コメント
ちと
>死刑廃止は人権の問題ですから最終
>的に世論や多数決によって決定される
>べきものではありません。
国際人権規約は最終的に国連の多数決で決定されたものですが。
「死刑廃止にむけての市民的および政治的権利に関する国際規約第2選択議定書」も然り。
>国民の間で死刑制度の問題点が正しく
>理解され感情的ではなく合理的な議論
>がなされることは、国民自身の人権
>感覚の進歩のためにも大事だと思います
死刑廃止論は感情的ではなく合理的な議論である、なんてことはありませんよ。
むしろ死刑廃止論の方がより感情的ですよ。
>latter_autumnさん
私はたとえ国民の8割が反対していても死刑廃止はおこなうべきだと考えています。廃止すべきか否かを最終的に世論の動向で左右されてはいけないと思っています。
人権というのは多数をもってしても覆せない性質のものであり、そういう面では多数決とはなじまないものです。
>死刑廃止論は感情的ではなく合理的な議論である、なんてことはありませんよ。
むしろ死刑廃止論の方がより感情的ですよ。
どういう根拠でこう仰れるのでしょうか、教えていただけるとありがたいです。
多数決で人権を覆す性質のものでない
>が死刑に賛成なのだから廃止すべき
>でない
民主主義の原理に照らして言うのならば、そういうことになります。
>人権というのは多数をもってしても
>覆せない性質のものであり
そうです。しかし
「人権とは多数決で覆されてはならないものである」
「死刑制度は多数決で人権を覆す性質のものである」
「ゆえに死刑制度はけしからん」
などという論法は成り立ちません。
何故なら「死刑制度は多数決で人権を覆す性質のものでない」からです。
国連の多数決でできた国際人権規約(自由権規約6条)では、以下のようになっています。
「死刑を廃止していない国においては、死刑は、犯罪か行われた時に効力を有しており、かつ、この規約の規定及び集団殺害犯罪の防止及び処罰に関する条約の規定に抵触しない法律により、最も重大な犯罪についてのみ科することができる。この刑罰は、権限のある裁判所が言い渡した確定判決によってのみ執行することができる。」
「死刑は・・・最も重大な犯罪についてのみ科することができる」と言っています。
要するに「死刑制度は人権を覆すものでありけしからん」などとは言っていません。
死刑制度があっても、この条項を満足するものであれば、人権に反するものとはみなされない。
>どういう根拠でこう仰れるのでしょうか
死刑廃止論にも死刑維持論にも感情の要素は含まれていますよ。
最も重大な犯罪が絡んでいるのだから、「一切感情抜きでやれ」なんて土台無理な話でしょう。
情状酌量にしても、感情抜きではない、感情の混じったものですし。
「最も重大な犯罪といえども、死刑はよくない、死刑では罰として重過ぎる」なんてのは、情状酌量を求めることの一環ですから。
で、筋の通った主張なしで感情のみ露わにするであれば、それは問題でしょうけど。
筋の通った主張を併せて表明するならそこに感情が混じっても、別に問題はないはずですが。
「より感情的」というのは、一つには
死刑維持論「被害者を気の毒に思う感情大、死刑囚を気の毒に思う感情小」
死刑廃止論「被害者を気の毒に思う感情大、死刑囚を気の毒に思う感情大」
ということが実際ありますよね。
もう一つは、セットになるべき筋の通った主張ですかね。
死刑廃止論の方が弱い、合理性というか説得力が乏しいかと。
>latter_autumnさん
それから私が多数決と書いたので、文字通り議会における多数決と誤解されたようですね。
人権に関することを世論の多数により決めては行けない、という趣旨だとご理解下さい。
「感情」の定義?
