(続き)『沖縄発 21世紀への願い』(その2)~金城実さんの手記を転載
- 2010/10/10
- 01:00
●大阪のウチナンチューと差別
大阪JR環状線の大正駅を下ると沖縄出身者が多く住んでいる。沖縄料理屋や呑み屋が多い。まるで沖縄文化をそのまま再現したものだ。そこでは沖縄語、三味線、空手道場、琉球舞踊研究所などがある。カラオケも琉球民謡が唄われる。犬の鳴く声も何か、ワン、ワン、ワーンワ(私は)と聞こえてくるから不思議だ。
そこで沖縄出身者が戦前、戦中、戦後と本土社会でどう生きてきたか。筆者著書の『土の笑い』築摩書房出版でも触れているが、そもそも戦前から貯木所のあった川で木を川に浮かしたり、戦後はスクラップ業で、それでも川辺や沼地に杭を打ち込んでバラックの中で生活したのもいたし、ごみ捨て場でスラム化した集落もあった。
都市計画で大阪市は、同胞を追い出すのに、同じ沖縄人のチンピラ組織を用いたこともある。差別構造の中で権力がつかう手だ。その手はまた、串田病院で沖縄の看護婦が日本語が通じにくいと解雇される事件が起こり、同じ手を用いた。ところがわれわれが沖縄語で対応したので、チンピラは引き下がった。解雇を撤回させ、女性の名誉を回復させたが、優しい沖縄の女性は慰謝料を要求せず、病院の人権差別を認めさせて静かに沖縄へ帰った。
大阪では集団就職できた青年が殺人事件を起こし、その背後に沖縄人に対する差別があったことが分かる。拘置所で自殺してしまった。ここから生まれたのが沖縄青年による「ガジュマルの会」であり、差別と偏見に打ち勝つために、沖縄の文化である盆踊りエイサー踊りを、大正区の市民グランドで打ってでることにした。筆者が先頭に立って太鼓を打ち、三味線とパーランクー(小太鼓)などを打ち、10数人で舞ったが、沖縄の先輩たちはまるで迷惑そうに、軽蔑のまなざしで見物していた。沖縄文化は恥から解放されていなかった。
この頃、沖縄では海洋博、さらに皇太子の沖縄での献血運動があった。翌年の1984年に、方言論争が起きた。料理文化と等しく沖縄史は、沖縄の方言は差別と偏見にさらされてきた。戦時中は「沖縄語ヲモッテ談話シアル者スパイトミナシテ処罰スル」と軍規に記述されているからだ。そのために沖縄戦の悲劇は沖縄語でもって多くの被害を受けている。
平和憲法下にありながら沖縄の新聞投書で「方言は迷惑」「学力の低下に通じる」「非行の原因」など、実に妙なる雲が登場してきた。1985年、東京に飛び火して赤羽の呑み屋五軒に、「沖縄出身者はお断り」という看板が出た。まさに昔の「朝鮮人、琉球人お断り」という看板が出没した時代を思わせた。日本の差別構造が政治的構造だけでなく、文化の基盤である料理やことばにまで及び、人間の生理の分野にまで噛い込んでいく現実からすると、人権の保障などを詠った民主主義が未熟であることを痛感するのである。
●アメラジアンの問題
このことばは新しい。アメリカ人の父とアジア人の母との間から誕生した未来の子である。地上戦の激しかった沖縄では、占領軍による暴力によって犯された女性への犯罪であり、そこから生まれた子もいる。戦後50年余、米軍基地がある限り今も生まれ続けている。
かつて大学を休学して嘉手納米軍基地で働いたことがある。知花十字路の一角で、筆者のおばさんも米兵と同棲していた。その周辺にはすでに米兵とできた子どもが2~3人いた。このことについて、筆者の小説『神々の笑い』径書房出版で世に出しているが、筆者にとってどうにかなることではなく、ただこれが沖縄の現実なのだと思い込むだけだった。
アメラジアンについては私にとって無力であったが、何人かと私のおばさんのような女性たちに関係してこだわり続けていた。そのことが、筆者が小説『ミッチアマヤーおじさん』を書くことになる。それはアメラジアンを考える前に、身内であるおばさんが筆者と同じく島に生まれて、船長だった彼女の父の船が台風で破壊されて、再建するために、小学校6年で学校を辞めて、糸満の漁師町に3年分の前借りで身売りされることになるのだ。
