから貼り付けたものですけれど、いい事を言っていると思うのですが。
やはり、反対派の人は、12.の「天皇のため」が納得いかないという事なのでしょうか?
私は、権力者ではなく、国の象徴としての天皇陛下なのですから、問題ないと思うのですが?
12.が納得いかないのであれば、ここだけ削除して、学校教育で復活させてもいい内容なのではないでしょうか?
> フリスキーさん
> ただし、
> 大ニホソ帝國の住人の方にとっては
> 未だに自分たちは天皇の赤子だと思っているので
> しょうけど。
> 時代錯誤も甚だしいです。
⇒
まぁ、そこは内心の自由と言う事で。
新しい思想が良い結果を生むとも限りませんし。
ところで、天皇陛下には、どのような存在になって欲しいと思っているのですか?
私は、天皇陛下が国民の父、皇后陛下が国民の母、という存在は、良い考えだと思うのですが。
どの時代の、為政者にも法律にも縛られず、国民全員が平等に愛されるという意味で。
NoTitle
> ですからそのような戦前を引きずった考え方は民主主義社会にふさわしくないと抵抗を感じ拒否したい人がいるのは至極真っ当だし、その考えは当然尊重されるべきで、懲戒処分を持って斉唱を強制するのは憲法19条に違反するだろう、と言ってるのです。
⇒
でも、法律の専門家である裁判官が、今回の二審で「強制するものではない」と判断しているのですよね?
それなら、現時点では、法律上、そういう考え方の方が、法に則っていると思うのですが?
誤解して欲しくないのですが、だから従えと言うのではなく、不服なら上告すればいいし、最高裁で否決されたとしても、それが納得できないのであれば、別の裁判を用意すればいいと思うのです。
ただ、「強制するものではない」という考え方も、絶対的に間違っている意見ではない、という事を考えて欲しいのです。
たまにニュースで見かける、起立しなかったり伴奏しなかったりする先生方に、あまり共感できないのは、反対派としての考えを、無理矢理、押し通そうと実力行使しているからです。
自分にとっては、絶対的に自信のある正義でも、他のそうは思っていない人達の事も考えて欲しいのです。
とりあえず、裁判で「強制するものではない」と判断されています。
だから、今年は、こういう先生が出ない事を祈るばかりです。
少なくとも、自分の考えと違うのであれば、先生を辞めろとは言いませんが、何某かの理由をつけて欠席したりするべきだと思います。
教職に付いていて、それなりの、生徒や父兄に対する配慮があれば、それぐらいの行動で我慢するべきです。
式典を、妙な雰囲気にしてしまうのは、子供の前で大人がする態度ではないでしょう。
それが、馬鹿な高校生さんが言っている、「内心嫌でもなんだろうが表面上はやるってことができないのでしょうか?」という意味だと思います。
>その、時と場合というのは、具体的にはどういう時と場合のことでしょう?
私は学校行事の主役は生徒であると思いますから、それを主張の場にするのはどうかと思ったわけです。
生徒の為にも(こう書くのは卑怯かもしれませんが)飲み込んで欲しいなと。
主張するのではあれば学校長や教育委員会等にかけあったり、同じような考えの方を募ってデモをするなりできるわけですし、「場をわきまえる」という事も教えとして必要ではないでしょうか。
それとどうやら私の意見は、この記事で秋原さんが問題としている事とはズレがあるみたいですね。
コメントを汚してしまってすいませんでした。
>えーるさん
と仰いますが、では、国旗国歌法が制定されても絶対に公務員に君が代斉唱を強制したりはしないという約束が破られたことには違和感を感じられないのでしょうか?
強制がもっとも酷い東京都の卒業式が実際どんなだったかご存じですか?
都内の特別支援学校での卒業式の様子は観測霊さんのこちらをどうぞ
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-564.html#comment2767
私はこれを知ったとき怒りに手が震えました。
以前は「フロア形式」の式(卒業生と在校生・保護者・教職員がむきあい、見つめあう式)で、一人ひとりの成長をかみしめる感動にあふれた式もありました。卒業生の作品で飾られた式もありました
しかし「通達」後、そんな式は禁じられます。「通達」が「生徒は国旗のある舞台正面をむいて着席」などと画一化したためです。
そして教育委員会は監視要員を東京都全校の卒業式に派遣し、斉唱中、教頭が椅子につけた番号を監視しながら整列、起立を命じるために職員の背後を歩き回り、立てない職員にまで背後で「立て」と命じました。
監視要員は教師が君が代を口パクしていないか、音量測定器を使ってチェックまでしたのです。
こんなやり方に抗議し不服従した教師達を教育委員会は次々と処分していきました。累計でもう何百人にもなります。
教師達は心に深い傷を受け、やがて沈黙するしかなくなりました。
恩師が苦しむ姿を見て生徒達も傷つきました。
卒業式を私達の手に返して欲しいと裁判で訴える生徒達。
私は君が代を拒否した教師よりも、こんな特高警察みたいなやり方を強行する教育委員会の方に、ゲシュタポに対するのと同じ嫌悪と恐怖を感じますよ。
卒業式は一体だれのためのものなんでしょうね?
>りらっくすさん
こんな実態でも、裁判所が強制じゃないと言ったんだからあれは強制じゃなかったんだ、などとその場にいた教師や生徒が納得できると思いますか。
>えーるさん
> >その、時と場合というのは、具体的にはどういう時と場合のことでしょう?
これ、わたしじゃないですよ(^^;
ふと思ったこと
裁判所が問題ないといってるんだから問題ないんだという論法が必ずしも正しいとは限らない。そんな事例を示してるんじゃないかなとふと思いました。
> 2割しかいない少数派の府民さん
というお上の判断に対する従順さ。
そして
>「内心嫌でもなんだろうが表面上はやるってことができないのでしょうか?」
・・これは、基本的人権侵害されても抗議しない。違法や不正に対して戦わない。
ということです。
これだから日本人は法に定められた最低賃金を下回る賃銀し支払われなかったり、労働基準法違反の長時間労働を強制されたりという違法な労働を強いられても、我慢するだけで逆らわないわけです。
長いものに巻かれお上に決して逆らわないという、江戸時代から連綿と続いてきた日本人の情けないメンタリティの原点を見る思いです。
人権侵害する権力側には日本は天国ですね。いくら無法を働いてもじっと耐えてくれるんですから。
NoTitle
隠れキリシタンの時代、戦前の日本、ナチスドイツ、旧ソ連、旧東欧、マッカーシズムが吹き荒れた頃のアメリカ、文革期の中国などにも公言はできないけど内心では政府に批判的な人は必ず存在していたわけです(もちろん、現在の中国や北朝鮮も)。上記の主張が通るのならこれらの国家体制も自由権を保障していたと言えることになります。
憲法第21条が掲げる「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」の「その他一切の表現の自由」は日常における意思表示の自由も含めると考えるのが自然でしょう。しかし、現在の日本ではこの日常での意思表示の自由が失われつつあります。例えば、一般の職場等で今回の裁判が話題に出た場合、処分された教員をかばう発言をするだけでも異端視されかねません。だから思っていることを口にしにくく、適当に回りに合わせておいたほうが無難ということになってしまいます。表現の自由が保障されているといっても、実質的には一部の人だけが読むような雑誌や新聞の文化欄、匿名で発言するネットに限られているという状況になりつつあるようです。
「内心嫌でもなんだろうが表面上はやるってことができないのでしょうか?」と言われている方がいますが、それこそが、思想・良心の自由の侵害なのですが。
実際に国旗国歌法の制定後、本当は嫌だけど保身を考えて表面上従っているという教員は相当数いると考えられます。そして、その人たちが完全に割り切ってなんの葛藤も感じないでいられるとは思えません。おそらく良心の呵責・自己嫌悪・信念を貫いて処分された同僚に対するうしろめたさなどで内心は傷ついていると思います。
戦前、激しい弾圧に屈して転向した左翼青年たちが、一生挫折感のとりことなり、無気力な敗残の生活をつづけざるをえなくなった人も多いというのはよく知られたことです。居直って極右に走った人もいますが、それもうしろめたさを感じるだけに、なんとか自己の行為を正当化したいという気持ちの結果といえるでしょう。ある意味、生命や身体の自由を奪われる以上の陰湿な悲惨さです。
日本国憲法に思想・良心の自由が謳われた背景にはこのような悲劇はもうあってはならないとの思いがこめられているはずです。
NoTitle
日本の諺にも“上意・権威・権力に逆らうな”という意味のものがいくつもある。
これはもう国民性としか言いようがないんでしょうね。だから「天皇陛下は日本の国父」「国民は陛下の赤子」なんていう時代錯誤のコメントをする輩が現れる(何人かが同一人物で捨てハン使ってない保証はない)。
秋原葉月様へ
秋原様のこのブログへ注がれる労力を考えるとこれ以上お手数をお掛けするのも考えものだと感じましたので。
当ブログを拝見するだけでも、色々な考え方、感じ方の人がいてお互いに相手は何故自分の考えが理解できないのだろうと歯がゆい思いを抱いているのだろうとも感じます。
人間世界の森羅万象の全てを憲法とか法律で解決できると考える事には無理がありますね。人間の存在は憲法とか法律の枠に囚われないものでしょう。
出来るだけ秋原様の負担が小さくなるように質問、疑問を絞りますので、また時々勉強させて頂ければ幸いです。
NoTitle
ここまでいくとやばいかもしれない
・・・・あのですね。例えが悪かったですね。病といっても、風邪とか胃痛とかの類ではありません。例えるなら、癌とか(癌と一口に言ってもいろいろですが)、結核みたいなものですね。早期に問題点を切り取らなければ、あっという間に広がるといったような感じでしょうか。
他の方々のコメントをよおくご覧になる事をお勧めします。
病は、知らぬところでかなり進んでいるというのがわかりますから。
ー都内の特別支援学校でも、この強制のために卒業式が大きく変質してしまったという話です。呼吸器をつけた子や、発達障害のために式典の雰囲気になじめない子もいる中で、都教委からの通達のために、国歌斉唱中教員は所定の位置から動くことができず、そうした子たちのフォローができなくなったということです。喉に痰がからむ子もいますから、下手をすれば命に関るとか。また車椅子の子は、これまでは車椅子に座ったまま、壇上ではなく体育館の中央部に作ったスペースに自力で行って卒業証書を受け取れていたのに、通達のおかげでわざわざ壇上まで長いスロープで介助付きであがらされ、そこで両脇から介助されて立たされ、証書を受け取らされたとか。卒業の段階で、わざわざそうした子に「他人の介助を受けなければ何もできない」と宣告するかのような仕打ちだと思います。その子のありのままで証書を受け取ることさえ許さないのが教育の姿なのかと、暗澹たる気持ちにさせられましたー観測霊さんのこのコメントなんか、読むと私は背筋が凍るような物を感じるのですが、高校生さんはどうですかね?
NoTitle
>無関心と無知は違います
「無知の知」という言葉に聞き覚えはないでしょうか。「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」でもいいですけど。
NoTitle
素で間違えました、申し訳ありません。
謝罪ついでに教育委員会については飾らない言葉で率直に感想を言いますと、
「教育委員会も必死だな(笑)」というところでしょうか。
双方の主張の内容には言及しませんが、教師の方々が裁判を主張の場としたことは
私は良いことだと思います。
追追記
終わるとは何がですか。秩序とかでしょうか?もしそうなら、もう一回上の記事を読み直すことをお勧めしますが。
追追追記
「嫌」だから、やらない。つまりなんでしょうか、・・例えば(例えばです)学校でいじめがあったとしましょう。その子は、いじめられるのが「嫌」ーつまりは精神的な苦痛ですねー「嫌」だけど学校に通い続ける。さて、この先に何があるでしょう。
NoTitle
ボランティアさんを募ってフォローに当たらせるというのはどうでしょうね。
「貴様!教師か!」
「いいえ、ボランティアです。」
・・・冗談半分ですが。
NoTitle
がんみたいに見えないうちに初期症状がでないので気づけないうちに
ってことはないと思いますが
知らないし知ろうともしてないだけなきがします
>ー都内の特別支援学校……
んーなぜそうなるのでしょうか
わざとするのと
生徒への配慮のためできないじゃ
ぜんぜん違うと思うのですが
そもそもなんで起立国歌斉唱に反対するのかわかりせん
すみません、ふたつに分けますm(__)m
返信&フォロー、ありがとうございます。
すみません、あんまりにも長大なコメントなので、二つに分けて投稿させていただきますm(__)m
> 国民よりもご真影の方が大事、国民よりも国体の護持のほうが大事、というのと同じじゃないですか。
まさに。
子どもたちの尊厳や安全よりも、オトナの目から見た「整然とした式典」とやらのほうが大事なんでしょうね。わたしからすればそんなもの自己愛だだ漏れの支配欲の現われとしか思えませんが(-_-;)
…しかし、国旗国歌の強制に賛成される方は皆、都教委や石原知事にお優しいです。「違法や不正に対して戦わない」事が、”生徒の模範となる””場をわきまえた”行為=美徳なら、まさに「人権侵害する権力側には日本は天国ですね。いくら無法を働いてもじっと耐えてくれるんですから」って事ですものね(^_^;)
> りらっくすさん
はじめまして。横レス失礼します。
ここは天皇制を考えるエントリではないですから、あまり深くは言及しません(知識不足でできないとも言う)が。
> wikipediaから貼り付けたものですけれど、いい事を言っていると思うのですが。
文言だけではなくて、それが「どういう主旨で、どういう性質を持つもので、どのように作用したのか」を「再度御確認下さい。」ASさんがおっしゃりたいのはそういうことだと思いますよ。
少し述べておくと、これは「神聖不可侵」の天皇からの国民に対する「勅語=実質的な命令」だったわけです。いいことなんだから「命令」されたっていいじゃないかとお思いかもしれませんが、いま日本は民主主義の国なわけです。主権者はあくまで国民であって、天皇ではない。教育勅語に見られるような徳目は誰かに命じられて守るのではなく、主権者の国民が互いに認め合う形で実現されるものでなければいけないんじゃないでしょうか(そしてこの社会ではそれが既に実施されていると思いますよ)。
教育勅語はそれ自体は「非のうちどころのない道徳」です。子どもたちにそれを教え込み、絶対服従させることが、天皇に対する絶対服従の訓練となっていたわけです。「天皇が良い事言ってる」が、いつのまにか「天皇の言ってることは全部良い事(なにしろ神聖不可侵ですから、逆らうなんてもってのほか)」という風に、社会で位置づけられてしまうのですね。
これが結局、「特高警察などによる思想弾圧(大逆事件や小林多喜二虐殺事件などが有名ですね)」、「統帥権干犯問題(=軍は天皇の直属。だから軍に歯向かうのは天皇に歯向かうのと同じ!)」やそれによる「軍の独走とそれに対する国民の追認」、ひいては「特攻(=天皇の赤子、天皇から命をもらったのだから、その命を天皇のために捧げるのは当然!)とその賛美という現代にまで通じる病理」の温床となったわけです。つまり天皇を錦の御旗(まさに!)にした、個人益や組織益の追及や、思考停止と無責任体制を許した結果、日本も含めた世界中に多大な「迷惑」を撒き散らしたわけです。
これを真摯に反省するなら、「良い事言ってるから復活」なんて、とても通らないと思いますよ。少なくともかつて侵略を受けた国々からすれば「6. 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)」なんて噴飯ものでしょうね。その意味でも、教育勅語は欺瞞に満ちた支配のためのシステムだったとわたしは思います。
> どの時代の、為政者にも法律にも縛られず、国民全員が平等に愛されるという意味で。
天皇の国事行為や、その権限は憲法で定められていますし、皇室典範というものもあります。天皇も法に縛られているという事実は、確認しておきます。
そしてわたしは天皇や皇后に、わたしへの愛を強要する気にはなれません。わたしが彼らへの愛を強要されたくないとの同様に、彼らの心は彼らだけのものです。国家がシステムとして、彼らに愛を強要するなどあってはならないことだと考えます。
って、結局だらだら語ってしまってますがな!(>ヘ<;)ノとセルフツッコミを入れておきますm(__)m
> えーるさん
はじめまして。横レス失礼します。
> 主張するのではあれば学校長や教育委員会等にかけあったり
原告はそういう事もちゃんとやってるんですよ(^_^;) やった上で解決しなかったから、訴訟を起こしたのです。彼らがいきなり訴訟を起こしたと考えておられるのなら、それは事実誤認ですと申しあげておきます。
とりあえず、ここまでに。
以下、くろねこさんへのお返事は次コメントにてm(__)m
すみません、ふたつに分けますm(__)m …の続きです。
> くろねこさん
返信ありがとうございます。お返事遅くなってすみません。
> 慣習に対して行政が強引に介入すれば(父兄や来賓や生徒に対して日の丸君が代の強制の通達を出せば・・・)その時こそ考えなくてはいけません。その時は戦をせざろう得ないでしょうね。
それじゃ遅いと思います…というか、既に介入は起こっているのですが…。国歌斉唱時に受け持ちの生徒が起立しなかったために、処分を受けた教員もいます。となれば生徒たちからすれば、たとえ意に沿わなくとも先生のために立たざるを得ないわけです。また、秋原さんがえーるさんへのコメントの中で、特別支援学校における卒業式の変質を述べておられますが、このレベルでは「介入」とはいえないということなんでしょうか。都教委の通達は、式次第にも及んでいる、既に生徒たちにも影響が及んでいる事を読み取っていただけませんでしょうか。
> 東京都教育委員会(石原さんたち)が、上手に手玉にとって利用しただけでしょう。それに見事に乗っかってしまっては(ため息)。
えええ、それは「手玉に取って利用した」方が悪いでしょう。なんで「手玉に取られた」方が悪いみたいなことになるんですか?大体、それは都教委の方からちょっかいを出してきたってことではないですか?それがなければ卒業式はそれ以前のようにつつがなく行われていたって事でしょう?通達以前にはこんな訴訟などおきようもなかったわけで。「慣習」に介入したのは都教委のほうじゃないんですか?それでもなお「抵抗した教員が悪い」、「黙って従っていればよかったのに」と仰るのなら、それはあまりに都教委側に都合のいい見方ではないでしょうか。
> 石原さんたちがシメシメでしょう

うーん、だから「黙って従っていればよかった」と?黙って従っても「石原さんたちがシメシメ」だと思いますけど。だったら抵抗するほうがまだマシじゃないかと(^_^;) だって黙って従えばそれは「通達に異論がない」=「通達が正当だと認める」ことになりますでしょう。
あと、「戦略的に黙って従う」ことが、更に広い範囲で、より強い介入、抑圧をもなし崩しに許容、もしくは誘発する可能性は決して低くないとわたしは思いますよ。
> 正規公務員である以上、通達に従うのはやむをえません。秩序がなくなります。
秋原さんが既にお答えになっていますが、蛇足としてあえて極端な例でお尋ねします。たとえば警察官や機動隊員が平和的なデモや集会に対して実弾の発砲を命じられたら問答無用で従うべきなんですか?
