コメント
強制するかどうかではなく、他の人の権利との調整
例えば右翼の街宣車ががなり立てる内容は政治的言論ですから、言論の自由で保護されなければなりません。
しかしそれは他の人達に迷惑を掛けるので、どこかに限度を定めなければなりません。
例えば県によっては条例で騒音の音量が85デシベルを超えてはならないといった限度を設けたりしています。
日の丸君が代も同じことでしょう。教師にはその思いを表現する言論の自由があります。
しかし右翼の街宣車と同じくその表現を不快だ、迷惑だと感じる人達がいます。
ですからこちらも音量制限と同じように、どこかに限度を設ける必要があります。
例えば掲揚してある日の丸を引きずり下ろすといった行為は、限度を超えていると感じる人が多いのではないでしょうか。
しかし一方で起立はするが君が代を歌わないのは、限度の範囲内かも知れません。
教師の口元チェックをした校長先生が批判を浴びました。それが多くの人が共有する感覚かも知れません。
これらは多くの人の意見が一致しそうなことで、あまり議論にはならない事という気がします。
しかし君が代斉唱の時に起立をしないという行為はその中間位で、議論が分かれそうな問題です。
それは限度内であり、許されるべきだという人も多いでしょうが、限度を超えていると言う人もたくさんいるでしょう。
結局その限度をどこに設けるかは公正な裁定機関に任せるしかありません。裁判所に決めてもらうしかありません。
そして裁判所は不起立は言論の自由の限度を超えていると判断したのです。
裁判所の意見に賛成できないという意見は当然あるでしょうが、従うしかありません。
不起立が公共の利益や秩序に反するから起立命令が有効なのではなく、公共の福祉に反するから命令が有効なのです。
論理の飛躍
根拠が街宣右翼だけでは…
「国旗については様々な意見があり、その多様性は認められるべきである」とあるのだから
「明らかだと思います」との表現が適切では無いでしょうか。
心配の種
この記述は疑問
という記述には違和感がありますね
イギリスはユニオンジャックを掲げ全世界に植民地帝国を築きましたし
(未だに国旗の左上に刻み込まれてたりもしますよね)
フランスやらアメリカやら他の欧米諸国も多かれ少なかれ似たようなことをやってます
勿論中国や韓国だってベトナム等に国旗を掲げ進軍していった歴史がある訳です
個人的には旭日旗とかはともかく普通の日の丸をそのような戦前思想の象徴みたいにとらえるのは
海外でも余りメジャーではないと思いますがね
3対1
tokuさんの心配の種は残念ながら的中していますね。
他人の権利は何も侵害していないでしょう
>日の丸君が代も同じことでしょう。教師にはその思いを表現する言論の自由があります。
これは「言論の自由」という能動的行為ではなく、憲法19条にある「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という個人の権利が侵害されているという点が、まず第一義的にはあると見るべきでしょう。
>しかし君が代斉唱の時に起立をしないという行為はその中間位で、議論が分かれそうな問題です。
>それは限度内であり、許されるべきだという人も多いでしょうが、限度を超えていると言う人もたくさんいるでしょう。
そこがすり替えられているところです。
この問題は、本人の意思に反して起立させるという行為が、これを侵してはならないとされている「思想及び良心の自由」を侵害しているか否かです。
よって評価すべきは、起立したしないではなく、起立斉唱を命令したしないです。
goldbugさんは君が代斉唱時に起立しないという行為が、どのような「他の人の権利」を侵害したというのですか?
