~報道特集NEXTー裁判員制度スタート・・だが、市民参加で冤罪は(5/23放映)~より
- 2009/06/29
- 16:42
しばらくブログをお休みしていましたm(_ _)m
一ヶ月前のエントリー、報道被害をなくし、公正な裁判を行うためにのラストはここへリンクしています。
ほんとはもっと早く書く予定だったのですが例の如く遅筆ですみません。(汗)
5/23の報道特集NEXTでは、裁判員制度と冤罪についてのかなり時間を割いた良質な報道でした。
裁判員制度が始まったこれから、マスコミは常に裁判とはどうあるべきかを市民に問い続けて欲しいと思います。
残念ながら画像はないので、その内容を以下にメモしておきます。
~~~~~
建国以来陪審員制のアメリカでは、DNA鑑定によって過去25年間で235人もの無実の人間が死刑判決を受けたことが明らかになった。もちろん処刑されてから無実があきらかになったケースもある。
ジャーナリストのボブ・ウォーレイ氏は、
「1989年以来、死刑事件以外も含めDNA鑑定で285人が無罪となった。陪審員が有罪と判断した後で科学が潔白を証明した例は数え切れない」
と言う。
1986年におこった強盗殺人事件では、検察は二人の被告のうち一人について服に被害者の返り血が付いていたという証拠を提出、それを殺人の証拠と確信した元陪審員のグナイエクさんは、反対する他の陪審員を説得して有罪に導いた。
しかし判決から17年後、再審のDNA鑑定で服の血は被害者の物ではないと判明。
グナイエクさんは一転、死刑停止を求めて運動したが裁判所は判決を変えず、州知事が死刑執行を停止したのは執行数日前だった。
犯罪被害者の証言が冤罪に繋がった例もある。レイプ事件の犯人として有罪とされた被告人は後のDNA鑑定で無実であることが14年後に判明した。
警察があらかじめ用意した9人の中から被害者に犯人を選ばせたため、被害者はこの中に犯人がいると思いこんでしまい、その被害者の証言に説得力を感じた陪審員は判断を誤ったのだった。
ウィスコンシン大学では弁護士資格をもつ教員と法学生で構成する「無実プロジェクト」というものがあり、冤罪を訴える囚人からの依頼で有罪を覆す手助けをしている。
この無実プロジェクトが冤罪から救い出した第一号がクリストファー・オチョアさん、1988年に強姦殺人を自白し、終身刑に処せられた。
まだ20歳そこそこだったオチョアさんは
「取調の時警察官に、自白して署名しないと死刑にするぞと言われ自白した」と言う。
無実プロジェクトは被害者の体に残されたDNAから別件で服役中の真犯人を割り出すことに成功し、オチョアさんは12年ぶりに釈放された。
依頼人の多くが貧しくお金がないために優れた弁護士を雇うことが出来ず、陪審員を説得できなくて刑務所に入れられた。無実プロジェクトはロースクールの教育の一環なので無料で依頼できるのである。このようなプロジェクトは全米の大学で152ある。
では冤罪が生み出されるそもそもの原因はどこにあるのか。
1993年に両親を殺害したとして死刑判決を受け、5年後に無罪となったイリノイ州のゲリー・ゴーガンさんの場合
事件発生直後、ゴーガーさんは18時間立て続けの取調を受け、身に覚えのない両親の殺害を認めてしまう。
「警官が耳元でお前が殺したんだろう証拠はそろっている。嘘発見器でもわかった。どうしたらこんなことが出来るんだと何時間も言い続けます。洗脳ですよ。ふと、大変だ、自分がやってその記憶を無くしたのかも、と思ってしまいました。」
その後すぐに犯行を否認したが、陪審は最初の自白を理由に有罪と評決した。
イリノイ州ではゴーガーさんはじめ13人もの死刑冤罪が判明したため市民からの批判が高まり、冤罪の温床である密室での取調の抜本的な改革を州知事が決断した。(現在12の州で取調の可視化実施)
部屋全体がビデオカメラに写る取調室で、警察は最大48時間取調ができる。
録画は被疑者がトイレなどで部屋を開けたとき以外全て録画しなければ自白を証拠としてみとめられない。
録画と同時に署内のモニターにも映り、第三者の目に取調の様子が触れるようになっている。
録画したDVDは検察だけでなく弁護側にも渡される。
弁護士の判断次第で陪審員も見ることになる。