秩序は大事ですが、それは一体誰の、何のための秩序なんでしょう。
> 各公務員個人に圧力をかける胡散臭い連中の思う壺です。
都教委や石原知事のことですねわかります。(笑)
> バーターではなく優先順位を考えろということ。
> お願いだから、上手く立ち回ってちょ

ご忠告痛み入ります。くろねこさんの仰る事もよくわかります。戦略的投票行動やロビー活動などに代表されるような、原理原則にとらわれない合理的な行動を求めておられるのでしょうね。その有効性はわたしも理解しているつもりです。
しかし、正当性(あるいは正統性)の面で疑問があります。その戦略的な行動によって見捨てられる人、具体的にはこの裁判の原告となった教師たちはどうなるんだろうという事です。「思想良心の自由は大事だ。でも我々には余力がないから、あなたを助けられない。訴訟はやめて通達に従ったほうがいい」と、助けを求めて駆け込んだ先で言われたら、わたしならその党だか、組合だか、弁護士だかには失望しか覚えないでしょう。人が「運動」や「思想」に絶望するときって、そういう瞬間じゃないのかなと思うわけです。
「バーターではない。優先順位の問題だ」と言われても、その人にとっては見捨てられることに変わりはないですし、万が一そのおかげで「20代・30代の教員が疲弊しないような仕組み」が出来上がったとして、それはそれで喜ばしいことなのでしょうが、見捨てられた当人にとっては自分がバーターされた結果以外の何者でもないわけです(もちろん、逆もまたしかりですが)。そのとき、くろねこさんは「上手く立ち回っ」たと仰るでしょうが、それは見捨てた側の言いようのように思えます。
もちろん望むもの何もかもを同時に成し遂げるのは事実上不可能ではあるし、リソースは無限ではありません。それは理解していますが、その時に「騒いでは相手の思う壺」という諌め方は、やはりマイノリティは黙っていろとしか聞こえないわけです。わたしが一番引っかかっているのはここですね。くろねこさんの仰りようはまるで「元気にわめく=裁判に訴える」事自体が間違っているという風にしか受け取れないのです。
こういう事態に対して、「そんなに騒ぐと逆効果だ」「騒いでは相手の思う壺」という言葉を見聞きすると、この事件を思い出します。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20100915/p3
> 差別や偏見に反対の意を表明すると「いちいち騒ぐな」「騒ぐから差別されるのだ」という人が必ず出てきます。
> でも、このカップルは騒がずに5年間耐えたあげく、家を焼かれてしまいました。
全く同列には論じられないでしょうが、通じるものはあると思います。
以上、長々と失礼しました。
NoTitle
そもそも、この国の国歌がどういうものかよくご存知ではないのではありませんか? 他の方々のコメント、記事をよく見ましょう。「嫌」の理由が分かると思います。
因みにあなたが、国歌斉唱するのに何も違和感なくても、他の人にとっては精神的苦痛になる事があるのですよ。「俺が我慢しているのだから、お前たちも我慢しろ」というように聞こえますが、あなたはどんだけ偉い人なんですか?と問いたくなります。
>がんみたいに見えないうちに初期症状がでないので気づけないうちに
ってことはないと思いますが
つまりあなたはまだ気づいてないのですね?異常だと思わないわけですね?
>知らないし知ろうともしてないだけなきがします
・・・・・で、結局あなたはこの問題に関心があるのでしょうか?ないのでしょうか?
NoTitle
わざとするのと
生徒への配慮のためできないじゃ
ぜんぜん違うと思うのですが
・・・。その「わざと」はどういった感情から出る物なのか、上の記事を読む事をお勧めします。
というか、障害ゆえに出来ない人にまであえて、強要する国の態度にも、教師達は怒っていると思うんですがね・・。
そうまでして、歌わせたい理由が逆に私には分かりません。普通、ここまで反発されたら「歌に問題があるんじゃないか?」と考えるのが普通じゃないですか。
もう少し客観的に見たらいかがでしょう。
NoTitle
若干認識の誤りがあるようですので訂正をお願いしたい。
>軍に歯向かうのは天皇に歯向かうのと同じ!
統帥権干犯とはそうではなく、軍は天皇以外の誰にも従う義務などない(相手が文官のトップたる内閣総理大臣であっても)、まして意見されるなど以ての外という話です。
だから盧溝橋事件以降、戦線不拡大の方針に逆らい、なし崩しに泥沼化させていった。しかも昭和天皇はそれ(初期の占領区域拡大)を嘉したんです。
しかし、“馬鹿な高校生”氏といい、“ojama”氏といい、何で復古し“王様”を欲しがるのやら。
やらかしちゃいました。
仰るとおりです。申し訳ないです。
半端な知識のためにお恥ずかしい事をやらかしてしまいました。ごめんなさい。謝罪して、仰るとおり訂正いたします。
りらっくすさんにも併せて謝罪を申し上げます。
大変申し訳ありませんでした。
NoTitle
> りらっくすさんにも併せて謝罪を申し上げます。
> 大変申し訳ありませんでした。
⇒
いえ、お気になさらずに。
時間がないので、今日は短く質問させて下さい。
教育勅語の内容は良いものだ、という認識と考えさせて頂きました。
その上で、この内容が天皇陛下とは関係ないものだ、と学校の授業に復活したら賛成しますか?
また、道徳教育自体は、内心の自由を脅かすものだと思いますか?
今回の裁判で、少なくとも法律の専門家が「強制していない」という判決を出した訳ですが、その事自体は、そう考える人もいる事は認める、という考えですか?
それとも、許してはいけない思考と考えますか?
>ぽむさん
私も佐藤功教授の日本国憲法概説から以下に抜粋しておきましょう。
(引用開始)
思想良心の自由を保障するということは、要するに個人の思想・良心に対して国家が干渉してはならないことを意味する。具体的には、ある思想を有することまたは有していないことを理由として、国民に何らかの不利益を加えることは許されない。
内心の自由の保障は、ことがらの性質上絶対的な保障であり、「公共の福祉」を理由とする制限も一切認められない。
(引用ここまで)
東京高裁や最高裁の裁判官は、今一度憲法の基本書を読み込んで出直してくるべきですね。
>Agenさん
>Agenさん
>馬鹿な高校生さん
「いちいち目くじらたてて逆らうほどでもないのに、何頑張って裁判までやってんだか、ばかじゃねーの、そんなもんそのときだけちょっと我慢スりゃすむことじゃん」
ということですよね?
もう少し日本の戦前の凄まじい人権弾圧の歴史とか今の憲法や世界人権宣言の精神などを学んでから、もう一度この問題を考えてみてください。
あなたがもし本当に高校生ならまだ学び足りず、もし大人なら世の中を知らなさすぎです。
>そもそもなんで起立国歌斉唱に反対するのかわかりせん
それは私の過去記事にきっちり書いてあります。私は本文中でもこのコメント欄でもしつこく言っていますね、まず過去記事を読んで理解してから来いと。
そうしていただくようお願い致します。
>りらっくすさん
ここで問題にしているのは「戦前の軍国主義ファシズムを彷彿とさせる日の丸君が代がイヤだという思想良心の自由に対する侵害」なのです。
ちなみに現在の天皇制には賛成だけど、イヤだという人間にまであんなゲシュタポみたいなやり方で君が代強制するのは反対だと言う人もいますよ。
>今回の裁判で、少なくとも法律の専門家が「強制していない」という判決を出した訳ですが、その事自体は、そう考える人もいる事は認める、という考えですか?
それとも、許してはいけない思考と考えますか?
このくらいの強制当たり前だーっと考えてるのが教育委員会でしょう?そしてそれは許されざる考え方だ、憲法を放棄していると原告も私も考えていますよ。だから原告は上告するんじゃないですか。それがなにか?なぜそんな当たり前のことをお聞きになるのか、よくわからないのですけど。
観測霊さん
>観測霊さん
>また、秋原さんがえーるさんへのコメントの中で、特別支援学校における卒業式の変質を述べておられますが、このレベルでは「介入」とはいえないということなんでしょうか。都教委の通達は、式次第にも及んでいる、既に生徒たちにも影響が及んでいる事を読み取っていただけませんでしょうか。
個人的には「行き過ぎ」だと思います。
そもそも「こんな通達」を出す教育委員会の委員を選んだのは誰?ということからやらないと。根本的には変わらないでしょう。
日の丸君が代うんぬんではなく、どうして石原さんの言いなりになる教育委員だけになったのでしょうか?現状の教育委員会の委員の「選任方法」は妥当なのでしょうか?
>うーん、だから「黙って従っていればよかった」と?黙って従っても「石原さんたちがシメシメ」だと思いますけど。だったら抵抗するほうがまだマシじゃないかと(^_^;) だって黙って従えばそれは「通達に異論がない」=「通達が正当だと認める」ことになりますでしょう。
左翼教員が下手に抵抗することが、石原さんの支持率アップに都合よく利用されていませんか?石原さんの力の根源は「都民の支持」です。
自分は左翼教員のワンパターンな抵抗が、結果的に石原さんの支持率アップに貢献していると思っているので、 「そんなに騒ぐと逆効果だ」「騒いでは相手の思う壺」と書きました。石原さんたちは世論の支持を背景にさらに手を打ってくるでしょう。
>「思想良心の自由は大事だ。でも我々には余力がないから、あなたを助けられない。訴訟はやめて通達に従ったほうがいい」と、助けを求めて駆け込んだ先で言われたら、わたしならその党だか、組合だか、弁護士だかには失望しか覚えないでしょう。人が「運動」や「思想」に絶望するときって、そういう瞬間じゃないのかなと思うわけです。
確かに、共感してもらわなければ、しんどいものはあるでしょう。しかし現時点で、訴訟(争うこと)だけが、通達をひっくり返す方法なのでしょうか?
>秋原さんが既にお答えになっていますが、蛇足としてあえて極端な例でお尋ねします。たとえば警察官や機動隊員が平和的なデモや集会に対して実弾の発砲を命じられたら問答無用で従うべきなんですか?
自分の中では
①命令に従う
②辞表を出して市民側に加わる
③適当な方角に鉄砲を打つ
④急に風邪をひき下痢になる
この4つのうち状況に応じてどれかを選びますw
蛇足ですが、本当のマイノリティになったときは、心身ともにボロボロになる。
排除されないために(何とか身を守るために)危ういバランスの中で何とか生き残っている。耐えすぎてもダメ(自分を追い込みすぎて自爆)。かと言って騒ぎすぎてもダメ(敵を増やしさらに少数派になり、余計に周囲から排除される)。声を出すときは慎重にしないとつぶされる。
本当はおかしいのだけど。
自分の目から見れば、団塊世代の上の教員から叩かれ、教育委員会からも叩かれ、親からも叩かれ、生徒は好き勝手、八方ふさがり、こんな環境の「若い教員」が本当のマイノリティーだと思います。
自分は、無理な事を無理ということは、見捨てることだとは思いません。
都合よくおだてて「ハシゴ」をかけて騒がせて、都合が悪くなったら「ハシゴ」を外すことが、見捨てることだと思います。ん?どこかの知事さんたちや市長さんは???