私には、そのようなものは無いとしか思えないのですが。
>そして裁判所は不起立は言論の自由の限度を超えていると判断したのです。
違います。
教師に対して出された命令が「思想及び良心の自由」を侵害しているとまでは言えないという話です。
>不起立が公共の利益や秩序に反するから起立命令が有効なのではなく、公共の福祉に反するから命令が有効なのです。
これも違います。
もし、不起立が公共の福祉に反する、あるいは誰かの権利を侵害しているというなら、「命令」の有無に関係なく、不起立という行為は教師だけではない、『万人』がやってはいけない行為となります。
でも、私には不起立が一体全体誰の何の権利を侵害したのかがわかりませんので、その点、goldbugさんに是非明示していただきたいと存じます。
先に行動したのは先生の方
行政や教育委員会がある日突然人権を侵害するようなことを始めたわけではありませんね。
もしそうなら思想信条の自由が侵害されているかどうかが一番の争点でしょう。
しかしこの場合その前に教師による不起立という言論活動があったわけです。
その行為が公共の福祉に反するという判断から、起立命令が発せられたのです。
それに対して教師の側が思想信条の自由を侵害されたと訴えたから、裁判所は侵害はないと答えました。
不起立が先にあったのだから、その不起立が言論の自由の範囲を逸脱していないかどうかがまず問われるべきでしょう。
起立命令は公共の福祉に反する行為を矯正するためのもので、それでも思想信条の自由を侵さない範囲内でという話です。
最高裁は単純な不起立で重い懲戒処分を科してはならないとしつつ、日の丸を引きずり下ろしたりピアノの伴奏を拒んだ教師に対する処分は適当という判決を出していますね。
裁判所はどこに限度があるのかの線引きをしているのです。
「学校の儀式的行事としての式典の秩序や雰囲気を一定程度損なう作用をもたらすものであって,それにより式典に参列する生徒への影響も伴うことは否定し難い」
最高裁判決のこの一文が他者の権利を侵害していることを端的に示しているのではないでしょうか。
一生の思い出となる厳粛な儀式であるべき卒業式や入学式が政治的信条の発露の場になるわけです。
生徒の中にはその大事な式を台無しにされたと感じる人がいてもおかしくありません。
自分達の門出を祝うよりも、自分の言論の自由を行使することが優先なのかと不信感を持つ生徒もいるでしょう。
しかしもちろん教師達にはある限度内で式の雰囲気をぶちこわす権利はあります。
例え他の人達が不快、迷惑だと感じたとしても、それで直ちに言論の自由が封じ込められるわけではありません。
言論の自由は大事です。他の人が迷惑だと感じたとしても、ある程度までなら、その不快感は我慢してもらわなければなりません。
しかしそれにも限度はあるって話です。その線引きをどこでするのか明確な基準は定められていないのだと思います。
それは個々の事例に即して裁判所が判断し、一般的な基準を決めていくことになるのでしょう。
他人の権利を侵害するなら万人がやってはいけないということではないでしょう。
やってはいけないと言うことで、逆にそれをやろうとする人の権利を侵害してしまうわけですから。
二つの相反する権利が衝突した時にそれをどう調整するかという話です。
もし自民党の憲法案が通れば、式の雰囲気が壊れるというだけで起立を強制する十分な理由になるのでしょうが、公共の福祉を理由にするのであれば、一方の権利をどこまで認め、もう一方はどこまで認めるかという線引きになるでしょう。
日の丸を引きずり下ろすような権利までは認めないが、起立して歌わないだけなら、それがもたらす不快感は我慢しろという具合です。
goldbugさん
goldbugさんはすでにプチ問答集の方に何度かコメントしていただいてますよね?もう一度目を通して確認してください。
日の丸・君が代は、学校行事に後から持ち込まれたものです
>行政や教育委員会がある日突然人権を侵害するようなことを始めたわけではありませんね。
いいえ、行政や教育委員会が始めたことです。
>しかしこの場合その前に教師による不起立という言論活動があったわけです。
違います。
