一昨日、東京拘置所の死刑場の写真が公開されました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100828-00000002-maip-soci とりあえず初めての死刑場の公開ではありますが、写真を取るのに非常に制約も多く、入れたのは記者クラブ限定という不十分さです。これが果たして千葉法相が言うような、死刑制度の是非について国民的議論をおこす材料となるでしょうか?
死刑廃止議連の保坂展人さんがマガジン9条とご自身のブログで仰っていることはとても大事なことだと思いますので、引用がかなり長くなりますがここにメモしておいて、しっかり読みたいと思います。
◆マガジン9条
保坂展人さんに聞いた 「千葉大臣の死刑執行と刑場公開をどう考える?」 (引用開始) 今回の刑場の公開について、メディアは賛成でしょう? 報道できた方がいいわけですから。でその後の展開についても、法務省はこのように考えていると思います。死刑の刑場を公開すると、死刑への信頼と支持がより強まる。裁判員制度で選ばれた裁判員が自信をもって死刑判決を出せるようになる、とね。実際、裁判員制度において、死刑判決はまだ出ておらず、死刑求刑もない。現状はその手前で引いているわけですからね。 ───刑場公開したら、国内では死刑制度支持が強まる? 僕が過去に刑場に入った時の印象を言うと、そこは、一種の完成された空間でした。人間の死、命を奪うという究極の殺人行為が行われる場所ということを感じさせないで、法の名のもとに、正義の実現であるかのごとく、人間の命を粛々と消していく場所。そしてその執行については、みんなが重い気持ちにはなるけれども、自分がやった、というふうに背負わなくてもすむ仕組みがきちんとできている。要するに、よく考えられているわけですよ。(刑場の図は こちらのサイトにあります) 刑場に一緒に見学に行った議員さんの中にも、「いい体験をした。厳粛な気持ちになった。感動した」という感想を述べていた人がいましたね。刑場を見ると、妙な感動をする人がいるのです。「国家が国家の名の下に、死刑を執行する特別の場所に入れた」ことについての感動と、組織として死刑執行という難行に立ち向かっていく人たちの大変な労をねぎらいたい、というような気持ちになるわけです。 刑場が公開されたら、そこにテレビカメラが入ったら、メディアではすごい扱いになるでしょう。そうすると、これは100%言えることですが、被害者遺族は、死刑執行が見たい、と言い出すでしょう。それは被害者遺族の権利であると主張するかもしれません。すると、モニター中継とかで見せるという話になるでしょう。 被害者遺族が死刑執行を見届けるということが一つの「てこ」になって、死刑執行が停止できにくくなるでしょう。もう一つは、国民もいくらか見たいと言い出すでしょう。鳩山邦夫さんが法務大臣の時、死刑の情報公開として、執行された人を発表するようになりました。この時、メディアでは、事件についての検察の起訴状に描かれた事件概要とともに、発表するようになりました。伝えられるのは事件と執行のことだけ。死刑囚がどのようにその間を独房の中で送ってきたか、仏画をずっと書いていたかもしれないし、何百通という謝罪の手紙を書いていたかもしれない、そういうことはいっさい報道されずに、事件のことと、執行した事実だけが伝えられるのです。 もしかしたらこれからは、死刑執行がある朝には、NHKなどで刑場だけの映像をながして、重々しく執行を発表とするというような、特別番組が朝10時とかから始まるかもしれない。そうなるとみんなそれを楽しみにし始めるのではないでしょうか。人間の深層心理として、古今東西、殺されるところがみたいわけです。 そうなると、千葉大臣の今回の執行、そして刑場の公開は、「死刑廃止」という議論が、あと2、30年はどこ吹く風といったようになるのではないか、少なくともマスコミはそう動いていくのではないか、という読みが、法務省刑事局にあったと思います。 今話したことは、「真夏の夜の悪夢」に終わればいいのだけれど、刑場が公開されたところで、「死刑制度、これでいいのか」という議論がこの国で高まるとは、とうてい思えないのです。 なぜなら、先日も今みたいな話をテレビ局の取材で30分ぐらい話したけれど、使われたのは8秒ぐらい。マスメディアは、法務・検察がやろうとしていることを、疑ったり問うたりすることことはダメだと思っているんですね。以前、明日死刑が執行されるようだというリークがあって、それについて私たちが抗議声明を出し、それをいくつかの新聞が記事に書いたことがあった。そうすると、なんと記者クラブの方から、クレームがついたんです。「これは死刑執行への妨害ではないか」と。 ですから今回の「刑場公開」も、法務省にとっての理想的な形で行われるだろうと思っています。唯一彼らが描いているシナリオが崩れる可能性は、フリーランスの記者が入り、また海外メディアが入るなどして、BBCなどで世界に配信される時でしょう。 国連の人権理事会にも加盟して現在理事国でもある日本が今も絞首刑をやっているというのは、「人権」という観点から見たときに大きな驚きであり、国の信用を落とす要因になると思います。 (引用ここまで・太字は私)