>「より感情的」というのは、一つには
>死刑維持論「被害者を気の毒に思う感情大、死刑囚を気の毒に思う感情小」
>死刑廃止論「被害者を気の毒に思う感情大、死刑囚を気の毒に思う感情大」
>ということが実際ありますよね。
これを逆に言えば、
死刑維持論「被害者を気の毒に思う感情大、犯罪者を厳罰に処したい感情大」
死刑廃止論「被害者を気の毒に思う感情大、犯罪者を厳罰に処したい感情小」
ということになってしまうのではないでしょうか。
ここで秋原葉月さんが引用している記事の中の「感情ではなく合理的な議論を打ち立てなければならない」という一節は、「犯人を死刑にしなければ被害者は浮かばれない」というただ一つの「論点」だけにとどまることなく死刑制度をめぐるあらゆる「論点」を十分に考えることを意味しているのではないかと思うのです。
>国民の間で死刑制度の問題点が正しく理解され感情的ではなく合理的な議論 がなされることは、国民自身の人権感覚の進歩のためにも大事だと思います
という私がコメント欄で書いた一文を、latter_autumnさんは「死刑に賛成する人々は死刑廃止論者よりも感情的だからいけないのだ」
という意味に捉えてしまったみたいですね。そんなふうには書いてないつもりだったのですけど。
村野瀬玲奈さんがおわかりいただいてるように、私のこの文章は、本文で引用してる記事の中の一節、「犯人を死刑にしなければ被害者は浮かばれないという議論が広がっている現実を指摘し、感情ではなく合理的な議論を打ち立てなければならない。」の部分を受けて書いたものであり、村野瀬さんが
>「犯人を死刑にしなければ被害者は浮かばれない」というただ一つの「論点」だけにとどまることなく死刑制度をめぐるあらゆる「論点」を十分に考えることを意味しているのではないかと思うのです。
とご指摘くださったとおりの趣旨で書きました。
もう一点追加させていただくと、感情も一つの要素として考慮することは決して悪いことではありません。人間は感情を抜きにして生きられませんから。
latter_autumnさんは死刑維持はより感情的であるから死刑廃止論よりもダメである、と私が言っているように受けとめられたようですが、それは短絡的ですし、正確ではありません。
たとえば、カルデロン一家の在留特別許可を出すよう法務大臣に要請したのは「いくら密入国したとはいえその後10年以上も真面目に働き地域にとけ込み、子どもも日本しか知らない。なんとか日本にいれるようにしてあげられないか」という感情が要素にありますね。
「法感情」という言葉があるとおり、感情を何もかも排斥することをよしとしてるわけではありません。
だから「感情的だから」という理由だけで死刑廃止論のほうが優れている、感情は全て排斥されるべきである、と私が言っているかのように認識されたのなら、それはlatter_autumnさんの誤解です。
死刑を望まない遺族もおり、「犯人を死刑にしなければ被害者は浮かばれない」と果たして言い切ってしまってよいものかという問題もあります。またその被害者感情一点のみをもって死刑肯定に突っ走るのはどうなのか、もっと違う観点からの考察もだいじではないか、そういうことを含めて議論していくことが「感情ではなく合理的な議論」だというふうに考えていますし、そのつもりで書きました。
「死刑制度は多数決で人権を覆す性質のものでない」についてはまた別エントリーで。今書きかけのエントリーがいくつかありますので、それが済んだらかかせていただきます。
犯罪者を厳罰に処したい感情
ここで「犯罪者」というのは、「死刑囚」または「最も重大な罪を犯した者」ということでよろしいですかね。死刑制度の話ですから「比較的軽い罪を犯した者」は関係ないという前提で話を続けますよ。
で、「最も重大な罪を犯した者には、最も重く厳しい罰を与えるべきだ」という考え方は、死刑維持論にも死刑廃止論にも等しく共有されているはずですが、違いますか?
よもや死刑廃止論は
「最も重く厳しい罰は、最も重大な罪よりも軽い罪を犯した者に与えるべきだ」
「最も重大な罪を犯した者には、最も重く厳しい罰よりも軽い罰を与えるべきだ」
などという考え方ではありませんよね。
すなわち
死刑維持論「犯罪者を厳罰に処したい感情大」
死刑廃止論「犯罪者を厳罰に処したい感情小」
ということにはなりませんよね。
それから、「最も重大な犯罪を犯した者には、最も重く厳しい罰を与えるべきだ」という考え方に感情の要素が混じっているのだとしても、道理は通っているはずですが。
「最も重く厳しい罰は、最も重大な罪よりも軽い罪を犯した者に与えるべきだ」
「最も重大な罪を犯した者には、最も重く厳しい罰よりも軽い罰を与えるべきだ」
の方が道理は通らない、でしょ?
せっかくだから問い返して
>に突っ走るのはどうなのか
死刑維持論は被害者感情一点のみに依拠するものではありません。合理性も十分あります。
せっかくだから
「死刑囚を気の毒に思う感情一点を以って死刑否定に突っ走るのはどうなのか」
と問い返しておきましょうか。
なお
「人権とは多数決で覆されてはならないものである」
「死刑制度は多数決で人権を覆す性質のものである」
「ゆえに死刑制度はけしからん」
という主張に合理性がないことは、指摘済みですので。
>私が多数決と書いたので
死刑は、国会の多数決で決められた刑法に基づくもので、かつ世論の多数も支持しています。
国会の多数決が世論に沿った形になるのは、民主主義として理想的ですが。
国会の多数決が世論に反する形になるのは、民主主義の原理に反します。
国会の多数決も世論も無視した形になるのは、もはや言うまでもないでしょう。
>「死刑に賛成する人々は死刑廃止論者
>よりも感情的だからいけないのだ」と
>いう意味に捉えてしまったみたいですね。
そのような主張をしている死刑廃止論者もいるようですが?
