報道被害をなくし、公正な裁判を行うために
- 2009/05/29
- 20:55
昔もワイドショー的犯罪報道はありましたが、ワイドショーの主流は芸能ネタでした。
しかし今や、この二つの地位は逆転しています。
需要があるから供給があるわけで、国民は犯罪報道に高い興味があるのです。(きっかけはオウムの地下鉄サリン事件と言われてますが、この事件はあらゆる面において、社会の大きな転機といえますね)
何故人気があるのか。
殺人はドラマにも欠かせない刺激的なネタですし、皆で悪いヤツを一斉に非難することで溜飲を下げたり、自分は「こちら側」の人間だと再認識し安心できる、という理由もあるように私は思います。
さて、犯罪報道の情報は記者クラブにおいて各社横並びで警察から貰います。
記者クラブ制度の下では自然と警察との関係を親密に保とうという意識も働くでしょうし、批判的な見方も薄らぎます。
ウィキペディアから、犯罪報道と記者クラブについて引用してみましょう。
(引用開始)
報道機関は営利企業のため、社会的に注目されやすい凶悪犯罪に集中して報道する傾向がある[4]。しかし、このことが市民に過度の不安を与え、実際は治安が悪化していないにも関わらず悪化しているかのように感じさせてしまうことがある[5](モラル・パニック)。
日本では報道番組の長時間化・ワイドショー化によってこの傾向が強まっており、2000年の少年犯罪報道や2006年の飲酒運転報道、いじめ報道が代表的である。
通信社が警察ネタを取材する諸外国とは異なり、日本の大手マスコミは警察に大量の記者を張りつけている。そのため、記者の半数以上は社会部所属であり、整理部デスクも社会部出身者が主流となるので警察ネタ偏重になりやすい。また、デスクが「特落ち」を嫌って、独自の企画よりも各社横並びの発表ものを優先する傾向が強いとも言われている[6]。
日本の報道機関は原則として記者クラブ加盟社しか警察発表に参加することが出来ず、警察など捜査機関との癒着が生じやすい。結果として不当捜査や捜査の怠慢を見過ごしてしまいがちである。警察のメディアへの影響力は非常に強く、大麻といった過去にいくらでもあった個別にはたいした事件でなくても、警察が一斉摘発に踏み切ると翼賛報道が起きやすいという[6]。
警察もネタのないときは記者クラブに書いてもらいたいし、マスコミも「逮捕」という錦の御旗があれば名誉毀損で反撃される心配がないので、露骨な個人攻撃を繰り返すという。独自に取材したネタを警察に持ち込んで、ガサ入れと同時にニュースにするパターンも多いという[6]。
民間企業に過ぎない報道機関には犯罪者を制裁する権限はないが、実際には被疑者・犯罪者の実名や生い立ちを詳細に報道することによって制裁となっていることが多く、日本では推定無罪が徹底されていないために被疑者への犯人視報道が行われることが多い。
近年では被害者の存在がクローズアップされており、被害者の怒りを集中的に報道することが市民の被疑者・犯罪者への憎悪を煽っているとの指摘もある
(引用ここまで、下線は私)
このようにして得た警察情報は当然真実という前提の下に、コメンテーター達は、「あんた、見たんかい」というツッコミを入れたくなるようなもっともらしい憶測を述べまくります。
せめて弁護士のコメンテーターの誰か一人くらい、「この情報はあくまで警察発表でまだ未確定ですから」とブレーキをかけてもいいのに・・と思っても、何故かヤメ検の弁護士さんばかりですし(もちろんヤメ検の人が皆そうではありません、念のため)
社会の耳目を集めた事件は、マスマディアがワイドショーで人民裁判を行い、そこで判決を下すのです。本物の裁判の前に。
国民にとってはずっと見てきた犯罪報道=人民裁判の結論こそがより真実。
本物の裁判の判決は、せいぜいその結論を確定的なものにする役割しか持ってないようです。
ですから、ロス疑惑のように無罪判決が出ると
「そんなことありえない、裁判所は騙されている!」という反応になり、アメリカが共謀罪で訴追しようという暴挙に出ても「これでやっと真実が解明される」と、いうとんでもない意見が何の疑念もなくまかり通る。
そこでは弁護士は世間や裁判所を欺こうとする似非人権派という悪役です(苦笑)
こうして国民は「推定無罪」ではなく、「推定有罪」の感覚を日々体得していくことになります。
犯罪のワイドショー化をやめ、報道被害をなくし、公正な裁判を担保する第一歩は、まずこの記者クラブ制度を見直すことだと思います。(鳩山さんは記者クラブ制度の見直しを掲げてるので、この点は期待したいと思います。)
そしてもうひとつは、「疑わしきは被告人の利益に」の原則を現在の報道に期待できない以上、私達一人一人がこの原則の大切さを学ぶとともに、メディアリテラシーを身につけるしかありません。
とはいえ、私達はどこでそれを学べばいいのでしょうか?
法学部にでも行かない限り、「疑わしきは被告人の利益に」なんて言葉を聞く機会すら無いと思います。
せめて裁判所が裁判員に懇切丁寧に説明してくれるといいのですが、どうやらそんなことはしなさそうだ、という話を聞いたことがあります(裁判所ごとに任されているのかも)
ニュースで見ましたが、韓国では裁判員は推定無罪について詳しい説明を受けており、うらやましく感じました。
中学か高校の公民の授業で憲法を学ぶとき、黙秘権など刑事被告人の憲法上の権利については学んでいないと思います。ここで「疑わしきは~」の原則や適正手続について一通りきっちり学習させるのは効果的ではないかと思います。
しかしなにせ、愛国心教育には熱心でも、人権教育には不熱心な国ですから、これを学習指導要綱にいれるかどうか。(追記:人権感覚というのは一朝一夕でやしなわれるものではありませんが、まず学校教育できちんと触れることが大事かと思います。)
マスコミは裁判員制度が開始したこれからこそ次の記事で書くような番組をドシドシ放映して欲しいと願います。
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