横スレ失礼
①命令に従う
②辞表を出して市民側に加わる
③適当な方角に鉄砲を打つ
④急に風邪をひき下痢になる
この4つのうち状況に応じてどれかを選びますw
①が、したくないから訴えているのでは。②これが軽々とできるなら誰も苦労はせんでしょう。③・・適当な方角・・つまり裁判という手を打っているのでしょう。④・・あなた馬鹿ですか?いや、馬鹿だからこんな意見がでるんですね。わかります。
>左翼教員が下手に抵抗することが、石原さんの支持率アップに都合よく利用されていませんか?石原さんの力の根源は「都民の支持」です。
都の教員が抵抗すると、イシハラの支持率が上がるですか。すごい数学理論ですね。で、黙っていたら支持率は自然下がる物なんですかね??イシハラが何をしているのか世に示す絶好の機会かと思いますが?
NoTitle
これ、私じゃないですよwあ、でも一応聞いたことがあるので答えておきましょう。
従順も遺伝子情報のうちのひとつですからね。アドレナリンレベル(つまり攻撃性)を低めることにより、従順な生き物が生まれるとか。
旧ソ連では、毛皮業界のために、攻撃性の低い狐を掛け合わせていき、より従順な狐を生み出したそうです。(結果的に人懐っこい犬みたいになっちゃたようですが)
よくSFでもでてきますよ。服従遺伝子の強化により、命令に絶対に逆らえない兵士を作り出すとかは。
こんなのもあります
「憲法時評―国旗・国歌強制のほんとうの問題」
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20110203.html
今日の朝日新聞投書面にも、高裁判決に違和感を持つ人からの声が。
“ドイツが改められたのになぜ日本は?”と。
NoTitle
> いえ、お気になさらずに。
ありがとうございます。お恥ずかしい限りです。
> この内容が天皇陛下とは関係ないものだ、と学校の授業に復活したら賛成しますか?
このエントリとは直接関係がない話題ですので、簡単に済まさせていただきますが、ご容赦を。
反対します。理由は二つあります。
ひとつは教育勅語は「非のうちどころのない道徳」と申し上げたとおり、かなり普遍的な社会道徳なので同じ内容は、教育課程の中で既に実施されているように思います。「あえて復活させよう」と言う必然がないといいますか、今更「教育勅語」を持ち出してくるあたりで別の意図を感じるというのがわたしの印象です。紀元節を国民の祝日にしようと言い出したのと同じですよね。なんとか天皇主権の時代のにおいを、現代に残したいという意図といいますか…上手く表現できず、申し訳ないですが。
いまひとつは、そういった特定の道徳をスローガンとして定めてしまうと、それを「唯一絶対の道徳」として、そぐわない行為、個人、社会現象といったものが、社会から排除されてしまう口実となる危険性が大いにあるからです。
> また、道徳教育自体は、内心の自由を脅かすものだと思いますか?
道徳教育についてですが、わたしも現在の状況をよく知りませんのが、内容によりますとしか申し上げられません。
「唯一絶対の道徳」を振りかざし、それ以外を認めないという道徳授業ならば、それは社会的マイノリティを差別することを推奨しているわけで、「道徳教育」として既に破綻しています。そんな多様な個人のあり方を認めない道徳授業は「内心の自由への侵害」とわたしは考えます。
> 今回の裁判で、少なくとも法律の専門家が「強制していない」という判決を出した訳ですが、その事自体は、そう考える人もいる事は認める、という考えですか?
> それとも、許してはいけない思考と考えますか?
秋原さんにすでにお答えいただいてますので、省略させていただきます。
NoTitle
> ちょっと話がずれすぎてますので軌道修正して頂けませんか。私はこのエントリーで天皇制の是非や教育勅語の善し悪しについて問題にしてるわけではありません。
⇒
はい、以後、このキーワードは出さないようにします。
何故、この質問をしたかと言いますと、国旗国歌の話題になりますと、必ず、以下のような意見が出るような気がするからです。
>ここで問題にしているのは「戦前の軍国主義ファシズムを彷彿とさせる日の丸君が代がイヤだという思想良心の自由に対する侵害」なのです。
私は、別に、戦前も戦中も、軍国主義ファシズムだったとは思っていません。
軍国主義ファシズム、という言葉が、どういう意味なのかはよく理解できませんが、少なくとも、
> もう少し日本の戦前の凄まじい人権弾圧の歴史とか今の憲法や世界人権宣言の精神などを学んでから、もう一度この問題を考えてみてください。
このような、凄まじい人権弾圧の時代だったとは思っていません。
事例を挙げて、外国ではこのような悪い事をしていて、その当時の日本はこんなに良い事をしていた、と言うつもりもありません。
事例の数の競争になってしまいますので。
私は、只、死んだ婆さんが、一人息子を戦争に出して、シベリアの強制労働で死んでも、別に天皇陛下の悪口も言っていなかったし、床の間には靖国神社の掛け軸を掛けて拝んでいたのを知っているので、そんなに凄まじい人権弾圧の時代だったとは思えません。
そして、そういう婆さんを育んだ、戦前、戦中の思想や教育も、そんなに悪かったものとは思えません。
戦前、戦中の時代を、凄まじい人権弾圧の時代だったと思うという事は、戦前、戦中の時代に生きた人は、ごく少数意外は、皆、凄まじい抑圧者か、凄まじいおかしな教育を受けた、出来損ないだと思っているという事なのですか?
私の婆さんは、高等教育を受けた訳ではないですが、普通の、田舎の婆ぁでしたよ?
> このくらいの強制当たり前だーっと考えてるのが教育委員会でしょう?
⇒
裁判では、法律の専門家である裁判官が、「強制ではない」と言っているんですよね?
別に、上告するなと言っている訳ではありませんが、法律上、「強制ではない」という判断がされているんですよね?
それなら、「強制ではない」という考えもある、という事は認めなければいけないのではないでしょうか?
話し合って、それでも意見の相違がある場合は法の下で裁判を行う、というのが現代社会のルールになっていると思います。
上告するな、最高裁が出るまではこちらが正しい、とは言う気はありませんが、判決に一定の敬意を払うのであれば、実力行使で不起立等を行うのは控えるべきだと思います。
全く、判決に敬意を払わず、実力行使を繰り返すのであれば、この裁判自体、勝っても負けても意味のないものになってしまうと思います?
裁判で自分の勝ちが出るまでは法律には従わない、というのは、裁判を起こすという行動と、凄く矛盾する考えだと思うのですが?
NoTitle
裁判している人たちが、世論の支持ナシ(嫌悪感さえある状態)では、「下手に騒ぐほど」逆効果だと思いますが。現状では毎度毎度のワンパターンで騒がない方が、支持率の減少は少ないと思いますが・・・
田舎のおバカへタレ保守人間としては、民度が高く高度な知性を持っているご立派な人たちが、どんどん暴走していく姿を見るのはなんだか悲しいんですよ。
Agenさんのお好きなように、ご立派な素晴らしい理屈を振りかざして、ドンドン日の丸君が代で騒がれたらいいでしょう。
でも真面目に革新候補者の票を増やそうと考えている人たち(保守系や無党派層を意識している人たち)が、一番困るでしょうね。革新系の末端地方議員候補者やコア支持者は本当に可哀そうだ。
自分にとっては他人事ですが・・・
これで切り上げますねw
秋原さん観測霊さん、不愉快にさせて申し訳ありませんでした。では、失礼いたします。
NoTitle
> 代表的な性格遺伝子であるセロトニン輸送体にはLとS という対立遺伝子があり、
> 日本人は従順、消極的なS/S 型が多く、白人には積極的なS/L 型が多い。報告者自身はS/L 型で
> あり米国で3年間客員教授をして、白人学生の意欲に感心したが、日本の学生は質問も殆どせず、
> 安全な選択科目を選んで受動的である。米国のゆとりの自主学習は日本人には向かない。
⇒
香川靖雄教授が言うには、だからゆとり教育は日本人には合わないとの事で、やはり、戦前の、規律を正し、小グループ・個人対応の丁寧で厳格な親心のある教育は、そんなに悪くなかったのではないでしょうか?
あなた方は断じて保守ではない。復古派です。
NoTitle
想定外に議論が長引いてしまいました。大変申し訳ないです。くろねこさんが切り上げを宣言されましたので、わたしもこの議論についてはここで終わりにさせていただきます。コメント欄で大暴れしてしまい申し訳ないですm(__)mただ、最後にわたしが言いっぱなしになってもなんですので、くろねこさんから反論があるようでしたら、そちらにもご配慮をいただけるとありがたいです。
> くろねこさん
こんばんは。お付き合いいただきありがとうございます。
> 個人的には「行き過ぎ」だと思います。
それでもまだ「戦い時」ではありませんか?
> そもそも「こんな通達」を出す教育委員会の委員を選んだのは誰?
教育委員は議会の承認を経て首長に任命されます。当然選任される委員への首長の影響力は強くなりますから、首長の意思が強く委員会の性格に反映され、教育の自主性、独立性が損なわれている問題はわたしも承知しています。
以前は公選制だったのですから、元に戻せばいいとはわたしは思っています。
> 左翼教員が下手に抵抗することが、石原さんの支持率アップに都合よく利用されていませんか?石原さんの力の根源は「都民の支持」です。
正確には都民の支持と、知事のキャラクタが相互補完・相互依存関係にありますから、これに割って入って、彼らの機嫌を損ねないように異議を差し挟むのはのは相当難しいです。
石原知事に限らず、「敵」を作りそれを攻撃するのは、ポピュリズム的政治手法の常套手段です。たとえ”上手に”抵抗したこちらが思っていても、知事に「敵」認定されたら同じことです。結局石原知事や彼の支持者のご機嫌を損ねないようにしないとあらゆる抵抗が”都合よく利用”されます。
…少数者が多数者の機嫌を常に忖度し、配慮しなければならないとしたら、それは構造的弱者に更なる負担を強いる二重の差別行為ではないでしょうか。少数者は少数であるということで、既に社会へ訴える手段が限られているという問題もありますから、安易に「やり方を選べ」といわれたら、それは文字通り「八方ふさがり」になりかねないですよ。
それもその根拠が「嫌悪」なのだとしたら、「嫌われているやつらは、どんな不当な扱いを受けても、抵抗すれば逆効果だから黙っていろ」ということになりかねないと、申し上げておきます。現実がそうなのだからと、それを是認していてはいつまでたっても何も変わらないどころか、そのやるせない「現実」が拡大再生産されるだけではないでしょうか。
Agenさんの仰るとおり、まずは問題を表面化させるために訴訟という手段をとるというのは、支持を広げる第一段階としても有効な面はあるのではないかと思うのですが。
> 現時点で、訴訟(争うこと)だけが、通達をひっくり返す方法なのでしょうか?
「訴訟(争うこと)だけが、通達をひっくり返す方法」だと主張した覚えはありません(^_^;) もちろん、方法は他にもあると思いますよ。裁判に限らず、署名集め、ツイッターやブログ、デモや座り込み、街頭演説、講演会、勉強会、マスコミやNPO、国際機関への働きかけや、議員に対するロビー活動など、平和的な手段で非合法ではない、いろんな方法をとるべきだと思いますよ。それはそれぞれの特技やできることをやっていけばいいと思いますし、実際にやられていると思います。それを否定したつもりはありません。
その中で訴訟という手段をくろねこさんが否定されたので、それに対する弁護をしたというのが、この場でのわたしの立場です。
> この4つのうち状況に応じてどれかを選びますw
たとえが酷すぎましたかね(^_^;) お答えしづらかったようで申し訳ないです。
> 本当はおかしいのだけど。
蛇足じゃないです。とても大切なことを仰っていただきました。
裁判に訴えるという手段が、逆効果、下手な手段となってしまうのは、本当はおかしいんですよね。もちろんおかしいと言うだけでは勝てない。それはわかっています。しかし、同時におかしいと言っておかないと、いつまでたっても「本当はおかしい」状態が改善されないのではないかなと思うわけです。そういう点で「おかしい」と言い続けることには、それなりに意味があると思うのですが。
> 自分の目から見れば、団塊世代の上の教員から叩かれ、教育委員会からも叩かれ、親からも叩かれ、生徒は好き勝手、八方ふさがり、こんな環境の「若い教員」が本当のマイノリティーだと思います。
くろねこさん、それはいけません。典型的な「犠牲の累進性」です。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BE%C0%B7%A4%CE%CE%DF%BF%CA%C0%AD
「もっと大変な人がいる」と言って、誰かを黙らせた人は、「さらにもっと大変な人(たとえば臨時採用講師や、失業者)」を持ち出されたら、同じように黙らされます。そんな方法で「若い教員」を救おうとなさっても、すぐに袋小路です。ちなみに「犠牲の累進性」は石原知事も、雨宮処凛さんとの対談の中で口にしています。
http://www.magazine9.jp/karin/100825/
しかし、「若い教員」は「団塊世代の上の教員」からも叩かれていたのですか?確かにそういう事例もあるかもしれませんが、同時に「若い教員」をサポートしていこうという動きもありますよ。全教系の雑誌ですが、参考までに。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b73911.html
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b61456.html
ついでにこれは、臨時教員問題をとりあげたものです↓
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b67089.html
> 都合よくおだてて「ハシゴ」をかけて騒がせて、都合が悪くなったら「ハシゴ」を外すことが、見捨てることだと思います。
それは見捨てるというより、体よく利用しただけではないですかね(^_^;)
ずいぶん具体的ですけど、何か個別具体的な事例が念頭にあったりするんでしょうか。
以上、長らくお付き合いありがとうございました。
> Agenさん
フォローありがとうございます。
> イシハラが何をしているのか世に示す絶好の機会かと思いますが?