秋原葉月さんや村野瀬玲奈さんは、そのような主張ではないということですか。
>「犯人を死刑にしなければ被害者は
>浮かばれない」というただ一つの
>「論点」だけにとどまることなく
>死刑制度をめぐるあらゆる「論点」
>を十分に考えることを意味している
>のではないか
それは秋原葉月さんの書き方が悪いですね。そういう意味なら「感情的ではなく合理的な議論を・・・」ではなく「感情的なだけではなく合理的な議論も・・・」と書かないと、誤解されても仕方ない。
?
また、死刑廃止論をより強固なものにするためにお書きなのか、死刑賛成論を展開したいのか、それともほかの趣旨なのか、それもはっきりしていただきたいともお願いしてよろしいでしょうか?
>死刑維持論「犯罪者を厳罰に処したい感情大」
>死刑廃止論「犯罪者を厳罰に処したい感情小」
>ということにはなりませんよね。
死刑と(たとえば)懲役刑を比べたら、死刑の方が『厳罰度』が上ですよね。少なくとも、一般的にはそう考えられていますね。ですから、この場合の「感情大」、「感情小」はその『厳罰度』認識に対応した表現とご理解いただければうれしいです。
>「最も重く厳しい罰は、最も重大な罪よりも軽い罪を犯した者に与えるべきだ」
>「最も重大な罪を犯した者には、最も重く厳しい罰よりも軽い罰を与えるべきだ」
そのようなことは秋原葉月さんも私も主張していないし、秋原葉月さんと私が今までに死刑制度について書いた記事などから導き出せるとも思いません。
>死刑維持論は被害者感情一点のみに依拠するものではありません。合理性も十分あります。
その「合理性」を具体的にお示しいただかないと...。
>「死刑囚を気の毒に思う感情一点を以って死刑否定に突っ走るのはどうなのか」
>と問い返しておきましょうか。
秋原葉月さんや私の死刑制度についての記事では、「死刑囚を気の毒に思う感情一点を以って死刑否定に突っ走」ってはいませんけど...。私は自分のブログで約50の死刑廃止についての記事を書いていますので、それらを一つ一つ読んでいただければわかります。また、私は多くの人の死刑廃止論を集めたページも作っていますが、死刑廃止論者のみなさんは多彩なことを言っていて、どれも理があり筋が通っていると思います。
>latter_autumnさん
こちらが言っていないし思ってもいないことの批判に対していちいち根拠をしめしながら「そんなことは言っていない」とお答えするのは、長文の労力の割には建設的なものが生まれない虚しい返信となります。
また、
>よもや死刑廃止論は
「最も重く厳しい罰は、最も重大な罪よりも軽い罪を犯した者に与えるべきだ」
「最も重大な罪を犯した者には、最も重く厳しい罰よりも軽い罰を与えるべきだ」
などという考え方ではありませんよね。
すなわち
死刑維持論「犯罪者を厳罰に処したい感情大」
死刑廃止論「犯罪者を厳罰に処したい感情小」
ということにはなりませんよね。
というような質問は、申し訳ないのですが、現実において実を伴わない観念的な言葉遊びに過ぎないとしか私には感じられません。
これについてはもう村野瀬玲奈さんがお答え下さっているので、私は
>死刑は、国会の多数決で決められた刑法に基づくもので、かつ世論の多数も支持しています。
国会の多数決が世論に沿った形になるのは、民主主義として理想的ですが。
国会の多数決が世論に反する形になるのは、民主主義の原理に反します。
国会の多数決も世論も無視した形になるのは、もはや言うまでもないでしょう
この部分に関して別エントリーでお答えしたいと思っています・・・が、その前にここにいただいた村野瀬さんからのトラックバックをお読み下さい。すでにそこに答えが書いてあると思います。(改めて記事にしたら内容がかぶっちゃうかもなあ)
それから国際人権規約(自由権規約6条)のような規定があるのだから死刑を設けててもいっこうに構いませんよというのが国連の姿勢だとお考えになるのなら、それは間違いです。
厳罰に処したい感情は、どちらも同じく、大
>ためにお書きなのか、死刑賛成論を
>展開したいのか、それともほかの
>趣旨なのか
秋原葉月さんの2009/11/26 Thu 20:48:49と私の2009/11/27 Fri 17:40:12を見れば、明らかかと。
>感情の定義
国語辞典に書いてある通りでしょう。それがどうかしましたか?