私が学生の頃は、日の丸・君が代など、学校行事とは無縁でしたから、不起立が当たり前であり、それは言論活動でも何でもありませんでした。
そこに日の丸・君が代などという一種の「言論活動」を持ち込んだのが行政です。
>その行為が公共の福祉に反するという判断から、起立命令が発せられたのです。
これも違います。
行政の学校行事に日の丸・君が代を持ち込みたいという欲求を満たすために、起立命令が発せられたのです。
>不起立が先にあったのだから、その不起立が言論の自由の範囲を逸脱していないかどうかがまず問われるべきでしょう。
ですからアベコベです。
日の丸・君が代を持ち込みたいという欲求が先にあったのだから、起立命令が他者の思想・良心の自由を侵害していないか否かが問われるべきなのですよ。
「言論の自由」などではありません。
>最高裁判決のこの一文が他者の権利を侵害していることを端的に示しているのではないでしょうか。
違いますね。
それは「権利を侵害」ではなく、職務命令に違反するという行為が一定程度「秩序を乱す」と認定しただけです。そして、同じ判決で、不起立という行為に対して最高裁はこう言っています。
『不起立行為等の性質,態様は,上記アのような面がある一方で,積極的な妨害等の作為ではなく,物理的に式次第の遂行を妨げるものではない。そして,不起立行為等の結果,影響も,上記アのような面がある一方で,当該行為のこのような性質,態様に鑑み,当該式典の進行に具体的にどの程度の支障や混乱をもたらしたかは客観的な評価の困難な事柄であるといえる(原審によれば,本件では,具体的に卒業式等 が混乱したという事実は主張立証されていないとされている。)』
どこに「他者の権利を侵害」なんて言ってます?
最高裁は不起立という行為に対しては何の評価もしていないし、そもそも卒業式が混乱したなんて主張すらなされていないのですよ。
「端的に示している」なんて言えるのは、あなたがつまみ食いをなさっているからです。
>一生の思い出となる厳粛な儀式であるべき卒業式や入学式が政治的信条の発露の場になるわけです。
>生徒の中にはその大事な式を台無しにされたと感じる人がいてもおかしくありません。
>自分達の門出を祝うよりも、自分の言論の自由を行使することが優先なのかと不信感を持つ生徒もいるでしょう。
その通りですよ(苦笑)。
行政や教育委員会のやっていることがまさにそれです。
学生・生徒にとって一生の思い出になるべき儀式で「日の丸・君が代」なんてものを持ち込んで、自分達の政治的信条の発露の場にしようとしている。そういう行政や教育委員会に、私は多いに不信感を持っています。
もし「式を台無しにされた」と抗議するなら、そんなものを式典に持ち込もうとした側に私は抗議します。
ちなみに、以前に板橋高校の卒業式に出席した元教諭が威力業務妨害に問われた裁判で、彼の行為が「式を台無しにされた」なんて証言した元生徒や保護者は一人もいなかったと聞いています。
>二つの相反する権利が衝突した時にそれをどう調整するかという話です。
思想・良心の自由とは、どうやって守られるのか。
それは、調べないから守られるのです。
ですから、こういう思想・良心に関わる問題については「持ち込まない」のが正解。
「持ち込む/持ち込まない」にはそういう非対称性があるのですよ。
ですから思想・良心の自由を守る気があるなら、「調整」など必要なく、答えははっきりしています。
言い換えれば、そこで「調整」などとおっしゃる方は、思想・良心の自由を本気で守るつもりはないのだということです。
>日の丸を引きずり下ろすような権利までは認めないが、起立して歌わないだけなら、それがもたらす不快感は我慢しろという具合です。
おっしゃっていることが変わっていますけど。あなたは不起立に対しての最高裁判決は「他者の権利を侵害していることを端的に示している」とおっしゃっていたのではないですか?
で、いつもの質問です(笑)。
あなたはご自分が主催する結婚式やお葬式などの行事の式次第に日の丸・君が代を入れましたか? あるいは入れるつもりですか?
入れたなら、その評判はいかがでした?
そして入れなかった/入れるつもりが無いなら、その理由は何ですか?