実際、学校の中での出来事というのは、なかなか外からわかりづらいですから、仰るとおり、問題の存在を周知するという意味も、この訴訟にはあると思われます。
NoTitle
>フォローありがとうございます。
いえいえ、どちらかというと私がフォローされている感じです。こちらこそ、ありがとうございます。
>実際、学校の中での出来事というのは、なかなか外からわかりづらいですから、仰るとおり、問題の存在を周知するという意味も、この訴訟にはあると思われます。
そうですね。「何でそんなに騒いでいるの?」と外の人は感じるでしょうし、高校生さんみたいに「それくらい我慢したら?」みたいな意見が出てくるのも、あるとは思います。
問題の存在を周知してもらう意味でもこの訴訟は、かなり意義のあるものだと私は思います。
>ASさん
「国旗・国歌強制が許されないのは、「日の丸」・「君が代」だからというよりも、まさに国旗・国歌だから、なのである。国旗・国歌は、いかなる場面においても、決して権力が国民に対して強制してはならないものなのである。少なくとも民主主義国家においては。本質的な問題は、そこにある。」
「私たちが、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うとき、程度の差はあっても、「自分は日本国民(日本人)だ」ということを意識しているであろう。日本という国の一員であるという意識、しかもそのことを肯定的にとらえる意識である。言いかえれば、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎(の一つ)とする意識である。そういう意識をもつことが悪いというわけではない。しかし、そういう意識を持つべきだと、他から、ましてや国家公権力から、強制・干渉されるいわれはない。自己のアイデンティティの基礎をどこに求めるかは、まさに個人個人が自分で自律的に決めるべきことだからである。それは、憲法13条のいう「個人の尊重」の一番根源である」
激しく同意です。
これ、何度でもかみしめるべき保存版ですね。
観測霊さん
観測霊さんの質問ひどすぎですよ~
①~③まではすぐに思いつきましたが、④の「急に風邪をひいて下痢になる」は「トイレの神様」フルコーラス聞いてようやく思いつきましたからw
私自身は「訴訟」という手段を自体否定はしていません。
確かに世論の反発が増えても正しい事は正しいでしょう。
でもこの件は最終的に世論が決めることになると思う。
理由は
通達を出す権限があるのは?(教育委員会)
教育委員の人事権は誰にあるのか?(実質都知事)
石原都知事の影響力を落とさない限り(石原たんの票を減らすということ)現状を変えることは厳しいでしょう。でも目の前にチャンスはある。4年に一度の選挙。
裁判という方法もあるでしょうが・・・風向きからすると厳しいのではと思います。この裁判は最高裁でどちらに転がるかは紙一重でしょう。地裁・高裁で判断が分かれた。微妙な案件でしょう。裁判官とて人間。白黒つけられないときは世論も気にするでしょう。
一番ベターな方法は、石原さんが選挙で落ちて新しい知事のもとでの和解でしょう。
多くの国民は、裁判をしている人たちが、「公務員でありながら、日の丸君が代の存在さえも否定していると思いこんでいる」でしょう(マスコミ報道も影響していると思いますが)。当然、多くの国民は国家という大きな共同体に帰属する「自己のアイデンティティーの一部」を「左翼教員たちに否定されたと思いこんでしまう」のも仕方がないでしょう。
そこに石原さんの「悪魔のささやきが。。。」
ましてや、片や多数、片や少数、そして今の状態になっている。
この裁判は多くの人が誤解していると思います。
①「日の丸・君が代」自体が、国旗国歌としてとんでもない。
②「公権力」が「強制・干渉」しているからとんでもない。
多くの国民は①と②が一緒だと思っているだろう。
日の丸君が代自体を国旗国歌として認めないから騒いでいるのか?
公権力が強制していることに対して騒いでいるのか?非常に分かりにくい。
公務員として国旗国歌としての日の丸君が代自体は否定していないが(各個人の意思はまた別)、公権力が強制する事には反対だというメッセージを強く出した方がプラスだと思う。特に「日の丸君が代自体を否定している訳ではない」という部分を。
余計な事ばかり書いてしまった(汗
観測霊さんがネットの左翼連中のなかでは、珍しく丁寧に対応して頂いたので根負けです。
観測霊さんは、ネット界隈の左翼(国民をバカにして結果的に票減らし)と違って、リアルで話したことのある真面目な左翼の人たちと同じような感じだったので新鮮でした。
都合よく自民から逃げ出して「大阪維新の会」に入った候補者をパスさせたらあかんで~
ではこれにて本当に切り上げます。こちらこそお付き合い頂きありがとうございました。
失礼いたしましす。
>観測霊さん
>「唯一絶対の道徳」を振りかざし、それ以外を認めないという道徳授業ならば、それは社会的マイノリティを差別することを推奨しているわけで、「道徳教育」として既に破綻しています。そんな多様な個人のあり方を認めない道徳授業は「内心の自由への侵害」とわたしは考えます。
⇒
とりあえず、戦前、戦中の道徳教育は、内容としては評価するが、天皇のにおいを感じるので反対する、という事でよろしいでしょうか?
一応、私を右側、反対派の方を左側、として置いた時に、左側の方がどう考えているか知りたい事があります
「唯一絶対の道徳」以外のものが排除されてしまうのを危惧する場合、それ以外のものとは、一体どのようなものになるのでしょうか?
戦前、戦中の道徳教育の内容は、日本人が持つ道徳観のおおよそだと思います。
意見の相違があっても、認め合おうという部分が色濃いと思います。
その場合、その範疇から外れる行為、個人、社会現象とは、既に道徳から外れたものになっているのではないでしょうか?
私は、長い歴史が育んできた価値観は、その歴史の中で淘汰されての価値観なので、その文化の中での、ある程度の普遍性があると思っています。
ですが、そこから大きく外れる価値観は、個人が頭の中で思いついた、不道徳ではないのでしょうか?
自分の正義を持つ事は構わないと思うのですが、それが、大勢を占める道徳の中で大きく外れ、それでも自分の正義を実力行使する場合は、その行為は罰せられるべきだと思います。
それすらも認めるべきというのは、理論の中のロジックが絡まっているか、不確定要素の値をそのままにして思考してしまい、社会生活とは大きく外れる結論になってしまっているのではないでしょうか?
左側の方が考える、戦前、戦中で教育していた道徳以外の、それ以外の道徳とは何なのでしょうか?
> > 今回の裁判で、少なくとも法律の専門家が「強制していない」という判決を出した訳ですが、その事自体は、そう考える人もいる事は認める、という考えですか?
> > それとも、許してはいけない思考と考えますか?
> 秋原さんにすでにお答えいただいてますので、省略させていただきます。
⇒
秋原さんの答えは、
・裁判で自分の考えとは違う判決が出た場合、その違う考えを持つ人が居る事は認めない。
・裁判で自分の考えとは違う判決が出た場合、その判決には従わなくてもいい。
以上のように解釈したのですがその通りでしょうか?
私は、その考えは、裁判を起こす、という行動と、凄く矛盾した考えの様に思えて仕方がないのですが。
> ASさん
> あなた方は断じて保守ではない。復古派です。
⇒
私に対しての返信かもしれないないのでコメントします。
私は、裁判で負けたから従え、という気はありません。
只、「強制していない」という判決が出ているのだから、そういう考えを持つ人達も居る事を認めて欲しいのです。
嫌なら辞職しろ、と言う気もありませんし、最高裁で負けても、また別の裁判を準備すればいいと思います。
しかし、裁判の判決を尊重しないで、実力行使を繰り返すのでは、それは、大人が子供の前で見せる態度ではないし、裁判を起こすという行動にも、矛盾する行為になるのではないかと思ってしまうのです。
> くろねこさん
⇒
私も、ちょっと理解しきれていない部分があるのですが、原告の方々は、内心の自由への侵害という事で、あらゆる歌の斉唱、旗の掲揚に反対しているという事なのでしょうか?
国旗・国家法が無くて、校長先生からの指示だとしたら、君が代も歌うし、国旗の掲揚も認めると言う事なのでしょうか?
どこからの指示だとしたら、その指示に従うというものなのでしょうか?
あなたは何も見ていないという事だけ分かった。話にならない。
>りらっくすさん
>このような、凄まじい人権弾圧の時代だったとは思っていません。
ちょっと絶句しました。りらっくすさん、いくら何でも歴史を知らなさすぎます。
これ、ナチスドイツが軍国主義ファシズムだった、凄まじい人権弾圧をしたとは思いません、と言ってるのに匹敵しますよ。もはや「事例を挙げて、」なんてレベルじゃないです。
日独伊三国同盟は知りませんか。日本ドイツイタリアがファシズム国家だったというのは歴然たる歴史上の事実ですよ。少なくとも高校の近代史か政治経済で習うはずですが。
なるほど、何故あなたのコメントがああなのかわかりました。
>ASさん、Agenさん
NoTitle
一応、私を右側、反対派の方を左側、として置いた時に、左側の方がどう考えているか知りたい事があります
とりあえず、戦時中に日本が何してたか勉強しなおしてきましょう・・ね?
NoTitle
そこの住人にとっては、
日本国憲法を改定するのみならず、
大日本帝国憲法に戻したいのかもしれませんね。
NoTitle
今日は、時間がないので短く書きます。
> 日独伊三国同盟は知りませんか。日本ドイツイタリアがファシズム国家だったというのは歴然たる歴史上の事実ですよ。少なくとも高校の近代史か政治経済で習うはずですが。
⇒
Wikipediaで調べてみたところ、ファシズムの定義は、とりあえずこのようなものみたいです。
戦中には、日本にもファシズム政党があったみたいですが、そんなに日本と当て嵌まりますか?
具体的に、どの部分を指しているのでしょうか?
1. 伝統的な国家を基礎としない、新しいナショナリストの権威主義的な国家の作成
2. サンディカリストやコーポラリストや国家社会主義者すらも含めて社会的関係を変革できる、統制され、複数の階級を持つ、国家的な経済基盤の新しい1種類
3. 帝国を目指す
4. 理想主義者、ボランティアの信念、典型的には新近代的で自己決定の、宗教には関係ない文化の実現
> とりあえず、戦時中に日本が何してたか勉強しなおしてきましょう・・ね?
⇒
具体的に言うと、とりあえず、戦時中に日本が何してたのでしょうか?
> 日本国憲法を改定するのみならず、
> 大日本帝国憲法に戻したいのかもしれませんね。
⇒
反対派の方々は、現在の日本国憲法は改正するのは反対なものなのですか?
これは、順法精神自体は肯定するという事なのですか?
>フリスキーさん
またしても長いので二つに分けさせていただきますm(__)m …何と言いますか、毎度すみませんm(__)m
まず、くろねこさんとの議論の最終盤でコメント欄自体を取り仕切るようなお願いをしたことを、お詫びしておきます(くろねこさんに反論があれば考慮してあげて、と言ったあれです)。一晩寝て起きて考えてみると、いかにも越権的な行為で顔から火が出そうになりました。お恥ずかしいです。
にもかかわらず、快く受け入れてくださったことに感謝しますと同時に、ご面倒をおかけしたことをお詫びします。
あと、また長くなりましたのでコメントを二つに分けて投稿させていただきましたm(__)m
なんか、こう、短い言葉で的確に主張を伝えるって、できないものかな、といつも思ってはいるのですが…すみません(^_^;)
> くろねこさん
お付き合いいただきありがとうございました。議論については終わりと申し上げましたが、ひとつだけ。
> 観測霊さんがネットの左翼連中のなかでは、珍しく丁寧に対応して頂いたので根負けです。
> 観測霊さんは、ネット界隈の左翼(国民をバカにして結果的に票減らし)と違って、リアルで話したことのある真面目な左翼の人たちと同じような感じだったので新鮮でした。
そうですか。お褒めいただいて申し訳ないのですが、「ネット界隈の左翼(国民をバカにして結果的に票減らし)と違って」などと言われましても、「名誉白人にしてあげる」と言われたような気分で、正直嬉しくありません。「ネット界隈の左翼」の皆さんにも失礼ですので、そういった評価は返上させていただきます。あしからずご了承ください。
以下、りらっくすさんへの返信は次のコメントにて行います。
りらっくすさんへ。
お返事が遅くなりました。かなり厳しいことも書きましたがご容赦を。
> とりあえず、戦前、戦中の道徳教育は、内容としては評価するが、天皇のにおいを感じるので反対する、という事でよろしいでしょうか?
それはひとつめに挙げた理由ですよね。理由は二つ挙げたはずです。というか本題は二つ目の理由です。
国家権力という、社会に対して大きな責任と力をもった存在が、国民の内心にある特定の道徳を強いることに反対しているのです。思想信条の自由への侵害ですから。天皇制のにおいが反対の理由の全てではありません。ですから天皇制のにおいがなければ強制に賛成するということは、少なくともわたしにとってはありえないことです。
ASさんがご紹介くださった浦部法穂先生の評論もお読みください。
> 「唯一絶対の道徳」以外のものが排除されてしまうのを危惧する場合、それ以外のものとは、一体どのようなものになるのでしょうか?
なにか具体的な事例を挙げることを期待されているような気がするのですが、そういう問題ではありません。ここで個別具体的な事例を挙げる事はいくらでもできますが、ここでそんな個々の事例に対して、それは道徳的か否か、なんて話しても意味のない事です。わたしが言いたいのは、そういう個別の問題ではありません。
あなたは教育勅語的道徳を絶対に正しいものとお考えなのでしょうね。だからそこから外れるものはすべて「不道徳」なものだから、排除したり処罰したりして良いと考えておられる。
しかし、まず最初に「唯一絶対の道徳(=教育勅語的道徳)」を絶対視するという前提から離れてください。でないと、「『唯一絶対の道徳』にそぐわない行為、個人、社会現象といったものが、社会から排除されてしまう口実となる危険性が大いにある」ことが理解できないのではないかと思います。
その「教育勅語的道徳」という特定の道徳を基準に、そこから外れた人を「不道徳」=「良くないもの、好ましくないもの」と国、社会が決め付けること自体が、わたしの言う危険性そのものだからです。
> その場合、その範疇から外れる行為、個人、社会現象とは、既に道徳から外れたものになっているのではないでしょうか?
普遍性を絶対性と混同されては困ります。普遍的道徳ではカバーしきれない、さまざまな問題が社会にあるとは思いませんか?
道徳とは何を良しとするか、という価値基準です。だから国や地域が異なれば、道徳も違ってきます。たとえ普遍的な道徳であれ、それを自身の道徳として採用するか否かは個人の自由、言い換えれば何を道徳的価値の高いところに置くかというのは、まさに個人の内心の問題でしょう。それに国がとやかく言うのは、まさに内心の自由への侵害そのものではありませんか?
普遍的道徳であるというのは、「比較的多くの人に採用されやすい道徳」というレベルでしかありません。それを自身の道徳に採用しない人も当然います。しかし、互いに危害を加えない限りにおいて、個人がどのような道徳律に沿って行動しようと、それはその人の自由でしょう。あなたにも国にも、個人の価値判断に介入する権利などありません。
> ですが、そこから大きく外れる価値観は、個人が頭の中で思いついた、不道徳ではないのでしょうか?
社会状況の変化で、新たな価値観が生まれる事もあると思いますが。たとえばかつて日本では士農工商の身分外の存在とされた人々が多くいました。しかし明治維新と敗戦を経て、そうした人々に対する差別はよくないという、新たな道徳が生まれてきました。それ以前は差別的扱いこそが、社会の道徳にかなっていた(たとえば、そうした人たちと結婚するのは「不道徳」な行いだったわけです)のに、それが変化してきたのです。
たとえ道徳から外れていると今は思えても、それが新しい道徳になることもあるのです。不道徳であるというだけで、排除していいという理屈は、新たな道徳の芽を摘んでいるともいえます。
> 自分の正義を持つ事は構わないと思うのですが、それが、大勢を占める道徳の中で大きく外れ、それでも自分の正義を実力行使する場合は、その行為は罰せられるべきだと思います。
罰とは何ですか?法を犯した者に課せられるものでしょう。法と道徳は違います。あなたは「不道徳」であることが即ち犯罪=違法であるかのように、勘違いされてはいませんか?
道徳はあくまで道徳、価値基準にすぎないのであって、法ではありません。そむけば社会的には好ましからざる行為ですが、それを理由に処罰を受けることが必ずしもあるわけではないのです。そしてあなたは自分だけはその道徳にそむく事がないと思い込んでいませんか?
