(2007/3/1)【過去記事】冤罪から見た死刑
- 2008/01/21
- 09:58
ここでは死刑廃止の一番大きな理由、冤罪についてのみ焦点を当ててまとめてみたいと思います。
通常皆さんが死刑について考えるときは被害者、若しくは第三者の立場に立って考えると思います。
ですが、ここではあくまで、冤罪者の立場に立って考えてみて下されば幸いです
前記事で私が主張した
〈誤判による死刑があった場合取り返しがつかない〉
という根拠に対して、まず、
『死刑であろうと懲役や罰金刑であろうと冤罪があってはならないことには変わりない。
冤罪を理由に死刑という刑罰を否定するなら、懲役だって否定しなければ筋は通らない。
懲役まで否定したら刑罰そのものが冤罪の可能性により否定される。
冤罪による死刑はダメで冤罪による懲役はいいのか
だから冤罪を理由に死刑を否定するのはおかしい。』
とのコメントがありました。
冤罪による死刑はあってはならないが、冤罪による懲役はあっても構わない、というのではもちろんありません。
どんな事件だって冤罪はあってはなりません。
しかし、冤罪によって命を奪われるのとそうでないのは本人にとってもう根本的に違う。
懲役だったら失われた時間は取り返せないが、刑事補償金の支払いを受けることもでき、名誉を回復し、残りの人生を歩んでいけるチャンスがある。
しかし殺されてしまってはもう人生そのものがないのです。
これは単なる理屈の議論じゃないと思います。
冤罪によって命を奪われるという最悪の事態だけは何としても避けるべきだ、との考えです。
これに対して
『ならば、宅間の様に100%犯人に間違いないヤツだけ死刑にすれば問題ないのではないか』とのコメントがありました。
だったら判決というものの意味がない。
一体誰がどういう基準で確実なのとそうでないのと線引きするのでしょう?
自信が持てないなら、そもそも死刑判決を出すべきじゃなかった。
それに団藤裁判官の話の様に100%確証がなくても死刑判決をださざるを得ないときもある。
そんなときは死刑にせず飼い殺し?
これは法的にみておかしい、有り得ないことです。
宅間の様に犯人であるとの100%の確証が得られた場合であっても7、80%の確証しかない心証的にグレーの場合でも、有罪は有罪、死刑は死刑、クロかシロ。
法的には全く同じ「死刑囚」なのであり、いつ執行されても文句は言えない。
判決とはそういうものです。
思うのですが、冤罪を根拠とすることに対する反論は、自分が第三者的な立場に立っているからこそ言える気がします。
もし冤罪当事者となったら同じことが言えるでしょうか?
実際に自分の身にふりかかると想像するのは難しいかもしれませんだが、現実に存在することだし、これからだって有り得ることです。
もし自分や自分の家族が無実の罪で死刑宣言されたらと想像してみて欲しいのです。
机上の理論や本の中の知識でなく生身で感じてみて欲しい。
私は、誤判の恐ろしさを何度か記事にしてきました。
現在有名な死刑再審請求事件は2件です。
(再審請求準備中のものも入れれば増えるでしょう。また、再審までいかずとも、現在最高裁まで無罪を係争中のものもあります。死刑事件の絶対数はそれほど多くありませんが無期、有期を含めれば相当数あります)
たった2件だから構わないでしょうか?
何百何千の死刑以外考えられないような極悪非道な凶悪犯を死刑にする為に一人二人位は犠牲になるのは目をつぶるべきでしょうか?