後か先かは関係ありません
> あなたはご自分が主催する結婚式やお葬式などの行事の式次第に日の丸・君が代を入れましたか?
もちろん入れません。そのような私的な行事に国家の象徴は場違いですよね。
しかし教育現場はどうでしょうか?教育とは公的なものです。
公が教育を受ける権利を保障し、公が学校を建て、教科書を検定し、先生に免許も与えるわけです。
ですから学校で行われる入学式、卒業式といった儀式に国旗や国歌があるのは極めて自然なことだと思います。
むしろあってしかるべきとさえ思います。
人の思想信条を試すから持ち込むなというのは、いささか本末転倒に思えます。
国の意志として子供達を学校に迎え、国の意志として子供達を次の段階に送り出すのです。
そしてどんな社会、国であっても儀式で国旗国歌に敬意を払うのは常識だと思います。
起立し、斉唱するのがデフォルトってことです。
国旗に対して起立もしなければ、国歌を斉唱もしないというのはいわば常識外れの状態です。
そのような常識外れの状態が生まれたのは、日の丸君が代が背負った過去の負の歴史のせいかもしれません。
歴史的経緯から日の丸君が代には敬意を払えないという政治的運動があって、それで不起立が常態化したのではないですか?
確かに負の歴史を背負ったことは不幸なことでした。
しかし今現在そのようなことにこだわる国民がどれくらいいるでしょうか?
強いイデオロギーを持ったごく一部の人だけでしょう。
多くの人にとって日の丸君が代は普通の国旗、国歌に過ぎません。
そのような世間の状況にも関わらず、未だにそのイデオロギーにこだわるから世間との軋轢が生じるわけです。
言ってみれば空気が読めていない状態です。
そのようなイデオロギーに染まっていない大多数の子供や父兄にとっては、不起立など理解出来ることではないでしょう。
訳の分からないイデオロギーのせいで式を台無しにしていると思われるのがオチです。
イデオロギーを持つのは自由ですが、それは心の中にだけしまっておいてはどうでしょうか。
アメリカやイギリスだけでなく、スペイン・ポルトガル・オランダなども大航海時代から他国を植民地化し現地の方を奴隷にしていましたが、その過去について公式に国として謝罪はしてません!
(貴方がよく言う日本政府や右翼の過去への態度と何処か違いますか?)
又、そうした過去への反省を自国の国旗国歌にまで結び付ける欧米の方もいませんが…
>NANさん
訂正
それと…読もうと思いますが、カテゴリー内のどの記事が1番内容に該当していますかね?
あまり非難ばかりの記事は目にいれたくないもので。
>NANさん
しかし「あまり非難ばかりの記事は目にいれたくない」と仰るなら無理にオススメはしません。国旗国歌の強制は思想良心の自由に反するという批判なわけですから。
この記事は、国旗国歌を『強制』されることによって思想良心の自由が保証されないことを批判しているのであって、記事冒頭の「狂信者」にみられる国旗国歌を尊重している人々の意思行為を問題視し批難罵倒をしているのではないのですね?
ならば…全て読みます。
あなたにとって大事なのは「思想・良心の自由」より「国の意志」ということですね
『先に行動したのは先生の方』と言っていた人が、今度は『後か先かは関係ありません』ですか?
普通、こういうのは支離滅裂って言うんじゃないでしょうか。
>もちろん入れません。そのような私的な行事に国家の象徴は場違いですよね。
どうしてですが?
学校行事に入れるべきというなら、私的な行事に入れたってかまわないはずじゃありませんか。何故あなたは「場違い」だとお考えになるのです?
