普天間基地建設にまつわるデマ
- 2017/12/21
- 06:00

(とあるツイートより)全く何もない土地に米海兵隊基地が建設され、基地周辺に米軍相手の商売をする人たちが集まり町を形成するようになったが、近くの小学校が建てられ、危険だからと言う理由で過去に二度の移転計画が持ち上がったが、左翼の反対派により移転断念した。小学生をとって危険なのは米軍でなく左翼。
(記事公開後の追加)
このデマは主に、「基地が先にあったのに、後からわざわざ危険な基地のそばに勝手に住みついて文句言うとは」「危険な基地の側に学校を建てる方が悪い」あるいは「基地反対のイデオロギーのためなら子供の安全も犠牲にするのか」といった、基地反対運動に対するバッシングの根拠としてよく使われます
(追加ここまで)
百田尚樹氏の「普天間飛行場は田んぼの真ん中にあり、そこに商売目的で人が住みだした」という発言がデマであることは新聞でも報道され、国会でも首相自らがデマだと認めたにもかかわらず、ことあるごとに再燃します。上のツイートも結構RTされて広まってるようです
いい加減学習して欲しいのですが、前も書いたように、歴史修正主義者達は真相などどうでもよく、誹謗中傷するのが目的なのですから、いっこうにこの手のデマ拡散をやめようとしません。
私もコメント欄で何回も繰り返してお答えするのはごめんなので、このエントリーでまとめておきます
では、まず新聞報道から
<琉球新報>
●百田氏発言「普天間飛行場、元は田んぼ」「地主年収、何千万円」を検証する 2015年6月27日
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/15850
(※リンク先には図表がありますのでそちらもご覧ください。赤字は私です)
百田尚樹氏が「田んぼで、何もなかった」とする米軍普天間飛行場が建設された場所は沖縄戦の前、宜野湾村の集落があった。宜野湾市史によると、1925年は現在の飛行場に10の字があり、9077人が住んでいた。宜野湾や神山、新城は住居が集まった集落がほぼ飛行場内にあり、大山などは飛行場敷地に隣接する形で住宅があった。
最も大きかった宜野湾は村役場や宜野湾国民学校、南北には宜野湾並松と呼ばれた街道が走り、生活の中心地だった。
飛行場は、まだ沖縄戦が終結していない45年6月、住民が収容所に入っているうちに、米軍が土地を占領して建設を始めた。住民は10月以降に順次、帰村が許されたが、多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
市立博物館の担当者は百田氏の発言に「人々が戦争で追い出され、何もなくなるまでの過程が抜け落ちている」として認識不足を指摘した。
■地主の年収 何千万円→100万円未満が半数超
百田尚樹氏は「基地の地主はみんな年収何千万円」と発言した。しかし、地主の75%は200万円未満の軍用地料しか得ておらず、実態は百田氏の発言した内容と大きくかけ離れている。
沖縄防衛局が発表した2011年度の軍用地料の支払額別所有者数(米軍・自衛隊基地)によると、地主4万3025人のうち100万円未満の地主が全体の54・2%に当たる2万3339人で最も多い。
次いで100万円以上~200万円未満が8969人で20・8%を占め、200万円未満の割合が75%にのぼった。
500万円以上は3378人で7・9%だった。
軍用地料は国が市町村含む地主と賃貸借契約を結び、米軍と自衛隊に土地を提供する。地主に支払われる賃貸料は自衛隊基地を含み11年度は918億円だった。
<沖縄タイムス>
●普天間飛行場の成り立ち 戦前は宜野湾村の中心地
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/57316
宜野湾市史によると、沖縄戦の前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、1万3635人が住んでいた。そのうち、普天間飛行場は宜野湾の中心、14字にまたがる場所に建設された。14字では8880人が生活していた。
45年の沖縄戦で住民の古里は奪われた。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を開始。住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた普天間飛行場周辺に住まわざるをえなかった。
住民の先祖が眠る墓や御願所は今も基地の中にあり、入るには米軍の許可が必要になる。
2015年6月に自民党若手議員らの勉強会で、作家の百田尚樹氏は普天間飛行場を「もともとは田んぼの中にあり、周りは何もなかった」などと事実とかけ離れた発言をし、非難を浴びた。
古里を奪われた住民が基地の周りに住まわされたのが実情だ。
沖縄県HPにもあります。そこから抜粋してくださったツイートがこちら
沖縄県HP掲載の「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book」より次の公式情報を参考に抜粋した。 pic.twitter.com/dYidHTD1F3
