またまたワンテンポ遅くて申し訳ないのですが、先日阿久根市の竹原市長がまたご乱心あそばしました。
◆asahi.com(朝日新聞社)
阿久根市長「反対派を排除します」 反市長派会合で宣言◆毎日jp(毎日新聞)
阿久根市長:報告会に乱入 反市長派議員に「ばーか」この方、モンスター首長軍団の中で最近は最先端をぶっちぎっていますね。
私はこういうモンスター首長達がマスコミで無批判にもてはやされる状況をとても憂えています。竹原市長、橋下知事、石原知事などのモンスター首長達を支えているのは、彼らを首長に選出した「民意」だからです。(もっともさすがに竹原市長には風当たりが強いですが)
これお・ぷてらさんが鋭い指摘をされているので引用させていただきます。
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花・髪切と思考の浮游空間河村たかしと橋下徹と竹原信一、そして石原慎太郎(引用開始)
三者三様(四者四様?)であるようにみえながら、実は共通点をもっているこの4人。河村たかしと橋下徹と竹原信一。東京や大阪、名古屋市とほ異なり、一地方都市の阿久根市の市長がこれほどメディアに登場するのは何故でしょうか。
それは、竹原信一という人物の言動が、度を越えている、それも極度に、ようするに常軌を逸しているからにほかなりません。思い余って、「毎日」が本日、取り上げています。
阿久根市長:暴走する「救世主」 市民の不満後ろ盾に
「毎日」の表題にあるように、竹原の極端な言動は、市民の支持によって支えられている。これに尽きます。換言すれば極端が市民によって担われているということになるでしょう。「阿久根を変えるにはあの人しかおらん」、これに尽くされています。だが、竹原のやったこと、議員定数の削減や市の人件費カットの主張に留まりません。障害者への差別的発言一つをとっても許されることではありません。ましてや竹原という人物は、公の立場をいわば代表する市長という職についているのですから。
共通点ということにふれましたが、その政治手法がまるでそっくり。議会と職員を狙い打ちにするというそれ。竹原を例にあげると、議員・職員の高給取りを持ち出し、市民の支持をうるという作戦に出る。橋下も河村も、そして石原も同様でしょう。都民、府民、市民の生活を追い込んでおきながら、それを逆手にとって、窮状を実感する彼らの共感を呼び起こすのです。「高給取り」、この言葉はいつも大衆の不満を一言で象徴するものでした。
ちょうど一週間前、「朝日」が河村を取り上げていました(3月7日付)。インタビュー記事です。タイトルは「議会とたたかう訳」。そう、河村は、まさに議員とたたかっているのです。その際も、議員の報酬です。2400万円という名古屋市議会議員の報酬額が妥当かいなかは横に措くとして、これこそが河村への支持を結集する手段となりました。そして、議員定数の削減提案。これも竹原と同じ。さらに、市民の抱き込み策を同時に提案するという手法もまた同じ。河村は市民税の減税を、そして竹原は記事にあるとおり、ごみ袋・給食費・保育料の減額を提案するのですから。橋下も、石原もやり方はまったく同じ。たたく標的を大々的に宣伝し、それをもとに自治体住民の支持を訴えるというものです(引用ここまで)
少し古いのですが、以前阿修羅で見つけたこの記事が辛淑玉さんの小論攷を紹介しています。
とても大切な事を言っていると思うので個人的にメモしていたのですが、竹原市長のご乱心の機会にあらためてエントリーにメモして皆さんにも読んでいただきたいと思います。
http://www.asyura2.com/10/senkyo76/msg/504.htmlより
さて、下記の辛淑玉さんの小論攷は、上記の阿久根市長と橋下知事らとの同質性、また、同市長が進めようとしている「革命」なるものの危険性を考えるについて、とても参考になる記事だと思います。
週刊金曜日748号(4月24日)の特集は「どこへいくニッポンの民度 タレント知事がやってきた」というものでしたが、その特集の囲み記事(「ウケ狙いの政治の果て」)で、辛淑玉さんは「大衆の中にある差別感情を扇動する」ということについて次のように書いています。