私はこれは承服できません。
このたった一人の無実の人間を死刑にしないために、何百何千の鬼畜外道の死刑をフイにしたって構わないと思うのです。
何故なら、もし自分の家族がこのたった一人に選ばれてしまったら、その家族に向かって「死刑制度の存続の為にはいたしかない。他の凶悪犯を死刑にするために犠牲になってくれ」とは、とても言えないからです。
(中には、社会正義の為やむを得ない犠牲だと考える方もいるでしょう。これは理論というより価値観の問題ですから最後は水掛け論かもしれません)
これについて
『それならば、誤判がでないよう努力すべきである。誤判がでなければ別に死刑をおいといても何ら問題はない。
だから誤判の存在は死刑を否定する理由にならない』
とのコメントがありました。
もちろん誤判を無くす努力をすべきですが、いくら努力したとしても神ならぬ身の人間に100%は有り得ない。
団藤裁判官の話を前記事にコメントしましたが、どんなに頑張っても真実に確信が持てない、わからない。事実認定に一抹の不安が残るときも往々にしてあるのです。
裁く側に悪意がなくても間違った判決を下すことがあるのは映画「それでも僕はやってない」をご覧になるとよくわかると思います。
これは痴漢冤罪という軽微な事件ですが、これと同様に有力な物証が乏しくほとんど証言に頼るしかない重罪事件(死刑、無期)だってあるのです。
やはり人間の裁判の世界に100%誤り無しということは有り得ないのです。
個々の事件において死刑が当然と思う事件はあります。しかしそのことと死刑制度の存否はまた少し別だと思います。
制度として存在させたらどうしても上述の様な誤判の問題は避けられないからです。
日本の誤認逮捕率は外国と比して少ないですが、依然あります。
そして裁判での有罪率は異常に高い。
これは一旦誤認逮捕されたら裁判でまず無罪は貰えないことを意味しています。
冤罪の発生率が多いか少ないがは問題ではありません。
いつでも存在可能性があること。そして現に存在することが問題なのです。
誰も自分が誤認逮捕されるなんて夢にも思ってません。
現在軽微な事件から有期、無期で無罪を争っている人々も裁判なんて自分とは無関係だと思っていました。
ところがこういう立場にある日突然立たされて愕然とする。
初めてことの重大さがわかる。他人事でなくなるのです。
確率は宝くじ並に相当低いでしょうが、誰の身の上にもおこりえます。
不幸にもそんなことがおこってしまった人がいたら、私は、少なくとも誤って命が奪われるようなシステムだけはなくしたいと感じます。
最終的には冤罪の理由だけじゃなく、他の理由も加味して比較考量することになるのでしょう。
そして、他の理由と計りにかけて、やはり死刑は必要と判断するか、いや死刑はダメだ、と判断するかは人それぞれでいいと思います。
私だって被害者の立場で感じれば、人権の尊重だの人間の尊厳だのいくら高尚なことを言われても死刑を支持したくなります。
でも一度立場をかえて考えてみるのも悪くない。
そうしたとき、私の場合は自分の殺してやりたい復讐感情、応報感情はどうしようもないが、国家としては死刑はダメだと考える様に至ったのです。
間違って死刑にされてしまう人の人数は本当に少ないでしょう。何年のうちに一人かもしれない(執行されてしまえば闇の中なのでこれは何とも言えませんね)
社会から見れば何億分の1の命にしかすぎません。
しかし、その人にとっては1分の1の命、全てなのですから…
これはもう理屈ではなく価値観ですね。
これが私の価値観です。
(2007/3/1)
通常皆さんが死刑について考えるときは被害者、若しくは第三者の立場に立って考えると思います。
ですが、ここではあくまで、冤罪者の立場に立って考えてみて下されば幸いです
前記事で私が主張した
〈誤判による死刑があった場合取り返しがつかない〉
という根拠に対して、まず、
『死刑であろうと懲役や罰金刑であろうと冤罪があってはならないことには変わりない。
冤罪を理由に死刑という刑罰を否定するなら、懲役だって否定しなければ筋は通らない。
懲役まで否定したら刑罰そのものが冤罪の可能性により否定される。
冤罪による死刑はダメで冤罪による懲役はいいのか
だから冤罪を理由に死刑を否定するのはおかしい。』
とのコメントがありました。
冤罪による死刑はあってはならないが、冤罪による懲役はあっても構わない、というのではもちろんありません。
どんな事件だって冤罪はあってはなりません。
しかし、冤罪によって命を奪われるのとそうでないのは本人にとってもう根本的に違う。
懲役だったら失われた時間は取り返せないが、刑事補償金の支払いを受けることもでき、名誉を回復し、残りの人生を歩んでいけるチャンスがある。
しかし殺されてしまってはもう人生そのものがないのです。
これは単なる理屈の議論じゃないと思います。
冤罪によって命を奪われるという最悪の事態だけは何としても避けるべきだ、との考えです。
これに対して
『ならば、宅間の様に100%犯人に間違いないヤツだけ死刑にすれば問題ないのではないか』とのコメントがありました。
だったら判決というものの意味がない。
一体誰がどういう基準で確実なのとそうでないのと線引きするのでしょう?
自信が持てないなら、そもそも死刑判決を出すべきじゃなかった。
それに団藤裁判官の話の様に100%確証がなくても死刑判決をださざるを得ないときもある。
そんなときは死刑にせず飼い殺し?
これは法的にみておかしい、有り得ないことです。
宅間の様に犯人であるとの100%の確証が得られた場合であっても7、80%の確証しかない心証的にグレーの場合でも、有罪は有罪、死刑は死刑、クロかシロ。
法的には全く同じ「死刑囚」なのであり、いつ執行されても文句は言えない。
判決とはそういうものです。
思うのですが、冤罪を根拠とすることに対する反論は、自分が第三者的な立場に立っているからこそ言える気がします。
もし冤罪当事者となったら同じことが言えるでしょうか?
