コメント
ほんとにそうですね・・・
そして遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。
ここで言われている「迷惑」ってどういう意味なのか考えなければならないですね。
おっしゃるようにこの、ある意味「美点」ともいえる意識が、殺伐とした社会においては「弱者切捨て」の論理に変わることが往々にしてありますね・・・
「他人に迷惑」というなら、この国をこんな状況にした方々にこそあてはまる言葉だと思います(泣)
森ばかり見ていて木や林を見ず、な感覚
結局「大義」のためには小さいことはいいだろ、黙ってろ、と。
何につけても大銀行・大企業・大金持ち優先をやってきた自民党政治にも、
民主党政治を「よりマシだろ」と持ち上げる人たちにも感じることです。
「大きなもの」を優先するあまり、
いつだって「小さなこと」や弱者は置き去りにされていく。
100人助けるためには一人、二人の犠牲はしょうがない、というのが政治なのかもしれないですが、
その姿勢が結局、今日の閉塞感たっぷりの日本社会を生んでいる気がしてならないのです。
これでは政権交代しても、世の中は何も変わっていかない気がします。
もっと「小さなこと」にこそこだわっていっていくべきでは、と思います。
公設派遣村なんかの件でも、弱いものが、さらに弱いものを叩くという悲しい構図が作り出されていく……。
何党の誰の政権になろうと、今年こそ、
弱者をマジで守れないような社会が、
その方向を転換していく年になってほしいです。
総中流と呼ばれていた時代が、結果的に多くの面で(経済的にも!)よかったんだと分かったわけですし、
そのためにも弱者を回復させることは、
実はとても「大きなこと」だと思うのです。
一人、二人の犠牲はしょうがないと言う政治は、
結局多くの犠牲を生む社会を作り出すと思うし、
それでは何も変わらないし。
そんな中、こちらのカフェに立ち寄り癒されます。
今年も拝見させていただきますので、
よろしくお願いいたします。
いつもありがとうございます(^^
こちらこそ今年もよろしくお願いいたします。
>えちごっぺさん
お返事遅くなりました。
気付いたのですが、「人様に迷惑をかけない」って、本当は人を思いやるが故の言葉のはずですよね。
それが自らを社会から排除する言葉になってしまう
これは社会が本来持つべき機能を失ってるからだと思うのです。
今年もよろしくお願いいたします。
>サイレンさん
>一人、二人の犠牲はしょうがないと言う政治は、
結局多くの犠牲を生む社会を作り出すと思うし、
それでは何も変わらないし。
同感です!
>総中流と呼ばれていた時代が、結果的に多くの面で(経済的にも!)よかったんだと分かったわけですし、
そのためにも弱者を回復させることは、
実はとても「大きなこと」だと思うのです。
「弱者の回復」は単に弱者の救済だけにとどまらず、私達の社会全体を治療回復させるという「大きなこと」と同義だと私も思います。
社会にはそこからこぼれ落ちそうになる人間を、どん底まで落としてしまわないように網の目を張る、という機能が備わってるはずです。
これは何も経済的な面だけに限らず、例えば犯罪者など、道をドロップアウトしてしまった人に対してもそうです。刑務所で再教育し、社会復帰を促すのです。
しかし今は少しでも道を外れれば、それを異質なモノとして社会から排除抹殺してしまおうとします。
死刑判決の乱発や、派遣村に対するバッシングも根底にあるのは同じではないかと感じます。
政権交代により社会が穴だらけになった網の目を再び修繕し「人間性」を取り戻せるよう、私達は常に政権に対し目を光らせていなくてはなりませんね。
今年もよろしくお願いします。
はじめまして
日頃のお付合い(?)の関係で、玲奈さんへの「苦情」になってしまいましたが、本来はこちらにコメントするべきだったのかもしれませんね。失礼しました。
これを機に、またこちらへお邪魔させてもらうこともあろうかと思います。よろしくお願いします。
>愚樵さん
どうぞお気軽にいらしてください
こちらこそよろしくお願いします。
律儀な言葉を悲しい言葉にしてしまうのは何故ですか?
迷惑かけたくないこそ傲慢
拝読して思ったことは、人様に迷惑かけたくないという思いの基盤こそ、「私は人に迷惑をかけて生きていない」という傲慢な考え方のように思います。
私は人様に迷惑をかけずに生きている人間などいないと思います。たとえば、改札で邪魔になることなど日常些細なことから、だれかに思われ助けられているというこのひとたちの考える「迷惑」も気づかぬうちにかけているのが普通の生活ではないでしょうか。
大切なのは迷惑をかけないことではなく、ひとが困っていたら助けること、助け合うことじゃないでしょうか。
そんなことを思いました。