全米200の警察署にアンケートしたところ、自白を強要してない事を証明できるので供述が裁判で覆されにくくなったというメリットがある、と可視化に肯定的だった。
「なぜ無実の人が自白するのか」の著者スティーヴン・ドリズィン教授は、死刑もあり得る重大犯罪こそ取調の圧力が強まり嘘の自白がおきやすいと指摘する。
「記録に残る嘘の自白の大半は殺人関連です。」という教授は名張毒葡萄酒事件について日本の最高裁に異例の意見書を提出した。
名張事件はいったん再審開始決定がでたものの名古屋高裁が再審を取り消した。
「自分に不利な自白をするとは考えられない」というのが理由だが、教授はこれこそが誤りだとしてき。自白神話の神髄を見る思いがします
この事件で奥西さんは妻と愛人を失っており、動揺していた。
「毒葡萄酒事件のように自分の愛する人、兄弟姉妹や両親、親友などを殺された人が何人も嘘の自白をしています。警察による尋問でどんな心理状態に置かれるかを理解することが必要です。」
教授は日本の裁判員に自白など検察が提出する証拠を鵜呑みにしないようにと忠告する。
「裁判員は自分と闘わなければなりません。誰かを罰したい感情はあるでしょう。でも検察の主張が合理的かどうか、被告が有罪だと立証できているか厳しく追及する必要があります。」
斎藤猛さんは業務上横領の濡れ衣をきせられ、1年3ヶ月間拘留生活を送った。
状況証拠の積み重ねで犯人と決めつけ、裁判官には事件を否認したことで「反省の色がない」と言われた。結局店の女性従業員が犯人であることがわかって高裁で無罪となったが、この女性は不起訴処分となった。そこで斎藤さんは検察審査会に不服申立をした。審査会は起訴相当の判断を出し、女性は起訴された。
検察審査会は裁判員制度と同じく市民が司法参加する場である。
偶然にも斎藤さん自身は後に検察審査会に選ばれた。そこで検察の判断を覆す市民の目の重要性を強く感じたという。
だから斎藤さんは裁判員制度には期待している。
検察という国の機関の捜査を裁判官が覆すのは難しいと被告人になって痛感した。しかし市民にならできる。
「一般の人達の一般常識が入ってくれば、あれくらいの状況証拠だけで有罪判決になることは無かったと思う。ボクの冤罪も防げたのではないかと」
しかし裁判員制度の下で冤罪を出さないためには、検察が自分に有利な証拠しか出さない、ということをしないことが条件だ。
裁判に市民の良識が反映されるには裁判に提出される証拠が正しい物でなければならない。そうでなければ裁判員も正しい裁判が出来ない。
そのためにも取調の可視化がなくてはならない。
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一ヶ月前のエントリー、報道被害をなくし、公正な裁判を行うためにのラストはここへリンクしています。
ほんとはもっと早く書く予定だったのですが例の如く遅筆ですみません。(汗)
5/23の報道特集NEXTでは、裁判員制度と冤罪についてのかなり時間を割いた良質な報道でした。
裁判員制度が始まったこれから、マスコミは常に裁判とはどうあるべきかを市民に問い続けて欲しいと思います。
残念ながら画像はないので、その内容を以下にメモしておきます。
~~~~~
建国以来陪審員制のアメリカでは、DNA鑑定によって過去25年間で235人もの無実の人間が死刑判決を受けたことが明らかになった。もちろん処刑されてから無実があきらかになったケースもある。
ジャーナリストのボブ・ウォーレイ氏は、
「1989年以来、死刑事件以外も含めDNA鑑定で285人が無罪となった。陪審員が有罪と判断した後で科学が潔白を証明した例は数え切れない」
と言う。
1986年におこった強盗殺人事件では、検察は二人の被告のうち一人について服に被害者の返り血が付いていたという証拠を提出、それを殺人の証拠と確信した元陪審員のグナイエクさんは、反対する他の陪審員を説得して有罪に導いた。
しかし判決から17年後、再審のDNA鑑定で服の血は被害者の物ではないと判明。
グナイエクさんは一転、死刑停止を求めて運動したが裁判所は判決を変えず、州知事が死刑執行を停止したのは執行数日前だった。
犯罪被害者の証言が冤罪に繋がった例もある。レイプ事件の犯人として有罪とされた被告人は後のDNA鑑定で無実であることが14年後に判明した。
