先日アップしたエントリ-、
『自民党はこんな「主権者」を育てたがっている(1)』で、
『教育現場に政治的中立性を求めるあまり、制作過程を扱わずに制度だけを教える教育になっていた』『過度に非政治的で、高校までの授業と現実の課題がつながらない』
こんな教育は「政治的中立」でも何でもないのですが、「政治的中立」についてはまた別エントリ-で書きたいと思います
と書きました。今回はそれを受けてのエントリ-です
澤藤先生がブログにて行政機関の「政治的中立性」について述べてらっしゃいますが、これは教育における政治的中立性を考えるときにもとても参考になります。一部分をお持ち帰りしますのでお読みください
<澤藤統一郎の憲法日記>
●「政治的中立」という名目での政治的偏向より
http://article9.jp/wordpress/?p=2259
(引用開始)
(「神戸憲法集会」について)市が申請された後援を拒絶した理由が問題だ。「昨今の社会情勢を鑑み、『改憲』『護憲』の政治的主張があり、憲法集会そのものが政治的中立性を損なう可能性がある」というもの。
問題は3点。「昨今の社会情勢」とはいったい何のことか。「『改憲』『護憲』の二つの政治的主張」を同じに扱ってよいのか。そして、「憲法集会そのものが政治的中立性を損なう可能性がある」とは、まことにもって聞き捨てならない
(略)
神戸市は、「『改憲』『護憲』の政治的主張があり」と、あたかも「改憲」も「護憲」も同等の政治的主張であるかのごとき扱いをしている。これは許されない。
憲法とは、社会の公的なルールとして最も高次の存在であって、政治権力にはこれを尊重し擁護すべき義務がある。このことを、憲法99条はすべての公務員に対して、「この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定める。神戸市長も市教育委員長も、私人として憲法改正の思想を持つことは自由であるにせよ、公務員として職務を行うに際しては、「日本国憲法を尊重し擁護する義務」を負う。
その場合の「憲法を尊重し擁護する義務」の意味の解釈として、消極的に違憲の行為をしてはならないというだけではなく、憲法の理念の実現に努力すべき積極的義務までを含むものと説かれる。憲法の理念の実現や普及のための「護憲」集会への後援や支援をすることは「憲法を尊重し擁護する義務」に合致するが、現行憲法の理念に反する「改憲」集会への支援は背馳することにならざるを得ない。両者を同等に扱うなど許されようはずはない。
「憲法集会そのものが政治的中立性を損なう可能性がある」との含意は、「護憲集会も政治的中立性を損なうものでありうる。だから、自治体が後援しがたい」というもの。聞き捨てならない。
日本国憲法が制定されたとき、憲法公布の式典が貴族院本会議場で行われ、また、宮城前広場で、天皇まで出てきて新憲法公布記念祝賀都民大会も行われている。政府も、最初は憲法記念日を祝賀したのだ。長期保守政権が、憲法を邪魔者扱いするようになると、政府や自治体の祝賀行事は消えた。祝賀行事を主催しないことが、十分に政治的な意思表示なのだ。
そして神戸市は、草の根憲法運動が主催する市民集会の後援も拒絶するという。形式的な「政治的中立」をカムフラージュとした、憲法への憎悪の表明である。
(引用ここまで)
●「政治的中立」というカムフラージュでの政治的偏向より
http://article9.jp/wordpress/?p=2500
(引用開始)
「政治的中立」あるいは、「意見が別れている問題への支持支援拒否」という名目での、その実は「著しい政治的偏向」の動きには、その都度的確に抗議しなければならない。自治体にとって、「護憲」も「改憲」も、どっちもどっちの「政治的」イシューなのではない。自治体が支持・支援すべきは、「憲法擁護」「改憲阻止」「憲法の理念の実現」というテーマである。つまりは、平和・人権・民主主義に与する方向であって、「改憲」「排外主義」「差別」「反人権」ではない。基準はあくまで日本国憲法なのだ。憲法を遵守すること、憲法理念の実現に努力することは、自治体の責務と認識されなければならない
(引用ここまで)
「教育の政治的中立性」にもまさに同じ事が言えます。
教育は日本国憲法の精神に基づいて行われるのですから、「中立」の基準、中立の軸足はどこに置くのか、といえば、日本国憲法に置かねばなりません。
そこが「中立」の地点なんです
民主主義的価値観、憲法尊重の理念に立脚した教育は「左派的な政治的偏向」ではなく、中立であり、スタンダードです
教育現場に政治的中立性が求められるため、どこまで教えることが許されるかわからず萎縮して、制作過程を扱わずに制度だけを教える教育になっている。