保坂さんは国民的議論の材料にするなら、制限など設けずなにもかも包み隠さず公開すべきだと主張してきました。
◆
保坂展人のどこどこ日記 「刑場の公開」の前に外国人特派員協会で記者会見 (引用開始) 今回の刑場の公開にあたって法務省は「記者クラブ」にさえ多くの制約を課そうとしている。私は、海外メディアやフリーの記者にも公開すべきだと考えている。今回の「刑場の公開」は、これから最低でも10年、長い場合は20年かち30年にわたって日本の死刑制度を固定化する役割を果たすことになるか、または死刑のあり方を存廃を含む根源にいたるまで議論することが出来るのかどうかの分水嶺である。「刑場の公開」というからには、事実を包み隠すことなく開示する必要がある。その上で、しっかりとした土台に立った議論が行なわれるべきだ。 例えば、地下室の取材を認めず、踏み板の開閉もさせず、ロープもない刑場を見せるとする。私の印象では、死刑執行前に入る刑場は多くの人が想像するほど、見るからに怖い空間ではなく、無味乾燥な公共施設か役所の一角のような映像で見せることも可能な施設だ。また、「重要な施設・装置」の撮影を禁止してしまえば、刑場の中に潜んでいる「死刑執行」という残虐性や生命を奪うという究極の刑罰であるという要素が薄らいでしまう。 (引用ここまで)
しかし予想通り、御用記者クラブにだけ非常に制約した範囲内のみ撮影を許可したようです。
「刑場の公開」は記者クラブ限定の「半公開」に さすがに「密行主義」と言われるだけの法務省である。今日の午前、東京拘置所の刑場が「一部公開」された。何度問い合わせても回答のないフリーランスや海外メディアには黙って、「縛り」のきく記者クラブだけを対象として、「抜き打ち記者クラブ限定取材」をさせたのだ。スチールとムービーカメラは1台づつの代表取材だったようで、撮影は法務省の許可する範囲で行なわれた。外の見えない黒テープで窓を覆われたマイクロバスで刑場に案内された 21人の記者たちは、まず「教誨室」に通されたという。私たち、衆議院法務委員会は03年、07年と2回にわたって東京拘置所の「刑場」を見ているが、一度も案内されたことのない場所だ。そして、死刑囚が拘置所長から「死刑執行命令」を宣告される控室(前室と呼ぶらしい)から、刑壇(下に落下していく踏み板がある)の部屋にも入り、ボタン3つの写真も撮影されている。少し前まで法務省は、ガラスで隔てられた立合席のみ許可するという姿勢だったようだが、ぎりぎりで取材を認める範囲を広げたということだ。ただし、壁伝いのロープを通す輪と、天井の滑車は写真にあるが、肝心のロープ(絞縄と呼ぶ)はない。 死刑執行には不可欠な道具だが、「通常の管理状態では備えられていない」という理由を述べたというが、その状態では「刑場」とは呼べない「刑場準備室」だろう。何人かの人に写真を見せたが、「ピンとこない。意外ときれいな部屋」「言われないと何の写真かさっぱり判らない」というものだった。ここにロープの輪が天井から降りていれば、誰にでもわかる。 また、報道陣は立合席から地下室へ降りることも禁じられた。 「死刑囚が生命を絶つきわめて厳粛な場で、死刑囚やその家族、刑務官などに与える影響を考慮した」ことが、法務省の立ち入り禁止理由のようだ。私は以前から「刑場の公開」と呼べるかどうかは、この地下室に入ることが出来るかどうかによって決まると述べてきた。上層階がジュウタンがしきつめられた部屋であるのに対し、コンクリート打ちっぱなしの地下室は「死の空間」だ。2回の視察で、地下室に入り、ここから上の踏み板が頑丈で堅牢な部品に支えられて、何百回でも開閉し続けるたびに人が死んでいくのだという実感を持って、背筋が凍った。立合室(上層)から見下ろすように移した写真が読売新聞(夕刊)に掲載されている。その下部には「排水口」があって、間近で見ると生々しい。「刑場の露と消える」という言葉がぴったりの黒い鉄格子が不気味だった。 死刑執行の場となる刑場は、「法と正義」の名の下で「厳粛性」を保つように設計されている。だが、死刑執行は生命断絶のプロセスで、どのように糊塗しようとも「残虐性」を消すことは出来ない。ロープも地下室も、「死刑囚の死」という生々しい現実を物語る。その「残虐性」を出来るだけ消して、「厳粛性」を強調するというのが法務省の方針だった。記者たちは、刑場取材の間、拘置所職員の説明に対して、記者の側から質問することも禁止されたという。 