警察があらかじめ用意した9人の中から被害者に犯人を選ばせたため、被害者はこの中に犯人がいると思いこんでしまい、その被害者の証言に説得力を感じた陪審員は判断を誤ったのだった。
ウィスコンシン大学では弁護士資格をもつ教員と法学生で構成する「無実プロジェクト」というものがあり、冤罪を訴える囚人からの依頼で有罪を覆す手助けをしている。
この無実プロジェクトが冤罪から救い出した第一号がクリストファー・オチョアさん、1988年に強姦殺人を自白し、終身刑に処せられた。
まだ20歳そこそこだったオチョアさんは
「取調の時警察官に、自白して署名しないと死刑にするぞと言われ自白した」と言う。
無実プロジェクトは被害者の体に残されたDNAから別件で服役中の真犯人を割り出すことに成功し、オチョアさんは12年ぶりに釈放された。
依頼人の多くが貧しくお金がないために優れた弁護士を雇うことが出来ず、陪審員を説得できなくて刑務所に入れられた。無実プロジェクトはロースクールの教育の一環なので無料で依頼できるのである。このようなプロジェクトは全米の大学で152ある。
では冤罪が生み出されるそもそもの原因はどこにあるのか。
1993年に両親を殺害したとして死刑判決を受け、5年後に無罪となったイリノイ州のゲリー・ゴーガンさんの場合
事件発生直後、ゴーガーさんは18時間立て続けの取調を受け、身に覚えのない両親の殺害を認めてしまう。
「警官が耳元でお前が殺したんだろう証拠はそろっている。嘘発見器でもわかった。どうしたらこんなことが出来るんだと何時間も言い続けます。洗脳ですよ。ふと、大変だ、自分がやってその記憶を無くしたのかも、と思ってしまいました。」
その後すぐに犯行を否認したが、陪審は最初の自白を理由に有罪と評決した。
イリノイ州ではゴーガーさんはじめ13人もの死刑冤罪が判明したため市民からの批判が高まり、冤罪の温床である密室での取調の抜本的な改革を州知事が決断した。(現在12の州で取調の可視化実施)
部屋全体がビデオカメラに写る取調室で、警察は最大48時間取調ができる。
録画は被疑者がトイレなどで部屋を開けたとき以外全て録画しなければ自白を証拠としてみとめられない。
録画と同時に署内のモニターにも映り、第三者の目に取調の様子が触れるようになっている。
録画したDVDは検察だけでなく弁護側にも渡される。
弁護士の判断次第で陪審員も見ることになる。
全米200の警察署にアンケートしたところ、自白を強要してない事を証明できるので供述が裁判で覆されにくくなったというメリットがある、と可視化に肯定的だった。
「なぜ無実の人が自白するのか」の著者スティーヴン・ドリズィン教授は、死刑もあり得る重大犯罪こそ取調の圧力が強まり嘘の自白がおきやすいと指摘する。
「記録に残る嘘の自白の大半は殺人関連です。」という教授は名張毒葡萄酒事件について日本の最高裁に異例の意見書を提出した。
名張事件はいったん再審開始決定がでたものの名古屋高裁が再審を取り消した。
「自分に不利な自白をするとは考えられない」というのが理由だが、教授はこれこそが誤りだとしてき。自白神話の神髄を見る思いがします
この事件で奥西さんは妻と愛人を失っており、動揺していた。
「毒葡萄酒事件のように自分の愛する人、兄弟姉妹や両親、親友などを殺された人が何人も嘘の自白をしています。警察による尋問でどんな心理状態に置かれるかを理解することが必要です。」
教授は日本の裁判員に自白など検察が提出する証拠を鵜呑みにしないようにと忠告する。
「裁判員は自分と闘わなければなりません。誰かを罰したい感情はあるでしょう。でも検察の主張が合理的かどうか、被告が有罪だと立証できているか厳しく追及する必要があります。」
斎藤猛さんは業務上横領の濡れ衣をきせられ、1年3ヶ月間拘留生活を送った。
状況証拠の積み重ねで犯人と決めつけ、裁判官には事件を否認したことで「反省の色がない」と言われた。結局店の女性従業員が犯人であることがわかって高裁で無罪となったが、この女性は不起訴処分となった。そこで斎藤さんは検察審査会に不服申立をした。審査会は起訴相当の判断を出し、女性は起訴された。
検察審査会は裁判員制度と同じく市民が司法参加する場である。