>しかし教育現場はどうでしょうか?教育とは公的なものです。
違うでしょうね。
教育とは、誰もが一定レベルのものを受けられるように「公的」に環境を整えるべきものではありますけど、何をどう学ぶかは、個人的なものですよ。
>公が教育を受ける権利を保障し、公が学校を建て、教科書を検定し、先生に免許も与えるわけです。
>ですから学校で行われる入学式、卒業式といった儀式に国旗や国歌があるのは極めて自然なことだと思います。
何が「ですから」なのかさっぱりわかりません。
あなたの結婚も、あるいは近親者の死亡も、公がそれを認定し、戸籍の登録を行っているのですよ。「ですから」結婚式やお葬式といった儀式に国旗や国歌があるのは極めて自然なことだ、という言い分になるはずなんじゃありませんか? あなたなら。
>人の思想信条を試すから持ち込むなというのは、いささか本末転倒に思えます。
本末転倒とおっしゃるということは、あなたはそれが「思想信条を試す」ということは認識している訳ですね。ということは、あなたは国家が個人の思想・良心の自由を侵害してもかまわない、憲法19条など邪魔なだけだ、そうおっしゃるというのですね。
>国の意志として子供達を学校に迎え、国の意志として子供達を次の段階に送り出すのです。
段々、本音が出て来ましたね。
つまり、国にとって都合の良い子供を育てる、それが「教育」だと言いたい訳だ。
そういう発想の方が学校行事に日の丸・君が代を持ち込もうとする、大変わかりやすい構図です。
で、「国の意志」を主張する方が、前回のコメントに書かれていたような『自分達の門出を祝うよりも、自分の言論の自由を行使することが優先なのかと不信感を持つ生徒もいるでしょう。 』なんて、あたかも「生徒の意志」をおもんばかるかのような台詞を書くのは、それこそ「不信感」を招く話だと思いますけどね。
>そしてどんな社会、国であっても儀式で国旗国歌に敬意を払うのは常識だと思います。
>起立し、斉唱するのがデフォルトってことです。
その「儀式」の種類がすっぽり抜け落ちていますけど。
「全ての儀式」だと言うなら、ご自分の結婚式やお葬式で「もちろん入れません」なんて言うあなたは「常識はずれ」なんですか?
そして、学校行事ということであれば、そんなものに国旗国歌なんてものは持ち込まないのが、少なくとも先進国と呼ばれる国では「常識」であり「デフォルト」なんですよ。あなたの思惑とは正反対に。
これは、国旗国歌法が制定された際にも国が調べていて、結構有名な話だと思ったんですけど、ご存じなかったんですか?
>歴史的経緯から日の丸君が代には敬意を払えないという政治的運動があって、それで不起立が常態化したのではないですか?
全く違いますね。
学校行事にそんなものを持ち込まないというのが民主主義を標榜する国々の常識であり、敗戦後、日本もそれにならっていただけのこと。
そこには政治的運動なんて何もありませんでしたよ。
強いて挙げれば、日本が戦争に負け、アメリカから民主主義国家の価値観が流入して来たからとは言えるかもしれませんけどね。
そして、それにガマンできなかった戦前の日本にノスタルジアを感じている人々が、学校行事に、世界から見れば非常識と言える、「国旗・国歌」なんてものを持ち込むという政治的運動を起こしたんですよ。
>しかし今現在そのようなことにこだわる国民がどれくらいいるでしょうか?
