憲法25条の生存権を「抽象的権利」から「具体的権利」に昇格しよう
- 2009/09/29
- 16:00
かつて学生だった頃、私は憲法25条の生存権は、判例はプログラム規定説に近い抽象的権利説、学説も抽象的権利説が主流で、具体的権利説は少数説だと学びました。
プログラム規定とは、国政の目標ないし方針を宣言した規定をいいます。
この説に拠れば、25条はあくまで国の政治的、道徳的な努力目標を定めた規定に過ぎないので、国民は国に政治的権利として要求は出来ても、法的権利として主張できません。
つまり、国が生存権実現のために十分な立法、行政を行わなくても、一切裁判で争うことが出来ません。生存権には法的権利性はないのです。
抽象的権利とは、25条は一応法的な権利ではあるが抽象的な権利にとどまるため25条を直接根拠として請求は出来ず、法律があって初めて具体的な法的権利が発生する、とする見解です。
権利性はプログラム規定説より一段高いと言えますが、具体的法律で権利が具体化されない限り裁判で争えません。
例えば非正規労働者のセイフティネットが不十分なことについて立法の怠慢を裁判の場で問うことは出来ないし、それらについて法律が出来るまでは非正規労働者の生存や雇用の権利を侵害されたと訴えることは出来ないことになります。
また、具体的法律がある場合、立法府、行政府の裁量範囲を狭く解釈すれば、25条違反と判断される可能性は広くなりますが、裁量範囲を大幅に認めれば「立法、行政の裁量の範囲内」でけられてしまうのですから、結果的にプログラム規定説ととても近くなります。(これが判例です)
これに対し、25条は具体的権利である、という見解もあります。
どこが違うのかというと、法律が存在するときは25条を根拠として違憲の主張も出来るし、法律が存在しないときは直接25条を根拠に立法不作為を問うことが出来る点が違います。
つまり、生存権をより確かに保障ができるのです。
昨今の酷い現状をみると、25条の生存権は、抽象的権利ではなく、具体的権利だと主張したくなってきます。
最高裁が、プログラム規定説に近い抽象的権利説をとったのは、朝日訴訟においてでした。
立法、行政の裁量範囲を広く認め、「病床でせめてリンゴ一つでも食いたい」という朝日さんのささやかな願いが叶えられない非情な判決だったと思いますが、今にしてみると朝日さんは入院できてただけまだマシだったかもしれません。
なぜなら今は命に関わる病気になっても病院に行くことすらできないのですから。
現実はすっかり変わってしまいました。
給食がない夏休みになると、貧困家庭の子供は満足な食事をとれず痩せてしまう。
非正規切りにあって、ある日突然住居をなくしホームレスになる。
命に関わる病気になっても病院に行けずそのまま命を落とす。
または餓死してしまう。
かつてはありえなかったような貧困、生存の危機が溢れてきています。
これでもまだ憲法25条違反でないと強弁するのはもう、屁理屈、ペテン、詐欺と言っていいと思います。何のための25条でしょうか。
こういう悲惨な状態が現実なら、憲法はそれに対応しなくてはなりません。これこそ「現実路線」です。
そのために、生存権を抽象的権利から具体的権利に昇格させてもいいと思うのです。そうすることによって、直接給付を求められないまでも、立法の不作為を問えるようになります。
ひとつ心強いのが去年のイラク派遣違憲判決で「平和的生存権」が憲法上の「具体的権利」として裁判で認められたことです。
平和的生存権を侵害され違憲だ、と直接裁判で争い、違憲行為の差し止めや損害賠償請求ができるようになったのです(抽象的権利だとそれが出来ません。)
これは本当に画期的なことでした。
『平和とはあらゆる「恐怖と欠乏」から免れた状態を意味する。戦争や軍隊といった「なまの暴力」だけでなく、貧困・飢餓・抑圧などの「構造的暴力」もない状態、これが平和である。憲法前文が、「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」といっているのは、このことを意味する。つまり、憲法が確認した「平和的生存権」は、それじたいとしては、「構造的暴力」もない状態で生きる権利という内容までふくんでいるのである。※構造的暴力 むきだしの暴力でなく、社会構造の中に組み込まれた暴力(浦部法穂著「憲法学教室」より 下線は私)』
だとすれば、派遣村は、構造改革路線という「構造的暴力」によって貧困、飢餓の危険にさらされ平和的生存権を侵害された人々の集まりだったと言えるのではないでしょうか。
現在も生存を侵害されている人々は増えこそすれ決して減ってはいません。
政権が立法、行政で対処することがもちろん一番急がれるべきですが、それとは別に、憲法の解釈に於いても憲法25条の生存権の性質を具体的権利であると一歩進めて構成しなおす必要があるのではないでしょうか。