実際に自分の身にふりかかると想像するのは難しいかもしれませんだが、現実に存在することだし、これからだって有り得ることです。
もし自分や自分の家族が無実の罪で死刑宣言されたらと想像してみて欲しいのです。
机上の理論や本の中の知識でなく生身で感じてみて欲しい。
私は、誤判の恐ろしさを何度か記事にしてきました。
現在有名な死刑再審請求事件は2件です。
(再審請求準備中のものも入れれば増えるでしょう。また、再審までいかずとも、現在最高裁まで無罪を係争中のものもあります。死刑事件の絶対数はそれほど多くありませんが無期、有期を含めれば相当数あります)
たった2件だから構わないでしょうか?
何百何千の死刑以外考えられないような極悪非道な凶悪犯を死刑にする為に一人二人位は犠牲になるのは目をつぶるべきでしょうか?
私はこれは承服できません。
このたった一人の無実の人間を死刑にしないために、何百何千の鬼畜外道の死刑をフイにしたって構わないと思うのです。
何故なら、もし自分の家族がこのたった一人に選ばれてしまったら、その家族に向かって「死刑制度の存続の為にはいたしかない。他の凶悪犯を死刑にするために犠牲になってくれ」とは、とても言えないからです。
(中には、社会正義の為やむを得ない犠牲だと考える方もいるでしょう。これは理論というより価値観の問題ですから最後は水掛け論かもしれません)
これについて
『それならば、誤判がでないよう努力すべきである。誤判がでなければ別に死刑をおいといても何ら問題はない。
だから誤判の存在は死刑を否定する理由にならない』
とのコメントがありました。
もちろん誤判を無くす努力をすべきですが、いくら努力したとしても神ならぬ身の人間に100%は有り得ない。
団藤裁判官の話を前記事にコメントしましたが、どんなに頑張っても真実に確信が持てない、わからない。事実認定に一抹の不安が残るときも往々にしてあるのです。
裁く側に悪意がなくても間違った判決を下すことがあるのは映画「それでも僕はやってない」をご覧になるとよくわかると思います。
これは痴漢冤罪という軽微な事件ですが、これと同様に有力な物証が乏しくほとんど証言に頼るしかない重罪事件(死刑、無期)だってあるのです。
やはり人間の裁判の世界に100%誤り無しということは有り得ないのです。
個々の事件において死刑が当然と思う事件はあります。しかしそのことと死刑制度の存否はまた少し別だと思います。
制度として存在させたらどうしても上述の様な誤判の問題は避けられないからです。
日本の誤認逮捕率は外国と比して少ないですが、依然あります。
そして裁判での有罪率は異常に高い。
これは一旦誤認逮捕されたら裁判でまず無罪は貰えないことを意味しています。
冤罪の発生率が多いか少ないがは問題ではありません。
いつでも存在可能性があること。そして現に存在することが問題なのです。
誰も自分が誤認逮捕されるなんて夢にも思ってません。
現在軽微な事件から有期、無期で無罪を争っている人々も裁判なんて自分とは無関係だと思っていました。
ところがこういう立場にある日突然立たされて愕然とする。
初めてことの重大さがわかる。他人事でなくなるのです。
確率は宝くじ並に相当低いでしょうが、誰の身の上にもおこりえます。
不幸にもそんなことがおこってしまった人がいたら、私は、少なくとも誤って命が奪われるようなシステムだけはなくしたいと感じます。
最終的には冤罪の理由だけじゃなく、他の理由も加味して比較考量することになるのでしょう。
そして、他の理由と計りにかけて、やはり死刑は必要と判断するか、いや死刑はダメだ、と判断するかは人それぞれでいいと思います。
私だって被害者の立場で感じれば、人権の尊重だの人間の尊厳だのいくら高尚なことを言われても死刑を支持したくなります。
でも一度立場をかえて考えてみるのも悪くない。
そうしたとき、私の場合は自分の殺してやりたい復讐感情、応報感情はどうしようもないが、国家としては死刑はダメだと考える様に至ったのです。
間違って死刑にされてしまう人の人数は本当に少ないでしょう。何年のうちに一人かもしれない(執行されてしまえば闇の中なのでこれは何とも言えませんね)
社会から見れば何億分の1の命にしかすぎません。
しかし、その人にとっては1分の1の命、全てなのですから…
これはもう理屈ではなく価値観ですね。
これが私の価値観です。
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