過度に非政治的なため、学生にとっては高校までの授業と現実の課題がつながらない。
こういう学校教育の現状は、「憲法集会そのものが政治的中立性を損なう」として憲法集会そのものを開かせないのと同じ状態です
つまり、学校で現実の政策や政治的問題を取り扱うのを避けさせること自体が、政治問題を考え批判する精神を養う機会を奪いたい政権による「政治的」な意向押しつけ、政治的偏向に他ならないのです
政治を論じさせないことは「過度に政治的に中立」なのではありません。これこそが「過度に政治的に偏向」です
学生にとっても現実の課題につながらない授業なんて、いわゆる「役に立たない授業」でしかないわけで、何のための勉強なのかと言いたくなりますね
前エントリ-でも書きましたが、政府は教員の政治活動を制限し違反があれば罰則を科すように新たに法改正することで、この「政治的中立」という名の「政治的偏向」を更に強化しようとしています。
これにより、教師の勤務外での個人的な政治的活動をも大幅に萎縮させる可能性が出てくるでしょう、それは明らかに憲法違反です
そしてこれを公立高校の教員だけでなく、私立高校の教員にまで広げようとしているのです。政府は相当焦ってますね。
●私立高教員も政治活動規制 「18歳選挙権」で自民検討http://www.sankei.com/politics/news/150802/plt1508020004-n1.html罰則を設けることの異様さをこんな風に考えてみてください
科学の分野でも、対立する学説が存在し、まだどちらが完全に真実か決着のついてない問題があります
地球温暖化の原因は二酸化炭素の増加によるとする説が有力のようですが、太陽の活動の変化のせい、とする説もあるようですね。(この辺私はよく知らないのであくまでも学説が定まってないことの一例と捉えてください)
もしも教師が理科の授業で、温暖化の原因について一方の学説を、有力だ、ではなく、真実だと教えてしまったとしても、法律で処罰されたりはしません。
しかし、こと政治の授業に関してはこれを法律による処罰の対象にする、と言ってるわけです。
実際には当該問題ではどちらの説が有力であるかを教えることも、場合によっては当該問題を取り上げることさえも、政治的中立性に反するとして法による処罰の対象にしようとするでしょう。それは既にご紹介した山口での集団的自衛権についての授業(
こちらに掲載)が政治的中立性に反する、と県議からクレームをつけられたケースを見ればわかります。
こうやって対比してみたら、罰則を設けることの異様さが際だちますね
じゃあ、両論併記すれば済むことではないか、という提案がなされることもあります
例えば慰安婦問題について、強制連行はあったとする説と無かったとする説、
沖縄集団強制死は、軍の強制によるもので会ったとする説と、住民が軍の足手まといになるまいと自発的に死を選んだとする説、
太平洋戦争は侵略戦争だったとする説と、アジアの独立を促す自衛戦争だったとする説
両方を平等に併記すれば良いではないか、という提案です
しかし、このような両論併記は一見、公平中立であるように見えますが、実は違います
天動説と地動説、進化論と聖書の天地創造。両者を科学的事実、歴史的事実、として同等に扱うべきものではないのと同じ事です
軸足を日本国憲法に置く以上、大日本帝国を肯定するような歴史観や全体主義的価値観と、日本国憲法の精神に基づいた民主主義的な価値観を、等価値的に「両論併記」することは、決して公平中立ではありません。
これは、大日本帝国を肯定するような歴史観や全体主義的価値観に偏向していると言わざるを得ないです
こうしてみると、育鵬社や自由者の教科書は、両論併記ですらないので、最も激しく政治的に偏った教科書と言わざるを得ません
従って育鵬社を検定で合格させる文科省は、検定制度の目的である「教育の中立性の確保」を放棄していると言わざるを得ず、育鵬社を激押しする政府や地方公共団体の議員、その議員の意向を反映した教育委員会が「政治的中立性」を公正に判断しないであろう事は明白です
欧米では政府が民主主義そのものを否定する前近代的封建主義的価値観を支持することはありえません。ドイツではネオナチは非合法です
しかし日本では政府自身が平気で立憲主義をおかして民主主義の基礎をぐらつかせる反憲法的な存在ですから、当然「中立」の軸足を日本国憲法に置かず、大日本帝国的価値観に置いているのです
そういう政府が「政治的中立性」という名の「政治的偏向」を法による処罰で強制することは、絶対に許せないです
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