この社会に存在する様々な差別。
その差別がもたらすもっとも大きな罪の一つは、自らのアイデンティティを蔑まれると同時に、自分自身が自分自身を蔑み自己否定をしてしまうことではないでしょうか。
かつて、在日朝鮮人、被差別部落とともに、琉球差別が存在しました。
先月放映された「英霊か犬死か」の彫刻家金城実さんも、若い頃は沖縄の言葉や文化に劣等意識をずっと持ち、沖縄に誇りを持つことができずにいたそうです。
米兵に轢き殺されても1ドルで済まされる沖縄人、何をされてもにやにやしている優しい沖縄人、そんな沖縄を蔑んでいた金城さんの意識を変えたのは、1970年の
コザ蜂起(米兵の交通事故がきっかけとなって怒りが爆発、米兵の車両を焼き討ちにした事件)だったそうです。
沖縄を表現しようと彫刻家に転身した金城さんは、祖父をモチーフに力強い彫刻を仕上げました。
以前は標準語が喋れない祖父は金城さんの軽蔑の対象であり、誇りに思えなかった沖縄の象徴でした。
しかしその祖父が拳を握って誇り高く立ちあがろうとしている姿を彫刻にし、「沖縄」というタイトルをつけた時には、自分が失っていた沖縄人であることの誇りを取り戻した、と語っています。
(
「ちゃーすが(どうする)!?沖縄~金城実のレジスタンス」(2)より )
これは10年前のものですが、沖縄人であるという劣等意識にさいなまれ、やがて自分のアイデンティティに誇りを取り戻した金城さんの手記をご紹介します。
『沖縄発 21世紀への願い』(その1)
http://www.jinken-net.com/old/hiroba/2000/hiroba0007.html●個人史から見た沖縄
敗戦後小学1年生を迎え、ノートも鉛筆もなく、もちろん教室もない時代の記憶をたどると、初めて覚えた言葉は、日本語よりも英語で、「ギブミーチョコレート、チュインガム」だった。防空壕や洞窟で戦いをのがれ、生きのびてきた者の生命への執着は、どんなものであったろうか。
琉球史のなかに幾度かでてきた“蘇鉄地獄”という生活を、この時体験することになる。与勝半島に浮かぶ浜比嘉島で蘇鉄を食べた。湿気でカビがつくと死んでしまうほど危険きわまりない最悪の食糧なのだ。戦争と台風のため食糧不足になり、親たちは栄養不良からわが子を守るために必死に働いた。
植民地支配下で働く軍作業時代というのがその頃やってきた。ときおり島に来る米兵たちの後を追っかけては、「ギブミーガム、ギブミーチョコレート、ミーハングリー」と叫んでいた。米兵たちはまるで恵みをばらまく天使のように、物品を空高く放り投げた。われわれ子どもたちは、そこに群がり、たかり、奪い合いながら、「ギブミー、ハングリー」と空腹を満たすのに宝物のことばを繰り返した。最初、米兵たちも面白がり、おごり高き天使のように振るまっていたが、うるさくなったのか、銃を向ける真似をして逃げる米兵もいた。鼻をたれ、やたらに地シラミが多く、着物も少なく、素足で遊び、マラリア病にやられた子どもたちの時代をつくったのは大人たちなのに、子どもはそうとも知らずに、ギブミー、ハングリー、ミー・ハングリーとその時代を生きた。
先輩のガキ大将につれられて、トタン屋根の公民館にあった米軍の配給物資倉庫を襲う見張りに立たされた。
1950年代、朝鮮戦争は小さな島にも少しばかりの潤いをもたらした。真ちゅうや鉄くずが売れた。米軍が島に落とした薬きょう空や鉄くずを捜すのに、島中がやっきになった。これらの物資をただで拾いあげ、倉庫を襲うのも戦果物さがしといった。戦争に痛めつけられた者にとって、皮肉だが神が与えたまう物とばかりに誇り高く拾うのであった。
私の祖父、漁夫マカリーがときおり海から持ってくるタマネギ、リンゴ、ミカン、レモンなどは米軍の軍艦からゴミと共に海中に投げ捨てられたものだった。子どもたちは波打ちぎわや岩陰に打ち上げられた果物の皮を見つけると、それを手に取って臭いをかぎ、口に入れてかじってみるのだが、潮水を吸い込んだ皮に甘みがあろうはずもなく、憎しみを込めて唾を吐きすてると、先を急ぎ餌をあさっている海辺の小さな海鳥たちに、石を投げつけて追っ払ったものだが、1声、2声、フーイ、フイ、フーイ、フイと鳴かれて、それがわれわれ子どもたちをからかっているように思えたものだ。
大人たちの間では不発弾を捜し、それから火薬や信管をはずし、ダイナマイトに改造し、それを使う漁法が流行した。島でも3人が死に、負傷者は数人にのぼった。強烈な太陽の光のもと、はてしなく青く透明な大海原の中では、火薬の炎はほとんど見えず、火が消えたと思い込んでいる一瞬に、爆死してしまうのだ。