たとえば、「3. 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)」を道徳とすれば、離婚は「不道徳」な行為でしょう。しかし離婚は犯罪ではありません。あなたは離婚も「罰せられるべき」と考えているのですか?あなたが既婚かどうかはどうでもいいですが、あなたは未来永劫にわたって絶対に離婚しないと言い切れるんですか?
あるいは「勤勉」を道徳とするなら「怠惰」は不道徳でしょう。怠惰であることが罪なのですか?あなたは生まれてから一度も怠けたことがないのですか?
そもそも犯罪は犯罪として、現在既に取り締まられています。あなたは新たに「不道徳」をも犯罪と同じように扱えと仰るのですか?それは国民の自由をほぼ全面的に制限しうる、恐るべき監視国家の誕生を意味するのですが、あなたはそれを理解しておられますか?
また世の中には、心ならずも社会道徳の例外状況におかれる人が、確実にいるということにも想像力を働かせてください。いくら普遍性があるといっても、例外的な状況はいくらでも発生します。国が特定の道徳を定めてしまうと、そうした状況にある人たちが「例外状況にある」がゆえに、それを理由に社会から排除される危険があるのです。
国が特定の道徳を定めたと仮定しましょう。その道徳にそぐわない行為、個人、社会現象は「不道徳」なものということになります。それはつまり国が特定の人々を、「社会にとって好ましからざるもの」と認定することでしょう。しかし現実には孝行しろ、夫婦仲良くと言っても、DV被害を受けるなどして関係が破綻する家族は確実に存在します。友情を重んじろと命じれば、友達がいない、少ない人は「不道徳」な存在です。また夫婦という単位を絶対視すれば、単身者や離婚家庭、シングルペアレント、同性カップルなども「不道徳」な存在ということになります。勤勉たれと道徳に定めれば生産性の低い人たちは差別されますし、病気療養による休業も「不道徳」な行為とされるでしょう。社会に貢献せよと定めれば、貢献しない人、できない人が蔑まれます。これらの人たちは犯罪を犯したわけではありません。ただ「(教育勅語的道徳社会において)不道徳」なだけです。しかし「国にとって好ましからざる者」たちと認定されてしまうと、道徳がもはや道徳には留まらず、一種の法のように機能してしまいます。社会が道徳にそぐわない人々を排除し、差別状態に置いて恥じないという事態が発生しうるのです。
そう、あなたが「不道徳は罰するべき」と仰ったのは、まさに問わず語りに「唯一絶対の道徳」を国が定めたときに起きる「『唯一絶対の道徳』にそぐわない行為、個人、社会現象といったものが、社会から排除されてしまう危険性」を証明しているのです。わたしが恐れてるのはそれです。「不道徳」というだけで社会から排除されてしまうような、窮屈で不自由な社会にわたしは住みたいと思いません。
個人の関係性や生き方にまで国が口出ししてくる社会が果たして自由な社会といえますか?個人が他者とどのような付き合いをするか、どのように生きていくのかは、その人の内面、内心に関わる問題です。そんな社会は、個人の多様性を認めているとは言えず、個人の自由を侵害している、自由であるとは言えない社会です。少なくともわたしは、そんな社会が到来するというのなら、国が道徳を定めることに、絶対に同意するわけには参りません。
確かに教育勅語的道徳には一定の普遍性があります。
わたしの危惧は、その普遍性ゆえと言ってもいいです。普遍的であることを錦の御旗に、教育勅語的道徳そぐわない事象、価値観、人間関係をすべて「不道徳」 と断じ、社会的に排除することが「普遍的道徳」に基づいているがために「仕方のない事」と是認されてしまいやすいのです。しかし、それで本当に誰もが住み良い社会が来るのですか?わたしには到底そうは思えません。だってその偏狭な枠組みによって排除される人たちにとって、そこは少しも住み良くはないではないですか。
そうした人たちを排除して「社会が住み良くなった」と仰るのなら、それは社会の矛盾や不条理を、社会から排除された人たちに全ておっかぶせて、後は見ないように考えないようにしているだけで、実際には自分たちの住む社会に対して、あまりに無責任ではないですか。
自分たちの道徳観にそぐわないからと言って、他者を排斥して良しとするのは、”民族浄化”の論理と同じですよ。「不道徳」とみなした人たちにも、命と尊厳があることを忘れています。人間が人間に対してやっていいことではありません。
要は「その社会道徳とは何のためのものか」という事です。社会を構成する個人は、それぞれに人格と個性を持った多様な存在です。わたしとあなたが違う人間であるように、一人として同じ人はいません。そこで価値観や生き方の違いで互いを排除しあうような社会が、住みよい社会、自由な社会と言えますか?
道徳とはそのお互いが、お互いの安全と尊厳を脅かさずに生きていくために、お互いに認め合うものだとわたしは思っています。ですから互いの生命と財産と尊厳を害しない限りにおいて、どのような道徳律をもっていようが個人の自由です。それこそがもっとも基本的な社会道徳とわたしは考えます。
普遍的である事は「唯一絶対」であることを意味しません。またそうあってはなりません。偏狭な価値観で、それにそぐわないものを排除するような事を、個人であるならともかく、国が制度として行うなど、ファシズムの極致ではありませんか(ファシズムは全体主義国家を正当化する。Wikipediaより)。
> それすらも認めるべきというのは、理論の中のロジックが絡まっているか、不確定要素の値をそのままにして思考してしまい、社会生活とは大きく外れる結論になってしまっているのではないでしょうか?
「理論の中のロジックが絡まっている」って何ですか?ロジックは論理(学)と訳せますが、理論の中の論理が絡まっているって、要するに、論理がごちゃごちゃになっていると言いたいのですか?無理せず、平易な言葉を使いましょう。
さて、上に挙げたような例外状況、また道徳と法は別物であることを踏まえた上でも申し上げますが、実際の、多様な社会生活を営む多様な人々を、不確定要素として振り落としてしまって、単純なたった十数個の道徳価値で社会全体を律することができるなどという思考こそ、論理に凝り固まって、実際の社会生活から乖離してしまっていますよ。
> 左側の方が考える、戦前、戦中で教育していた道徳以外の、それ以外の道徳とは何なのでしょうか?
戦前戦中の偏狭な道徳観では排除されてしまう人々もきちんと包摂し、社会の成員として受け入れ、共に生きていく事です。それがわたしが排除されず、あなたも排除されない社会です。わたしかあなたか、どちらかあるいは両方が排除されてしまう社会にあなたは住みたいのですか?もしそうなのでしたらあなたとあなたに賛同する人たちだけでそういう社会を作って、こちらに干渉しないでください。わたしもあなたたちに干渉はしませんから。
> 以上のように解釈したのですがその通りでしょうか?
全然違います。
教育委員会が「強制は当然」と頭の中で考えるだけなら自由だと思いますよ。ですが、彼らは社会的権力をもつ公的な組織であり、その権力でもってその思想を実行に移し(ここ大事です)、現実に強制されている人がいる。つまり「唯一絶対の道徳」を振りかざして、多様な個人のあり方を認めなていないのは、思想信条の自由、表現の自由を保障している憲法に違反しており、憲法を遵守すべき公的組織がにおいては許されない、とみなされているから裁判になっているのです。要するに考えるのは自由、しかし実際に実行に移した段階で憲法に違反するので通達は無効だというのが原告の主張です。
裁判の結果に従うとか無視するとか、そういう話ではありません。ていうか、どこをどう読めばそういう結論になるんですか。全く理解できません。
老婆心ながら忠告しますが、りらっくすさんのファシズムの理解は、自分の主張にとって都合のいいところだけをつまみ食いしていて感心できません。Wikipediaを読まれたのなら、きちんと「概要」から読んでいってください。あなたが引用したのは「b) イデオロギーと目標」というところだけでしょう。なぜ「そこだけ」を引用されるのですか。
ついでですから申し上げますけど、あなたのおばあ様はそれなりに戦前戦中戦後をそれなりに楽しく、あるいはつつがなく過ごされたのかもしれません。それはそれで結構。わたしもそれについて申し上げる事はございません。ですが、おばあ様の体験を、広く日本全国の一般的な例とするのは、いささか安易で軽率と申し上げざるを得ません。もっと視野を広げて、教科書に載っている事実だけでも把握してはいただけませんか。
先の戦争中、人々は自由に反戦的な言論を述べられましたか?自由に政府批判ができたでしょうか?良心的兵役拒否が認められていましたか?そうした自由を行使しようとした結果、多くの人が特高警察や憲兵によって拘束され、取調べという名の拷問を受け、変節を迫られ、あるいは死んでいきました。あなたが主張されるように、特定の価値観にそぐわない人々を排除するという人権弾圧を繰り返した結果、無謀な戦争を始めて引き際を誤り、国民に多大な被害を及ぼしたばかりか、周辺各国にも多大な被害を与えてしまったのが、戦前戦中の日本と言う国ですよ。これが「それほど悪くない」のでしたら、世の中大抵の事は「悪くない」でしょうね。
どんな社会であれ、一定に順応した人にとって、その社会は「そんなに酷くはない」ものです。ですがそれはたとえばアメリカの奴隷制時代にだっていえることなのです。たとえ奴隷であっても、その立場に順応すればそれなりに人は機嫌よく生きていけるものです。ですが、その人が機嫌よく生きていることと、奴隷制の是非は別でしょう。ある人が機嫌よく生きていたからと言ってアメリカの奴隷制時代は「そんなに凄まじい人権弾圧の時代だったとは思えません」と言っていいのですか?だとしたら、奴隷制はなぜ否定されたのですか?少しご自分で調べるなり、考えてみてはいただけませんか?
> 戦前、戦中の時代を、凄まじい人権弾圧の時代だったと思うという事は、戦前、戦中の時代に生きた人は、ごく少数意外は、皆、凄まじい抑圧者か、凄まじいおかしな教育を受けた、出来損ないだと思っているという事なのですか?
なんでそうなるのですか?人権弾圧の時代に生きた人たちは、基本的にはその時代の犠牲者ですよ。どうして出来損ないと考えている、などと思うのですか。思想的に「左」の人を批判したいがための牽強付会としか思えません。議論を挑まれるなら、せめて誠実に言葉を交わしていただけませんか。
あと、「戦時中に日本が何してた」か知りたいのであれば、人に聞く前に歴史の教科書で近現代のところを読んでください。基礎的な知識は議論を進める上での大事な土台です。
以上です。以降、反論をなさるときは、上記コメントを踏まえたうえでお願いします。
長文失礼しました。
NoTitle
とりあえず「小林多喜二」「横浜事件」「三木清」「天皇機関説」をウィキペディアでいいから調べてみましょう。戦前日本の言論弾圧・思想統制の具体例を知ってください。
>具体的に言うと、とりあえず、戦時中に日本が何してたのでしょうか?
とりあえず、このサイトはおすすめです。
15年戦争~日中戦争と第二次世界大戦~
http://showa-rekishi.com/mt/
あなたには気に入らない歴史観かもしれませんが、これが常識的なとらえ方だと思います。
>Wikipediaで調べてみたところ、ファシズムの定義は、とりあえずこのようなものみたいです。
Wikipediaを見てみましたが、あなたが書かれた↑で引用された「ファシズムの定義」はほんの一部分ですよね。一応全部読んでみてください。
端的に言ってしまえば
「自由主義、民主主義を否定して完全な独裁政策、外交では侵略主義をとることが多い。要は第二次世界大戦中のドイツやイタリアや日本」といったところ。
実は「ファシズムの定義」に関しては学者の間でもいろいろな意見があるのです。
ただ、りらっくすさんには「ファシズムとは何か」を考えるよりとにかく歴史的事実を知ってほしいです。
>戦中には、日本にもファシズム政党があったみたいですが、そんなに日本と当て嵌まりますか?
5・15事件って聞いたことぐらいあるでしょう?1932年5月15日海軍青年将校のグループが時の犬養毅首相を暗殺した事件です。この事件以降、軍部の力が強まり、政党政治は崩壊していきました。
次のサイトもおすすめです。
日本史・世界史の事象と人物
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/world_history.html
この中の「昭和の日本とアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)という章をお読みください。
>反対派の方々は、現在の日本国憲法は改正するのは反対なものなのですか?
これは、順法精神自体は肯定するという事なのですか?
反対派の人たちが、訴えた理由を思い出してくださいな。
国旗・国家の強制は日本国憲法が定めた思想・良心の自由に違反しているからですよ。
順法精神を否定しているのは東京都教育委員会のほうで、反対派は順法精神を遵守しているからこそ訴えたのです。
NoTitle
ファシズムを「民主主義が生み出した鬼子」とするなら戦前の日本の体制は果たしてファシズムと言えるかということになってしまいますね。実際、そう主張する歴史学者もいることはご存じだと思います。
日本では、ドイツ・イタリアのように、ファシズムが大衆的な政党運動として既成の政治体制の外側から出てくるということはなかったし、ヒトラーやムッソリーニに匹敵する大衆的カリスマも現れませんでした。
しかし、今は違います。河村や橋下の人気はまさにファシズムの台頭を思わせますよね。現在の日本はまるでワイマール共和国末期のようです。
NoTitle
>ファシズムを「民主主義が生み出した鬼子」とするなら戦前の日本の体制は果たしてファシズムと言えるかということになってしまいますね。実際、そう主張する歴史学者もいることはご存じだと思います。
りらっくすさんが誤解してしまうかもしれないと思って追加します。
だからと言って、日本がドイツ・イタリアに比べればまともな国だったなどというつもりではありませんので。
反対者に対する徹底的な弾圧・排外主義・海外侵略などは全く同じです。
しかし、ファシズムとは下からの大衆運動から生まれるという定義からすると日本の「天皇制ファシズム」はかなり異質だという意味です。ワイマール憲法下のドイツと大日本帝国憲法下の日本では国民の置かれた状況に大きな違いがあります。ナチスが正当な選挙を通じて合法的に政権を獲得したことはあまりに有名です。本来のファシズムはまさに名古屋の誰かが言うように「庶民革命」を装って現れるものなのです。
また、ファシズムは基本的に高度に発達した独占資本主義体制で生まれると言われますが、そうなると旧ソ連・東欧・中国・北朝鮮などはどうなるのだという疑問も生じるでしょう。それらを考えるとファシズムというより全体主義と言ったほうが語弊がないかもしれませんね。
> 観測霊さん
返信有難うございました。
ちょっと長いので、少しずつ返信したいと思います。
> 国家権力という、社会に対して大きな責任と力をもった存在が、国民の内心にある特定の道徳を強いることに反対しているのです。思想信条の自由への侵害ですから。天皇制のにおいが反対の理由の全てではありません。ですから天皇制のにおいがなければ強制に賛成するということは、少なくともわたしにとってはありえないことです。
⇒
つまり、国家が道徳教育を行う事には反対、という事でよろしいでしょうか?
> ここで個別具体的な事例を挙げる事はいくらでもできますが、ここでそんな個々の事例に対して、それは道徳的か否か、なんて話しても意味のない事です。
⇒
いえ、是非、聞かせて下さい。
戦前、戦中の、道徳教育の内容は、ある程度、普遍的な日本人の道徳観、という認識はあるのですよね。
それ以外の、12の徳目以外にある、12の徳目と相反する事のない道徳とは、他にどのようなものがあるのでしょうか?
