コメント
政府の憲法解釈からすると、「ある種の軍事組織」発言の方が問題にしようと思えば問題に出来る発言ですが(その点、実力組織と言い換えたのは正解です。政府の解釈からすれば自衛隊は実力しか保持し得ないんですから(この場合、実力の対比となるのは戦力ですが))、その点については一部を除いて言及されてない報道の仕方にも知性というか常識の欠如を感じてしまいます。
アメリカでは市民が国を恐れてると聞きます。フランスなどは逆にデモなど起こして国が市民を恐れてると聞きます。
日本も国を恐れている方に向かってると思います。そこは注意しないといけないと思います。
>minbuさん >sulalaさん
石破さんも田母神さんも暴力装置って言葉使ってるのに仙谷さんが使えば「左翼のDNA」(byみんなのワタナベ)って、おかしいでしょう
>名無しさん、次回からハンネをお願いします
当然です。
だからどうしましたか?
それが使えてない時点でしっかくですよね。
それ以前に重要なのは、心情でしょ。
この人は日本より中国、韓国が好きですもんね。
国民の多数が嫌がってるは
言葉の使い方より彼の思想だとおもいますよ。
学術的な用語として流通している「暴力装置」と、もはやただのスラングで相手側からも拒絶されている「シナ」とでは、事情が本来なら逆になるはずなんですけどね(^_^;)
あと、自衛隊や警察や海上保安庁の職員教育が少し心配になりました。内部ではこうした軍隊や警察などの「暴力装置」としての役割と、それゆえに「政治的中立であらねばならない」事の意味をきちんと教育しているのだろうかと。「暴力装置」なんて呼ばれることに耐えられないようなナイーブ過ぎる神経の人は、自衛官や警察官や海上保安官には向いていないと思うんですけどね(^_^;)
まぁ、今年2月にあった宮城での陸自連隊長の「政府批判」とか、国母神氏の「論文」とか、「職員なら誰でも見られた編集済みの映像」を”英雄気取り”で流出させちゃった海上保安官とか見ている限り、かなりお粗末な状態だとは推測できますけども…。
使える言葉を選ばないと
そして、件の発言場所は政治学の場ではなく政治の場です。ダラダラと誰憚ることなく"抽象化された概念"を使用出来るものではないと思います。
また、専門性の高い用語や表現というのは精通している方には分かりますが、理解していない方にとっては何をいっているのか分からないものです。
その場合、社会人ならば公の場における自分の発言内容が正しく相手に伝わるかを検討するというのは常識だと思います。どの様に受け止めるかは相手にお任せでは危険ですからね。というか、実際に「学生運動」等を引き合いにして悪意と受け取っている方も少なからずいますから、
やっぱり不用意な発言だと判断しても良いかと。
だからこそ、政治家達のコメントは冗長的なものが多いのではないでしょうか。
また、学生運動等を引き合いに出さずとも、"暴力装置"は聞き手によっては悪意のこもった表現とも取れる、非常に誤解を招きやすい表現であるというのは常識のある人間なら気付くと思います。やっぱり、失言ということには変わらないと思います。
"暴力"という言葉の意味は、"学問上の暴力"なのか"日常会話上の暴力"なのかで意味が全く異なると思いますが、如何ですか?
悪意を一切持たず感謝の意を込めて「暴力を奮ってくれてありがとう」と言える方を私は知りません。
はじめまして。差し出がましくはありますが、いくつか申し上げます。
> 確かに自衛隊、警察は暴力装置なのですが、それは政治学、社会学という学問の領域のみで通用するものではないでしょうか。
> そして、件の発言場所は政治学の場ではなく政治の場です。ダラダラと誰憚ることなく"抽象化された概念"を使用出来るものではないと思います。
どうして国会で政治学、社会学の学術用語を使ってはいけないのでしょう。学問研究の成果を実践する場ですよ?政治学と政治をあえて切り分ける必然性がわかりません。互いに無関係なわけがないでしょう。それに件の発言は”抽象化された概念”ではなくて、自衛隊という具体的な組織について話していたと思うのですが、違うのですか?
