(2008/1/16)【過去記事】「部隊長の命令」の意味
- 2008/01/23
- 14:23
過去記事にも書きましたが「軍の強制性」とは、文科省が言う「部隊長の当日の命令」のようなそんな局部的な狭いものではありません。
官軍民共生共死の思想、方針のもと、住民はいざという時は軍と共に玉砕することを普段から軍に徹底的に叩き込まれ、もし捕虜になったらどんな残虐な目に合うかの恐怖を刷り込まれ、かつ、もし捕虜となったらスパイとみなされ処刑されることになっていました。
これにより、敵が迫ってきたら住民は自決以外選択できぬよう追い込まれていた、これを軍の強制だったというのです。
伊吹文科相は検定で「日本軍の強制がなかったとは言っていない」と弁明しているのですが、それならば「軍の強制」を削除する理由が全くないじゃないですか。
文科省、支離滅裂ですよ
そもそも、集団自決は「軍の命令」で行われた、と言ってもよいのです。
というのは、「軍の命令」を先の記事で紹介したコメントや教科書調査委員会がいうような"当日発した「今から自決しろ」との命令"の意味に勝手に限定するからおかしなことになったんですね。
林教授のHPからちょっと引用してみます。
(前略)渡嘉敷島では米軍上陸前の3月20日、あらかじめ日本軍の兵器軍曹が村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集め、手榴弾を一人二個ずつ配り、いざという場合はこれで自決せよと命令していた事実が明らかにされた。
(中略)
慶良間諸島で見られるのは、あらかじめ日本軍あるいは日本軍将兵が住民に自決用の手榴弾を配布し、いざという時はこれで自決せよと命令あるいは指示、勧告していることである。日本軍の権威が絶大であった沖縄、特に慶良間諸島のような離島では、日本軍将兵から言われることは命令以外の何者でもなかった。住民にとっては村役場の吏員でも「とても怖い存在でしたので絶対服従」であったが、軍人の権威はそれよりはるかに高かった。この手榴弾が多くの場合、「集団自決」の引き金として使われている。
様々な機会に多数の手榴弾が住民に配られていうことは日本軍の承認あるいは容認無しには不可能である(私注:大江裁判の本人尋問で梅澤氏は自分の許可無しに手榴弾を配れないことを認めています)当然指揮官としての部隊長の責任は免れないというべきだろう。
(引用終わり)
「軍の命令があった」「部隊長の命令だった」とは、こういう意味なんですよ。
既に前々から日本軍から既に自決の訓示、命令を下っていた状態で手榴弾を配れば、それは自決せよとの「軍の命令」です。自決せよとの「言葉」だけが「軍の命令」ではないのです。
そして軍は指揮官の指揮の下に動きます。(座間味島の日本軍の最高指揮官は梅澤隊長、渡嘉敷島では赤松隊長でした。)
だから集団自決は「部隊長の命令だ」というのです。
「軍の命令」を、当日「今から自決しろ」の言葉、号令を発することに殊更に限定するのが如何に無意味なことかわかりますね。
ほんっと無意味
ちなみに座間味の梅澤隊長は朝鮮人慰安婦とともに逃げ回ったあげく米軍につかまり捕虜となって助かりました。
官軍民共生"共死"とは言えないですね。住民の死者の方が軍隊の死者を超える所もあります。
集団自決を生き残った金城重明さんの証言要旨(沖縄タイムス07/9/11朝刊より)
(集団自決後生き残った)兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬り込みに行くというので、たとえ殺されても斬りこもうと、悲壮に満ちた決意をした。
斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と共に運命を共にし、自決したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に合わねばならないのか、軍に裏切られたと感じた。
その後生き残った住民と一緒に避難生活を送った。
渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年二人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。
(引用終わり)
(2008/1/16)
- 関連記事
-
- 「沖縄ノート」原告全面敗訴 (2008/03/28)
- (2008/1/16)【過去記事】「部隊長の命令」の意味 (2008/01/23)
- (2008/1/12)【過去記事】沖縄集団自決に関して興味深いコメント収集 (2008/01/23)