子どもたちの遊びの中にも、いつの間にか鉄砲玉を火の中に放り込んで、爆発させて逃げる遊びがはやった。ダイナマイト漁法は魚の棲み家である珊瑚・藻くず・海草・稚魚などこっぱ微塵に破壊した。その危険な仕事に連れて行かれた中学生が、爆死した漁師の肉片をザルに拾って、泣きながら遺体を連れて島に帰るはめになった。
それでも貧しさから逃げるために、命がけで、歴史上初めてみてしまった近代兵器の落ちこぼれを手にした漁民は、取り憑かれたように病んでいった。自然の恵みを分かち合うのは自然の生き物の掟なのだということが、もはや漁師たちの意識からも消えてしまった。ダイナマイトと不発弾と鉄・真ちゅうは、勇敢に戦場を生き抜いてきた者の命を奪った。朝鮮戦争と沖縄の米軍基地の強化とが、日本本土の歴史上初めての高度経済成長を支える基盤になっていった。
●『文化』-豚足、ニンニク、ホルモンの文化考
このテーマは、フランスで個展を開いた際、フランス大学の日本学科の学生達に話したものである。筆者は19才で東京に渡った。米軍支配下でパスポートを持ってである。沖縄人でも未だ知る者が少ない沖縄の孤島から、大学に受験するためであった。島を離れての旅立ちは、農民・漁民・村中が仕事を休んでの見送りで、船長は港の中で3回もぐるぐる船を廻し、「みのる、チバティクーヨィ(頑張ってこいよ)!」とタオルやハンカチを振ってくれた。
島で生まれたことは、恥と劣等感に押しつぶされた青春であった。出自に誇りを持てないということは、被差別部落や在日朝鮮人たちの差別構造と共通構造を持つことになるように思える。東京の予備校で、いつも他者と点数のことで意識する生活であった。東京に行って、初めて極地にある島の文化が最低に見え、それに沖縄の悲劇が見えて唖然とした。
予備校での成績も最低で、ついに追いついて行けず、帰るか帰らないか思案に暮れた。2年で挫折して、島に帰ってしまった。それが島人への裏切り行為であることが思い知らされることになる。1ケ月も島におれなくなって、大阪に逃げてきた。沖縄人が多い大阪で初めて被差別の文化を喰うことになる。大阪のある沖縄料理店に飛び込んでみると、周囲の客が豚足を喰っているではないか。アルミ皿に、ポッチャリとのっている豚足、一瞬のうちになつかしさとうれしさのあまり、涙が出そうであった。
しかし、豚足を歴史的にたどっていくと、そこには、日本社会で料理を通じて、差別を造形化したものがあったことに気づくのであった。豚が中国から琉球に渡ったのは、薩摩の琉球侵略より四年前の1605年である。豚は琉球人にとっては、家屋敷の守り神であり、「豚神(ウアヌウカミ)」である。豚小屋と便所が同じで、そこに家屋敷の守り神が存在しているのだ。晦日の年を越す崇高な料理が豚足である。晦日の料理には、昆布と大根と豚足が典型で、豚足を食べることで来る年も脚腰が強くなり、元気で農業や漁業ができますようにという土着思想に裏打ちされた料理であり、昆布と大根を入れることで、栄養のバランスを取った先人の知恵である。最近では、料理番組で放送されて話題になるほど、沖縄の長寿と沖縄の料理が持ち上げられているが、ひと昔前は「豚足を喰う琉球人」とさげすまれた歴史があった。
日本社会ではそれだけではなく、ニンニクのイメージが朝鮮人、ホルモンが被差別部落民と、差別の構造が料理にまで及んでいた。なぜこういう基本的な食生活の文化にまで差別が捏造されていったのか。その捏造のあり方が社会科学の問題で、いわゆる差別構造が、個人の食への問題や本来の日本の伝統的なものに対しての、異文化を受け入れない日本人の意識が作られたのか。わが沖縄人が多く住む大阪大正区の料理屋での話だ。
戦前・戦中・戦後も、沖縄から住みついた人には、ふるさとと同じく晦日の夜には豚足を料理した。ところが「豚足を喰う沖縄人」という偏見と差別があったために、子どもや孫に家の近くで見張りをさせて、ヤマトンチューに見られないように料理したという。琉球の民謡も三味線(沖縄では三線という)にも及んで恥の文化が作られた時代であった。
大阪の天王寺の駅から通天閣が見える。その周辺に遊廓があり、今でも全国から労働者が集まり、大阪のビルディングはほとんど彼らの手によって建てられたようなものである。通天閣ができたのが第5回内国勧業博覧会で、その中に「学術人類館」と名付けた興業小屋があり、朝鮮人・アイヌ民族・台湾の先住民などとともに沖縄の女性2人が展示された。1904年の日露戦争前夜のことであった。天皇制のもと「大日本帝国」の拡大と、アジアや少数民族に対して差別と偏見を国民の意識にたたき込んだ。いわゆる帝国主義の実像をはからずも示した見世物であったといえる。事件になり中止となるが、戦争は人権無視から始まる。国益の為には民権を抹殺し、異文化の抑圧と差別に発展していくもので、戦争への普遍的な論理であることを見落としてはならない。沖縄はその論理に今だに翻弄された歴史である。
