コメント
いわゆる「結果責任」を問うべきであろう。
カルトの分析とは次元が違いすぎるように思う。
思えば10年来、つい先日までカルトが政権を担っていたことには恐怖をおぼえる。
政権交代してよかった。
「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング
オウム裁判でまたも・・・
今日、私が鑑定人となった元オウム真理教の井上嘉浩くん、今日、最高裁は死刑を言い渡しました。残念です。マインド・コントロールについての理解は示してくれませんでした。頑張って意見書も書いて提出してあったのですが。その意見書の論にどんな反論して死刑なのか、聞かせてほしいです。もちろん広瀬くんも豊田くんに対する裁判にも意見書を書きました。それらの判決にも同様の思いです。裁判所は、死刑にするばかりが脳じゃないでしょうに、仇討してあげているつもりなんでしょうか・・・・と個人的には思っています
(引用開始)
裁判や法には素人である私ではあるが勇気をもって発言すれば、責任能力自体はあったと判断する私も、強いマインド・コントロールを受けた者に対しては情状酌量されていいのではないかと思っている。だから井上被告のケースが無期懲役だという判決には一つの道理にかなっていると思っている。ただ仮に主文としては死刑判決がでていたとしても、私としては今回の裁判所の説明は納得いくものであったと思っただろう。なぜなら、鑑定書や私の証言、それに引き続いてマインド・コントロール被影響者へのカウンセリングを行ってきた浅見定雄(元東北学院大学教授、神学博士)証言への正確な評価があり、犯行の仕組みや被告心理の特殊性を理解してくれていたからだ。端的にいえば、このケースがマインド・コントロール状況への吟味もなく、操作者の教祖や正大師と同じ法的根拠で説明され同等の刑罰に処すような単純な判決であれば、歴史を見誤るものとして納得がいかない。
つまり、この判決(注:地裁判決)は、今後も起こりうる強いマインド・コントロール影響下の犯罪事件をわれわれがどう理解するかを検討する上での重要な課題をなげかけている。私にしても被害者感情から考えると、行為の結果を重視して死刑もやむなしと思う。しかし裁判所が示した死刑判決への「幾分かの躊躇」の意味をどうかよく考えてほしい。そしてまた、被告の悔恨を詳しく知るところから、今こそ個々人が真剣に現代人を扇動する破壊的カルトの活動についての対策を考えなくては、第2、第3のオウム事件が懸念される
(オウム井上の判決をどう考えるかより。)
何故地下鉄にサリンをまこうとしたのか、その理由をこの社会は獲得できていない。
ところがこの国の司法やマスメディアは、動機解明よりもオウムへの憎悪を煽ることを優先した。
高揚したままの不安や恐怖は悪への徹底した対応を望むようになる。
向こう側の悪とこちら側の善の純度が急激に上がった。
異質な悪はとにかく排除してしまえ、徹底的に抹殺してしまえとの意識が全面に出てくるのです。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/category6-3.html
弁護人は、被告人が地下鉄サリン事件で逮捕された時点から、被告人とつき合ってきました。
被告人がオウム真理教を分析し、麻原を批判し、反省を表す様子を見て、弁護人は被告人がマインドコントロールが解けて、素に戻りつつあると信じていました。
被告人の供述に対して弁護人が持った違和感は、精神的未熟さ、プライドの高さ、社会経験のなさ、という被告人の個人的資質のためだと、ずっと思っていました。
ところが、西田鑑定人、浅見証人により、「修行者」と思っている被告の現状が明らかにされ、「マインドコントロールは解けていない」という事実を呈示されました。
弁護人はショックでした。
が、被告人に対して弁護人が感じていた違和感は「なるほど」と理解もできました。
弁護人は改めてカルトの恐ろしさ、とりわけ思春期にカルトに取り込まれてしまうことの人間性に対する影響あの深刻さを感じました。
弁護人は被告人を何とか素の自分自身に戻してやりたいと思います。
そうでなければ、被告人がやったことの意味を本当はわからないと思うからです。
そうでなければ、社会で生きることの意味、社会で生きる喜怒哀楽の素晴らしさを本当はわからないと思うからです。
今、被告人を死刑にしてしまえば、被告人にそれらのことを本当にわからせることはできません。
浅見証人が言われたように、もし、被告人がそれらに気付けばボロボロになるでしょう。
被告人はボロボロにならなければいけないのだと思います。
刑罰は、犯罪者を真に反省させ、人間として更生させる意味を持つものであるはずです。
被告人を死刑にすることは、それに反します。
「裁判所が判断するにあたって、一番心に留めたのは被告人らの残虐非道な犯行によって命を奪われた方々、その家族の方々のことです。この法廷で多数の被害者や遺族が述べた憤り、悲しみ、苦痛、涙、それに何と言っても被告人に対する厳しい言葉、激しい怒りが、裁判所を強く打ちました。判決に至るまで、このことが裁判所の心から離れたことはありませんでした。
ただ、裁判所としては、被告人が何よりそれらを自分のこととして痛切に感じ、苦悩し、深く心に刻み込んだものと認め、各犯行の中にあって、わずかであれ、うかがうことができた被告人の人間性を見て、被告人に生を与える選択を取ることにしました。
しかし、被告人に与えたのは、自由な日々でも、ましてや瞑想や修行をするために送る日々でもありません。とりわけこれからは、自分達が犯した凶悪な犯行の被害者のことを、一日、一時、一秒たりとも忘れることなく、特に宗教などに逃げ込むことなく、修行者ではなく、一人の人間として、自らの犯した大罪を真剣に恐れ、苦しみ、悩み、反省し、謝罪し、慰謝するように努めなければなりません。
そのためには、プライドとか自尊心とか傲慢さとか思い上がりとか、被告人が本件にかかわるようになった全てを捨て去って、一人の素直な人間として謝罪の日々を送らなければなりません。当裁判所が被告人に与えようというのは、そのような一時一時です。片時たりとも、贖罪の気持ちをぬぐい去ることのないように」
Author:秋原葉月
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