>強いイデオロギーを持ったごく一部の人だけでしょう。
>多くの人にとって日の丸君が代は普通の国旗、国歌に過ぎません。
ここでも、あなたの思想・良心の自由に対する無理解が如実に現れていますね。
思想・良心の自由が何故憲法にうたわれているかと言えば、少数者の思想をも保護し、多様な価値観を守ることが、民主主義国家を維持して行く上で必要だからでしょう。即ち、そこで「一部」「多くの」なんてキーワードを持ち出して、多数派に従うのが当たり前なんて言うのはアウトなんですよ。
加えて、学校行事への日の丸・君が代の持ち込みに反対することと、それが日本の国旗・国歌であると認識することは、別に両立しないわけじゃありませんし。
>そのような世間の状況にも関わらず、未だにそのイデオロギーにこだわるから世間との軋轢が生じるわけです。
>言ってみれば空気が読めていない状態です。
>そのようなイデオロギーに染まっていない大多数の子供や父兄にとっては、不起立など理解出来ることではないでしょう。
>訳の分からないイデオロギーのせいで式を台無しにしていると思われるのがオチです。
ホント、戦前の日本がどうしてああいう国になって行ったのかが良くわかります。
憲法で思想・良心の自由が明示されて、65年が経っているのに、未だに「空気を読め」「大多数」などという発想で、思想統制を図ろうとする人が居て、それを堂々と公言しているのですから、戦前の憲法のままだったら、とっくの昔に、日本は全体主義国家に逆戻りしていたでしょうね。
>イデオロギーを持つのは自由ですが、それは心の中にだけしまっておいてはどうでしょうか。
ですから、それをこちらはずっと申し上げているんですけどね。
あなたが日の丸・君が代が好きなら勝手にすればいい。
でも、そのイデオロギーは心の中にだけしまっておいて下さい、他人に押し付けないで下さいってね。
私が学生の頃まで、みんなそうやっていた。だから、私は自分の恩師が日の丸・君が代に対してどんな風に思っていたのかなんて何も知らない。そんなこと関係なく恩師を恩師としていつまでも敬える。
でも、今の子供はそんな風に教師を敬うことができない。ある意味不幸だし、また子供が大人の言うことを聞かなくなる一つの要因に、この日の丸・君が代の持ち込みが影響していると、私は本気で思っていますよ。
しかし、学校行事に日の丸・君が代を持ち込んで思想のあぶり出しをやろうって人が、「心の中にしまっておいてはどうでしょうか」なんて言うのは冗談にしか聞こえません。
まずご自分の行動にそれを適用して下さいな。
ところで、不起立に対して『最高裁判決のこの一文が他者の権利を侵害していることを端的に示しているのではないでしょうか。』とおっしゃっていたことに対して、それはあなたのつまみ食いであると指摘させていただきましたが、再反論は無いということでよろしいのですね。
長文にて失礼。
>gold bugさん
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あと先は関係ないって…「先生が先に行動した」と,あと先を先に言い出したのはgold bugさんの方でしょ?笑
白砂青松さんに全面的に賛成です。明快で筋の通った秀逸な論の運びに感動しました。特に次のところにエッセンスが集約されていると思います。
>思想・良心の自由とは、どうやって守られるのか。
>それは、調べないから守られるのです。
>ですから、こういう思想・良心に関わる問題については「持ち込まない」のが正解。
卒業式は学校行事であって,国歌行事ではありません。
ですから,式にどうしても歌が必要なら,そもそも校歌(斉唱)でよいと思います。公を強調されるなら,校歌だって充分,公の歌ですから。実際「学校を卒業するんだから,卒業式では(国歌でなく)校歌を歌う方が筋」という意見は以前からあります。gold bugさんはそのあたりどう思われますか?