偶然にも斎藤さん自身は後に検察審査会に選ばれた。そこで検察の判断を覆す市民の目の重要性を強く感じたという。
だから斎藤さんは裁判員制度には期待している。
検察という国の機関の捜査を裁判官が覆すのは難しいと被告人になって痛感した。しかし市民にならできる。
「一般の人達の一般常識が入ってくれば、あれくらいの状況証拠だけで有罪判決になることは無かったと思う。ボクの冤罪も防げたのではないかと」
しかし裁判員制度の下で冤罪を出さないためには、検察が自分に有利な証拠しか出さない、ということをしないことが条件だ。
裁判に市民の良識が反映されるには裁判に提出される証拠が正しい物でなければならない。そうでなければ裁判員も正しい裁判が出来ない。
そのためにも取調の可視化がなくてはならない。
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アメリカでは無実の罪で死刑になった人数が200人以上もいることに驚きですが、それでもまだ死刑制度を維持していることは更に驚きです。
・・が、今回それはおいといて。
アメリカでももちろん自白強要による冤罪もありますが、日本ほど自白偏重の風潮はないように思われます。
最初の二つの事例では、自白強要、偏重というよりも、陪審員が証拠の評価を誤ったミスによる誤判といったほうがいいかもしれません。
陪審員はもともと一般市民であり法曹関係者ではないので有罪にしなくては「メンツ」が立たないという意識もありませんし、何より市民にも「疑わしきは被告人の利益に」の原則が根付いてますから、有罪とするにたる説得力のある証拠がなければ無罪となります。従って日本に比べて有罪率が低いです。
これに対し、日本では、未だに前近代的な「自白が証拠の女王」で、自白があれば客観的に見て他の証拠が有罪を証明するのに足りなくとも、お構いなしに有罪にする。また、総合的に見て有罪とするのにおぼつかないのにとにかく検察が起訴した以上有罪推定が働く。(例えば、司法修習の時に無罪判決を書く練習は無いんだそうです。)
現実は「疑わしきは被告人の不利益に」なのです。
アメリカイリノイ州はグナイエクさんらの冤罪をうけてすぐに行動を起こしましたが、日本はこれだけ冤罪があるのにその原因には全くと言っていいほど手をつけようとしません。
このフットワークの軽さの違いにも腹立たしさを覚えます。
また、アメリカと日本では裁判に参加する市民に対する裁判所の姿勢にも次のように違いがあります。
◆新s 新聞案内人 田中 早苗 弁護士
裁判員をバカにしてませんか より
http://allatanys.jp/B001/UGC020004720090410COK00270_3.html
同じ市民参加でも、推定無罪の鉄則の扱いはアメリカと日本ではこれだけ違います。
日本の裁判所はこの大事な鉄則を市民参加の場で生かそうとしてるとは思えません。ならば司法に市民参加させる意義など無いと言ってもいいでしょう。
日本の冤罪は単なる証拠の判断ミス(人間ですからミスはどうしても起こりえます)ではなく、むしろなんとしても強引な解釈をつけ、無罪かもしれないという判断をさけようと全力を挙げているからおこるとしか見えません。
つまり、検察、裁判所が積極的に冤罪を作り上げてる。
これが日本の冤罪の特徴のように思われます。
有罪に疑問を差し挟む証拠が出てきたとき、アメリカなら当然無罪となるような証拠でも、日本だとなんだかんだと難癖つけて、無罪の言い渡しを回避しようと努力します。
例えば再審開始決定が一度は出たのにそれが取り消された名張毒葡萄酒事件。
弁護側は、殺害に使われた農薬が、それまで自白に基づき認定されてきたニッカリンTではないと思われる有力な新証拠を提出。
それで一度は再審開始決定がでたのに、「もしかしたら状況によってはニッカリンTではないような結果が出ることがあるかもしれない」という何とも非科学的な理由で決定を取り消したのでした。
これがアメリカだったら間違いなく無罪になったことでしょう。
この違いはどこから来るのでしょうか。
要は、検察や裁判官(特に裁判官)が、なにを持って司法の威厳と考えるのか、なのだと思います。
