「ほぼ全ての番組が、被害者遺族に共感する内容で感情的だった」
山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁が元少年の被告人に死刑判決を下した4月。
判決前に放送倫理番組向上機構(BPO)がテレビ報道に苦言を呈したのは記憶に新しい。
そんな中、唯一、加害者側にアプローチしていた局があった。東海テレビの報道陣が「鬼畜」と言われた弁護団に一年近く密着。
事件の真実に迫る姿を、ドキュメンタリー「光と影」にまとめた。
制作の出発点は、名張毒ぶどう酒事件だった。
「儲からない弁護を何故やるのか」
こんなテーマで準備を始めたところ、弁護士の二人が山口の裁判に携わっていることがわかった。
「悪いやつを弁護するのはけしからん、という世論に違和感があった」
取材を進めた斎藤潤一ディレクターが振り返るように、すでにバッシングの嵐が吹き荒れていた。
一昨年、最高裁が無期判決を差し戻したため、全国から21人が集まって新弁護団を結成、事件の再調査を始めた。そこへ被告人が「殺意はなかった」と告白する。
世論は「死刑回避の荒唐無稽な言い逃れ」と非難。弁護団にまで「鬼畜」「悪魔」の言葉が浴びせられた。
斎藤ディレクターは弁護団の一人村上弁護士に「違和感」を説明した。毒ぶどう酒事件で築いた信頼関係もあり、意外に「取材OK」が出た。普通なら冒頭の撮影だけの会議もカメラを回し続けることができた。
事務所の看板が壊され脅迫の手紙が届く中、弁護士達は広島に通った。
「被告人の言葉が本当なのかどうなのか」
被害者の首に残った指の跡から、犯行時の心理を推測する。事件当時の足取りも丹念にたどった。
被告人が体験した父親からの虐待と母親の自殺。それにより精神年齢が幼くして止まったという鑑定。
多くの材料を突き合わせ、白熱した議論が続く。
荒唐無稽な供述が、実は事件の本質ではないか―。
やがて結論に至る様子をカメラは淡々と追いかける。
阿武野勝彦プロデューサーは
「もし、事件を利用して『人権派』の名を売るものだったら、そこで制作をやめるつもりだった」
と明かす。
「でも、違った。真実を明らかにする姿があった」
当初は番組スタッフにさえ逆風が吹いた。
「妻が拒否反応を示した」と斎藤さん。
ナレーションを務める女優の寺島しのぶも
「はじめ、お受けしたくないと思った」
という。
番組を見て「弁護団が何をしていたのか、初めて知った感じです」。
「憎い」という感情だけで白黒をつけ、真実の解明にふたをする風潮。
このまま来年5月に裁判員制度が始まったら、どうなるか。
現代日本に、番組は一石を投じている。
ではドキュメンタリー「光と影」の番組内容を感想も交えて紹介していきたいと思います。
村上弁護士は弁護団に加わってから少年と文通を始めました。
少年に収入はなく、この弁護に報酬はありません。
それでも村上弁護士は名古屋から広島に通います。
「(加害者に)事実に向き合おうという気持ちにさせるにはこの人間に立ち直ってもらわなくてはいけない。
この人間は誰からも期待されていないし、誰からも自分が大切にされているという感覚を持っていない。
だから弁護人が一生懸命接していくことによってこの弁護人は自分を真剣に考えてくれてると感じれば、自分の過去のやった事実も振り返って喋ってくれるようになる。
でもそれには時間がかかるね」
この差し戻し控訴審で弁護団が争った事実は二点
それは
①少年に殺意があったか
②犯行は計画的なものだったかどうか
です。
検察官の主張は殺意を持って馬乗りになり、奥さんの首を力いっぱい両手で絞めた、というものです。
しかし少年は殺すつもりはなかったと言う。
少年の言うことは本当なのか?
