(2007/1/21)【過去記事】何故やっていない犯罪を自白するのか
- 2008/01/21
- 09:25
昨日、02年に強姦及び強姦未遂で懲役3年の実刑が確定した事件で、犯人とされた男性が服役仮出所後に、真犯人がいることが明らかとなった。
無実の罪で投獄された冤罪だったのである。
これは明らかに再審が開かれ無罪が見込まれるラッキーなケースだろう。
ところで、この男性は逮捕されたとき「私がやりました」と自白している。
この男性だけではない。
有名な大きな冤罪事件から、で報道されない小さな冤罪事件まで、じつに多くの冤罪事件で、被疑者は一旦自白しているのだ
一体何故、彼らはやってもいない犯罪を、やったと自白するのか?
自分がやったなどと罪を認めれば、刑に処せられるのは明らかだ。だから自分に不利な自白するということ自体が、真犯人である何よりの証拠ではないか?
この様な疑問は一見もっともの様に思われる。
警察による取り調べは密室で行われる。
では、そこで自白がどの様に取られるのだろう?
実際の冤罪のケースで見ていきたいと思う。
例えば…
85年女子大寮での強盗強姦未遂事件の犯人として逮捕されたAは、取り調べで犯行を否認した。
Aには接見禁止処分がついた(接見禁止とは弁護士を除く家族や友人などの面会を一切禁じ、差し入れも厳しい制限がかされる処分だ)
これは逃亡や証拠湮滅の恐れあり、と疑うに足りる理由があるときに限って認められる処分だ。しかし実際は、外界との接触を断ち孤立感を深めることにより、犯行を否認している被疑者を自白に追い込む目的で行われる。
取り調べは連日早朝から深夜に渡ってぶっ通し10時間以上で行われる。刑事達は複数人で机を叩き椅子を蹴って怒鳴る。
「本当のことを言え!」「嘘つくな!」「証拠はあるんだ!」
何度自分はやってないと主張しても全く耳をかしてくれない。
「やった」「やらない」の押し問答が永遠かと思われる長時間続く。味方もなくたった一人、刑事達に恫喝され続ける恐怖感は相当なものだ。
深夜に取り調べが終わって留置所に入れられるが、30分おきの見回りがあり眠れはしない。
取り調べ室と留置所だけの往復。外の空気は吸えない
心身とも疲労は溜まる一方
これが連日続く。
想像してみて欲しい。こんな状況でいつまで正常な精神状態をたもてるだろうか?
何をどう言ったって刑事達は絶対自分を信用しない。やったと言わない限りこの拷問の様な状況からは絶対に抜け出せないのだ。
絶望感からAは自殺を計るも失敗に終わる。
錯乱手前の極限状態に至った所で一転、刑事は優しい声で落としにかかる
「お前がやったんだな?」
とうとうAは泣きながらうなずく。
すると刑事達は急にこれまでと違い、穏やかでやさしく豹変する。
煙草を吸わせて貰ったりお菓子も分けてもらい、冗談を言ったり笑ったり。Aは何日かぶりにやっと人間らしい扱いを受ける。
「お前も苦しかったろう」という刑事の言葉にAは悪人である自分が許して貰ったかの様な錯覚を覚える。
もしここで「やっていない」と言えば再び地獄戻りだ。もうあの苦しみは味わいたくない。
Aは自白後やっと接見できた弁護人にこう言った
「すみません。わたしがやったんです」
の刑事ドラマではなく、現実にこういうことが行われているのだ。
名張毒葡萄酒事件でも同じだ。
免田事件においては二日間眠らせず、殴る蹴るの暴行を加え自白を迫っている。
(参考文献「冤罪の構造」「6人目の犠牲者」江川紹子著
「免田栄獄中記」免田栄著)
「うん、と言いさえすればいいんだ。ここ(自白調書)にハンコさえ押してくれればいいんだよ。そうすれば家に帰れるんだ。お前の家族だって心配してるぞ。これ以上家族に心配かけたくないだろ?
何、裁判ではオレも、お前は素直ないい奴だととりなしてやる。刑は軽くて済むんだ。
それを強情張ってやっていないと言い続けるんなら、一生ここから出られないぞ!」
実際やったと認めても決して家に返してもらえるわけはない。
だが四面楚歌の絶望的状態、早く楽になりたいもうどうでもいい、と混乱状態に陥っている時に
「ここにハンコ押しさえすりゃ、帰れるんだ、楽になるんだよ」
と迫られたら苦し紛れに押してしまうだろう。
これを弱いと責めることはできない。
自白調書だって実は犯人がすらすら喋ったことをそのまま書き写すのではない。
例えばこんな具合だ
「どうして殺そうと思った?」
「それは、あの…」
「被害者がお前をののしったからカッとなったんだな?」
「ハイ、多分そうだと思います。」
「凶器はなんだ?」
「さぁ…」
「被害者の近くには血がついた鉄パイプが落ちていたぞ。それで殴ったんじゃないのか?」
「そうかもしれません…」
といった具合の誘導尋問だ。具体的な犯行の様子など答えられるはずがない、やっていないのだから。
そしてこれらをつなぎあわせ
「私は被害者が私を罵ったのでカッとなり、咄嗟に目に入った鉄パイプを思いきり振りおろしたのです」
とあたかもすらすら自分から全てを喋ったかのような文章を作る。それに被疑者がハンコを押せば立派な自白調書の出来上がりだ。
自白してしまったのを後悔し、公判が始まってから翻しても、もう手遅れだ。
裁判官は自白が強制されたなどとまず認めてくれない。
裁判官は公平な目で見てくれるはず、という甘い期待は裏切られるのがほとんどなのだ。
何が何でも裁判所は自白があるということを重んじる。その為に少々不都合な点には目をつぶっている判決は捨てるほどある。
本当にやっていないなら自己に不利な自白なぞするはずがない、と思いこんでいるのだ。
同じ国家権力同士だからなのか、警察がそんなひどいことするわけないという根拠のない盲目的な信頼がそこにはあるのだろうか?
