中国の習近平(シー・チンピン)国家副主席が天皇と会見した件で、宮内庁や自民党から「一ヶ月ルールを無視して強引に会見を設定したのは天皇を政治利用している」と批判が起きたことをマスコミが大きく取り上げています。
経緯については下のリンク記事をどうぞ
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天皇会見、首相が強く要請 宮内庁が異例の経緯説明 ◆
小沢幹事長の記者会見発言…天皇会見問題">小沢幹事長の記者会見発言…天皇会見問題 まず、副主席との会見ですが、もしこれが憲法に定められた国事行為ならば、「天皇の国事行為は内閣の助言と承認で行う。何をするにしたって、天皇陛下は、助言と承認で、と憲法に書いてある。それを政治利用だと言われたら天皇は国事行為自体できなくなってしまう」という小沢さんの言い分は、正しいのです。
宮内庁の内規より内閣の助言と承認の方が上位ですから「一ヶ月ルールを破ったから天皇の政治利用だ」などとトンチンカンなことを言われる筋合いはありません。
しかし外国要人との会見は憲法で定められた国事行為ではなく、憲法になんら規定のない「公的行為」「象徴としての行為」と呼ばれるものに当たります。従って小沢さんの言い分をそのままこの会見に当てはめることは出来ないと思います。
もっとも、このような公的行為でも政治性をおびてはならないことは当然です。それは「国政に関する権能を持たない」と定めた憲法上の要請です。この公的行為も、もちろん内閣の責任の下で行われるものとされています。(ちなみに国事行為以外の「公的行為」が認められるかという論点は横に置いときます)
結局会見は行われたわけですが、内閣からのこの会見要請は、果たして宮内庁が抗議するようなような「天皇の政治利用」なのでしょうか?
そして、ここまで大げさに騒がれるほどのことでしょうか?
羽毛田長官がこのような異例の懸念表明を行ったのは、「現憲法下の天皇のお務めのあり方や役割といった基本的なことがらにかかわること」ついては『ぜひルールを尊重してほしい』でなければ,「天皇の政治的利用につながりかねないとの懸念を持っている」からだそうですが、なんかピンときません。
(なお余談ですが、自民党では安倍元総理が率先して「天皇の政治利用は許せない」と張り切っていますが、これに関しては「お前が言うな」です。2006年に、天皇はインド洋やイラクに派遣された自衛隊員ら約180人を皇居に招いて慰労しました。これは安倍内閣のもとにおこなわれたのではなかったでしょうか。これこそ、世界から非難された戦争を支持し、憲法上疑義を呈されたイラク派遣を天皇の慰労で鼓舞しようという、天皇の政治利用だと思います)
だいたい1ヶ月ルールって、天皇の体調と日程調整のための内規にすぎないのに、この手続に反したことをもって何故「政治利用」になるのでしょう?
たまたま申し込みが遅くなってしまうケースだってあるでしょう。もし会見を一ヶ月より前に申し込んでいたら「政治利用」ではないが、一ヶ月を切ったとたん「政治利用」になるのかしらん???
それとも中国の副主席に会うことが他の外国の要人に会うことに比べてより政治的だとでもいうのかしら?
わけがわかりません。
先ほども書いたように、一ヶ月ルールは天皇の体調と日程調整が目的なのですから、天皇の体調と日程と相談しながら柔軟に運用すればいいのです。
これは内閣と宮内庁が内々に調整すべき事務レベルの話にすぎず、宮内庁は公に訴える必要などないと思いますし、マスコミも騒ぐ必要がないと思います。
(そういえば以前岡田外相の「おことば」問題も大げさに取りざたされましたね、思い出しました。今も「自民の元総理が会見を要望したと前原大臣が述べた」というニュースが流れてますが、どうでもいいニュースに心血注ぐんですねえ、マスコミって)
では、何故羽毛田長官はこんな異例の表明をしたのでしょうか。
陛下は会いたいからといって直ぐにホイホイ会えるような軽々しい存在ではない。威厳ある存在なのだ。
そしてヘイカをお守りする我々宮内庁のいうことは絶対なのデアル。
「上官の命令は天皇ヘイカの命令であります」の宮内庁版ですね。
要は、宮内庁は、天皇に関する決まり事にはと些細な違反も許されないことを示し、それによって宮内庁の威厳を誇示したいという「政治的意図」があったのではないのでしょうか?
まんざら穿った推測でもないと思います。
(安倍さんはリアルネトウヨですから「何故中国ごときに大サービスして我が大元帥ヘイカを合わせてやらにゃならんのだ!キィキィ!」ってところでしょうか(笑)・・・ひょっとして羽毛田さんも?)