学術用語を国会の場で使ってはならないとする根拠が、「理解していない人にとってわかりづらいから」問題であるというのなら、世耕議員を初めとした野党議員が「自衛隊に失礼だ」と批判するのはおかしいでしょう。普通に「国民にわかりにくい。もっと平易な言葉で説明せよ」と仙石官房長官に再度答弁を求めればいいではありませんか。なのに、なぜ初手から「自衛隊に失礼だ」などとキレるのですか。世耕議員が政治学における学術用語としての「暴力装置」という言葉を知らなかったと言うのなら、それは彼の不勉強をさらしただけのことですし、知っていてあえてそういったのであれば、議論に対する姿勢が誠実ではないということです。
少なくとも、「暴力」という言葉が不快だからと言う理由で、学術用語使用を批判するのなら、わたしには世耕議員が国民を社会学や政治学という学問、すなわち知識から遠ざけようとしているとしか解釈できません。そんな反知性主義は批判されてしかるべきだと考えます。
仙石官房長官がダメなのは、説明をせずに発言を撤回謝罪して、その責任から逃げた点です。これは秋原さんも記事中で指摘していますよね。
少なくとも、あなたも自衛隊や警察を暴力装置と認めているように、彼らの政治的中立性を求める仙石官房長官の発言は、民主主義社会における文民統制をしっかりとしていかねばならないという主旨で、なんら問題になるようなものではありません。当然の事を言っているだけです。現実的に「暴力装置」の暴走をいかに予防していくか、というのは、合法的に暴力を独占する国家が、国民に害を及ぼす存在にならないための重要な懸案であるはずです。そもそも、仙石官房長官の発言は、国母神元幕僚長の論文問題や、宮崎での陸自連隊長の政府批判など、本来政治的中立を保ち、国民の選挙によって選ばれた政府に絶対服従せねばならない「暴力装置」が、”独自の”政治的意図を対外的に発信するような「問題行動」が目立ってきたからこそなされたものです。彼らの「暴力」に対抗できるのは、この国内においては在日米軍以外ありません。そして在日米軍にはクーデターを実力で制圧する義務はありません(日米安全保障条約にその規定はありません)。在日米軍が当てにならない以上、一端彼らが独自の判断で行動しはじめたとき、わたしたちには彼ら「暴力装置」を物理的に掣肘する術がないのです。彼らの力はその気になれば、この国家体制を転覆させ、対外的に巨大な破壊力を行使できる「大変危険なもの」であるという認識がないのならば、それこそ危険なのです。
この際個々の自衛隊員や、警察官や海上保安官の人間性は関係ありません。彼ら個人がいかに「いいひと」であっても、彼らの手には武器があり、その武器を使えばわれわれは死ぬのです。彼らをいかにコントロールするかという命題=文民統制の研究を、政治学は長い年月をかけて積み上げてきたのです。実際に政治の場において、それに携わる専門家たる国会議員が、その蓄積を無視して(現在の阿久根市長のように)独自の政治哲学に基づいて行動するのもまた危険です。政治学には(社会学にも)、現実の政治、現実の社会をサンプルとした歴史の教訓が無数にあります。そしてその蓄積の上に学術用語は成り立っているのです。「暴力装置」という言葉は悪意によって作られた言葉ではありません。現実に軍や警察が、その強力無比な力によって無力な個人を蹂躙してきた事例は、悲しいかな歴史上事欠くことはありません。それに学ばないとしたら、人間は同じ悲劇を何度でも繰り返すでしょう。過去の現実をごまかさず直視し、その悲劇を繰り返さないためにこそ、あえて「暴力装置」という厳しい訳語が選択されているのです。
強い力を持つ者は、その事に自覚的であらねばなりません。自分たちにとっては些細なふるまいであったとしても、それが他者にとっては命に関わることになることもある事を、「暴力」を法によって許されている人たちは、常に忘れないようにしなければいけません。
