(2007/3/12)【過去記事】裁判員制度の問題点
- 2008/01/21
- 09:42
再来年から始まる裁判員制度を歓待している人はどうやら少なそうだ。
やはり人を裁く重みは誰も背負いたくないだろうと思う。
私もまだ裁判員制度は不勉強だが、ざっと思いつくことをあげてみた。
①まず、今まで司法にほとんど縁がなかったのも敬遠したくなる理由の一つだと思う。
高校までで憲法について簡単に触れることはあっても、裁判について触れる機会なんてほとんど0ではないだろうか。
「疑わしきは被告人の利益に」は刑事裁判の鉄則であり、その言葉は一度は耳にしたことがあるだろう。
でも、実際の裁判でそれがどういう意味を持つのかまでは、なかなかピンと来ないかもしれない。
一番いいのは直接具体例に当たってみて
「なるほど、こういうことだったのか」と体験して貰うことだろう。
その為には模擬裁判がいいと思う。
実は物証や鑑定結果というものは、それのみで有罪を決定づけれないものも多い。
一見有罪の補強証拠になりそうでも、見方を変えれば、ならなかったりするのだ。
大事なのは物証そのものより
〈物証をどういう方向性で評価するか〉
である。
「疑わしきは被告人の利益に」とは提出された証拠を評価するときの方向性なのだ。
これは口で説明を受けるより、模擬裁判で体験してみるのが一番手っ取り早いと思う。
20才以上は誰でも裁判員になる可能性があるのだから、中学高校の必須授業にしたらどうだろうか。経験しておくのとそうでないのとでは随分違う。
国民が司法参加するならば、それなりの司法の教育は必要だと思う。
②裁判官には予断排除の原則というものがある。
最初から被告人に偏見を持って公判に臨んでは公正な裁判など望めない。中には極力犯罪報道を見るのを避ける様にしている裁判官もいる。
ところが今はニュースショーが全盛期、警察側の発表に基づいてコメンテーターがああでもないこうでもない、とさも事実であるかのごとく評している。
これでは有名な事件につき偏見を持たずに公判に臨めというほうが無理だ
裁判員制度を導入するなら、犯罪報道のあり方を真剣に見直さなくてはならないのではないかと思う。
③そもそも何故裁判員制度なのか?という点を考えてみよう。
長いこと職業裁判官をやっていると、被告人に「騙されまい」としてついつい有罪推定のものの見方になって来る。
また、処理件数が多いほど優秀な裁判官として出世できたりするから、じっくり時間をかけて無罪を吟味しなくなる風潮がなきにしもあらずだ。
そうすると、有罪無罪の判断時に
知らず知らずのうちに素直な、常識的な見方ができなくなってしまうことがある。
一般人が見た時に「あれはどう見ても有罪とは言えないんじゃないの?」
という事案でも有罪にしている判決はたくさんある。
こういう職業裁判官の弊害を無くし
「当たり前な、一般常識的なものの見方」に沿った有罪無罪の判断が欲しい。
この「一般常識にそった判断」という新風を取入れるのが裁判員制度の趣旨だ。
何が何でも有罪にかこつけようとするトンデモ裁判官もいるのが悲しい現実。
しかし公正な裁判を心掛けてくれる裁判官も当然ながらいる。
現在「この裁判官は甚しく偏見を持っていて公正な裁判が望めない」という時には裁判官の忌避申し立てができるが、なかなか認められないことが多い。
従って、全ての裁判を裁判員に担当させるのではなく、被告人が、
「ちょっとなんだよ、この裁判官」
と感じる場合に、気軽に裁判員による裁判を選ぶことができる〈選択制〉にすればいいと思う。
こうすれば、裁判員制度の趣旨をいかしつつ、裁判員となる人の絶対的な仕事量が減り、負担が軽くなる。
いきなり全ての刑事裁判を国民に委託するよりも、まずはこの様な選択制にしたほうが、遥かに国民に受け入れやすいのではないだろうか。