そこで弁護団会議では検死の資料から絞め跡のついた遺体の首の石膏型を作り、その指跡の通りに実際に手を置いてみました。
そういう"実験"をして犯行態様はほんとはどんなものだったかの推測をしていくのです。
確かに私が見てもこの絞め跡は検察官の主張する「両手で力いっぱい絞めた」指跡には見えません。両手の順手でなく片手の逆手の指跡なのです。
会議では更に議論が続きます
「何故殺意がなかったと言えるの」
「体重をかけない逆手が、殺意ある、殺すという行動ですかという問題ですよ」
「その行為ってのは、両手で物事をしようと思ってないんじゃないの?」
「本来首を絞めるのは両手で絞めるよね」
「これは典型的な(首を絞めるという)行為じゃない。無我夢中のうちに死なせてしまった傷害致死でよくある行為だよ」
つまり片手の逆手であったという事実から、殺意を持って首を絞めたのではないという事実が推測できるわけです。
絞め跡という客観的な証拠は少年の「殺すつもりはなかった」という言い分と矛盾しないのみならず、むしろ少年の言い分が真実であることを伺わせると言えるでしょう。
私も弁護団の主張は十分に合理性のある主張に感じられます。
また、弁護団会議での検証や白熱した真剣な議論を見れば、世間で言われている「弁護団による荒唐無稽な捏造」には程遠いことがすぐにわかるでしょう。
赤ちゃんの殺害についても同じようなことが言えました。
検察官の主張によれば、2メートルの高さから床にたたきつけたことになっています。
もしそうだとすると脳内出血または脳浮腫がおきるはずなのに検死結果には脳の損傷は一切ないのです。
ならば、検察官の主張はおかしいのではないかと。
このように、客観的な証拠との食い違いから、弁護人は検察官の主張に疑問を抱き、反論するのです。
誤解されている方も多いかもしれませんが、弁護人というのは被告人の言うことを頭から鵜呑みにするわけではありません。
もちろん被告人の立場にたっての弁護をするのですから、被告人と面会を重ね、真摯に被告人の話を聞き、信頼関係を築こうとします。
しかし明らかな「嘘」を捏造したりはしません。
まず被告人の言い分をしっかり聞いた上で、様々な証拠資料と被告人の言い分を照らし合わせて検証してみる。
もし被告人の言い分が嘘なら、必ずどこかでつじつまがあわなったり証拠と矛盾したりしてボロが出るものです。
もちろん弁護人もその点を被告人に問いただします。
しかし、検察官の主張は証拠や鑑定等の客観的な資料に合致しない。むしろ被告人の言い分の方が証拠に合致する。
そういう時、実は検察官の主張は誤りで被告人の言い分のが正しいのではないかと。
それを裏付ける客観的な資料を揃え、そうして初めて弁護人は法廷で争うわけです。
いわば"証拠に基づいて"反論してるわけです。
当たり前のことです、そうでなきゃ弁護人本人も納得できないし裁判官もおよそ説得できませんから
次に、犯行の計画性について。
検察側は最初から強姦の目的で物色していたと犯行が計画的なものであったと主張しています。
だが、少年はそんなつもりはなかったと主張します。
そこで弁護団は現地調査に向かい、実際に少年の足取りを忠実にたどってみました。
少年が最初に訪れた10号棟は被告人が父親と住む11号棟からわずか100m。
そして惨劇の舞台になった7号棟まで200m
その間、少年は何軒もの部屋を訪れています。
村上弁護士は歩きながら
「こんな自宅から近い場所を強姦目的で物色するなんてちょっと信じられないんだよね」
「彼が成功しているのは水を流してもらうまでなんですよ。うちの中に入ることは全然ないわけ。でも強姦はうちの中に入らないとダメなんですよ」
「彼は本村さんのうちまではピンポンダッシュなんです。水を流して下さいというだけで去っている。」
検察は最初から強姦目的があったと言いますが、この事実からすれば、最初から強姦目的があったと断言するには足りないでしょう。