自分たちの力は人を殺しうるのだと、自覚していてもらわなければ、わたしたち無力な個人が困るのです。わたしが先の書き込みで内部教育について不安を呈したのは、以上のような理由からです。自衛隊、警察、海上保安庁。その内部で、自分たちの力が社会を守るどころか、破壊することさえある(あくまで可能性ですよ。現在の彼らがそういう組織だと言うつもりはありません)ことをきちんと教えているのか、不安になったのです。だって、あまりに自分たちの持つ力を自覚していない例を多く見せられているのですから。
たとえばヘビー級ボクサー並のパンチ力を持つ人が自らの力を自覚しないまま喧嘩をしたらどうなりますか? 自覚がない人は、手加減=己の力を制御するという発想ができません。だって自分のパンチがそんなに危険なものだとは解らないのだから。やってしまってから気づくのです。
しかし、社会の中で最強かつ最大の暴力装置である軍隊や警察が、やってから気づきましたでは、文字通り洒落になりません。組織が大きければ大きいほど、強ければ強いほど、社会に与える影響は増大するのは自明です。足利事件を省みるまでもなく、人一人の人生を狂わせ破壊することなど、彼らにとっては造作もない事なのです。足利事件を担当した警察官に悪意があったわけではありません。むしろ社会正義を実現する使命感に満ちていたかもしれません。しかし、結果的に彼らは菅家さんの人生を破壊しました。「暴力装置」を構成するのも人間であるならば、無謬であることなどありえず、しかもその力は国内最強なのです。自衛隊や警察に限ってそんなことはありえない、などというのは「性善説」でしかないのではないですか。それを誰がどのように保障できるでしょうか。
逆に申し上げれば、「暴力装置」と言う言葉がどぎついと感じるならば、それはそうであらねば困るからです。それが孕む危険性を「わかりやすくするために」あえて「暴力」という身も蓋もない言い方が選ばれているのです。それをわざわざソフトな言い方に換えてどうするというのでしょうか。確かに「誤解」はされないかもしれません。しかしかえって彼らが孕む「暴力性」はわかりにくくなりはしませんか。発言する政治家個人の「誤解されたくない」という保身や、自覚のない警察官や自衛官の「傷つきたくない」と言うナイーブな自己愛のために、軍隊や警察の暴力性を欺瞞するのならば、わたしはそれこそ文民統制を危うくし、ひいては国家体制をも危うくする、おろかで、自己の力に無自覚な、無責任な行為と言わざるを得ません。
> その場合、社会人ならば公の場における自分の発言内容が正しく相手に伝わるかを検討するというのは常識だと思います。
彼らは「普通の社会人」ではありませんよ。選挙によって選ばれた国会議員です。専門性を持って立法にあたり、行政を運営する義務があります。その中で専門的な言葉を一切使ってはならないとしたら、それこそ奇妙な話です。
また言葉の中身によって使うか使わないかを決めるのだとしたら、たとえば「暴力装置」は言い換えなければならないとしたら、その基準、境界線は一体誰が定めるのですか?「常識」と仰いますが、そんな場所によっても年代によっても変わるようなあいまいなものを基準にしていいんですか?だったらむしろ、日本全国どころか世界でも一定の定義が確立している学術用語を使うほうがよほど効率的ではないでしょうか。
それにむしろ一般の社会人ならば、相手の発言の意味がわからなければ、その意味を尋ねるものです。多少不快な言葉を聴かされても、いきなり「失礼だ」とキレるのは、いい大人のすることではありません。それがある程度(あくまである程度、ですよ)容認されているのは、あの場が政治と言う「きわめて特殊な」場であるからです。野党ならば、与党の失点を突くのは当然のことですからね。良くも悪くも、あの場は「普通」ではないのです。
> どの様に受け止めるかは相手にお任せでは危険ですからね。というか、実際に「学生運動」等を引き合いにして悪意と受け取っている方も少なからずいますから、 やっぱり不用意な発言だと判断しても良いかと。
ですからより厳密な定義である学術用語を使うほうが、誤解も少ないはずでしょう。奇しくもあなた自身が「悪意ある」解釈の存在を認めているように、悪意のある人は、どんな発言であろうと攻撃の材料にしますよ。
> "暴力"という言葉の意味は、"学問上の暴力"なのか"日常会話上の暴力"なのかで意味が全く異なると思いますが、如何ですか?