何より、裁判官は検察が起訴した人間は有罪だと決めてかかっているふしがある。
起訴されたら99%以上有罪となるのは日本の警察が優秀で全て間違いなく真犯人を捕らえて来ているからでは、決してない。
警察検察が捜査段階で自分達の思い込みを過信した時に冤罪が芽生える。
そして捜査側が自分達の面子や威信を重んじ、何が何でも自白を取ろうと被疑者の人権を顧みない時、事件は冤罪街道をばく進しはじめる。
百歩譲って警察のこの様な高慢な取り調べが阻止できないとしても、裁判所がしっかりしてさえすれば、強要された自白を見抜き排除できるはずだ。
ところが実際には充分な吟味をせず、自白があったということを偏重して、検察の主張に追随した判決を簡単に書いてしまう。つまり、裁判所がいつまでたっても自白を偏重しつづけるからこそ、警察検察は自白を欲しがるのだ。
密室での拷問に近い自白強要から生まれる冤罪―この張本人は警察検察よりも実は裁判所だと言えるだろう。
日本の司法は自白偏重主義の為、冤罪を生みやすいのだ。
もしあなたがやってもいない犯罪で逮捕されたら、絶対に、最後まで認めたらダメだ。
ワイドショーで否認をやめて自白した、というニュースがあれば、一度は自白強要の可能性も疑ってみて欲しい。
そして近い将来あなたが裁判員になったら、自白を頭から信じるのではなく、こういう危険性をはらんだものなのだということを念頭においてもらいたいのだ
(2007/1/21)
無実の罪で投獄された冤罪だったのである。
これは明らかに再審が開かれ無罪が見込まれるラッキーなケースだろう。
ところで、この男性は逮捕されたとき「私がやりました」と自白している。
この男性だけではない。
有名な大きな冤罪事件から、で報道されない小さな冤罪事件まで、じつに多くの冤罪事件で、被疑者は一旦自白しているのだ
一体何故、彼らはやってもいない犯罪を、やったと自白するのか?
自分がやったなどと罪を認めれば、刑に処せられるのは明らかだ。だから自分に不利な自白するということ自体が、真犯人である何よりの証拠ではないか?
この様な疑問は一見もっともの様に思われる。
警察による取り調べは密室で行われる。
では、そこで自白がどの様に取られるのだろう?
実際の冤罪のケースで見ていきたいと思う。
例えば…
85年女子大寮での強盗強姦未遂事件の犯人として逮捕されたAは、取り調べで犯行を否認した。
Aには接見禁止処分がついた(接見禁止とは弁護士を除く家族や友人などの面会を一切禁じ、差し入れも厳しい制限がかされる処分だ)
これは逃亡や証拠湮滅の恐れあり、と疑うに足りる理由があるときに限って認められる処分だ。しかし実際は、外界との接触を断ち孤立感を深めることにより、犯行を否認している被疑者を自白に追い込む目的で行われる。
取り調べは連日早朝から深夜に渡ってぶっ通し10時間以上で行われる。刑事達は複数人で机を叩き椅子を蹴って怒鳴る。
「本当のことを言え!」「嘘つくな!」「証拠はあるんだ!」
何度自分はやってないと主張しても全く耳をかしてくれない。
「やった」「やらない」の押し問答が永遠かと思われる長時間続く。味方もなくたった一人、刑事達に恫喝され続ける恐怖感は相当なものだ。
深夜に取り調べが終わって留置所に入れられるが、30分おきの見回りがあり眠れはしない。
取り調べ室と留置所だけの往復。外の空気は吸えない
心身とも疲労は溜まる一方
これが連日続く。
想像してみて欲しい。こんな状況でいつまで正常な精神状態をたもてるだろうか?