一旦犯人と目星をつけたら、途中で真犯人ではないと気付こうと証拠を捏造しても有罪判決を勝ち取ることが検察のメンツと威厳であると考えるのか。
有罪を維持することがいつしか仕事になってしまった裁判所は、有罪維持と、真実発見や人権尊重と、とどちらに価値の重きを置くのか。そして、確定判決を何が何でも維持することこそが司法の安定であり司法の威厳と考えるのか。
(そしてそれに付随するように古くからの自白神話も冤罪の土壌です。斎藤さんが起訴事実を否認したら裁判官に「反省の色がない」と言われた、というのはまさに自白神話の神髄です。これについてはまた別エントリーで)
結局、この権威主義的な考え方ををあらためない限り、「疑わしきは被告人の利益に」の原則は破られ続けていくでしょう。
日本の冤罪は検察のメンツのため誤りを認めない、裁判所もそれを後押しする、という構造が強固です。だから白鳥決定があるにもかかわらず、事実上「疑わしきは確定判決の利益に」で、再審の扉は信じられないほど重いのです。
そんなに確定判決の維持=裁判、司法の威厳という考え方、あるいは先輩裁判官への遠慮というものが邪魔するならば、江川昭子さんも仰っていることですが、再審開始の判断こそ、「司法の威厳」などにとらわれない裁判員にさせることがよほどあっている思います。
時にポピュリズムや加熱した感情に流される負の面も往々にしてありますが、斎藤さんが実感した健全な市民感覚、というものも確かに存在すると思います。
例えば西松建設の「二階ルート」で二階派の事務担当者達が不起訴とされた事件で、検察審査会は「不起訴不当」の決定を出しました。(検察審査会はルールが変わり、同じ事件について二度不起訴不当の決定がされると、起訴されるようになりました。)
これは健全な市民感覚が司法に活かされた例と言えるでしょう。
裁判員制度ももともとこれを期待して日弁連は裁判員制度賛成に回ったのです
これを最大限活かすのに決して上のような裁判所には期待できないので、、常に裁判員は自分の裁判に臨む姿勢を問い続け、最大限の努力をしていくしかないのです。
・・が、今回それはおいといて。
アメリカでももちろん自白強要による冤罪もありますが、日本ほど自白偏重の風潮はないように思われます。
最初の二つの事例では、自白強要、偏重というよりも、陪審員が証拠の評価を誤ったミスによる誤判といったほうがいいかもしれません。
陪審員はもともと一般市民であり法曹関係者ではないので有罪にしなくては「メンツ」が立たないという意識もありませんし、何より市民にも「疑わしきは被告人の利益に」の原則が根付いてますから、有罪とするにたる説得力のある証拠がなければ無罪となります。従って日本に比べて有罪率が低いです。
これに対し、日本では、未だに前近代的な「自白が証拠の女王」で、自白があれば客観的に見て他の証拠が有罪を証明するのに足りなくとも、お構いなしに有罪にする。また、総合的に見て有罪とするのにおぼつかないのにとにかく検察が起訴した以上有罪推定が働く。(例えば、司法修習の時に無罪判決を書く練習は無いんだそうです。)
現実は「疑わしきは被告人の不利益に」なのです。
アメリカイリノイ州はグナイエクさんらの冤罪をうけてすぐに行動を起こしましたが、日本はこれだけ冤罪があるのにその原因には全くと言っていいほど手をつけようとしません。
このフットワークの軽さの違いにも腹立たしさを覚えます。
また、アメリカと日本では裁判に参加する市民に対する裁判所の姿勢にも次のように違いがあります。
◆新s 新聞案内人 田中 早苗 弁護士
裁判員をバカにしてませんか より
http://allatanys.jp/B001/UGC020004720090410COK00270_3.html
アメリカの陪審裁判では、裁判官は公開法廷で繰り返し無罪推定について説示し、陪審員選定手続の場でも、この原則に従えるかと陪審員に問い、従えない者は公正な裁判ができない者だとして不適格排除されている。
しかし、裁判員制度では、裁判官による公開法廷での説示はなされず、評議の中で裁判官が裁判員に説明を行う(裁判員法39条)ことになっている。密室でどのような説明がなされるかを知ることもできない。 最高裁は、裁判官から裁判員への 「説明例」を公表したが、無罪推定、「疑わしきは被告人の利益に」の原則へ言及が全くない