なんとなく人恋しく、また仕事をさぼってしまい、父親の手前仕事をしているふりをしたかったから、水道の検査を装って何軒も訪れてみはするものの、実際にインターホンに人が出ると、もごもご口ごもるだけでその場から逃げ去っていた。
ところが弥生さんだけはドアをあけ、部屋の中にあげてくれた。
少年は非常に戸惑った。
少年の心理として、最初から強姦目的という計画性があったのでなく、偶発的に(死後)強姦に至ったのだ、という少年と弁護側の主張もあながち荒唐無稽とは言えないでしょう。
「証拠を深く見ていけばいくほど、彼の言ってることが、ああ、と思うようなことが実はある」
と、村上弁護士は言います。
「彼が法廷で喋ったことと、専門家が少年はこう思ってこう行動するんだよということを加味していくと、実体が、点と点と点が、結ばれていくような感じになる」
刑事弁護とは決して「刑を軽くするためならどんな嘘も平気ででっち上げる」ものではありません。それこそ刑事弁護に対するひどいでっち上げ、偏見です。
差し戻し審では、少年の証言に世間は騒然となりました。
いわゆる「ドラえもん」「復活の儀式」です。
言い訳にしても荒唐無稽すぎると激しい罵声が浴びせられましたが、少年の精神は不幸な生い立ちのせいで発達が阻害され幼いまま止まってしまったことからすれば、むしろ一般常識からかけ離れた発想をするのは十分有りうることです。
(ちなみに、少年が逮捕された直後の家裁の段階で、少年は既に「ドラえもん」や「復活の儀式」という言葉を直接使わないまでも、それに類する証言をしています。弁護団は記者会見でこの事実を明らかにしたのですが、マスコミはこれを報道せず、あたかも弁護団が作って少年に言わせたかのような印象を世間に与えました)
少年の母親は少年の父親にDVを受けており、少年は母親が暴力を受けると必死に母を庇いました。
すると今度は父親の暴力は少年に向かいうのです。
父親の暴力に怯えながら、少年と母親は寄り添い"母子一体化"が進みます。
しかし、少年が12才の時に母親は自殺、少年は変わり果てた母親の遺体を発見してしまいます。
少年は、自分を唯一愛してくれた母親からも「自殺」という形で捨てられたのです。
精神鑑定の野田教授は公判記録を読み、少年、少年の父親、関係者と面会を重ね、
「DV被害者としての母と子は一体化を進行させていった。彼は幻想の中で生きてるか死んでるかわからないお母さんと生きている。」
と、少年が母が自殺した12才で止まっていると述べました。
家裁では、発達レベルが4、5才であったとしています。
少年が村上弁護士に宛てた手紙より
『(略)…原判決は無期。オレは笑った。悲しく笑った。死ねばいいと思った。もちろん自殺願望なら母を失った時点で膨大にあった。しかし死ねなかった。殉死できなかった。
オレはかわりはてた母を抱けなかった。
思えばあの時から人はとうに捨て去った。動物になろう。人知を超えて母にすがろう。においを求めて母の衣服、母の薬にすがろう。そして飲み込もう…(略)』
少年が弥生さんと夕夏ちゃんを殺めてしまったのは動かし難く、また許されざる犯罪であることは事実です。
そして残された本村さん達ご遺族の腑が引き裂かれるような悲しみと苦しみもまた動かし難い事実。
しかし一方、何の非もない幼子だった少年が、不幸な生い立ちの元、やがてたった一人愛し愛された母親が自殺、それはその後の少年の精神発達を歪めてしまうほどの過酷な衝撃的体験であったというのも、これまた動かし難い事実であることにかわりありません。
いやしくも国家が人を裁き刑罰を課す以上、否が応でも慎重に、且つできる限り全ての事情を客観的に冷静に吟味しつくさなくてはなりません。
一方の面のみを取り上げ一方を無視してはならないのです。
ところが世間ではどうだったでしょうか?
