【問】 プチ問答集(4)から、君が代が嫌な人に君が代斉唱を強いることは思想良心の自由の侵害になることはわかりました。教職員も人間である以上、思想信条も自由があることもわかります。
しかし公務員という立場上、職務命令に服する義務があるんじゃないですか?その立場を離れたところで個人として思想信条の自由を主張すればいいのですから1.よく「公立の教職員は公務員なんだから職務命令に従え」というのを耳にします。これについて考えてみましょう。
確かに公務員は全体の奉仕者であり、上司の職務命令に従う義務があると法で定められています(憲法15条、地方公務員法30条、32条)
しかし、公務員=全体の奉仕者、というのは、「天皇や一定の階級、政党等の一部の国民にだけ奉仕する存在であってはいけませんよ」という意味しかなく、公務員の自由を制約する根拠にはなりません。
また、上司の職務命令に従う義務があるとしても、「思想信条の自由」は憲法上最大の尊重を受けるべきものとされているのですから、職務命令によって受ける制約は、他の人権を侵害する等の公共の福祉に反する場合にのみ、必要かつ最小限にとどめられなければいけません。
これをもう少しかみ砕いて言うと、『どうしても制限が必要だし、そういう制限をするのはもっともだという合理的な理由があるときだけ制限してもいいけど、それでも必要最小限の制限にとどめなさいよ。少しくらいのことでむやみやたらと思想信条の自由を制限するのは絶対にいけません』ということです。
逆に言えば、合理的な理由もあまりないのに、むやみやたらと思想信条の自由を制限するような職務命令は、職務命令のほうが間違ってる、ともいえますね(←中学生向け)
つまり、
公務員ならば、その職務命令がどんなに理不尽でも従わねばならない、というわけではありません。当然ですが、憲法違反の命令には従う必要はありません。
まず、この当たり前のことに注意してください。
公務員はどんな命令にも服従しなければならない絶対王制下の奴隷ではありません。たとえば10回から飛び降りて死ね、という命令に服従する必要はありませんね?
よく「こんな事民間なら許されずクビになる」という決まり文句を吐く人がいますが、不当な命令に服従する必要がないのは民間だって公務員だって何ら変わりないのです。
2.さて、入学式、卒業式に君が代斉唱を命ずる職務命令は「従わねばならない職務命令」といえるでしょうか
これについて
『入学式や卒業式等の学校行事は、全体として統制がとれた整然さが必要とされる。教職員の思想良心の自由を理由に、教職員各個人の自由に任せていたのでは全体としての統制がとれない。従って学校側の統一した意思決定に従わせる必要がある。だから、一律に君が代斉唱を強制する職務命令は必要性、合理性がある命令だ』
という意見があります(2007/2/27の最高裁判例もそんな感じです)
しかし式において君が代に反対する教職員がとる行動はせいぜい「起立しない」「歌わない」という消極的意思表示だけです。決して式次第が成り立たなくなるほど秩序が乱れるわけではありません。また、君が代を歌いたい人が歌うことの邪魔になるわけでもありません。(
こちらの過去記事もどうぞ)
全体が起立したとき何人か座っていれば見栄えは多少歯抜けにはなるでしょう。
でも日本は様々な価値観(しかも国家観や歴史観という個人の根幹に関わる価値観)の多様性を認めることが何より大事だとする社会のはずです。
とすれば、
歌おうと思う人の意思と歌いたくない人の意思を双方尊重するべきですし、それで見栄えが多少の歯抜け状態になる程度のことは十分許容範囲内じゃないでしょうか。 価値観の多様性をみとめ思想信条の自由を大事にする社会では、「日の丸に敬意を表し、君が代は全員で斉唱すべき」という価値観以外を排除するのは、決して褒められたことではありません。
あまり褒められない命令を出すことに、必要性も合理性もあるとはいえないし、そんな命令で思想信条の自由が制約されるのは「職務上やむを得ない、必要かつ最小限の制約」とはいえません。
「整然とした全員の起立と斉唱」と「価値観の多様性の尊重」を天秤にかけた場合、私達の社会では後者の方がずっと重いはずですし、後者を選んでも失うものはせいぜい「見栄えの良さ」くらいのものです。
それとも
『君が代を歌うとき、一人残らず一糸乱れぬ整然とした全体行動をとらねばならぬ。それは何にもまして最優先されなくてはならないし、教職員をクビにしてまでも守る価値がある。個人個人の君が代に対する思想の多様性を尊重することなどより、全員起立して厳かに君が代斉唱することのほうが、遙かに大事である。』
とでもいうのでしょうか。