>この場合の「感情大」、「感情小」は
>その『厳罰度』認識に対応した表現と
>ご理解いただければうれしいです。
その場合の「感情大」「感情小」という表現はおかしいですよ。
死刑廃止論は「死刑を廃止した上で、最も重大な罪には死刑以外の最も重く厳しい罰を与える」のでしょ。
秋原葉月さんのオリジナル記事でも、死刑廃止論の主張の一つとして、このように引用してますよね。
「死刑はなくとも加害者には必ず厳しい処罰が与えられるという確信が被害者にあれば、死刑廃止について長期間問題を抱え続けることにはならない」
すなわち、「最も重大な罪を犯した者には、最も重く厳しい罰を与えるべきだ」という考え方は、死刑維持論にも死刑廃止論にも等しく共有されているはずですね。
「最も重く厳しい罰とは、死刑であるべきか否か」で、両者の見解は異なりますけど。
最も重く厳しい罰を与える点では、両者は一致している。
すなわち「厳罰に処したい感情大」「厳罰に処したい感情小」という訳ではない。厳罰に処したい感情は、どちらも同じく、大。
>そのようなことは秋原葉月さんも
>私も主張していない
いいえ、村野瀬玲奈さんはそれらしきことを書いています。
「厳罰に処したい感情小」を言い換えれば、「最も重い罰ではなく、厳罰ではなく、軽い罰で許してやりたい、という感情大」でしょ。どう見てもそうとしか読み取れませんよ。
だから私は、それはおかしいと指摘しているのですよ。
>現実において実を伴わない観念的な
>言葉遊び
村野瀬さんが書いた「感情大」「感情小」は、あのような意味に受け取られかねない、と釘を刺したまでです。
筋の通った主張は、死刑廃止論の方が弱い
>いただかないと...。
とっくに書いていますが。2009/11/27 Fri 17:40:12と2009/11/30 Mon 17:36:16で。
>「死刑囚を気の毒に思う感情一点を
>以って死刑否定に突っ走」っては
>いませんけど...。
では、その「合理性」を具体的にお示しいただかないと。
>死刑廃止論者のみなさんは多彩なこと
>を言っていて、どれも理があり筋が
>通っていると思います。
2009/11/27 Fri 17:40:12でも書きましたが、感情とセットになるべき筋の通った主張は、死刑廃止論の方が弱い、合理性というか説得力が乏しいかと。
>私は自分のブログで約50の死刑廃止
>についての記事を書いていますので
もう少し整理していただけるとありがたいのですが。せめてこれくらいには。
http://www.geocities.jp/aphros67/indexs.htm
>国際人権規約(自由権規約6条)の
>ような規定があるのだから死刑を
>設けててもいっこうに構いませんよ
>というのが国連の姿勢だとお考えに
>なるのなら、それは間違いです。
自由権規約6条には拘束力がありますが、モラトリアム決議には拘束力はありません。
日本がどうするかは、日本が決めることです。そしてそれは、いずれにしても世論に沿った形の国会の多数決で決まることでしょう、民主主義の原理から逸脱しない限りは。
>latter_autumnさん
latter_autumnさんは死刑廃止論者と死刑制度支持者とそちらがより感情的かを問題にしてらっしゃいますが、ちがう事柄についての感情なら、同じ天秤にのせて単純にどちらが強い、弱いと計ることはできないでしょう?
例えば死刑廃止論の大きな論拠に「冤罪」があります。今年飯塚事件の久間三千年元死刑囚の執行が、足利事件のDNA再鑑定を検察が認めた13日後に行われました。この事件は冤罪の可能性が非常に高いと言われています。もし冤罪だったら取り返しがつきません。
無実の久間さんを処刑してしまったかのしれないという重大な疑念が現実にあるのですから、それだけでも死刑制度は停止を考えるに値する制度と言えると思います。しかし今までの政権はそのことを一顧だにしようとしませんでした。このことに私は怒りを感じます。
これも「感情」ですよね?
私のこの感情は死刑支持者の「感情」よりも強いのでしょうか弱いのでしょうか?比べようがないのではありませんか?
基準をどこにおくかでどちらがより感情的かの答えは変わって来るでしょうし、第一比べること自体が無意味ではありませんか?