さて、「政治利用」と騒ぐほどでないとはいうものの(追記:他の外国の要人との会見と比べてとりたてて騒ぐほどではない、という意味です。) さて、上で見たように、宮内庁が一ヶ月ルール違反を根拠に「天皇の政治利用だ」と批判するのはおかしな事なのですが、「日中関係の重要性にかんがみてぜひお願いする」という平野発言からもわかるように、この会見は政治的な性質が全くゼロだったわけではありません。
天皇は、憲法で定められた国事行為である「公使、大使の接受」の他に、外国の元首などの要人と会見したり晩餐会を開いたりします。これは天皇の(私的行為でも国事行為でもない)いわゆる公的行為と言われるもので、副主席の会見もこれにあたるかと思います。 当然ですが、天皇は来日した全ての外国の要人と会うわけではありません。誰と会うのかは内閣が決めるのであり、そこでは政治的な動機や目的が絡んでくるのはどうしたって排除できないのです。
というか、天皇を政治利用してはいけない、政治性を帯びさせてはいけない、というからには、天皇は非政治的な存在であるべきだし非政治的な存在でいることが可能である、ということが前提になっていると思います。
しかし、そもそも天皇は非政治的存在という前提が幻想なのではないでしょうか?天皇は存在そのものが政治的なのではないでしょうか
この点につき、とても本質を突いたエントリーがありましたのでお持ち帰りです
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社会科学者の時評 ■ 天皇の政治的な利用の問題 ■ (引用開始) 現状において実際に天皇がおこない・かかわっている国事行為に関していうと,たとえば第7条第8号の「批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」や,第7条第9号の「外国の大使及び公使を接受すること」などを参照すればすぐに理解のいく,こういう問題がある。すなわち,それらは本来「国家元首の仕事である」にもかかわらず,形式的・儀礼的な行為とはいえ,わざわざ天皇に役割分担させているところにこそ,その種の「誤解〔とりわけ海外に向けて〕を発生させる」原因がある。 したがって,勘違いした発展途上国の大使たち〔など〕がときおり,天皇に対して外交政治の問題をとりあげたり経済援助の要請を口にしたりすることも起こる。要は,とても誤解されやすい憲法上の制度であるのが,天皇の「国事行為」なのである。どっちにでも転ぶような危うい均衡の上に成立させようとしているこの「天皇による国事行為」は,その性質上,もともと制度的な矛盾を不可避に抱えこんでいた〈天皇の仕事=機能〉といえる。 宮内庁は「天皇の政治利用」を非常に神経質になって恐れているかのように,天皇が政治にかかわる行為のありかたを用心深く〈統制・管理している〉。 けれども,自衛隊という名の軍隊を,それも「非戦闘地域」という〈まやかしの形容〉でもって,イラクという戦争〔内戦〕中の国においてアメリカ軍の褌担ぎのような任務を背負わされ,それも「後方支援」という軍事作戦的に位置・評価づければとても大切な役目を押しつけられた日本軍(自衛隊)の幹部〔それも選ばれた高級将校〕に対して,天皇が慰労のことばをかけた。 平成天皇の「象徴の立場」からのそうした行為は,まさしく形式的・儀式的な「国事行為」の範疇をはるかに超越した「君主者的な王者の行為」といわざるをえない。 常識的にいえば,その行為=役目を果たすべき者は「首相という立場にいる日本国家の最高責任者」であるし,本来であればこの人物しかいないはずである。だが,そこになぜか「天皇が割りこんでいる」のが現状。だからこそ,要らぬ問題も発生してくる。象徴天皇による〈国事行為〉うんぬんを定めた「憲法上の不可解な規定」は,必然的に「摩訶不思議」的に現象する問題点を招来させるほかない。 なかんずく,宮内庁は天皇の「国事行為」の範囲をなるべく拡大・充実させたいと思っている。ただし,憲法のその規定の範囲に収まっているという〈いいわけ〉は,いつでも確実に留保しておきたい。とまあ,宮内庁はこのようにきわめて調子のよい,天皇一家のための行政・運営をおこなっている官庁組織である。この宮内庁はいいかえれば,「二枚舌」的な修辞を得意とするお役所であり,鵺(ぬえ)的なお面をかぶっているところに,その組織特性がみいだされる。 (略) 「国事行為」というものは明らかに,いつでも・どこでも政治利用になりうる本質を有している(略) いままでの実績で判断するかぎり,宮内庁は国事行為をはるかに逸脱させてきた「数々の〈天皇の政治的行動〉」を実際では許して〔やらせて〕きた。現実にはそうしていながらも,憲法上に規定された「国事行為」の領域を守りたいと,必死に主張するかのようなポーズをとっている。そしていまさらのように,民主党政権の要請は「天皇の政治的利用につながりかねない・・」などと反応〔反撥〕する。 以上のごとき宮内庁の態度は,いかんせん「おためごかし的なブリッコぶり」の発揮にしか映らない。いわば,高度に欺瞞的でもある「田舎芝居」。それも大根役者風の・・・。(引用ここまで)