(2007/3/12)
やはり人を裁く重みは誰も背負いたくないだろうと思う。
私もまだ裁判員制度は不勉強だが、ざっと思いつくことをあげてみた。
①まず、今まで司法にほとんど縁がなかったのも敬遠したくなる理由の一つだと思う。
高校までで憲法について簡単に触れることはあっても、裁判について触れる機会なんてほとんど0ではないだろうか。
「疑わしきは被告人の利益に」は刑事裁判の鉄則であり、その言葉は一度は耳にしたことがあるだろう。
でも、実際の裁判でそれがどういう意味を持つのかまでは、なかなかピンと来ないかもしれない。
一番いいのは直接具体例に当たってみて
「なるほど、こういうことだったのか」と体験して貰うことだろう。
その為には模擬裁判がいいと思う。
実は物証や鑑定結果というものは、それのみで有罪を決定づけれないものも多い。
一見有罪の補強証拠になりそうでも、見方を変えれば、ならなかったりするのだ。
大事なのは物証そのものより
〈物証をどういう方向性で評価するか〉
である。
「疑わしきは被告人の利益に」とは提出された証拠を評価するときの方向性なのだ。
これは口で説明を受けるより、模擬裁判で体験してみるのが一番手っ取り早いと思う。
20才以上は誰でも裁判員になる可能性があるのだから、中学高校の必須授業にしたらどうだろうか。経験しておくのとそうでないのとでは随分違う。
国民が司法参加するならば、それなりの司法の教育は必要だと思う。
②裁判官には予断排除の原則というものがある。
最初から被告人に偏見を持って公判に臨んでは公正な裁判など望めない。中には極力犯罪報道を見るのを避ける様にしている裁判官もいる。
ところが今はニュースショーが全盛期、警察側の発表に基づいてコメンテーターがああでもないこうでもない、とさも事実であるかのごとく評している。
これでは有名な事件につき偏見を持たずに公判に臨めというほうが無理だ
裁判員制度を導入するなら、犯罪報道のあり方を真剣に見直さなくてはならないのではないかと思う。
③そもそも何故裁判員制度なのか?という点を考えてみよう。
長いこと職業裁判官をやっていると、被告人に「騙されまい」としてついつい有罪推定のものの見方になって来る。
また、処理件数が多いほど優秀な裁判官として出世できたりするから、じっくり時間をかけて無罪を吟味しなくなる風潮がなきにしもあらずだ。
そうすると、有罪無罪の判断時に
知らず知らずのうちに素直な、常識的な見方ができなくなってしまうことがある。
一般人が見た時に「あれはどう見ても有罪とは言えないんじゃないの?」
という事案でも有罪にしている判決はたくさんある。
こういう職業裁判官の弊害を無くし
「当たり前な、一般常識的なものの見方」に沿った有罪無罪の判断が欲しい。
この「一般常識にそった判断」という新風を取入れるのが裁判員制度の趣旨だ。
何が何でも有罪にかこつけようとするトンデモ裁判官もいるのが悲しい現実。
しかし公正な裁判を心掛けてくれる裁判官も当然ながらいる。
現在「この裁判官は甚しく偏見を持っていて公正な裁判が望めない」という時には裁判官の忌避申し立てができるが、なかなか認められないことが多い。
従って、全ての裁判を裁判員に担当させるのではなく、被告人が、
「ちょっとなんだよ、この裁判官」
と感じる場合に、気軽に裁判員による裁判を選ぶことができる〈選択制〉にすればいいと思う。
こうすれば、裁判員制度の趣旨をいかしつつ、裁判員となる人の絶対的な仕事量が減り、負担が軽くなる。
いきなり全ての刑事裁判を国民に委託するよりも、まずはこの様な選択制にしたほうが、遥かに国民に受け入れやすいのではないだろうか。
(2007/3/12)
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