憲法は、役に立たないお飾りであっていいはずはないと、私は思います。
プログラム規定とは、国政の目標ないし方針を宣言した規定をいいます。
この説に拠れば、25条はあくまで国の政治的、道徳的な努力目標を定めた規定に過ぎないので、国民は国に政治的権利として要求は出来ても、法的権利として主張できません。
つまり、国が生存権実現のために十分な立法、行政を行わなくても、一切裁判で争うことが出来ません。生存権には法的権利性はないのです。
抽象的権利とは、25条は一応法的な権利ではあるが抽象的な権利にとどまるため25条を直接根拠として請求は出来ず、法律があって初めて具体的な法的権利が発生する、とする見解です。
権利性はプログラム規定説より一段高いと言えますが、具体的法律で権利が具体化されない限り裁判で争えません。
例えば非正規労働者のセイフティネットが不十分なことについて立法の怠慢を裁判の場で問うことは出来ないし、それらについて法律が出来るまでは非正規労働者の生存や雇用の権利を侵害されたと訴えることは出来ないことになります。
また、具体的法律がある場合、立法府、行政府の裁量範囲を狭く解釈すれば、25条違反と判断される可能性は広くなりますが、裁量範囲を大幅に認めれば「立法、行政の裁量の範囲内」でけられてしまうのですから、結果的にプログラム規定説ととても近くなります。(これが判例です)
これに対し、25条は具体的権利である、という見解もあります。
どこが違うのかというと、法律が存在するときは25条を根拠として違憲の主張も出来るし、法律が存在しないときは直接25条を根拠に立法不作為を問うことが出来る点が違います。
つまり、生存権をより確かに保障ができるのです。
昨今の酷い現状をみると、25条の生存権は、抽象的権利ではなく、具体的権利だと主張したくなってきます。
最高裁が、プログラム規定説に近い抽象的権利説をとったのは、朝日訴訟においてでした。
立法、行政の裁量範囲を広く認め、「病床でせめてリンゴ一つでも食いたい」という朝日さんのささやかな願いが叶えられない非情な判決だったと思いますが、今にしてみると朝日さんは入院できてただけまだマシだったかもしれません。
なぜなら今は命に関わる病気になっても病院に行くことすらできないのですから。
現実はすっかり変わってしまいました。
給食がない夏休みになると、貧困家庭の子供は満足な食事をとれず痩せてしまう。
非正規切りにあって、ある日突然住居をなくしホームレスになる。
命に関わる病気になっても病院に行けずそのまま命を落とす。
または餓死してしまう。
かつてはありえなかったような貧困、生存の危機が溢れてきています。
これでもまだ憲法25条違反でないと強弁するのはもう、屁理屈、ペテン、詐欺と言っていいと思います。何のための25条でしょうか。
こういう悲惨な状態が現実なら、憲法はそれに対応しなくてはなりません。これこそ「現実路線」です。
そのために、生存権を抽象的権利から具体的権利に昇格させてもいいと思うのです。そうすることによって、直接給付を求められないまでも、立法の不作為を問えるようになります。
ひとつ心強いのが去年のイラク派遣違憲判決で「平和的生存権」が憲法上の「具体的権利」として裁判で認められたことです。
平和的生存権を侵害され違憲だ、と直接裁判で争い、違憲行為の差し止めや損害賠償請求ができるようになったのです(抽象的権利だとそれが出来ません。)
これは本当に画期的なことでした。
『平和とはあらゆる「恐怖と欠乏」から免れた状態を意味する。戦争や軍隊といった「なまの暴力」だけでなく、貧困・飢餓・抑圧などの「構造的暴力」もない状態、これが平和である。憲法前文が、「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」といっているのは、このことを意味する。つまり、憲法が確認した「平和的生存権」は、それじたいとしては、「構造的暴力」もない状態で生きる権利という内容までふくんでいるのである。※構造的暴力 むきだしの暴力でなく、社会構造の中に組み込まれた暴力(浦部法穂著「憲法学教室」より 下線は私)』
だとすれば、派遣村は、構造改革路線という「構造的暴力」によって貧困、飢餓の危険にさらされ平和的生存権を侵害された人々の集まりだったと言えるのではないでしょうか。
現在も生存を侵害されている人々は増えこそすれ決して減ってはいません。
政権が立法、行政で対処することがもちろん一番急がれるべきですが、それとは別に、憲法の解釈に於いても憲法25条の生存権の性質を具体的権利であると一歩進めて構成しなおす必要があるのではないでしょうか。
憲法は、役に立たないお飾りであっていいはずはないと、私は思います。
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