「学問上の暴力」とか「日常会話上の暴力」とか、正直に申し上げて、意味が理解しかねます。このように、学術用語を避け新しい言葉を使うとなると、その定義から問題になるんですよ。言葉の定義が決まらなければ、議論において共通の認識が得られませんから。しかし言葉の定義について、国会で「ダラダラ」議論されたら、そっちのほうが問題視されませんか。
まぁ、「学問上の暴力」はともかくとして、「日常会話上の暴力」については「殴る蹴るなどの直接的な身体的、精神的暴力」という解釈で話を進めましょう。
言葉には文脈ってものがあるでしょう。世耕議員の質問は「防衛省が政治的な発言をする団体に防衛省や自衛隊がかかわる行事への参加を控えてもらうよう指示する通達を出したことを問題視し、国家公務員と自衛隊員の違いを質問」しました。それに対する回答という文脈での「暴力装置」を「日常会話上の暴力」と解釈する人がいたら、「もう少し人の話を聞きましょうね」もしくは「もう少しお勉強しましょうね」としか申し上げようがありません。また、「暴力」と言う単語に忌避的感情を持ったのなら、それは文脈を踏まえず単語にのみ反応した、いわゆる「揚げ足取り」でしかありません。いずれにしても政治の専門家たる国会議員としては、お粗末にすぎるというだけの話です。
> 悪意を一切持たず感謝の意を込めて「暴力を奮ってくれてありがとう」と言える方を私は知りません。
「暴力」教師に殴られたことを思い返して「今では感謝している」と言ってる人は少なからずいるようですがね。まぁそれはどうでもいいのですが。
なぜ、ここでいきなり「感謝」なんて言葉が出てくるのかよくわからないのですが、自衛隊への感謝と言うなら、選挙によって選ばれた政府に服従するのは、しつこく上述したとおり、自衛隊にとっては当然の義務であり、またそうせねば彼ら自身が社会の不安定要素になるのです。いちいちお礼を言わなければならないようなものではありません。あなたが個人的に自衛隊に感謝の念を持つのは自由です。尊敬するのもいいでしょう。誰もそれを咎めはしません。しかし、それはあくまで自由であって、あまねく国民に強制されるものではないはずですし、感謝の結果、政治家が自衛隊に対して批判的なことが言えないような状態はけっして健全な民主主義の姿とはいえません。
もっとも、自衛隊に個人的に感謝している人は少なくないと思いますよ。災害救助でお世話になった人とか。もっともそれは本来的な「軍隊」としての職務ではありませんがね。そんなに感謝されたいのなら、災害救助を専門にすればいいんじゃないですか。少なくとも「暴力装置」と言われることはなくなるでしょう。
> 秋原さん
…と、「冗長」に説明してみました(笑)
久々に長文、やっちゃいました。毎度申し訳ありませんm(__)m
>捨て犬さん
>名無しさん、次回からハンネをお願いします
>使える場所さん
>観測霊さん
数日間PCのないところにいたのでちっとも返信できずコメント返しがたまる一方だったので、大変助かりました(^^)
しかしまあ、この「暴力装置」の一件、もう目も当てられないほど酷い低レベルの話ですね。国権の最高機関でこんな小学生の揚げ足取りみたいなやりとりが行われて貴重な会期と税金が浪費されるとは、もう情けなさ過ぎて・・・馬鹿。のひとことです。
ブログ「玄倉川の岸辺」さんがこんな例えをしてらっしゃいました。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/3df5e828f65a79594b3f19ed0a12934d
国会で自動車事故問題について論じているとしよう。
国土交通大臣が「自動車はたいへん便利な乗り物ですが、運転を誤ると『走る凶器』にもなります」と答弁する。それに対して野党議員が「自動車はわが国の基幹産業だ、『凶器』呼ばわりなどとんでもない!」だの「善良なドライバーを殺人者呼ばわりするのか!」だのいきり立ったら、一般国民はどう思うだろうか。「アホらしい、怒ってる議員は免許持ってないんじゃないか」と呆れるだろう。
このくらいアホらしい騒ぎです、この暴力装置騒ぎって。
お忙しい中、レスありがとうございますm(__)m
代返!懐かしいなぁ…よくやらされました(笑)
> もう目も当てられないほど酷い低レベル
ですねぇ(^_^;)
玄倉川さんも仰っていましたけど、自衛隊を「ある種の軍事組織」って言っちゃったことのほうが、よほど問題発言だと思うのですが、まぁ、それは自衛隊を軍隊にしたい人たちからすればスルーしておきたいところなのかもしれませんね。「暴力装置」云々は、もう本筋から離れたところでゴタゴタしている感じですが、それも「自衛隊は軍事組織」発言から、話を逸らそうという改憲派の意図かもしれませんね。それに半ば乗ってしまっているわたしもどうかとは思いますが(^_^;)
>観測霊さん
どうでしょう、今の自民党のオツムのレベルではそんなことまで考えてないと思うんですけど(笑)
暴力装置 焚書しますか?
あまりに簡単に撤回したものね。菅さんもそうかな。
私も、レーニンの「国家と革命」しか知らなかった。
マックス・ヴェーバーは読んでないです。
レーニン的には『国家イコール暴力装置』だものね。イコールだよ。
そりゃあんまり単純だろってんで「国家とは共同性の幻想的形態である」なんてふかしていたものです。
でも『暴力装置』でいいんじゃありません。自衛隊も警察も海保も。
この言葉の乗ってる学術書は山ほどあるでしょうが、集めて焚書しますか?
例えるなら
今回の場合を例えるなら、「自動車会社は走る凶器の製造者だから~」の方が適切かと思います。