それどころか、この「説明例」の 「基本的考え方」と題した解説には、「合理的な疑いを超えた証明という用語や意義の説明は、裁判員の理解が得られにくく得策ではない」とある。言及すること自体に最高裁は否定的なのだろうか。
この点について、東京新聞の瀬口晴義記者は、著書『取材記者の立場から~裁判員制度と知る権利』(現代書館)の中で、<そんなにわかりにくい言葉だろうか。「無罪推定を強調しすぎて本当に無罪になったら困る」。それが最高裁の本音ではないか、と邪推してしまう>と述べている。(引用ここまで)
同じ市民参加でも、推定無罪の鉄則の扱いはアメリカと日本ではこれだけ違います。
日本の裁判所はこの大事な鉄則を市民参加の場で生かそうとしてるとは思えません。ならば司法に市民参加させる意義など無いと言ってもいいでしょう。
日本の冤罪は単なる証拠の判断ミス(人間ですからミスはどうしても起こりえます)ではなく、むしろなんとしても強引な解釈をつけ、無罪かもしれないという判断をさけようと全力を挙げているからおこるとしか見えません。
つまり、検察、裁判所が積極的に冤罪を作り上げてる。
これが日本の冤罪の特徴のように思われます。
有罪に疑問を差し挟む証拠が出てきたとき、アメリカなら当然無罪となるような証拠でも、日本だとなんだかんだと難癖つけて、無罪の言い渡しを回避しようと努力します。
例えば再審開始決定が一度は出たのにそれが取り消された名張毒葡萄酒事件。
弁護側は、殺害に使われた農薬が、それまで自白に基づき認定されてきたニッカリンTではないと思われる有力な新証拠を提出。
それで一度は再審開始決定がでたのに、「もしかしたら状況によってはニッカリンTではないような結果が出ることがあるかもしれない」という何とも非科学的な理由で決定を取り消したのでした。
これがアメリカだったら間違いなく無罪になったことでしょう。
この違いはどこから来るのでしょうか。
要は、検察や裁判官(特に裁判官)が、なにを持って司法の威厳と考えるのか、なのだと思います。
一旦犯人と目星をつけたら、途中で真犯人ではないと気付こうと証拠を捏造しても有罪判決を勝ち取ることが検察のメンツと威厳であると考えるのか。
有罪を維持することがいつしか仕事になってしまった裁判所は、有罪維持と、真実発見や人権尊重と、とどちらに価値の重きを置くのか。そして、確定判決を何が何でも維持することこそが司法の安定であり司法の威厳と考えるのか。
(そしてそれに付随するように古くからの自白神話も冤罪の土壌です。斎藤さんが起訴事実を否認したら裁判官に「反省の色がない」と言われた、というのはまさに自白神話の神髄です。これについてはまた別エントリーで)
結局、この権威主義的な考え方ををあらためない限り、「疑わしきは被告人の利益に」の原則は破られ続けていくでしょう。
日本の冤罪は検察のメンツのため誤りを認めない、裁判所もそれを後押しする、という構造が強固です。だから白鳥決定があるにもかかわらず、事実上「疑わしきは確定判決の利益に」で、再審の扉は信じられないほど重いのです。
そんなに確定判決の維持=裁判、司法の威厳という考え方、あるいは先輩裁判官への遠慮というものが邪魔するならば、江川昭子さんも仰っていることですが、再審開始の判断こそ、「司法の威厳」などにとらわれない裁判員にさせることがよほどあっている思います。
時にポピュリズムや加熱した感情に流される負の面も往々にしてありますが、斎藤さんが実感した健全な市民感覚、というものも確かに存在すると思います。
例えば西松建設の「二階ルート」で二階派の事務担当者達が不起訴とされた事件で、検察審査会は「不起訴不当」の決定を出しました。(検察審査会はルールが変わり、同じ事件について二度不起訴不当の決定がされると、起訴されるようになりました。)
これは健全な市民感覚が司法に活かされた例と言えるでしょう。
裁判員制度ももともとこれを期待して日弁連は裁判員制度賛成に回ったのです
これを最大限活かすのに決して上のような裁判所には期待できないので、、常に裁判員は自分の裁判に臨む姿勢を問い続け、最大限の努力をしていくしかないのです。
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