■ 天皇は政治的存在である ■ ◎ 政治的存在である天皇を政治的に利用するなという頓珍漢 ◎ (略) この様子を観察していた本ブログの筆者は,いささかならずおかしな気分になった。というのも,日本国憲法に規定されている「天皇の地位」に関することがらゆえ,この地位に座する人物の動静は,どのようなものであれ,そのすべてが政治的なものであるほかない。それなのに「1カ月」以上以前に予約をすれば「政治的利用」にならないが,その期限を切って「天皇への会見」を要請するのは天皇の政治的利用になる,というふうにも聞こえる議論がゆきかっている。 それにくわえて,平成天皇「明仁」も高齢であるから「この人の健康も考えてほしい」という要素までが,政治的利用うんぬんの次元での話にもちこまれてもいる。考えてみればこれは,ずいぶん奇妙で非論理的な区分などにもとづく論法である。「国の象徴」ではあっても,もともと「天皇の地位」は政治的である。この人に会う約束をもらうのに1カ月を期限=基準に「政治的だ」とか「いや,そうではない」とか,甲論乙駁がなされている。 そのような議論をしている暇があるなら,つまり,民主主義における国家体制を敷いているつもりである「日本国の政治的焦点」として,「天皇という政治的存在=天皇制」がどのようにみなおされるべきか,こちらを真剣に考えるほうが先決問題ではないか? 要するに,政治的存在以外のなにものでもない天皇制を「政治的に利用しているのか否か」という議論の方途が,根本的にお門違いであるにもかかわらず,水に油を溶かしこむことができるかのように期待されている様子がある。だが,これでは,なんら実りある当該論点の掘り下げはできない。現象問題の追跡・その当否の議論に追われて,肝心な本質的論点が蒸発してしまったかのようでもある。 天皇という人間が日本という「国の象徴」であらねばならない本当の理由は,なにか? 憲法にそう書いてあるからか? そのような認識で納得してよいのか? ③ 海外では,天皇を国家元首であるかのように振る舞わせる,日本国の外務省 網野善彦・吉本隆明・川村 湊『歴史としての天皇』(作品社,2005年)は,こう語っている。 a) 韓国「釜山の領事館」「建物の正面に菊の紋章と日の丸。そして天皇誕生日には必ず,領事館,大使館主催のパーティをやる」。「ペルーの場合,日系人の間では天皇誕生日-まだ天長節といっていましたね-が一番大きな祭りになっている」。「とにかく,そういう形で菊の紋章が外交で顕わに用いられているということは,日本国の元首は天皇であるということを外国に対して宣揚しつつあるということになりますね」(網野,157頁)。 b) 「なにしろ,パスポートに菊の紋章がついています」。「結局,天皇,皇室を憲法ではっきりと “象徴” と規定している」。「菊の紋章,昭和という年号に日本のシンボルとして使われる」。「日本はそういう意味で対外的に自国,自民族をシンボライズするものを積極的にアピールしていない」。 c) 「日の丸,君が代,菊の紋章に対する排斥感はあっても,それに代わりうるものを何一つ反体制,左翼の側も打ち出せなかった」。そういう空白の部分に積極的に天皇を推し出そうというグループがいて,それに押し切られている」。「天皇国家としての日本ではない対外的イメージの創出に,日本の戦後は失敗している」(川村,157-158頁)。 これ〔とくに a) b) 〕こそまさに,天皇=皇室の端的な政治利用ではないのか? 宮内庁はこうした現実を黙認どころか,大いに歓迎している。 だから,今回のように平成天皇と「中国の習国家副主席との会見設定」の〈もっていきかた〉をした「政府当局者のやりかた」,いいかえれば「鳩山由紀夫首相の強い要請で慣例に反して,その会見が決められた」点を批判した羽毛田宮内庁長官の発言,つまり「天皇の中立・公平性に疑問を招き,天皇の政治利用につながりかねないとの懸念を表明した」態度は,片腹痛いなどという珍妙な水準を飛びこえて,宮内庁側における〈自家撞着そのもの〉の言説である。(引用ここまで)
宮内庁や自民党の「政治利用だ」との攻撃がなんか変だ感じるのは、ちょうど「女性天皇を認めないのは男女平等を定めた憲法の理念に反する」という主張に感じる違和感に似てるかもしれませんね(そもそも天皇制自体が平等原則に反した例外なのに、その継承にあたって男女平等を言われてもね・・)
諸外国のみならず国民にまで、あたかも天皇が元首であるかのような演出をしてきたことこそが120%「政治利用」でしょう。戦前からの連続性があるが故に、天皇とはそういう極めて政治的な存在なのだと思います。
だから宮内庁に「政治利用するな」と言われても思わず言い返したくなります。
「お前が言うな」と。
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