なぜ校歌でなく国歌でないといけないのか?それを考えると,白砂さんの言われる「行政が後から持ち込んだ」が正しく,しかも何か行政に意図があって持ち込んだと考える方が自然です。
gold bugさんの記述には,独りよがりな思い込みと思われるところが多々あります(ex:どんな国でも国歌は起立斉唱が当たり前など→サッカーの試合で歌ってない選手もいるし,そもそも歌詞のない国歌もある)。これは秋原さんの君が代関連の多くの過去記事を熟読して頂くことでおわかりになると思います。
ただ,私はあなたの「今どき君が代に特別なイデオロギーを持たない人,それを理解できない人も多い」という記述については,確かにそうだと思います。でも,そうであるからこそ,今のような軍国主義の復活を危惧するような世相になって来ていることも考えられるわけで…教員や親の「(教え)子を戦場に送るな」は伝えて行かなければならない思いだと思いますので,君が代の負の歴史については,誰もが知っておくべきだと思います。
ところで,私は元教員なので,教育現場での具体的体験談をさせて下さい。
県立高に勤めていた時,赴任高(複数)には,(少数でしたが)ある宗教の信徒がいました。その宗教では,(信者が信奉する唯一の絶対)神以外を讃える行為が禁止されているため,彼(女)らは,国歌(天皇を讃える歌)ばかりか,『校歌(学校を讃える歌?)を歌う』という行為そのものも,拒みます。彼(女)らはたいてい,式前に理由を添えて担任にはっきり意思表明をして来るので,担任の中には,◎式で国歌を歌わない自由があること,◎歌わなくても非難されなくても当然であること,をクラスで説明し,不斉唱がいじめの原因にならないように気を遣う担任もおられました。また音楽の歌のテストで校歌を曲目に指定した場合,信者の生徒については「校歌でなく別の歌で代用させて評価した」との話も聞きました。曲目が評価対象なのではなく,大きな声で歌えるかどうかがそのテストの評価すべきポイントだったからです。(注:入学したての新1年生は校歌を知らないし,校歌を覚えるための練習時間も限られているので,いい機会としてテスト曲目になったのだと思います。)
このように,信条に関わることは,あなたのように「そうするもんや(常識や)」レベルで一律強制したり,矯正するために指導したりするべきことではなく,白砂さんが言われるように,原則「調べずにそっとしておくべきもの」なのです。
そして,将来もし彼(女)らが教師になっても,彼(女)らが同じ信条を持ち続けることは,充分あるでしょう。あなたの論で行くと「公立校教員採用試験では,志願者がその信条を持っているかどうかもチェックして,該当者を弾かないといけない」ことになります。そこまでしなければ,教えるという本務に支障がでますか?
それに,これが仮に校歌だとしたらどうでしょう?生徒(に限らず,赴任後日が浅い教師など)が校歌を歌ってなくても,管理職が「個々が校歌を歌っているかどうかをチェックし,不斉唱なら叱責またはクビにする」とは思えません。(それを考えると,先述の「行政が,意図を持って教育の場に国旗国歌<の一律起立斉唱>を持ち込んだ」ことの裏付けになります)。
「生徒への強制と,教師への強制は別」,「教師にとっては職務の1つ」と言われますか?では,民間会社ではどうでしょう?
社歌を毎朝歌う会社があったとして,「その歌詞が会社の創始者を讃える内容だから」という理由で,前述の宗教の信者である私の元生徒が,おとなになってその会社の従業員になっていたにも関わらず,社歌を歌わなかった場合。その従業員が歌わない個人的な理由を説明しても,管理職にはわかってもらえないでしょうか?あるいは,歌わないからといって会社から歌うことを強制されたり,または社歌を歌わないことを理由に,当然のごとく解雇されたり,入社試験で社歌を歌うかどうかの確認をして,歌う人だけを採用したり…するでしょうか?橋下さんは君が代を社歌に例えて,お得意の「民間では…」と言い,それに納得する一般人も少なくなかったようですが,全く馬鹿げています。
現在,ほとんどの教員は(内心イヤでも)起立はし,式が乱れることがないように気を遣っています。