マスコミは被害者遺族の感情ばかりを全面に報道し、もう一つの事実である被告人の言い分や被告人が犯罪に至ったその背景に目を向ける"刑事弁護それ自体"を、鬼畜の所業だと感情的に煽り立てました。
このまま放っておけば世間の激しい憎悪の濁流は、やがて刑事裁判から「理性」を剥ぎ取り、殺せ殺せの大合唱の魔女裁判みたいな裁判に変えてしまうでしょう。
あなたやあなたの家族だって被告人席に立たねばならなくなるかもしれません。例えば交通事故の加害者として被告人になる可能性は誰にでもあります。その時、人の命を奪ったヤツに弁護人も裁判もいらない、問答無用に厳罰だ、というような憎しみの感情に支配された裁判を受けたいでしょうか?
刑事弁護それ自体を悪であるとする裁判が果たして自分が被告人となった時「裁いてほしい」と感じる裁判でしょうか?
『どうか私を、あなた達自身が裁いて欲しいと思う方法で裁いて下さい』
これはこれは冤罪により死刑を求刑された黒人女性が陪審員にむかって言った言葉ですが、あなたもそう思うのなら、どんな犯罪者にもそのような裁判を受けさせなくてはなりません。
主任弁護人としてあまりに有名になった安田弁護士へのインタビューもありました。
安田弁護士は何故この事件を引き受けたのでしょうか
氏は犯行時18才1ヶ月だった少年に死刑が出そうだ(犯行時18才未満なら死刑にはできない)と危機感を持った旧弁護団に頼まれ、少年に会うことになりました。
初めて少年にあった時に安田弁護士は事実関係を少年に聞きます。
すると少年は旧弁護団と安田弁護士の前で、強姦する気はなかったと、事実関係が違うと言い出しました。
(これに耳を傾けないのは刑事弁護人の役割を放棄するのと同じ。弁護士の職務怠慢と言えるでしょう)
安田弁護士は言います
「人が死んでいるのに何を言うかと(警察に)怒鳴られて黙るしかなかった。死刑にされそうな彼がそう告白したのを聞いて、ハイサヨナラと帰ってくるわけにはいかない。
これは無理をしてでも受けざるを得ないな、と。」
何故彼は旧弁護人にそういう話をしないで安田弁護士に話したんですか?
「それは簡単な話です。旧弁護人が事実関係を少年に聞かなかっただけです」
旧弁護団は被告人の反省だけを主張し、事実関係については洗い直しをしていませんでした。これはミスと言えるでしょう。
途中から旧弁護団に加わりそのまま新弁護団にも入っているある弁護士は言います。
「(旧弁護人は)事実関係を聞かず証拠も見ずほったらかしにしていた。(途中から旧弁護団に加わった)私も同じミスをしている。
これは私の弁護過誤でもあります」
非常識
鬼畜
今までに例を見ないほどの弁護団へのバッシングをマスコミがこぞって煽りたてました。(麻原の弁護団にもここまでのバッシングはありませんでした)
橋下氏が音頭を取ったおかげで前代未聞の山のような懲戒請求の束が弁護士会に殺到し、弁護士会は機能停止してしまいました。
これについて村上弁護士は言います。
「犯罪というのは一般常識の観点から説明できない奇怪なことが多い。(殺人という事態がすでに一般常識を離れた異常事態ですしね)
被告人が話す内容がなかなかみんな理解できないけど、もしかしたら事実はそうであるかもしれない。
これで品位を欠くと言われ懲戒を認められたら、刑事弁護をする弁護士はいなくなる。」
本来弁護活動は法廷で展開するだけなのですが、あまりのバッシングのひどさのために弁護団は各地の弁護士会での説明に追われました。
このバッシングはもはや弁護団に対してだけのものでなく、弁護士そして刑事弁護そのものに対するバッシングにまでなっていました。
"くそ弁護士さっさと死ね"
"人間の皮を被った悪魔のしもべ"
カミソリや銃弾入りの脅迫状が届きます。
村上弁護士の事務所のプレートも、村上弁護士の名前部分に傷がつけられました。
凶悪事件の犯人に弁護人などいらない。弁護人も犯人と同罪だ。
なんという感情的で幼稚で恐ろしい社会でしょうか。
ろくろく事実調べもせず憎悪感情のままに厳罰を課していくなら、もう真実発見などいらない、裁判もいらないではありませんか。
「だったら僕は死にゃあいいんだろう」
死刑になっても構わないと少年は投げやりでした。
しかし村上弁護士は生きて謝罪しろと説得します。