そこがはっきりしないと、意見がずっと平行線のままだと思います。
> あなたは教育勅語的道徳を絶対に正しいものとお考えなのでしょうね。だからそこから外れるものはすべて「不道徳」なものだから、排除したり処罰したりして良いと考えておられる。
⇒
いえ、ここは誤解です。
私は、法に触れない限り、処罰は出来ないものと考えています。
> でないと、「『唯一絶対の道徳』にそぐわない行為、個人、社会現象といったものが、社会から排除されてしまう口実となる危険性が大いにある」ことが理解できないのではないかと思います。
その「教育勅語的道徳」という特定の道徳を基準に、そこから外れた人を「不道徳」=「良くないもの、好ましくないもの」と国、社会が決め付けること自体が、わたしの言う危険性そのものだからです。
⇒
『唯一絶対の道徳』というのは違う気がするのですが、とりあえず、これは、続いて行く文章を読む限り、道徳にそぐわない行為、個人、社会現象は、不道徳なものだという認識はある、という事でよろしいでしょうか?
>道徳とは何を良しとするか、という価値基準です。だから国や地域が異なれば、道徳も違ってきます。たとえ普遍的な道徳であれ、それを自身の道徳として採用するか否かは個人の自由、言い換えれば何を道徳的価値の高いところに置くかというのは、まさに個人の内心の問題でしょう。それに国がとやかく言うのは、まさに内心の自由への侵害そのものではありませんか?
⇒
私は、その国の道徳は、その国の歴史の中で形作られたものだと思います。
国や地域が異なれば、道徳も違ってきます、という事は、そこは同じ認識でよろしいでしょうか?
> しかし、互いに危害を加えない限りにおいて、個人がどのような道徳律に沿って行動しようと、それはその人の自由でしょう。あなたにも国にも、個人の価値判断に介入する権利などありません。
⇒
危害を加えない限りにおいて、というのは、法に触れない限り、という事でよろしいでしょうか?
一旦、ここで纏めますと、戦前、戦中の、道徳教育の内容は、ある程度、普遍的な日本人の価値観という事で評価するが、そこから外れたものに対しては、不道徳という判断が下される為、国が行う道徳教育には内容如何に関わらず反対、という事でよろしいでしょうか?
私は、日本が近代国家と言われるようになってから始まった公教育は、それなりの問題もありますが、良い部分の方が多い、国家が行わなければならないものだと思っています。
その際、公教育を行うとしたら、読み書きそろばんより、まず道徳教育が大事だと思うのですが、その必要はないのでしょうか?
とりあえず、道徳教育を行うとした際、その道徳は、その国の歴史の中で形作られたものを教えるものだと思います。
それで、12の徳目は、ある程度、普遍的な日本人の道徳観、とした場合、それ以外の道徳を教えるとしたら、一体何を教えるのでしょうか?
先の文章で、是非、聞かせて下さい、と言ったものがこれなのですが、ある程度、普遍的な日本人の道徳観と相反しない道徳とは、一体何があるのでしょうか?
また、道徳から外れたものを不道徳、という認識があり、それでいて不道徳を肯定するのは、道徳の否定になっているような気がします。
法に触れなければ罰せられないというのは同意見なのですが、私には、普遍的な日本人の道徳観を持つ事を否定しているように読めてしまいます。
その国の法は、その国の道徳に基づいて作られるものだと思うのですが(日本国憲法にはいろいろ意見がありますが)、普遍的な道徳から外れた不道徳には干渉しない、というのは、別の国家を作り、別の法を作る以外には無理があると思うのですが。
私は、道徳と不道徳、というのは、意見の違い、考え方の違いとは、異なるものだと思うのですが、そこの部分はどう考えているのでしょうか?
普遍的な日本人の道徳観と相反しない道徳とは、一体何なのでしょうか?
私には、それは、単なる、「別にいいんじゃない?」という、アンチでしかないように思えて仕方がありません。
ロシアの作家の作品で、自分の妻が、家族も子供も捨てて別の男に走ったら、自立した女性だと自分は褒め上げる、みたいなセリフがありましたけれど、それと同じ事を言っているように読めてしまいました。
りらっくすさん
切り上げると言いながら、ゴチャゴチャ書いていては自分が何書いても説得力がないなぁ~
りらっくすさん
一方通行のメッセージお許しください。
>私も、ちょっと理解しきれていない部分があるのですが、原告の方々は、内心の自由への侵害という事で、あらゆる歌の斉唱、旗の掲揚に反対しているという事なのでしょうか?
私個人は原告の人の「心の中」は読めません。もしも心の中が読める能力があれば・・・ぼろ儲けできるのになぁ~なんて思います。
>国旗・国家法が無くて、校長先生からの指示だとしたら、君が代も歌うし、国旗の掲揚も認めると言う事なのでしょうか?
校長の指揮命令下に入る正規公務員は当然でしょう。しかし指揮命令下に入らない来賓・父兄・生徒(一個人)に対して「強制」すればトンデモになりますね。
>どこからの指示だとしたら、その指示に従うというものなのでしょうか?
指揮命令と使用従属関係が成り立つかどうかでしょう。
それが成り立たない人間に対して強制することあらば「アウト」でしょうね。
おまけ
多分日の丸君が代でバカ騒ぎしている連中「右も左も・・・」本当の「強制の恐ろしさ」など知らないだろう。
ご立派な大学の左翼のセンセーなんか何も分からんだろうな。
この問題は「理屈」ではない。どこかでか妥協する必要がある。
教員も色々だ。真面目な教員もいれば、ゴマすり教員もいる。自分は保守でありながら、正直日の丸君が代に対してあまりいい印象は持っていない。
理由?
自分が小学校の時、高度な知性を持ったご立派なせんせーが、卒業式の練習で、日の丸君が代の歌を大きな声で歌えない人間をバタバタ平気で叩いた。さすがに女子には手を出さなかったが・・・一度ではない。
今思えば、彼は左だろう。学歴も良い(田舎の国立ではない・優秀な私立だな)。女性の児童には生徒に受けを取ろとしていた。校長が教育委員会のごますりのアホだったから仕方がない。出世のためならば校長にゴマをするのは当時としては、合理的な方法だ。左翼連中は頭いいからな。
口では綺麗ごとばかりだが、やっていることはトンデモだった。
自分は、公務員のわがままはしっかりと抑えるべきだが、通達やら校長の道楽、教員の自己満足やストレス発散のために、教員にとって気に食わない児童がいちゃもんつけられて、バタバタ暴力を受ける事が嫌なだけだ。
20数年前の話
そんなセンセが出世するのが悲しいですが・・・
それもまた現実なり。
返信不要なり。
りらっくすさんへ
返信ありがとうございます。しかし、以前のコメントを読めば解ることまでお尋ねになるのは、こちらの返信コメントが冗長になってしまいますので、遠慮していただけませんか。ただでさえ、長いのに…。
> つまり、国家が道徳教育を行う事には反対、という事でよろしいでしょうか?
いいえ。内容によると、以前にも申し上げたはずですが。
> それ以外の、12の徳目以外にある、12の徳目と相反する事のない道徳とは、他にどのようなものがあるのでしょうか?
…「それ以外の、12の徳目以外にある、12の徳目と相反する事のない道徳」ってなんですか?わたしはそんな話をしていたのではありません。そんな道徳があろうとなかろうと、わたしの主張に変わりはありません。
>> 「唯一絶対の道徳」を振りかざし、それ以外を認めないという道徳授業
…ひょっとしてこの「それ以外」という言い方が良くなかったのですかね。
じゃあ言い換えます。
「唯一絶対の道徳」をふりかざして、それにそぐわない人や、行為や、現象を不道徳だとして排除されるような社会はおかしい、そして国による特定の道徳の規定は、そんな社会を招来する危険があるから反対だ、と。
…これ何度も申しあげてるんですけどね。
> 私は、法に触れない限り、処罰は出来ないものと考えています。
は?では
> 私は、長い歴史が育んできた価値観は、その歴史の中で淘汰されての価値観なので、その文化の中での、ある程度の普遍性があると思っています。
> ですが、そこから大きく外れる価値観は、個人が頭の中で思いついた、不道徳ではないのでしょうか?
> 自分の正義を持つ事は構わないと思うのですが、それが、大勢を占める道徳の中で大きく外れ、それでも自分の正義を実力行使する場合は、その行為は罰せられるべきだと思います。
この書き込みは何だったのですか?
あなたはこの文の中で明確に「普遍性のある道徳から外れた行為は不道徳で、それを実行した場合は罰せられべき」とはっきり仰ってますよね?
この書き込みは撤回されるという事ですか?それとも今は処罰できないけれども、いずれできるようになるべきだという事ですか?後者だとしたら、やはり同意できませんね。
> 道徳にそぐわない行為、個人、社会現象は、不道徳なものだという認識はある、という事でよろしいでしょうか?
ありますよ。もちろんわたしの価値観=道徳律に基づいた判断で、ですが。
わたしにはわたしの道徳律があり、それに反する行為や現象は不道徳だとわたしは思いますよ。しかし、それがあなたの道徳律や社会道徳と一致するとは限りません。あなたとわたしが違う人間である以上、信条が違えば道徳律も違って当然ですし、わたし個人の価値観=道徳律が社会全体の総意だと言うほど、わたしは傲慢にはなれませんから。
よって、「社会道徳的には不道徳だろうけど、わたしは不道徳とは思わない」という判断もありえるのです。
> 私は、その国の道徳は、その国の歴史の中で形作られたものだと思います。
> 国や地域が異なれば、道徳も違ってきます、という事は、そこは同じ認識でよろしいでしょうか?
あぁ、これはわたしの書き方がいけなかったですね。きちんと個人の道徳律と社会道徳を分けて書くべきでした。ということで、以下のように訂正します。
道徳とは何を良しとするか、という価値基準です。だから国や地域が異なれば、その社会道徳も違ってきます。そして社会道徳と、個人の道徳もまた必ずしも一致しません。たとえ普遍的な社会道徳であれ、それを自身の個人的な道徳律として採用するか否かは個人の自由、言い換えれば何を道徳的価値の高いところに置くかというのは、まさに個人の内心の問題でしょう。社会道徳に沿った道徳律を持つのも自由、すこし外れた道徳律を持つのも自由です。それに国がとやかく言うのは、まさに内心の自由への侵害そのものではありませんか?
> 危害を加えない限りにおいて、というのは、法に触れない限り、という事でよろしいでしょうか?
いいえ。法に触れずとも、わたしがわたしの責任において自身の道徳律を曲げる事はありえます。そこは状況や他者との関係性次第ですね。もちろん自分にとっては不道徳なことだから、気分は良くないです。しかし、自身の道徳信条に凝り固まって他者の道徳や尊厳をむやみに侵害して良いわけではありませんからね。自分とは価値観の異なる他者と社会生活を営む以上、当然の事です。
ちなみにこの裁判の原告の立場に立たされたら、たぶん道徳律は曲げません。理由は以前に書きましたが、要はこれは個人間の道徳律同士の衝突ではなく、教育委員会の通達と強制が憲法に反する違法なものだからです。
> 戦前、戦中の、道徳教育の内容は、ある程度、普遍的な日本人の価値観という事で評価するが、そこから外れたものに対しては、不道徳という判断が下される為、国が行う道徳教育には内容如何に関わらず反対、という事でよろしいでしょうか?
戦前戦中の道徳教育はまったく評価しません。理由は以前に申し上げました。
そしてしつこく申し上げますが、不道徳と判断されるから反対なのではなくて、不道徳とされた人、行為、社会現象が、社会から排除される危険があるから反対なのです。不道徳というレッテルが問題なのではありません。そのレッテルのために社会から攻撃を受ける人が出てきてしまうのが問題なのです。
> また、道徳から外れたものを不道徳、という認識があり、それでいて不道徳を肯定するのは、道徳の否定になっているような気がします。
だからその道徳とは、ひとつの価値観に過ぎないでしょう。そして「不道徳」な行為が、必ずしも犯罪ではない例も挙げましたよね?
わたしがある行為を、わたしの道徳律に沿って「不道徳」と評価することもありえますよ。わたしはその行為を肯定はしないでしょう。しかし、不道徳というだけで、その行為(を行った人)が処罰されるべきとは思いません。改めてほしいとは思うかもしれませんが、それを強制しようとも思いません。それはわたしの道徳律であって、その人の道徳律ではないからです。批判はするでしょうが。
…すれ違いの原因がわかったような気がします。
わたしにとって道徳とは、わたし自身を縛るもの、つまり道徳とはそれを信条とする本人を縛る個人的な行動規範なのです。社会道徳もそうです。社会道徳とは、その社会そのものを縛ります。しかしあなたにとっては他者を縛るものなのですね。
申し訳ないですが、わたしはあなたの道徳に縛られたくはありません。同様にわたしの道徳であなたを縛ろうとも思いません。
> 私には、普遍的な日本人の道徳観を持つ事を否定しているように読めてしまいます。
否定はしていませんよ。社会道徳の存在も認めています。だからどんな道徳律を持つのも自由だと申し上げたじゃないですか。あなたが「普遍的な日本人の道徳観」に沿った道徳律を持つと決めたならそうされればいいではないですか。しかしあなたがわたしに対して「普遍的な日本人の道徳観」を持つことを求めるのならば、それはお断りします。
> 国の法は、その国の道徳に基づいて作られるものだと思うのですが
法学に関しては素人ですから断言はできませんが、確かに道徳に基づいた法が作られる事もあると思いますよ。でも法と道徳は違うのです。どこが違うのか?これも以前に申し上げましたね。
> 私は、道徳と不道徳、というのは、意見の違い、考え方の違いとは、異なるものだと思うのですが、そこの部分はどう考えているのでしょうか?
あなたにとって道徳的なことが、わたしにとっては不道徳だということがありえます。それは価値観の違い、意見の相違でしょう。
> 「別にいいんじゃない?」という、アンチでしかないように思えて仕方がありません。
それがわたしの道徳律ですから。
ね?価値観の相違、意見の違いでしょう?
最後に。
前回も申し上げましたが、以降、反論をなさるときは、わたしのコメントを踏まえたうえでお願いします。
>りらっくすさん
申し訳ありませんが、ほぼ常識レベルと言える基本的な教科書レベルの知識をあなたがしらないからといって、このコメント欄で延々と「教えて君」になるのはご遠慮ください。
他人のブログはあなたの疑問に一から十までお答えし、あなたが納得するための教室ではありません。
しかもあなたが尋ねられることはどれも高校の教科書程度の知識の欠如に基づくものです。それでも観測霊さんをはじめ、他のコメンターのみなさんは、相当辛抱強くあなたにつきあって、何を読めばいいかなど色々アドバイスしてくださっていますよ。あまたはそのうちの一冊でも読んでみましたか?それに観測霊さんもおっしゃっていますね、まず人のコメントをちゃんと踏まえ、理解した上でコメントしてください、と。
それもしないで次々書き込むのはのはマナー違反ですよ。
以上をご理解頂けないなら、私は、私のブログによく来て下さる他のコメンターの皆さんに大変申し訳なく思います。
どうぞ、皆さんからのアドバイスをもとにまずご自分で基礎知識を学ばれてからコメントしてください。
> 観測霊 さん
返信ありがとうございました。
ちょっと、良く解らない部分があるので、続きの回答の前に、直近のコメントに返信します。
> > つまり、国家が道徳教育を行う事には反対、という事でよろしいでしょうか?