私が予備校3年、大学8年もかけて浪費している間に、米兵の町で生きのびたおばさんがいとおしいだけでは申し訳なく、つい小説を書くことで、おばさんに人間としての尊厳を少しでも回復できたらと思ったからである。
差別の構造は貧しさと人権の尊厳もどろどろにしてしまう。米軍基地コザは植民地の毒気の華を開かせているが、それは米兵相手の女たちの搾取と構築された植民地の文化であった。女たちは島から身売り同然にきた女たちであった。このことへの怒り、悲壮観が私の青春の苦悩でもあった。だから日本本土の沖縄に、米軍基地が75%も強制されていることが、差別でなくて何なのかという実感がでてくるのである。まさに米兵への売春作業と基地産業でかろうじて生きのびた沖縄ではなかったか。そのおかげで大学を卒業した者も少なくない。筆者も多かれ少なかれおばさんの恩恵を受けている。彼女には子どもができなかった。
米兵の子を生んだ母たちは、AmerAsian School in Okinawaを仮設学校として、沖縄県宣野湾市駐労センターで開始した。学校運営は自主的でボランティアで行われている。そこに行きつくまでに、いろいろな風評があったことが「考える会」からうかがえる。日米の軍事政策の結果、女性と子どもたちの人権が侵害されていると訴えたとき、「地元に学校があるのに」とか「ぜいたくだ」「そんなにアメリカ人になりたいのか」とか地方自治体も鈍感であったが、議会への陳情を重ねて県民の理解をうけ、ついに当時の大田知事が渡米した際に、アメリカ政府に直訴することになる。だが米国は沈黙の状態で、他方わが日本政府といえば、これまた無慈悲にも問題にしていないのが現実である。<『もうひとつの沖縄』上里和美著-かもがわ出版(参考)>
いずれにせよ、安保体制の中での新しい未来なのである。アメラジアンの教育権を考える会は、1998年4月24日、教育目的で次のように提言している。「沖縄県独自の外国人学校は、立派なアメラジアンを育て、在沖の外国人子弟、帰国児童の教育をも含む教育を行い、将来の沖縄の国際化を担う人材育成を目的とする。」とあり、さらに世界的規模で進みつつある国際化と情報化は、経済の分野はもちろん教育の分野でも、従来の価値観にとらわれない異文化に対する柔軟な感覚と理解力を要している。ボーダーレス化に対応し、国境を越えて活躍できる人材を養成することは、沖縄に限らず日本の教育の目指すべき方向であると記している。
私が味わってきた時代は古くさく、21世紀に踏み込もうとしている今日、彼らの存在は希望の星と心から誇りに思うものである。今年、サミットを迎えてこうした問題が「平和と人権」を沖縄から発信できればと念じている。
筆者は、1997~2006年にかけて『沖縄の歴史を刻む巨大レリーフ』(3m×100m)の製作中です。沖縄が悲劇と差別と偏見に色どられた歴史であっても、そこからは人間の誇りが見えてこないのです。したがって、人間の尊厳と誇りを実施するために芸術に力があるか。その道のりを行くものです。みなさん、沖縄に来られるときはアトリエに寄って下さい。泡盛酒と豚足と芋と豆腐で歓迎します。
(注:100mレリーフは完成しました。)
大阪の大正区には1970年代まで沖縄スラム、沖縄バラックと呼ばれるスラム街が存在したというのを初めて知り、ショックでした。彼らは沖縄出身であることをひたすら隠し、でも家の中では密かに沖縄料理を作ったり三線を押し入れの中でひいたりしていたそうです。
(ちなみに現在沖縄で販売される三線はその7割が県外へ出荷されるとか。時代は変わりましたね。)
辱められたアイデンティティに再び誇りを取り戻した人間の気高い怒りをこめて綴ったこの手記に、差別を続けてきたヤマトンチュは何を突きつけられているのか。
それは在日コリアンや被差別部落が突きつけてきたものと、また同じであると思います。
村野瀬玲奈さんが前のエントリーにすばらしいコメントを下さったので引用します。