投げやりで、被害者遺族の仰っていることを真正面から受け止めるのを避けているのはいけないことだ、と。
判決直前、少年が村上弁護士にあてた手紙です。
「充分とは言えないまでもこの2年間はしっかりと歩ませていただけました。
あとはこの命どこまで続くのか誰にもわからないまでも、この余力を全力で今という思いに変え、感謝と謝罪とをいつもこめて表してゆけばよいだけのことと身勝手ですが思っています。」
判決は、最高裁から死刑を示唆された差し戻し審ですので、予想通り死刑でした。
判決後の記者会見でこんなやりとりがありました。
記者「あえて新事実(最初から強姦、殺人目的はなかった)をださないで、今までの事実でやっていく(情状を最大に訴える)、という法廷戦術もあったんじゃないかと思うんですけど」
それに対し安田弁護士は次のように答えました。
「それは弁護士の職責として有り得ない話です。
真実を出すことによって初めて本当の反省と贖罪が生まれてくると私は思ってますし、そしてそうすることによってようやくこの事件の真相、一体何であったのか、何故こんな事件がおこったのか、どうすればこれからこういう風なことを避けることができるのか。そして被害者の許しを乞うていくことができるのか。
これは事実を出さない限り、事実を究明しつくさない限り、およそできないことだと思っています。」
また、本村さんは判決後の会見で次のように述べています。
「今回死刑という大変重い判決が下されましたがそれで終わるのではなくて、私達遺族もこの重い判決を受けてこれからの人生真っ当に生きていかなくてはいけないと思いますし、社会の皆様にもどうか、
どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作れるのか、どうすればこういった死刑という残酷な判決を下さないでいい社会を作ることができるのか、ということを考える契機にならなければ、私の妻も娘もそして被告人も、犬死にだと思っています。」
少年に接してきた弁護士達は、少年が初めて被害者遺族や被害者の痛みを真正面から受け止めることを学んだことが感じられると言います。
番組は弁護団の言うことを鵜呑みにしろ、と言っているわけではありません。
しかし少なくとも、弁護団は鬼畜などではなく、刑事弁護という仕事は悪魔の仕事ではないこと、そして「殺人鬼を守るなどふざけるな」と刑事弁護そのものを否定するヒステリックな世論は大間違いであることを考える契機になります。
社会全体が、憎悪感情に駆られるまま犯人を抹殺して終了。
それでいいのでしょうか?
果たしてそれで社会は事件から何を学べるというのでしょうか?
本村さんが望んでいるような
「どうすれば死刑という残虐な刑罰をかさないですむような社会を作れるか、それを考える契機」には程遠いのではないしょうか?
どんな凶悪事件をおこした犯人でも、言い分を充分に聞き信頼関係を築く。それが弁護人の出発点です。そしてそれは(冤罪は別ですが)被告人の反省を促すことにもつながる。
そのためには安田弁護士の言う通り、真実を明らかにしなくてはなりません。被告人に「有利な」事実もまた真実です。加熱した犯人憎しの感情に駆られてはそれを無視することになります。
真実発見という面においては、刑事弁護人は検察側とは逆の方向から事件に光をあてる役割を持つと私は思います。
そうすることにより、より真実が浮き彫りになる。
「真実を明らかにすることにより初めて、反省を促すことができるし、この事件は何であったのかを明らかにすることができる。」
「どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会にできるのか」
安田弁護士と本村さんの言ってることは実は似通っていると思います。
凶悪犯罪者は弁護など必要ない。さっさと死刑にしろ!弁護人も死ね!
これでは真摯に事件に向かい合い、その反省を今後の社会生かすことなどできるわけがありません。
こんな姿勢で裁判員として裁く側に回るのは恐ろしいことです。
裁判員制度が始まる前に刑事弁護とは何かを今一度考えてみるのに是非とも見て欲しい番組です。
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