何をどう言ったって刑事達は絶対自分を信用しない。やったと言わない限りこの拷問の様な状況からは絶対に抜け出せないのだ。
絶望感からAは自殺を計るも失敗に終わる。
錯乱手前の極限状態に至った所で一転、刑事は優しい声で落としにかかる
「お前がやったんだな?」
とうとうAは泣きながらうなずく。
すると刑事達は急にこれまでと違い、穏やかでやさしく豹変する。
煙草を吸わせて貰ったりお菓子も分けてもらい、冗談を言ったり笑ったり。Aは何日かぶりにやっと人間らしい扱いを受ける。
「お前も苦しかったろう」という刑事の言葉にAは悪人である自分が許して貰ったかの様な錯覚を覚える。
もしここで「やっていない」と言えば再び地獄戻りだ。もうあの苦しみは味わいたくない。
Aは自白後やっと接見できた弁護人にこう言った
「すみません。わたしがやったんです」
の刑事ドラマではなく、現実にこういうことが行われているのだ。
名張毒葡萄酒事件でも同じだ。
免田事件においては二日間眠らせず、殴る蹴るの暴行を加え自白を迫っている。
(参考文献「冤罪の構造」「6人目の犠牲者」江川紹子著
「免田栄獄中記」免田栄著)
「うん、と言いさえすればいいんだ。ここ(自白調書)にハンコさえ押してくれればいいんだよ。そうすれば家に帰れるんだ。お前の家族だって心配してるぞ。これ以上家族に心配かけたくないだろ?
何、裁判ではオレも、お前は素直ないい奴だととりなしてやる。刑は軽くて済むんだ。
それを強情張ってやっていないと言い続けるんなら、一生ここから出られないぞ!」
実際やったと認めても決して家に返してもらえるわけはない。
だが四面楚歌の絶望的状態、早く楽になりたいもうどうでもいい、と混乱状態に陥っている時に
「ここにハンコ押しさえすりゃ、帰れるんだ、楽になるんだよ」
と迫られたら苦し紛れに押してしまうだろう。
これを弱いと責めることはできない。
自白調書だって実は犯人がすらすら喋ったことをそのまま書き写すのではない。
例えばこんな具合だ
「どうして殺そうと思った?」
「それは、あの…」
「被害者がお前をののしったからカッとなったんだな?」
「ハイ、多分そうだと思います。」
「凶器はなんだ?」
「さぁ…」
「被害者の近くには血がついた鉄パイプが落ちていたぞ。それで殴ったんじゃないのか?」
「そうかもしれません…」
といった具合の誘導尋問だ。具体的な犯行の様子など答えられるはずがない、やっていないのだから。
そしてこれらをつなぎあわせ
「私は被害者が私を罵ったのでカッとなり、咄嗟に目に入った鉄パイプを思いきり振りおろしたのです」
とあたかもすらすら自分から全てを喋ったかのような文章を作る。それに被疑者がハンコを押せば立派な自白調書の出来上がりだ。
自白してしまったのを後悔し、公判が始まってから翻しても、もう手遅れだ。
裁判官は自白が強制されたなどとまず認めてくれない。
裁判官は公平な目で見てくれるはず、という甘い期待は裏切られるのがほとんどなのだ。
何が何でも裁判所は自白があるということを重んじる。その為に少々不都合な点には目をつぶっている判決は捨てるほどある。
本当にやっていないなら自己に不利な自白なぞするはずがない、と思いこんでいるのだ。
同じ国家権力同士だからなのか、警察がそんなひどいことするわけないという根拠のない盲目的な信頼がそこにはあるのだろうか?
何より、裁判官は検察が起訴した人間は有罪だと決めてかかっているふしがある。
起訴されたら99%以上有罪となるのは日本の警察が優秀で全て間違いなく真犯人を捕らえて来ているからでは、決してない。
警察検察が捜査段階で自分達の思い込みを過信した時に冤罪が芽生える。
そして捜査側が自分達の面子や威信を重んじ、何が何でも自白を取ろうと被疑者の人権を顧みない時、事件は冤罪街道をばく進しはじめる。
百歩譲って警察のこの様な高慢な取り調べが阻止できないとしても、裁判所がしっかりしてさえすれば、強要された自白を見抜き排除できるはずだ。
ところが実際には充分な吟味をせず、自白があったということを偏重して、検察の主張に追随した判決を簡単に書いてしまう。つまり、裁判所がいつまでたっても自白を偏重しつづけるからこそ、警察検察は自白を欲しがるのだ。
密室での拷問に近い自白強要から生まれる冤罪―この張本人は警察検察よりも実は裁判所だと言えるだろう。
日本の司法は自白偏重主義の為、冤罪を生みやすいのだ。
もしあなたがやってもいない犯罪で逮捕されたら、絶対に、最後まで認めたらダメだ。
ワイドショーで否認をやめて自白した、というニュースがあれば、一度は自白強要の可能性も疑ってみて欲しい。
そして近い将来あなたが裁判員になったら、自白を頭から信じるのではなく、こういう危険性をはらんだものなのだということを念頭においてもらいたいのだ
(2007/1/21)
- 関連記事
-
- 光と影 (2008/08/07)
- (2007/1/21)【過去記事】何故やっていない犯罪を自白するのか (2008/01/21)
- (2006/12/27)【過去記事】失望させる再審開始の取り消し (2008/01/21)
スポンサーサイト