「芸能番組で生きてきた彼ら(東本注:タレント政治家)は、同じテレビで活躍していてもジャーナリスト出身の政治家とは異なり、絶えず視聴率を意識し、スポンサーや興行主にへつらい、また師匠=君主、弟子=奴隷という封建的人間関係が体にしみついている。ビートたけしの前の東国原知事を見るまでもなく、配下の者には絶対者として君臨するという家父長主義的な芸能界の掟が、タレント知事の誕生でそのまま政治に持ち込まれているのだ」
「たとえば、彼らの常套手段は『公務員攻撃』だ。カメラの前ではこれがウケる。公務員はその仕事の割に高給を取っているというのがその理由だが、バブルの頃は優秀なやつは公務員になどならなかった。今は、民間の給与水準が低下したために、相対的に地方公務員が給与が高くなっているだけだ。/労働者の組織率が低く、組合運動が弱い地方の民間企業の労働者が資本の攻撃に負けた結果として賃金の崩壊が進んだにもかかわらず、その大衆のうっぷんを地方公務員に対する怨嗟と八つ当たり攻撃にすり替えた。まさにウケ狙いの政治だ」
「さらに、社会の変化についていけず、被害者感情を募らせている一般大衆の持つねたみやそねみを、八十年代以降のリベラルな社会運動がもたらした制度改革によって社会上昇を果たしたマイノリティに対する攻撃に誘導しようとしている/大衆の中にある差別感情を扇動することによって当選を果たしたタレント知事が言う『地方から日本を変える』とは、資本の手先となって『大衆の敵』を作り出し、本当の敵から目をそらさせ、日本を政治のガラパゴス化させることなのだ」
はなゆーさんが紹介される西日本新聞の記事。「ボーナスのない企業もあり、民間の生活はギリギリなのに、市職員の半数は年収が700万円以上もある」という公務員の賃金についてのタクシー運転手男性(60)の嘆きは真っ当な嘆きであり、悲鳴です。しかし、誰が、そして、どのような経済構造のもとにそのような事態が現出しているのか? そのことの考察を抜きにして、安易にそのタクシー運転手の悲嘆に共感するだけでは、辛淑玉さんが指摘する罠に陥る可能性があります。
再選された阿久根市長が行おうとしている「革命」と橋下「革命」との類似性は報道等で指摘されているとおりです。そのことがすでに示唆的ですが、彼らの「革命」宣言は、「被害者感情を募らせている一般大衆の持つねたみやそねみ」「大衆の中にある差別感情」をさらに助長、扇動し、結果として「資本の手先となって『大衆の敵』を作り出し、本当の敵から目をそらさせ、日本を政治のガラパゴス化させること」につながるドン・キホーテ的なポピュリズム宣言というべきだろう、と私は思います。
私たちはそのことに自覚的でありたい、と思います。
誰かをスケープゴートに祭り上げ、むこうは悪、自分たちは善だとして一斉に攻撃する煽動にのせられることは、一体感も得られある意味とても心地の良いものです。
ですから私達はこのような悪しきポピュリスト達の手口をしっかり覚えておいて、その誘惑に負けないようにしなければなりません。これは何度も繰り返して自戒しておくべきでしょう
また、誰かをスケープゴートに祭り上げ一斉に攻撃することで社会が溜飲を下げる、という構図はモンスター首長の例に限らず、至る所でみられます。
犯罪報道で、被疑者段階から真犯人扱いした報道を繰り返し、社会の憎悪を煽り立て、凶悪犯罪にはこぞって死刑をと叫ぶのもこの構図の一つではないでしょうか。
ビデオジャーナリスト神保哲生さんのブログから
なぜわれわれは社会の敵を求めるのかより一つの指摘を引用します。
それにしても最近の日本は、社会の共通の敵を見つけることに甚だ熱心のように見える。まずマスメディアがその先導役を務め、どこからか感情のフックを備えたネタを見つけてくる。そして、さんざん祭を盛り上げた上で、最後は真打ち登場とばかりに検察が現れ、悪者を退治して社会正義を貫徹する。それによって社会は溜飲を下げると同時に安堵感を得る。
スケープゴートを叩いて満足しても、実は根本的な問題は何も解決されず何も前進していないものなのです。
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