それはもはや
全体主義国家か、軍隊の考え方です。
これでは日の丸君が代に関する職務命令は、憲法の精神を無視していると言わざるを得ないでしょう。
また、
ここでも述べたように、入学式や卒業式は新しく入学した生徒、卒業して巣立っていく生徒を祝う式ですので、およそ国家への敬意など関係ありません。君が代斉唱は式に不可欠なものとは言えないと思います。
日の丸君が代はこれだけ論争の種になり様々な考えがある存在ですから、君が代斉唱を式から外すという解決方法だってあるのです。何が何でも式で歌わないと卒業式として成り立たない、というわけでは決してないでしょう。
3.ここで、憲法が保障している「教育の自由」というものを考えてみましょう。
子どもには様々なことを学習する権利があり、親や教職員はそれを満たしてあげる義務があります。そのためには、子どもの発達に応じた教育の具体的な内容や方法について教職員に裁量を認めることが不可欠です。
また、戦前の教育が国民の思想統制の手段とされた事への反省から、教育の場においては教職員が公権力によって特定の意見のみを教えることを強制されるようなことがあってはなりません。これが「教育の自由」です。
「教育は、自主的かつ創造的になされるべきであって、教育の方法に対する国家的介入については抑制的であるべき」というのが憲法上の要請であり、これを受けて教育基本法は、教育に対する「不当な支配」を禁止しているのです。
従って、教育行政機関が教育の内容、方法について基準を設定する場合には、『教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために
必要かつ合理的と認められる大綱的な基準を定めるものにとどめられるべき』とされています(旭川学テ最高裁判決)
しかし、日の丸君が代に対する批判的な考えを表明することを一切禁じるのは、特定の考え方を教職員や生徒におしつけることになり、「教育の自由」の侵害にあたるでしょう。
また、教育の内容、方法は「大綱的な基準」に留まるべきなのに、10・23通達はそれををはるかにうわまわる詳細な指示をだしていて、とても教職員の裁量の余地などありません。
これはもう、教育基本法が禁じる「不当な支配」にあたり、「教育は、自主的かつ創造的になされるべきであって、教育の方法に対する国家的介入については抑制的であるべき」という憲法上の要請に反していると言えます。
これを子どもの立場からも見てみましょう。
子どもには、様々なことを学ぶ権利があります。
そこには日の丸君が代について、その歴史背景や色々な考え方や問題点が存在することを学ぶことも当然含まれます。
そしてそれについて自分で考え、その考えが尊重される権利があります。
子どもはそうして自分の価値観を形成し自らの人格を形成していく権利があるのです。
もし行政機関が教育の内容や方法に制約を設けるとすれば、それはあくまでも子どもの学習を保障するための視点からの制約でなければならないと思います。
しかし、教職員が日の丸君が代の背景や問題点について自由に教えることが事実上できず(※)、ただ式で君が代を歌うことだけが要求されるのならば、それは教師の教育の自由を侵害するだけでなく、
子どもの学習する権利をも侵害していることになります。
そして、卒業式等で教師に斉唱を強制し、また、子ども達にも教師のクビを手段として間接的に強制するのは、
子どもが自分の考えを表明する権利を侵害することでもあるのです。
(※ちなみに、「『君が代』を歌いたい人は歌い、歌いたくない人は自分の思想・信条に従って判断して結構です」と卒業式前日の予行演習で、東京都立農芸高校定時制課程の社会科教師が生徒に「内心の自由」について説明しとところ、この発言が「不適切な指導」だとして、都教育委員会は、この教師を「厳重注意」という事実上の処分にしたことがありました。(赤旗より)
この先生の話はまさに憲法教育なのに、それが不適切だとは!これは思想統制以外のなにものでもないです。)
このように、日の丸君が代を厳重処分をもって強制する職務命令は、教育の自由や子どもの学習する権利も侵害するものであって、従うべき理由のない命令であると言えるでしょう。
(中高生にもわかる文章になっているかどうか、ちょっと不安・・・(^^;) 最後になってしまいましたが、村野瀬玲奈さんからいただいたトラバ
◆「
職務命令」の「合理性」についてまとめでは、職務命令について非常に丁寧にまとめられていますので、是非ご一読下さい
(つづく)
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