そんな中,それでもどうしても起立できない教師は,芦間高校の件のように,事前に卒業生に直接説明をするなどで,理解してもらえるよう努力をされ,(芦間高の件でもわかったように)当事者の大方の理解は得ているのです。ですから「教師が卒業式を台無しにしている」などという現実はありません。これもあなたの偏った思い込みです。 それでも「あの歌詞を口にすることはできない」と言って(不斉唱で)頑張る教師が少なくないのは,君が代の歌詞に問題がある点の他に,恐らく,最近はもう「国歌斉唱を『生徒が強制される』ことに繋がることを,危惧しているから」という理由も大きいと思います,
教師は,なんだかんだ言ってもやっぱり生徒のことを一番に考える人が多いんですよ。
ですから,どうか「(教師が)自分の自分勝手な好き嫌いで不起立不斉唱を貫いて,生徒のための式を台無しにしている」などと言わないで下さい。
思想良心は自由です
公と私の違いは詰まるところお金でしょうか。
結婚式や葬式でお金を出すのはその当事者です。どんな式にするかはその人達の自由であり、もしやりたいなら日の丸を掲げて君が代を歌っても構わないでしょう。
入学式や卒業式もある意味同じです。どんな式にするのかは当事者が決めることです。
そしてこの場合当事者は税金を払っている国民みんなです。
結婚式や葬式で誰かが日の丸を掲げたいと言い、別の誰かがそんなのは嫌だと言ったらどうしましょう。
話し合って決める。それでも決着が付かなかったら親戚一同で多数決にでもしましょうか。
入学式や卒業式ならどうでしょうか。意見が衝突したら、結局多数決にするしかないでしょう。
ここで重要なことは誰の人権も侵されていないことです。裁判所がそう言いました。
多数をもってしても奪い得ない権利がある。
それを逆に言うなら、人権が侵害されていないなら、多数に従うのが民主主義って事です。
誰の人権も侵害されていないのに、少数の意見が多数の意見を押しのけるとしたら、それこそ民主主義の否定です。
>goldbugさん
“あなたの疑問、というか意見に対する答えはすでにこのカテゴリー内の記事に書かれています。中高生にもわかる日の丸君が代プチ問答集を一通りお読みください
goldbugさんはすでにプチ問答集の方に何度かコメントしていただいてますよね?もう一度目を通して確認してください。”
と書いたはずですが、どうやら読み返していないようですね。
ブログ主が、あなたの言ってる事に対する回答は既に過去記事にあるからちゃんと過去記事を読んでください、と言ってるんですから、ここに来る以上はそうして下さい。
既に答えが出ていることを何度も蒸し返されるのは迷惑です。
次また蒸し返したら承認しません。同じ事をくどくど繰り返すのを避けるために過去記事へご案内してるのです。
それからあなたの人権と民主主義の理解も根本から間違っています。せめて大学教養部で読むくらいの初歩の法学の基礎的な正しい知識に基づいて書いてください。
基礎的な知識を一から貴方に講義するほど年末は暇ではないのです
すみませんでした
申し訳ありませんでした。
白砂さん、そしてmimosaさんもご迷惑をおかけしました。謝罪します。
これで終わりにさせて頂きます。すみませんでした。
米欄の存在意義って何?
「blog主の意に添わないと承認しないぞ(怒)」
「お前の民主主義の理解は間違っている(呆)」
強制や思想信条の自由についてよく語れますね。
日の丸君が代カテゴリー内の37記事も内容の蒸し返しが多いし、記事内で無意味な挑発罵倒言葉も多いし、半分ぐらいまで読んだけど心折れそう…
弊ブログにgoldbugさんへの答えを書かせていただきました
これ以上のやり取りは秋原さんにご迷惑になりますので、最後にいただいたコメントへのお答えは、弊ブログにエントリを立てて書かせていただきました。
『日の丸・君が代に関するgoldbugさんへのお返事(Afternoon Cafeさんより)』
http://whitesand0715.blog.fc2.com/blog-entry-55.html
反論は当該エントリのコメント欄にどうぞお書き下さい。
>秋原さん
いつもありがとうございます。
勝手ながら、引き取らせていただきました。
日の丸君が代
俺!ガンバッタァァァァ
日の丸君が代の『強制』についての考え方は同意する部分もあるけれど…
結局のところ?秋原葉月氏が人・国に対して問題視し是正しろと訴えていることを自らのblog閲覧者に全てやってりゃドリフコントとしか思えん!
(検閲作業が楽しみで楽しみで仕方ないでしょう?それは小さな権力w)
さようなら(*^-')b