> いいえ。内容によると、以前にも申し上げたはずですが。
> 国家権力という、社会に対して大きな責任と力をもった存在が、国民の内心にある特定の道徳を強いることに反対しているのです。
⇒
以上の文章から、国家が道徳教育を行う事には賛成、であり、学校で道徳教育を行う事に関しては、国民の内心にある特定の道徳を強いるものではない、という事でよろしいのでしょうか?
>「唯一絶対の道徳」をふりかざして、それにそぐわない人や、行為や、現象を不道徳だとして排除されるような社会はおかしい、そして国による特定の道徳の規定は、そんな社会を招来する危険があるから反対だ、と。
>「唯一絶対の道徳」を振りかざし、それ以外を認めないという道徳授業ならば、それは社会的マイノリティを差別することを推奨しているわけで、「道徳教育」として既に破綻しています。
⇒
上の段では、それにそぐわない人、というのは、ある程度、日本人の普遍的な道徳観である12の徳目に対して、アンチな道徳を持っている人と読みました。
下の段の、ここの社会的マイノリティ、というのは、12の徳目以外の、ユニークな道徳観を持っている人々と読みました。
ここは、それでよろしいのでしょうか?
> あなたはこの文の中で明確に「普遍性のある道徳から外れた行為は不道徳で、それを実行した場合は罰せられべき」とはっきり仰ってますよね?
> この書き込みは撤回されるという事ですか?
⇒
はい、撤回でお願いします。
日本は、人治国家ではなく法治国家ですので、道徳から外れた行為だからといって、罰せられる事はあってはならないと思いますので。
> ありますよ。もちろんわたしの価値観=道徳律に基づいた判断で、ですが。
> あなたとわたしが違う人間である以上、信条が違えば道徳律も違って当然ですし、わたし個人の価値観=道徳律が社会全体の総意だと言うほど、わたしは傲慢にはなれませんから。
⇒
これは、12の徳目以外に、ユニークな道徳を持っているという事なのでしょうか?
それを、是非、教えて下さい。
私は、12の徳目以外に、それ程ユニークで、一般的に理解の得られる道徳は、そんなに無いのではないかと思っています。
12の徳目自体、かなり緩いというか、包括的なものだと思うので、言葉は変える事は出来ても、大体これに含まれるな、というものになってしまうと思うのですが。
> そして社会道徳と、個人の道徳もまた必ずしも一致しません。
⇒
一致するとは言いませんが、それ程、乖離する事も無いのではないでしょうか?
乖離する場合、それは、一般的な道徳に対しての、アンチとしての道徳になってしまうと思います。
どちらにしても、その個人の道徳に基づく行動が、法に触れる場合のみ罰せられる、という見解は同じという事でよいと思います。
> ちなみにこの裁判の原告の立場に立たされたら、たぶん道徳律は曲げません。理由は以前に書きましたが、要はこれは個人間の道徳律同士の衝突ではなく、教育委員会の通達と強制が憲法に反する違法なものだからです。
⇒
でも、裁判所が「強制ではない」と判決を下したのではないでしょうか?
憲法に反する違法なもの、と言い切ってしまうのは、順法精神という道徳に対するアンチの、只の個人の道徳から来るものになってしまうと思うのですが。
> 戦前戦中の道徳教育はまったく評価しません。理由は以前に申し上げました。
> そしてしつこく申し上げますが、不道徳と判断されるから反対なのではなくて、不道徳とされた人、行為、社会現象が、社会から排除される危険があるから反対なのです。
⇒
しかし、戦前戦中に教育をしていた、12の徳目に関しては、ある程度、日本人の普遍的な道徳として認めていると思うのですが?
それに、学校で道徳教育を行う事に関しても認めているのですよね?
また、12の徳目は、基本的に「仲良くしましょう」という道徳だと思うのですが、そこから外れた不道徳が排除される危険がある、というのは、一体、どんな時なのでしょうか?
戦前戦中が、社会から排除された時代だったからと言うのが理由であっても、もう戦後なのですし、そのまま学校教育に復活させても良いと、反対派の方も思うような気がするのですが。
> だからその道徳とは、ひとつの価値観に過ぎないでしょう。そして「不道徳」な行為が、必ずしも犯罪ではない例も挙げましたよね?
> しかし、不道徳というだけで、その行為(を行った人)が処罰されるべきとは思いません。改めてほしいとは思うかもしれませんが、それを強制しようとも思いません。
⇒
でも、法律は、道徳に基づいて作成されるものではないのでしょうか?
少なくとも、不道徳に基づいて作成はされないと思います。
この文章だと、不道徳に対しての法律を作る事は、間違っているという風に読めてしまうのですが。
> 否定はしていませんよ。社会道徳の存在も認めています。だからどんな道徳律を持つのも自由だと申し上げたじゃないですか。あなたが「普遍的な日本人の道徳観」に沿った道徳律を持つと決めたならそうされればいいではないですか。しかしあなたがわたしに対して「普遍的な日本人の道徳観」を持つことを求めるのならば、それはお断りします。
⇒
その、「普遍的な日本人の道徳観」以外の道徳を、是非、教えて下さい。
単なるアンチではなく、ユニークな道徳があるのだとしたら、まず、それを教えて貰わないと、ずっと意見が平行線のままだと思います。
> あなたにとって道徳的なことが、わたしにとっては不道徳だということがありえます。それは価値観の違い、意見の相違でしょう。
⇒
私の道徳観が、ある程度、日本人の普遍的な道徳である12の徳目だとしたら、わたしの道徳に対して、不道徳だと思える項目は、どの項目になるのでしょうか?
> > 「別にいいんじゃない?」という、アンチでしかないように思えて仕方がありません。
> それがわたしの道徳律ですから。
> ね?価値観の相違、意見の違いでしょう?
⇒
これは、ユニークな道徳があるのではなく、12の徳目に対して、アンチの立場であると言う事を言っているのでしょうか?
纏めますが、12の徳目の内容は認めて、公教育における道徳教育も認めている、という事でよろしいのでしょうか?
その教育をする際、12の徳目の内容は教えてもいいが、強制はいけない、という事でよろしいのでしょうか?
この、強制はいけない、という部分なのですが、実際教えるとしたら、どうやって教えるのでしょうか?
親に孝養をつくそう。
でも、親に孝養をつくさなくてもいい。
このように、12の徳目に対して、アンチの12の徳目も一緒に教えるのでしょうか?
でも、そうしないと、強制している事になる気がします。
そうすると、道徳とは一体何なのかよく解らないのですが。
多数の人々が居て公共があるから、道徳があると思うのですが、その道徳に基づいて法律を作るのを、他者に対する強制だとして反対するのだとしたら、これは、国家権力のような強制力が無い社会を目指しているという事なのでしょうか?
また、教育と強制の境界線は、一体、何処になるのでしょうか?
子供には、好きな事だけを伸び伸びとさせる、何もしない事も自由、そのような教育を目指しているという事なのでしょうか?
> 秋原葉月さん
ttp://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-401.html
>(3) 国旗・国歌の指導
> 学校における国旗・国歌の指導は,児童生徒に我が国の国旗・国歌の意義を理解させ,これを尊重
>する態度を育てるとともに,諸外国の国旗・国歌も同様に尊重する態度を育てるために,学習指導要
>領に基づいて行っているものです。
ttp://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpab200901/1295628_012.pdf
整列すらしなかった例としては、元NBAのマクムード・アブドゥル=ラウーフ選手があります。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%95
またマンガ家の石坂啓氏がマガジン9条ですさまじい事例を話されてましたね。
ttp://www.magazine9.jp/interv/ishizaka/index2.html
これ、志村建世・野ばら社編集長が下のURLにきっちりまとめてますんで、よ~くお読み下さい。
ttp://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=3451412
本文でご紹介したカテゴリーの中の「中高生にもわかる日の丸君が代プチ問答集」シリーズ、特にその中の(3)を読んでいただけると助かります。
ttp://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-104.html
国旗国歌を強制されないことについてのアメリカの判決はこちらです。
ttp://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col1200.html
原告の方々の怒りは相当なものです。
ttp://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/0831e6d84293d63b01fff38b7319cfdd
そうそう、彼らの言うニッポソは、大ニッポソ帝国建国から歴史が始まるんです。それ以前は彼らには存在しません。本物の日本とは微妙に違うらしいですよ(笑)
ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%C3%A5%DD%A5%BD
私としてはこちらのような歴史を持つ君が代を何の変更もなくそのまま使い続けて、それで歌の持つ意味が変わったとはとても感じることはできませんけど。
ttp://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-232.html
何度も書いてますが、ちゃんと過去記事を読んで理解した上で書き込んでください。これについては既に論述済みです。
ttp://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-401.html
都内の特別支援学校での卒業式の様子は観測霊さんのこちらをどうぞ
ttp://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-564.html#comment2767
こういう事態に対して、「そんなに騒ぐと逆効果だ」「騒いでは相手の思う壺」という言葉を見聞きすると、この事件を思い出します。
ttp://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20100915/p3
法学館憲法研究所より、浦部法穂先生のお話。
「憲法時評―国旗・国歌強制のほんとうの問題」
ttp://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20110203.html
くろねこさん、それはいけません。典型的な「犠牲の累進性」です。
ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BE%C0%B7%A4%CE%CE%DF%BF%CA%C0%AD
そんな方法で「若い教員」を救おうとなさっても、すぐに袋小路です。ちなみに「犠牲の累進性」は石原知事も、雨宮処凛さんとの対談の中で口にしています。
ttp://www.magazine9.jp/karin/100825/
全教系の雑誌ですが、参考までに。
ttp://www.otsukishoten.co.jp/book/b73911.html
ttp://www.otsukishoten.co.jp/book/b61456.html
ついでにこれは、臨時教員問題をとりあげたものです↓
ttp://www.otsukishoten.co.jp/book/b67089.html
15年戦争~日中戦争と第二次世界大戦~
ttp://showa-rekishi.com/mt/
日本史・世界史の事象と人物
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/world_history.html
とりあえず、資料提示されているURLを纏めてみました。
全部読んでいると言うと嘘になりますが、どのようなものかは開いてみました。
正直に言って、個人サイトが多すぎるように思います。
少なくとも、史実、法律に関しては、公的な文書か、せめて、新聞、Wikipediaに留めるべきではないでしょうか?
(Wikiが正しいとも言えないかもしれませんが、すくなくとも、色々な人の目に触れ、中立性はある程度存在すると思うので)
個人サイトの方は、このような考え方もあるとして、楽しく(難しく)読ませて頂きました。
>リラックスさん
恐れ入りました。読解力がこれほどないとは。ちょっとつきあいきれないです。
もう一度書きます
「延々と「教えて君」になるのはご遠慮ください。
他人のブログはあなたの疑問に一から十までお答えし、あなたが納得するための教室ではありません。」
「前回も申し上げましたが、以降、反論をなさるときは、わたしのコメントを踏まえたうえでお願いします。」
横から
そう思うのは、勝手ですし、誰もあなたがそう思う事を否定するつもりはないでしょう。が、道徳といのは非常に曖昧で状況、場合によっては当てはまらないことも多いのではと思います。
例えば、夫婦愛ですが、夫がー妻がでもいいですがー
妻に暴力をふるった場合。妻はそれでも「夫婦愛」を貫かなきゃいけないとか私は思いません。
親孝行。子供が反抗期の時はどうでしょう?反抗しないで「親孝行」し続ける人はあんまりいないでしょうし、反抗期のない子供ってそれはそれで成長の上では逆に問題だったり・・。
親の介護。子供が仕事も止めて自身の生活も全て捨てて道徳的な「親孝行ですればいいだろう」というのは無茶だと思いますし・・。
1+1=2みたいに常にこうだって決まっているものではないと思いますが。それに、「道徳」から外れる行為を行ったから排除されるって非常に危険な思想じゃないかと私は思います。
ところで、ここでの話題は国が国歌、国旗を国民に強制することについてだと思いましたが、なんで「道徳」がどれほど「美しい」かの意見が出るのか私には理解しかねます。
後、ちゃんと歴史も勉強した方がよいかと思います。
>ぽむさん お返事遅くなりました
一応民主的手続に則って選出されているため、ヒトラーは「失脚」という可能性も潜在的に秘めていました。だから万世一系の神と信じて疑わない日本の天皇制をうらやましがったという話です。あのファシズムの神様ヒトラーですら手本にしたいと願った天皇制。天皇制ファシズムがいかに純度の高いファシズム(全体主義、独裁、自由の弾圧という広い意味でのファシズム)だったかがうかがい知れます。
天皇への服従が骨の髄まで染みこんだ日本人は原爆を落とされ敗戦しようと、ついぞ自分たちからそれを覆すことはありませんでした。世界でも例を見ない歴史ですね。日本の人権状況は油断するとすぐに後退したがり遅々として人権後進国から脱出できませんが、精神面での原因のひとつはそこにあるのでしょう
ヨーロッパやアジアでは人間を神同然に拝むなんて考えられない話だった。だから革命が起き、王は権力の座を追われた。
人間を神にする明治政府の国家神道は、人類史上最大の洗脳だったと言えます。
アフタヌーンカフェ白熱教室
正直に言って、事実や法的・歴史的考察をふまえない主観が多すぎるように思います。
ネトウヨコメンテーターの方は、このような考え方もあるとして、楽しく(難しく)読ませて頂きました。
>秋原葉月さん、みなさん
日の丸君が代強制と、分煙の問題を比較して記事にしてみました。トラックバックしましたので、ご覧くださればうれしいです。実はこちらのコメント欄に書こうとして書き始めましたが、自分のブログ記事の数をかせごうとせせこましいことを考えてしまいました。(^^;;
一部こちらにも書かせてください。
私が日本の国旗国歌が好きになれない理由は、まさに、国旗国歌への恭順をパワハラそのもののやり方で強制しようとする人が日本に大勢いるからです。別の言葉で言えば、暴力的に国旗国歌を使う人々、というより、政治勢力が日本で強いからです。
次のようなたとえ話ならわかってもらえるでしょうか。私は煙草を吸いません。健康にも悪いし、服や髪も臭くなるし、喫煙者の中には所構わず吸う迷惑な人もいるし、とにかく、煙草を吸う理由がないし、要するに、煙草を吸いません。それなのに、煙草の煙を嫌がる非喫煙者がいるところで好んで執拗に煙草を吸いたがる喫煙者、私と話しながら煙草を吸って煙を私の顔に向かって吐きかける喫煙者がいたら、私はますます煙草も嫌いになるし、ますます喫煙者も嫌いになります。喫煙者の数が非喫煙者の数よりも多ければ喫煙者には非喫煙者の前で好きに煙草を吸う権利があるということですらないのです。そのような喫煙者が、「煙草を吸うとりらっくすする」から非喫煙者も喫煙者の煙草の煙につきあえ、とか、ほんの数分煙を我慢すればいいだけのになぜ煙草の煙が嫌なのか、とか、くどくどくどくどネチネチネチネチ私に言い続けたら、当然のこととして、煙草というモノもますます嫌いになるし、喫煙者のこともますます嫌いになるわけです。私は煙草の煙を吸わされるとイライラするんです。喫煙者の都合で我慢させられるいわれもないわけです。あるいは、署名運動をして喫煙者の過半数の署名を得ればよい、などと言われても、そんなことには意味がないと思うばかりなのです。
喫煙者がするべきことは、非喫煙者が全然いないところで、節度を守って喫煙することです。非喫煙者を喫煙者にさせようとくどくどくどくどネチネチネチネチ非喫煙者に文句をつけたりパワハラをおこなうことではありません。
国旗国歌強制問題も同じだと思います。
NoTitle
原告の教師の方々を非難されてる皆さんは、こういうのも国旗・国歌を教えない教育が悪いということなんですよね?当然、断固として逮捕するべしなんですよね?ちなみにこれって外国国章損壊罪(刑法92条)って立派な犯罪ですから、抗議の意思表示なんて言い訳はできないですよ。現在政府は捜査に慎重な姿勢とのことですが、原告の方を批判されている方はこの件に関しても毅然として政府に抗議すべきだと思いますね。
NoTitle
もうご覧になっていないかもしれませんが、一応お返事だけ書かせていただきます。
> 国家が道徳教育を行う事には賛成、であり、学校で道徳教育を行う事に関しては、国民の内心にある特定の道徳を強いるものではない、という事でよろしいのでしょうか?