— 民主国家の存亡危機 (@IQjpn55) 2017年12月17日
というわけで、人々が暮らす集落がちゃんとあったのです。
では実際に戦場になる前の宜野湾市の航空写真をこちらのツイートでどうぞ
1945年1月頃の宜野湾村の航空写真(沖縄県公文書館蔵)
— 水瀬秋(えるマーク付き) (@biac_ac) 2017年12月14日
赤枠は現在の普天間基地。https://t.co/qs0mCA6arc pic.twitter.com/h8Qe2y4qtJ
これを見れば「全く何もない土地だった」「田んぼの真ん中だった」は事実ではないことが一目瞭然ですね
この写真の三ヶ月後、地上戦の舞台になった宜野湾市は焼け野原になりました。同時にそこに本土を攻撃するための基地(現・普天間基地)が建設され始め(1945年4月)、二ヶ月後の6月15日に完成します(後にもっと拡張されます)。
そのとき既に住民は収容所にいたのでから、その時点の航空写真が「何もない」状態なのは当たり前です。それを元々人が住んでいなかったか、田んぼばかりだったかのように言うのは、事実の歪曲です。
同年8月に日本は敗戦、10月に宜野湾の住民は収容所から解放されます。
収容所から解放されたあと、宜野湾の人々はどうなったのか
伊波洋一氏の著書から抜粋してみましょう
『そして、戦争が終わり米軍から許可されて収容所から自分の家に戻ろうとしたら、集落地域が基地になっていたというわけです。普天間だけでなく、沖縄の至る所がそのよう状況でした。土地の所有権は無視されました。集落を基地に取られた住民に対して、米軍は集落ごとに「この地域の人々はここに住みなさい」と、他人の土地を指定して住まわせたのです。
明らかに、国際法違反なのです。しかし沖縄戦を生き延びた沖縄住民にとっては、戦争に負けて捕虜になったからには、米軍の命令に従うしかなかったのです。
宜野湾は、半分以上が米軍基地になりました。読谷村では八割以上の土地が基地になりました。米軍は基地建設に必要なだけの沖縄住民の土地を取り上げて、残ったところに勝手に代替地を割り振ったのです。当然、多くは住居に適していないところです。狭い地域に多くの住民が押し込められたため、今でも消防自動車の入れない地域があります。
そのようにして沖縄の各地で住民の戦後が始まり、現在の集落が形成されていきました。』
というわけで、「米軍相手の商売するために好きこのんで基地の周りにわらわら集まった」のではありません。
この後の出来事を、こちらのサイトから要約、抜粋してみましょう。(宜野湾市教育委員会文化課市史編集係が発行する市史だより「がちまやぁ」が編纂した宜野湾市の歴史をまとめています)
『1946年頃の普天間飛行場は現在より規模も小さく「滑走路こそ確認できるものの、現在のようなフェンスはなく、”補助飛行場”、あるいは”予備飛行場”として、しばらくの間使用されませんでした
中は自由に通行でき「何等通行ニ支障ナシ」(同)だったそうです。そして、飛行場を使用する気配もない状況のもとで、人々は基地内で居住、耕作を行うまでになっていたそうです。
しかし、中国革命、朝鮮戦争、冷戦突入で、沖縄での基地建設が急速かつ大規模に展開され始めます。普天間飛行場は1952年には2400mに、そして1953年には2700mへと拡張され、ほぼ現在の規模にまで拡張されました。人々が居住し耕作していた地域も接収されました。1946年に収容所から”帰村”し、米軍基地の合間をぬって住まいと耕作地域を再生してきた人々の土地をまたもや基地として徴用し始めたのでした。沖縄戦を生き抜き、ようやく”帰村”して復興の道にたった人々が、「銃剣とブルドーザー」でまたしても半ば強制的な移住に追いやられる事態まで生み出されることになりました。』
(伊波さんの前記著作より)
『(朝鮮戦争)当時、日本の本土各地に朝鮮戦争のための予備の米海兵隊が駐留していました。駐留地区では住民が被害を受ける事件が絶えず、反基地運動が各地でおこっていたのです。(※本土でだって今の沖縄と同じく反基地運動が起きるじゃないですか・私)
米国は日本本土の一カ所にまとめて海兵隊基地建設をしようとしましたが、日本政府は反基地運動の拡大を怖れて、新たな基地建設に同意しませんでした。むしろ、政府は、1960年の安保条約改定を前に、反基地運動の原因となっている各地の米軍基地を減らす方向で取り組みます。
その結果、サンフランシスコ条約で施政権が切り離されて、米軍管理となっていた沖縄に海兵隊を移転させることになり、沖縄での基地建設が始まったのです』
これが敗戦後から朝鮮戦争あたりまでの沖縄です。
酷い話です。政府は本土での基地反対運動を収束させるために、本土の基地を沖縄に押しつけたのですから。
更に酷いことに、そのとき本土では、自分たちが被害を被り反対した基地を沖縄に押しつけるな、という国民の声は上がりませんでした。
これって政府と本土の国民による壮大な沖縄差別だと思いませんか?