日本のお政府様やある種の政治家やある種の民族主義者、国家主義者は、さかんに日本民族としての誇りとか日本人としての誇りとか日本の純血性とか口に出すわけですが、たとえば、沖縄から出てくるこういう声を聞くと、「彼ら」の言う「誇り」には沖縄をはじめとする少数派のそれは含まれていないどころか、「彼ら」の言う「誇り」は少数派に対する暴力でもあることに気付きます。単に在特会が日の丸の旗竿で人を殴ったとかそういう物理的な暴力だけではなく、少数派の尊厳そのものへの暴力でもあります。
日本人に限らず、そのことに気付く人が増えてほしいと私は願っています。軽々しく「日本人としての誇り」と口に出して声高に言う前に、他人の出自を尊重することを学ばなければいけないと思います。
日本の歴史教育の中に沖縄のことはどれだけ触れられているかと考えると、残念な気がします。
(引用ここまで)
「日本人としての誇り」と言うなら、そもそも同じ日本人である沖縄の人々に対しての同胞愛がないのは、どう考えてもおかしいではありませんか。全くとんだ「誇り」ですこと。
そんな「誇り」とやらは、村野瀬さんが仰るとおり、マイノリティへの差別を正当化するマジョリティの暴力以外の何物でもありません。
当たり前ですが、踏んでいる足は踏まれている足の痛みを感じません。
中にはわざと踏んでいる確信犯もいれば、踏んでいることに全然気づかない者もいます。どちらにしろ「他人の痛みは痛くない」
でも踏んでいる側が踏んでいることに気づかなかったら踏まれる側は痛くない、なんてことはありえません。
踏まれてる側にしてみれば「いい加減踏んでることに気づけよ、この鈍感野郎」です。
沖縄文化やウチナーグチを蔑視するヤマトンチュは、金城さんが大阪で暮らしていた頃に比べたら現在ではほとんどいないのではないかと思います。(付記:やっぱりいいものはいいのです^^)
しかし沖縄問題について無知、無関心のヤマトンチュは多いと思います。他人事には無知無関心、だから現状維持でも仕方ないんじゃない?と無責任に済まして後は忘れてしまう。
たとえ悪意が無くても、この無知と無関心はマイノリティの差別と苦しみの存続に手を貸すマジョリティの大罪です。
「愛の反対は憎しみではなく無関心である」との言葉は真実です。
まず沖縄の事実を学び、関心を持ち続ける事、これは現に足を踏んでいるマジョリティ=ヤマトンチュの義務です。
直接痛みを感じる立場にいなくても、人間は想像力という賜物を授かっているのだから、少しでも想像してみればよいのです。もし沖縄に旅行に行ったとき、自分の家族が米兵との交通事故や米兵の犯罪に巻き込まれたらどうなるのかを。
その米兵は裁判も受けずに放免され、賠償額はなんと加害者側のアメリカの方が一方的に決める権限を持つ。
当然賠償額は誠意など微塵もない、人を馬鹿にしているとしか思えない二束三文の金額にしかならない。
日本政府は傀儡政府だから、当然のことながら国民のためになど動くはずもない。
こういう扱いを自分が受けたら一体どう感じるのか。
そして自分はその扱いを「抑止力のためなら仕方がない」と納得できるのか。
ー沖縄の人々がずっと受け続けた仕打ちがどんな屈辱的なものなのかを想像することは決して難しいことではないはずです。
沖縄の歴史は差別され、本土の犠牲を強いられることとの闘いの歴史です。
第一の琉球処分は1879年、
第二の琉球処分がサンフランシスコ条約で沖縄がアメリカに占領されたとき、
第三の琉球処分は基地温存のまま本土復帰が決まった1972年、
そして今年、民主党政権が公約を翻し辺野古移転を決定した日米共同声明を発表したのが第4の琉球処分だ、
と読谷村議の知花昌一さんは言います。
普天間を巡る第四の琉球処分に対する沖縄の抵抗がやむことはないでしょう。
民主主義の精神に欠かせない反骨精神は、あらゆる理不尽な押しつけを強いる権力に対し抵抗し、人間としての尊厳を勝ち取ろうとするところから始まります。
差別され虐げられる側の痛みをだれより知っている沖縄
そして、軍隊は国民と平和を決して守らないことを骨の髄まで知りぬいている沖縄
日本の民主主義と平和主義の発信地となり、リーダーとなるのは沖縄ではないかと、常々私は思うのです。

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