だから、内容によると何度申し上げれば…。
以前にも申し上げてますよね。「唯一絶対の道徳」を振りかざし、それ以外を認めないという道徳授業ならば、それは社会的マイノリティを差別することを推奨しているわけで、「道徳教育」として既に破綻しています、と。道徳教育ならどんなものでもいいと言っているわけではありませんよ。いい加減にしてもらえませんか。…まさか、ふざけておられるわけではないですよね?
> 上の段では、それにそぐわない人、というのは、ある程度、日本人の普遍的な道徳観である12の徳目に対して、アンチな道徳を持っている人と読みました。
> 下の段の、ここの社会的マイノリティ、というのは、12の徳目以外の、ユニークな道徳観を持っている人々と読みました。
どちらもそうした人たちに限りません。よって両方とも理解がまちがっています。
以前にも「心ならずも社会道徳から外れた状況に置かれてしまう人がいる」と申し上げましたが、ご理解いただけていないようですね。Agenさんが夫婦間の暴力を例にとって説明もしてくださっていますので、そこからよくお考えください。
そしてその「ユニーク」という発想自体が問題です。申し上げましたとおり、道徳観は人によって違います。つまりあなたも含めて誰もがユニークなのですよ。自分(もしくは教育勅語)を標準として、それ以外を「ユニーク=特殊」を区分けすることが、区分けされた道徳観を異端視する第一歩です。やはり全然解っていただいていませんね。
> 撤回でお願いします。
潔く撤回されたのは良いとして、ならばその旨を表明していただけませんか。
言っていただかないと、あなたの中でどんな変化が起きているのかなど、他人であるわたしにも、このやりとりをご覧になっている人たちにもわかるわけがありません。コミュニケーションをしているのですから、相手に自分の考えや意図をきちんと伝えようとしてください。そうでないと、こちらは受け取りようがありません。
> それを、是非、教えて下さい。
> 私は、12の徳目以外に、それ程ユニークで、一般的に理解の得られる道徳は、そんなに無いのではないかと思っています。
そうですか。じゃあ「『普遍的な日本人の道徳観』とやらを他人に押し付けない」とかですかね。寛容の精神ですよ。
ひょっとして「教育勅語的道徳以外の道徳」なんてあるわけがないと思っておられるんですか?でしたらそれこそが「『唯一絶対の道徳』をふりかざして、それにそぐわない人や、行為や、現象を不道徳だとして排除する」態度そのものですよ。
> 一致するとは言いませんが、それ程、乖離する事も無いのではないでしょうか?
> 乖離する場合、それは、一般的な道徳に対しての、アンチとしての道徳になってしまうと思います。
一致しないこともある、と解っていただいて何よりです。しかし、やはりあなたは「自分は排除される立場になるわけがない」とお思いのようですね。だから「乖離してしまう」事で排除の危険に晒される人たちの事に想像が及んでいません。
> 親に孝養をつくそう。
> でも、親に孝養をつくさなくてもいい。
> このように、12の徳目に対して、アンチの12の徳目も一緒に教えるのでしょうか?
あなたのいう「アンチ」の定義が気になっていたのですが、これは決定的です。
「親に孝養をつくさなくてもいい」
これは「親に孝養をつくそう」のアンチではありません。
「親に孝養をつくそう」のアンチは
「親に孝養をつくしてはいけない」もしくは「親に孝養をつくすべきではない」
になります。
「しなくていい」程度の主張はアンチといえるほどのものではなく、消極的否定、もしくは価値相対化でしょう。「してはならない」という積極的否定とは全く異なります。「しなくていい」という消極的否定、もしくは相対化まで「アンチ」に含めるという事は、結局あなたは、12の徳目とやらを絶対視しており、そこからわずかでも外れたり異議を唱えたりするものを「アンチ」として否定する、ということでしょう。それはわたしが恐れている「国が『唯一絶対の道徳』を規定することで、それにそぐわない人や、行為や、現象を不道徳だとして排除される危険性」を証明しています。
> 裁判所が「強制ではない」と判決を下したのではないでしょうか?
原告は控訴しています。よって判決はまだ確定していません。そして裁判所が不当な判決を出すこともあるのです。それに対して異議申し立てをする権利がわたしたちにはあります。その権利を行使するだけですよ。
> 戦前戦中に教育をしていた、12の徳目に関しては、ある程度、日本人の普遍的な道徳として認めていると思うのですが?
普遍的な道徳として認めらていたら、国がそれを「国家の道徳」として規定してそれに反した事を理由に個人や集団を排除してもかまわないと仰るんですか?あなたはこのエントリで何が問題とされているのか、本当に理解してらっしゃいますか?
> 基本的に「仲良くしましょう」という道徳だと思うのですが、そこから外れた不道徳が排除される危険がある、というのは、一体、どんな時なのでしょうか?
あなただって「基本的に」と条件をつけたではないですか。「仲良くしなさい」と言われても、そうもいかない時なんていくらでもある(たとえば暴力的だったり、あるいは趣味や性格が相容れない人同士が無理やり仲良くするのは互いや周囲にとってもコストが大きすぎると思います)、と思いますし、あなたもそういった状況に心当たりがあるからこそ「基本的に」なんて条件をつけられたのではないですか?。
> 法律は、道徳に基づいて作成されるものではないのでしょうか?
たとえ元が道徳だろうが、法になった時点で社会における性質が変わります。繰り返しますが、法と道徳は別物です。元が同じだから同じに扱っていいというものではありません。
あなたは元が卵だったのだからと、オムレツも殻をむいて食べる人なんですか?(笑)
あなたは法律の規定の理由が道徳しかないと思っておられるなら、たぶんそれは間違いです。たとえば「A (Aに入るのは殺人でも窃盗でもいいですが)をしてはいけない」という法律があったとして、それは「Aが不道徳だから」という理由だけで作られるのではなく、Aという行為を法律で禁じないと、誰もが常にAという行為に晒され社会が不安定になるからという、社会秩序維持のための理由もあるのです。道徳は理由のひとつに過ぎないこともあるのです。
> わたしの道徳に対して、不道徳だと思える項目は、どの項目になるのでしょうか?
12番目ですね。
民主主義国家が天皇のための奉仕を国民に求めるなど時代錯誤で非民主的で、個人の自主独立、基本的人権を根本から踏みにじっています。大変不道徳な規定と申し上げざるを得ません。
> これは、ユニークな道徳があるのではなく、12の徳目に対して、アンチの立場であると言う事を言っているのでしょうか?
違います。わたしは個人が多様であるのだから道徳も多様であって当たり前だと思っているにすぎません。これをアンチと仰るのなら、あなたの12の徳目とやらに対する絶対視は深刻ですよ。
> 強制はいけない、という部分なのですが、実際教えるとしたら、どうやって教えるのでしょうか?
世の中にはいろんな価値観、いろんな道徳律がある。互いに危害を加えない限り、そんな道徳律を持っても自由。たとえ道徳同士が衝突しても、一方が一方に押し付けてはいけない。話し合って互いが傷つかない距離を探っていきましょう。そう教えればいいんじゃないですか?
> 道徳に基づいて法律を作るのを、他者に対する強制だとして反対するのだとしたら、これは、国家権力のような強制力が無い社会を目指しているという事なのでしょうか?
繰り返しますが、道徳と法は違います。よって「道徳に基づいて法律を作るのを、他者に対する強制だとして反対」などと言った覚えはありません。道徳と法を同一視しているのはあなたであってわたしではありませんよ。そしてわたしがめざす社会はそういったものではありません。
> 教育と強制の境界線は、一体、何処になるのでしょうか?
エントリに関係ない話題は控えてほしいと秋原さんに言われたのではなかったでしょうか?
> とりあえず、資料提示されているURLを纏めてみました。
横レスですが、これはまた意味のない事をされましたね。「提示されたURLのページをいくつか読んでみました」の一言で済むじゃありませんか。
最後にお願いですから、もう少し他者の意図を正確に汲み取ろうという努力をしていただけませんか?あなたへのレスの中で何度「違います」と書いたか、もう数え切れません。反論するにしても、相手の主張を的確に把握していないと、有効な反論は難しいですよ。
以上、僭越ながら忠告申し上げます。
>りらっくすさん
私のコメントが承認されないのは、意見が違うからでしょうか
前回からあなたにいただいたコメントを私は承認していません。
しかしそれは意見が違うからではありません。
あなたは人の書いた記事やコメント内容を理解しようとしないし事実に基づかない主観ばかり書き連ねるので、これ以上あなたとは実のある議論など到底望めないと判断したからです。
高校の教科書程度の歴史くらいは最低限踏まえること、人のコメントをちゃんと読んで理解すること、そうでなければそもそも議論など成り立ちませんよ。
これは私だけでなくAgenさんや観測霊さんからも散々言われているのに、あなたは完全にスルーですよね。
これがまだおわかりにならないようでは今後も私に承認されることはないでしょう。私は時間を無駄にしたくありませんので、どうぞご自分の意見はご自分のブログを開設するなりして発信して下さい。
観測霊さんへ
私だったら、あのての「教えて、教えて」コメントが来たら、めんどくさくて投げ出しちゃいます。お疲れ様でした。
02/09 23:22のりらっくすさんのカキコミに質問が何個あるのか数えてみました。
?マークが18個、教えてくださいで終わってる文が2つ、質問数は合計で20個でした。
質問の内容もほとんど12の徳目絡みで「自分と異なる立場の人の考えを知りたい」というよりも、12の徳目は日本人にとって普遍的価値観であるということに同意するよう迫っているだけにしか思えませんでした。
一つのカキコミに質問の数が20個。これって答える人の負担を考えれば、マナー違反だと思うのだけど、12の徳目には書いてなかったのかな~(笑)ほんと、お疲れ様でした。
ひろとさんへ
みなさんの思索に、どこか資するところがあれば嬉しく思います。
しかし、そんなにたくさん質問されていましたか(^_^;) わからない事をひとに聞いて勉強する事自体は悪い事ではないと思うのですが…。
> 12の徳目には書いてなかったのかな~(笑)
なるほど、こんなところにも「例外状況」が(笑)
上げているのですが、
http://twitter.com/#!/takagengen
その中から抜粋しますと
<引用開始>
さらにいうなら、ぼくは、自分はきわめて愛国的な
(というより愛郷的な)人間だと思っている。
この日本という「国(郷土)」の長い歴史と文化、
とりわけ、言語文化に深い愛着と崇拝の感情を持っていることを
ぼくは隠さない。
日本文学が世界最高だ思うぐらいに、だ。
だからこそ、たかだか百数十年の「歴史」しかなく、
しかも、一部の人々によって恣意的に作られた国旗や国歌には
異和を感じざるをえないのだ。
もちろん、国旗を国歌が好きな人はいくらでも大事にすればいい。
ぼくは興味がないので放っておいてほしいだけだ。
国旗と国歌をきわめて重く考える国がアメリカであることは論を待たない。
1977年のマサチューセッツ州最高裁の判決にはこう書かれている。
「国歌吹奏中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座ろうが、
個人の自由である」。
そして、国旗を焼くという行為への最高裁判決は
「我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、
国旗を聖化するものではな。これを罰することは、
この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる」。
ここには「国旗」や「国歌]が象徴するものへの真剣な考察がある。
そして、その考察には、ぼくも頭を垂れたいと思うのだ。
『国旗」や「国歌」が重要なのではない。
それが象徴するものがなになのかを考えることが大切なのだとぼくは思う。
ぼくは、そのことをこどもたちに伝えられたらと願っている。
<引用終了>
星条旗の象徴するものが、“自由と民主主義”だとするならば、
日の丸君が代の象徴するものって何なんでしょうね。
この問題を考える上で、単なる国旗国歌をどう扱うかという
レベルに留まるのではなく、それが象徴するものは何なのか?
ということを考えることは、日本という国のコンセプトの
根幹を考えていく上で極めて重要になるわけです。
どう考えても、我が国の国歌と国旗は、自由や民主主義や博愛を
象徴したものとは言えない訳で、
それらを至上の価値として大事にしたいと考えている
僕にとっては、日の丸君が代に対して、敬意と愛着を持つことは
少なくとも僕には出来ないです。
単純に
教員が規則を守らないのに生徒に規則を守れというのはおかしくないのでしょうか?
規則が間違っていると思うなら違う学校に行くなりすれば良い問題では?
私は建設業で働いています
もちろん色々な規則があります
嫌なら他に行けば良いのですがなかなか次の職場も無いので諦めて従っております
キリストの踏み絵と違い別に死刑になる訳でもないのでそんなに嫌なら職を変えれば良いと思います
それをしないのは給料と天秤にかけた結果、金は欲しいが従うのは嫌という我が儘にしか見えません
Re: 単純に>atuさん
> 教員が規則を守らないのに生徒に規則を守れというのはおかしくないのでしょうか?
> 規則が間違っていると思うなら違う学校に行くなりすれば良い問題では?
もしも女性には選挙権も被選挙権も認めない、という法律ができたらあなたはそれに従いますか?
その法律が間違ってると思うなら日本を出て違う国に行くなりすれば良いと思いますか?
Re:単純に
あなたの認識は根本から間違っている。
*力(=人事上の不利益処分による脅し)を以て従わせねばならない、
*最高法規である憲法にも抵触する疑いのある、
*しかも法律でさえもない“規則もどき”
に従う義務は本来ない。
そのような“きまり”は改められなければならないのです。