これが未だに続いているから沖縄は基地に苦しんでいるのです。
ちなみに
『沖縄の基地建設には今日のゼネコンの多くが関わり、戦後日本の建設業界が復活する契機になった』そうです。
本土もいやがる基地を沖縄に押しつけ、その上その基地建設で本土のゼネコンが儲けたとは、二重に酷い話です・・・。
基地がどのくらい拡大したかはこちらをどうぞ。
最初のころの基地の大きさはこのくらい(赤い部分)
↓

それが今では市の三分の一以上を占めるくらいにまでなっています。
どんどん立ち退かされ押しやられてきたのですね、そりゃ居住地が基地に密接する形になるのも無理はありません
↓

というわけで、
「田んぼばかりで全く何もなかった」というのは事実に反し、
「1万近くの人々が住んでいて、学校も役所も墓もある集落でした」が事実です。
そして
「米軍相手の商売をする人たちが集まり町を形成するようになった」のではなく、
「元々そこに住んでいた人々が基地建設のために収容所へ入れられ、そこから帰郷を許され帰ってみたら土地が奪われており、米軍が割り当てた土地に住むしかなかった。それでも何とか暮らしていったが、その後も徐々に土地は没収されて人々は追いやられ、今のように基地周辺に住むしかなくなった」というのが事実です。
ところで、上記のサイトにもあるように、普天間基地は最初は補助飛行場くらいの機能しかなく、今ほど危険な基地ではありませんでした。「世界一危険な基地」と言われるようになったのは、1972年の沖縄返還以降です。
沖縄返還を境に、沖縄の米軍基地は日本政府の大きな財政支援でリニューアルされていきました。現在、沖縄の人々を苦しめている基地のほとんどは日本政府の財政支援で作り直されたものなのです。
再び伊波さんの本から抜粋しましょう
『沖縄県民が返還運動の中で実現したかったことは、日本に復帰することで米軍基地をなくそうと言うことでした。(※日本に復帰することで日本国憲法、とりわけ9条のもとに集いたいという希望があったと聞いています・私)(略)
確かに、県内各地に数多くあった基地は、ある程度返還されていくわけです。(略)しかし、基地を返還するに当たって、米軍は日本政府に対し、軍事機能を維持するために、返還されなかった基地に機能を移設することを要求したのです。その移設先になったのが普天間飛行場でした。なにしろ、何もなくて、広かったので移設先にされたのです』
アメリカ本国では、住民に危険を及ぼすから禁止されてるような危険な訓練も、沖縄では日米地位協定のおかげで、そして日本政府からの山ほどの思いやり予算のおかげでやりたい放題ですから、それはそれは居心地最高でしょう。普天間基地はどんどん強化され、周辺住民にとって危険な訓練もどんどん行われるようになってしまいました。
これが普天間基地が「世界一危険な基地」になった所以です。
そこで、もうおわかりかと思いますが、沖縄の日本返還によって普天間基地が「世界一危険な基地」になる前に、とっくに住民のコミュティはできあがっており、当然学校もできていました。
つまり「住民が何とか平穏に暮らしていたところに後から危険な海兵隊が来た」わけです。
従って、「わざわざ危険な普天間基地周辺に後から住宅地や学校を作った」というのは事実に反する誹謗中傷でしかありません
(記事公開後の追加)
「基地が先にあったのに、なぜ後からわざわざ危険な基地のそばに住み着いて文句言うのか」「危険な基地の側に学校を建てる方が悪い」という基地反対運動に対する非難は全く根拠がないことがこれでおわかり頂けたかと思います
(追加ここまで)
安倍首相も百田発言がデマであることは国会で認めざるを得ませんでした。
安倍首相の百田尚樹デマ否定答弁(2015/7/3、衆議院平和安全法制特別委員会議事録)https://t.co/stlP8Znyjy
— 水瀬秋(えるマーク付き) (@biac_ac) 2017年12月14日
>戦前、役場や国民学校、郵便局、病院などが所在し、街道が通るとともに集落が点在し田畑が広がっていた
>戦時中の昭和二十年四月、米軍が上陸した後、土地を接収して普天間飛行場が建設された
●自衛隊から内部告発が相次ぐ共産党 首相、大臣を追い詰めたその調査能力
https://dot.asahi.com/wa/2016012000056.html
ネトウヨの総大将でさえデマだと認めてるんですから、いい加減蒸し返すのはやめましょう
これ以上歴史をねじ曲げないように。
本土が基地の苦しみを沖縄に押しつけて来た上に、「沖縄イジメ」で更に踏みつけてることを考えると、「日本スゲー」ってつくづく思います
次はもう一つのデマ、「基地反対運動が普天間小学校の移転を妨害した」についてです
- 関連記事
-
- 普天間小学校移設にまつわるデマ (2017/12/22)
- 普天間基地建設にまつわるデマ (2017/12/21)
- 米軍ヘリ部品の落下が「自作自演」だとは、あまりに酷い沖縄差別です (2017/12/19)