(2007/3/1)【過去記事】裁く立場から見た死刑制度
- 2008/01/21
- 09:42
これから裁判員制度が導入され、私達は初めて、裁かれる側、或いは被害者という立場から「裁く側」に回ります。
裁く立場となる者の心得として一度は聞いておいて欲しい話です。
文献:団藤重光著『死刑廃止論』より(趣旨を変えない程度に省略等してあります)
私は実際に裁判官となって死刑事件を担当する様になってから積極的な廃止論者になった。
それまでも緩かな廃止論者ではあったが、私の死刑廃止の態度は煮え切らなかった。
ところが、判事になってみるとそれまで理論の問題として頭で考えていたことを、生の事件について身をもって心で痛切に感じるようになった。
(私達も裁判員になればそうなるのでしょう)
裁判官にとって事実認定が一番大事なことだ。
私もそれは理屈の上では充分承知していたつもりだが、いよいよ判事になり生の事件にぶつかってみるとまさしく真剣勝負、特に死刑事件では事実認定の重さに打ちひしがれる思いだった。
死刑事件では事実認定の関係で特別難しい問題にぶつかる。
刑事裁判では〈犯人ではないという合理的な疑いあり無罪〉〈その合理的疑いを差し挟まない程度に有罪心証とれたとき有罪〉が有罪、無罪を決める基準だ。
ところがこれを死刑事件でやるとどうなるか。
ある田舎町でおこった毒殺事件で、少なくとも〈合理的疑いを差し挟まない程度の有罪心証〉はとれるが、かといって、絶対に間違いがないかというと一抹の不安が拭い切れない、そういう事件にぶつかった
(被告人は公判に入ってから一貫して無実を主張していた)
〈合理的疑いを差し挟まない程度の有罪心証〉はとれるから無罪を出すわけにはいかない。
有罪判決を出して当然の事案である。
また事実がその通りなら情状酌量もできない冷酷な犯行だから、死刑制度がある以上死刑判決を出すより他ない事件だ。
しかし間違いないかと言えば、一抹の不安が拭えない…
が、一抹の不安を理由に死刑から無期懲役に減軽するのは現行法上不可能である。
死刑制度がある以上、死刑にするしかなく、私は悩んだ。
そして判決の日、死刑を言い渡し退廷するとき、被告人の家族とおぼしき人々から「人殺しっ」という罵声を浴びせられた。
その声は今も耳の底に焼き付いている。
こうしてみると、死刑というものが制度として存在しなかったら私はどんなに気持ちが割り切れたかと思う。
この時以来、私は非常に強く死刑廃止の気持ちを持つ様になった。
〈死刑は誤判があったとき取り返しがつかないではないか〉とは昔から言い古された議論だ。
私も無論この議論はよく知っており、頭ではわかっていたつもりだった。
しかし頭でわかっていただけで、本当に身につまされて心底わかってはいなかった。
最高裁で自分が死刑を扱う立場に立ってみて、私は死刑事件における事実認定の重みというものを、初めて、嫌という程痛切に味わわされたのだ。
〈誤判だったらどうするのだ〉
今ではこの言い古された議論こそが、死刑廃止論の最後の決め手になると信じる。
(以上)
私達も裁判員として裁く立場に立ったとき、100%間違いないという自信を持てないにも関わらず、死刑判決を出さざるを得ない場面に遭遇することもあるでしょう。
その時、私達は良心の呵責を感じずに済むでしょうか…
裁く立場から死刑と誤判を想像してみるのもいいと思います。
もうじきそれは単なる想像ではなく、現実となりますので…
(2007/3/1)
裁く立場となる者の心得として一度は聞いておいて欲しい話です。
文献:団藤重光著『死刑廃止論』より(趣旨を変えない程度に省略等してあります)
私は実際に裁判官となって死刑事件を担当する様になってから積極的な廃止論者になった。
それまでも緩かな廃止論者ではあったが、私の死刑廃止の態度は煮え切らなかった。
ところが、判事になってみるとそれまで理論の問題として頭で考えていたことを、生の事件について身をもって心で痛切に感じるようになった。
(私達も裁判員になればそうなるのでしょう)
裁判官にとって事実認定が一番大事なことだ。
私もそれは理屈の上では充分承知していたつもりだが、いよいよ判事になり生の事件にぶつかってみるとまさしく真剣勝負、特に死刑事件では事実認定の重さに打ちひしがれる思いだった。
死刑事件では事実認定の関係で特別難しい問題にぶつかる。
刑事裁判では〈犯人ではないという合理的な疑いあり無罪〉〈その合理的疑いを差し挟まない程度に有罪心証とれたとき有罪〉が有罪、無罪を決める基準だ。
ところがこれを死刑事件でやるとどうなるか。
ある田舎町でおこった毒殺事件で、少なくとも〈合理的疑いを差し挟まない程度の有罪心証〉はとれるが、かといって、絶対に間違いがないかというと一抹の不安が拭い切れない、そういう事件にぶつかった
(被告人は公判に入ってから一貫して無実を主張していた)
〈合理的疑いを差し挟まない程度の有罪心証〉はとれるから無罪を出すわけにはいかない。
有罪判決を出して当然の事案である。
また事実がその通りなら情状酌量もできない冷酷な犯行だから、死刑制度がある以上死刑判決を出すより他ない事件だ。
しかし間違いないかと言えば、一抹の不安が拭えない…
が、一抹の不安を理由に死刑から無期懲役に減軽するのは現行法上不可能である。
死刑制度がある以上、死刑にするしかなく、私は悩んだ。
そして判決の日、死刑を言い渡し退廷するとき、被告人の家族とおぼしき人々から「人殺しっ」という罵声を浴びせられた。
その声は今も耳の底に焼き付いている。
こうしてみると、死刑というものが制度として存在しなかったら私はどんなに気持ちが割り切れたかと思う。
この時以来、私は非常に強く死刑廃止の気持ちを持つ様になった。
〈死刑は誤判があったとき取り返しがつかないではないか〉とは昔から言い古された議論だ。
私も無論この議論はよく知っており、頭ではわかっていたつもりだった。
しかし頭でわかっていただけで、本当に身につまされて心底わかってはいなかった。
最高裁で自分が死刑を扱う立場に立ってみて、私は死刑事件における事実認定の重みというものを、初めて、嫌という程痛切に味わわされたのだ。
〈誤判だったらどうするのだ〉
今ではこの言い古された議論こそが、死刑廃止論の最後の決め手になると信じる。
(以上)
私達も裁判員として裁く立場に立ったとき、100%間違いないという自信を持てないにも関わらず、死刑判決を出さざるを得ない場面に遭遇することもあるでしょう。
その時、私達は良心の呵責を感じずに済むでしょうか…
裁く立場から死刑と誤判を想像してみるのもいいと思います。
もうじきそれは単なる想像ではなく、現実となりますので…
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