死刑存否を巡っての論点は被害者感情の他に色々あります。
・国家が個人の生命という究極の根源的な権利を奪うのは、人権尊重をもっとも尊しとするこの民主主義社会の理念に照らしてどうなのか
・死刑は犯罪抑止になるのではないか
・冤罪の危険
などなど。
latter_autumnさんが前のコメントで示してくださったリンク先にも「死刑制度の問題点の整理」という項目があり、そこで「感情」以外の色々な視点からの考察がのっていますね?
「被害者感情」の視点ばかりでなく、それ以外のそのような視点論点からも十分に議論が尽くされなければならないと私達は言ってるわけです。
この指摘はまちがっていますか?
>自由権規約6条には拘束力がありますが、モラトリアム決議には拘束力はありません。
日本がどうするかは、日本が決めることです
拘束力がないから無視してよいということでしょうか?
なんとなくイラク派遣違憲判決に対して「違憲?それは傍論でしょ?」と述べて司法判断を軽視した福田元総理を思い出してしまいます。
日本がどうするかは、日本が決めればよいことなら、何故国連は死刑廃止するようさんざん勧告をしてくるのでしょうね?国連は勧告の中ではっきり言っていますよ。死刑廃止は世論の反対に拠るべきではないと。
ちなみに日本は死刑維持国に求められてる死刑囚に対する人権保障の最低ラインも守れてないとの勧告も受けてます。
“公正な訴訟手続という観点から、必要的上訴制度、あらゆる段階で無償の法律援助を受ける権利、(死刑確定後を含む)弁護人との秘密交通権の保障、という要請を日本は満たしておらず、「この状態で死刑を存置させることは国際規範に違反している。」と明言。加えて、非人道的あるいは残虐な取り扱いとして、死刑確定者の長期にわたる独居拘禁と、死刑執行の事前告知の欠如を挙げ、後者については手続面からも改善を要する”と先のシャバス教授は指摘しています
感情云々の話は一応これで
>のは、一口に感情と言ってみても
>果たしてどのような感情のことを
>いうのか、を聞いていらっしゃるの
>ではありませんか?
それなら「感情の定義」ではなく「感情の種類」でしょう。
>死刑廃止論者と死刑制度支持者と
>そちらがより感情的かを問題にして
>らっしゃいますが
秋原葉月さんの引用した「感情的ではなく合理的な議論がなされることは・・・」から始まっている話です。それで私は
「死刑廃止論は感情的ではなく合理的な議論である、という訳ではない」
「死刑廃止論にも死刑維持論にも感情の要素は含まれている」
「どちらかと言えば、死刑廃止論の方がより感情的である」
「死刑維持論は被害者感情一点のみに依拠するものではなく、合理性も十分ある」
と指摘しています。
>ちがう事柄についての感情なら、同じ
>天秤にのせて単純にどちらが強い、
>弱いと計ることはできないでしょう?
死刑廃止論が抱く二つの事柄についての感情、被害者を気の毒に思う感情と、死刑囚を気の毒に思う感情を比べて、どちらが大きいか小さいかを量ることは、確かにできないでしょうね。
しかし死刑維持論と死刑廃止論が抱く同一の事柄についての感情、死刑維持論の死刑囚を気の毒に思う感情と、死刑廃止論の死刑囚を気の毒に思う感情は、比較できますよ。
すなわちこの点において「死刑廃止論の方がより感情的である」。
2009/11/28 Sat 16:58:31で、秋原葉月さんの訂正というか補足説明は理解しました。
感情云々の話は一応これで終わり、ということでよろしいですかね。
>「被害者感情」の視点ばかりでなく、
>それ以外のそのような視点論点からも
>十分に議論が尽くされなければならない
そうです。その上で、
「死刑維持論は被害者感情一点のみに依拠するものではなく、合理性も十分ある」のです。
決して「被害者感情一点のみをもって死刑肯定に突っ走る」訳ではない。
>>「死刑囚を気の毒に思う感情一点を
>>以って死刑否定に突っ走」っては
>>いませんけど...。
>では、その「合理性」を具体的にお示しいただかないと。
以後は、死刑廃止論の感情以外の合理性の方の話をお示しいただければ。以後のレスは12月3日の記事に書こうと思います。
latter_autumnを名乗るパラノイア
現在latter_autumnを名乗るパラノイアが私のブログで面白いことになりかけております。興味のある方はどうかいらっしゃって下さい。たかし
http://takashichan.seesaa.net/article/139143645.html#comment
>たかしさん
なんだかよくわからない人ですよね(^^;
ロシア・・・
まあ、国が違えば関係ないし・・・。
この前の大統領選挙もそうだったけど、おもいっきり腐敗してる国だし(笑)