口も開くな、勝手に撮影するなと制約だらけの「半公開」ではあったが、ツイッターには「日本の死刑執行は絞首刑だったとは知らなかった」などの書き込みもあり、情報開示へ一歩であることも事実だ。千葉大臣は、任期終了までに「国民的議論」を喚起したいのなら、東京拘置所で死刑執行を待つ確定死刑囚の処遇もぜひ見てほしいし、40年以上、冤罪を訴えて獄につながれている袴田巌さんにも面会してほしい。これも、死刑制度をめぐる情報開示としては重要だ。 今日の「刑場の一部公開」が、死刑制度をめぐる議論の土台になるかどうかは、これからの私たちの議論の深め方にかかっている。千葉法相は、「裁判員制度で国民が究極の選択を迫られる」との認識から「刑場の公開」を考えたと言うが、「裁判員制度」の欠陥の手直しを提言した死刑廃止議員連盟の提案をなぜ受け入れないのか疑問だ。 「裁判員裁判における死刑の全員一致制度」と「死刑と無期・懲役の間に終身刑を創設する」というものだ。この点については、明日以降、書く。
引用がかなり長いので、太字をつけました。
以前どこかに書いたと思うのですが、死刑に処すことに賛成すると言うことは、本来なら国民一人一人が自分があの場にたって、あのボタンをおすことを是とする事なのだと思います。
しかし実際にはその仕事を国民に代わって刑務官が行います。
その刑務官の苦悩について過去にブログA Tree at easeさんの記事を要約した記事を書いたことがあります。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-18.html A Tree at easehttp://mblog.excite.co.jp/user/luxemburg/entry/detail/?id=4219915 というブログに、「死刑執行人の苦悩」という本について書かれています。 是非一度目を通してみてください。 「死刑のおかげで誇りなど探しても見つからない汚れた人生になりました」 「恥ずかしい人間です。自分という人間は」 刑務官にこう言わしめる死刑って何なのだろうかと考えざるを得ません。 自分に元気な子供が生まれたと聞いたある刑務官は大声をあげて泣く。 「自分はこんな仕事をしているのだからまともな子供を授かるわけがない。自分の因果だから仕方ないが、子供には何の責任もない。何かあったら子供に申し訳がない」 このような苦悩を刑務官に押し付けておいて、死刑執行の現実を知らぬまま"こちら側"で手を汚さずぬくぬくしている私達が 「刑務官は職務である以上耐えるべきだ」 と言い放つ資格などあるのでしょうか。 そして死刑執行は正義だと大きな顔で言える資格があるのでしょうか。 死刑に立ち合う拘置所長の 「人間としてこんなに恥ずかしい制度はない」 という言葉が胸に響きます
死刑判決が出たときだけ被害者のため社会正義が実現されたかのように喜び、あとはその事件のことなどすっかり忘れ、その後死刑囚がどのような心の軌跡をたどったかにも興味を抱かず、人間を殺すというエグい作業は刑務官におまかせしてその現場を知らないというのは、死刑を是とするには片手落ちだと思うのです。
ですから、まず私達は合法的に殺人が行われる場所について、どのような場所でどのように命が奪われるのか、事実を知らなければなりません。そしてその事実は何もかも包み隠さず公開されることが必要です。
都合の良い事実だけ公開することは、情報公開ではなく、情報操作と言います(取り調べ可視化で一部可視化ではなく全面可視化しないと意味がないのと一緒です)
この点、やはり法務省は「都合の良い事実」を「御用記者クラブ」を通じて発表したのですから、評価点も半減、と言ったところでしょうか。
私も刑場の公開が死刑制度の是非について国民的議論の大きなきっかけになるとは思っていないのですが、とにかく事実を知る事、これはどんな議論においても前提として欠かせないと思います。
そしてその「事実」には、冤罪で死刑台から生還した人の話や、現に死刑を待っている死刑囚の生活の様子や、死刑に処せられるときの様子など、全ての情報が含まれます。それを包み隠さず情報を公開すべきです。
現在日本では死刑をめぐっては分厚い秘密のベールに包まれていて、ついつい私達もそれが当然の如く思い込んでしまってるところがありますが、本来民主主義社会では、国家がその権力を最も如実に発揮する刑事司法の現場は国民に公開され、国民からチェックを受けるべきなのです。
そういう民主主義的な手続の感覚が私達国民は多分に麻痺してるように思います。
死刑を巡る論議は、まず当たり前に思われている秘密主義から脱皮することから始めなくてはなりません(アメリカでは死刑囚へのインタビューも放映されるようですね)
今回の死刑場公開はそのほんの第一歩・・・にもなってないかな、ほんのつま先一つ分、スタートラインから出ただけなのだと思います。
関連記事
スポンサーサイト