それは、例えば安保条約にある地位協定18条6項である。
今では安保条約に反対を唱えるものが少なくなっているが、日本人が米兵の起こす事件や事故に巻き込まれたときにどのような補償がなされているか、考えてみる必要がある。沖縄において駐留する米兵の引き起こす事件は目に余る数である。その被害に対してなされる補償の実態は、まったく人権を無視した不条理なもので、国民の生命と生活を日々おびやかしている、沖縄での大きな問題の1つである。
ようやく1996年12月に「沖縄に関する日米特別行動委員会」の最終報告によって、地位協定の運用が若干改善された。しかし、依然として被害補償制度の問題は基本的に解消していないのが現実である。米政府による移籍料は低額で、見舞金の域を出ていない。従って被害賠償法の制定が、今一番対策を必要としているところである。
1879年から沖縄県になるが、琉球人が日本人になるにはまず同化政策が必要であった。同化への加速をつけるために、沖縄の文化を恥の文化として定義していくことが、日本政府の沖縄への教育観念であった。恥だとされる文化からのがれるために、日本の教育理念に従う能力のあるインテリーたちは、重要な役割を果す。沖縄に関する文学では、広津和郎の小説『さまよえる琉球人』、沖縄出身の作家久志芙沙子の『亡びゆく琉球民族の悲哀』があるが、いずれもそれは沖縄人のイメージが差別を助長する人間像であるということで、東京の沖縄出身者インテリーたちから抗議される事件が起きている。特に久志の文学は、島崎藤村の『破戒』の主人公丑松と反対の思想をもった人物であるからだ。
筆者の場合も1979年12月30日、筆者を取材したドキュメントが放送された。そのタイトルが「在日沖縄人」-痛恨行脚で-その在日沖縄人という看板に東京に住む沖縄出身の議員や婦人会会長からタイトルの変更抗議があり、受け入れられなければ人権擁護委員会に告訴すると強迫されている。結果は、変更せず放送されたが、その後抗議はなかった。
ここに沖縄人の妙な差別への感応がうかがえる。筆者があえて在日沖縄人でおし通したのには、沖縄人としてのアイディンティティにこだわったからである。出自はまるごと文化を背負って生まれてくる。それが「恥の文化」とさらされてきたのが、言葉と料理でもあった。したがって、沖縄の文化を語ることは出自へのあり方を語り、誇りを語ることでもある。それが豚足の文化であった。豚足には歴史の遍歴がある。つまり別名に、チマグ、アシトウビチ、ハイヒール、エチオピアという風に国際語まで昇りつめたのだ。
それは1960年に、ローマオリンピックがあり、1人の男がマラソンで素足で走っていた。世界中が目を見張った。それは、軽蔑や嘲笑や驚異の感情が入りまざって、テレビにクギ付けられた。特に沖縄県民も感動して見た。素足と芋と豚足で笑われた差別と偏見で捉えられた沖縄の歴史に、目映い光が見えたのはその時である。アベベ選手の金メダルをわが沖縄人の誇りとして共有したのだ。差別され、嘲笑された「恥」の文化が逆転した瞬間に、どこからともなく豚足に「エチオピア」と名付けたのだった。
ところが日本では特に食肉関係にたずさわる労働者を差別してきた歴史があるのを知って唖然としたものだ。例えば、食肉に関係する被差別人民に対して結婚や就職の問題まで差別に通じるのか。それは「ケガレ」というものに関係することが分かった。沖縄ではない思想である。また、血がケガレとする思想もない。人は今では、産婦人科で産まれて病院で死ぬ。ところが、島では仏壇の下で子どもを産んで仏壇の下で死を迎えた。子どもが産まれると胎盤というのがでる。それは決して不浄なものではなく崇高なもので、土に埋めるものではなく海にもどした。それも決まった場所で「ウブ川」という湧水のある井戸の前の海で、胎盤を包んだオシメは、胎盤を海に流してもどした後にその井戸で洗たくし、それから線香とコメを捧げて湧水に感謝を捧げた。月経で白いさらしを染めて、愛する男性に捧げた歴史もあったという。したがって、不浄とかケガレという思想はなかったが、大阪にきて被差別部落に対しての血やケガレの歴史を知ると、やはり沖縄の文化が日本の文化とは合い入れない。
(続く)
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