年越し派遣村へのバッシング(続き)・生活保護を受けるのは彼らにとっては正当な権利です。
- 2009/01/15
- 16:27
1/13の産経新聞にこんな記事がありました。さすが産経、端的でわかりやすいので、ちょっとオードブルでつまみんでみます。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090113/trd0901132102017-n1.htm
「派遣村」の何だかなぁ…
2009.1.13 20:58
東京・日比谷公園の「年越し派遣村」。総務省の坂本哲志政務官が放った「本当にまじめに働こうとしている人たちか」という発言が猛反発を受けています。
派遣村を取材してみると、本人の就労意志に反して、職ばかりか住居も追われ、途方に暮れている“村民”が多くいたことはすぐに分かります。
村全体を見れば、坂本政務官の発言は「不適切」と言わざるをえません。
しかし、「何だかなぁ」と思うシーンが取材中にいくつかあったのも確かです。
1つは「厚生労働省の講堂の開放、勝ち取る!」という学生運動ばりの用語。勝ち負けの問題でしょうか。
さらには、一部村民らが厚労省幹部に訴えた「宿泊所の電気がついたままで熟睡できない」「大人数での睡眠はプライベートがない」「自由に水が飲めない」といった要望。「生活保護は当然の権利だ」という発言もありました。
確かにそうでしょうが、何も威張って大声でガナリ立てなくても…。
揚げ句が日比谷公園から国会までのデモ。
「憲法を守ろう」と書かれた街宣車に先導され、「総選挙で政治を変えよう!」とシュプレヒコール。いつも国会周辺でやっている特定の政治色を鮮明にしたデモそのものでした。(卓)
(この記事は2chでも取り上げられてるようです。)
「何だかなあ」その1
「厚生労働省の講堂の開放、勝ち取る!」という学生運動ばりの用語。勝ち負けの問題でしょうか
あの寒空に大勢の人間を放っておいたら命の危険があります。人道的にも行政がまっ先に宿泊場所を提供すべきでした。でもそれをしなかったのです。だいたい彼らが路頭に迷う原因を作ったのは行政であることを考えれば、宿泊場所を提供させたのを「勝ち取る」という表現は、実情にあっていると思います。確かに古き学生運動っぽい言い回しですから好き嫌いはあるでしょうが、ここはメディアがツッコミいれるとこではないでしょう。
「何だかなあ」その2
一部村民らが厚労省幹部に訴えた「宿泊所の電気がついたままで熟睡できない」「大人数での睡眠はプライベートがない」「自由に水が飲めない」といった要望。「生活保護は当然の権利だ」という発言もありました。
確かにそうでしょうが、何も威張って大声でガナリ立てなくても…。
どうやら「泊めてやったのだからそれだけでもありがたいと思え、色々要求するなどおこがましい」という発想がありそうですね。
また、「生活保護は当然の権利」なのですがなかなかそれが受けられず、生きていく権利が保障されません。その現状に抗議し訴えることに、眉をひそめなくともよいのでは。
「何だかなあ」その3
揚げ句が日比谷公園から国会までのデモ。
「憲法を守ろう」と書かれた街宣車に先導され、「総選挙で政治を変えよう!」とシュプレヒコール。いつも国会周辺でやっている特定の政治色を鮮明にしたデモそのものでした
「揚げ句ににデモ」って、デモをしてなにがいけないのでしょうか?というか、これだけ大勢の人間が住居を失い行く当てもなく派遣村に集まるという事態をデモで訴えなかったら、デモって一体どういうときにするんでしょう?
「憲法を守ろう」・・まさに憲法25条を守ろう、そのものズバリですし、「政治色を鮮明に」・・これはまさにダメダメな政治の問題なんだから政治色がでて当然ではありませんか。
そういう政治を選挙で変えて、路上生活に落とされる者を無くしていこう、とデモ行進するのは至極当然です。
産経さんは、政治性をだしてデモをすること自体にアレルギー反応があるというか、国民が政治主張やデモするのは出来るだけ謙抑的にせよ、という意識があるようですね。暖をとれたことに感謝し、おとなしくしてろ、それが分相応とでもいうのでしょうか。政治について積極的に物申していくのは国民の最も大事な権利なのに。
ですがこれらは産経に限らず、保守的な層に割と見られる傾向かもしれませんね。
そして弱い者が更に弱い者に厳しくあたる傾向にあることも書きました。
これらにプラスされる形で、派遣村住民が生活保護申請をし、生活保護がみとめられるようになったなったことに対しての反感をよく見ます。例えば下のような意見です。
そこには生活保護にできるだけ税金を使って欲しくない、無駄遣いの部類だという思いがあります。
麻生さんの「ダラダラ何もしないで病気になった人の医療費を何故私が払う? 」と同じですね。
http://qa.moura.jp/qa4626636.html
派遣村の話題で生活保護を認定されというニュースを良く聞きます。
生活保護支給されるのっと驚いています。
自分のイメージした生活保護は。
金額は12万程度、その額以外に住居手当、医療費無料、公共交通無料?
など様様な特典がつきこれさあれば一人身なら別に働かなくても良いのではと思う限りなのですが。
区には働きたくても働きたい場所がない、面接で断られたなど行動を示せば一生もらえるのではないのかとも思っていますが実際どうなのでしょうか。
今回の生活保護は期間限定なのでしょうか。
期間限定だと住居を借りられないと思うのでそうではないと思いますがなんか納得行かなくて。
生活保護ではなく学生の奨学金みたいに低利で貸し付ける制度の方が良かったのではと思います。(引用ここまで)
まず生活保護を受け取ったらそれに甘えてますます働かなくなるだろうという否定的な想像がまっ先に来るんですね。
これは派遣村に限らず生活保護受給者全般に向けられる厳しい疑いの視線です。ホントに困ってる人も中にはいると思うけど、というエクスキューズを付けながらも、不正受給とか働く意思がない人間がいる、とかに必ず言及するのを忘れません。そういう人はほんの一部に過ぎないのに。
(生活保護者にはこのまま働かないだろうという推定を働かせて全然信用しないのに、大手企業には補助金をあげれば非正規雇用者を正規雇用者にするだろうという推定を働かせて信用してるわけで、こういうところでも大手企業に甘いのがわかります。ちなみにキャノンはネコババしてますhttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-01-12/2009011201_03_0.html)
この国は世界きっての経済大国なんだから貧困などあるわけない、と思っているのでしょう。だからホームレスになるヤツはは大概怠け者に違いない、と思いがちになる。
政府にもこの思いこみがあり(というか貧困問題に触れたくないだけでしょうね)、実際に生活保護基準以下で暮らす人々のうち、どれくらいが生活保護を受けているのかを示す「捕捉率」の調査を行おうとしません。その必要がないというのです。これではこの国の貧困問題がそれほど深刻さか、きちんと把握することは出来ません。見ないようにしてるのです。
自分より劣る怠け者に「生活保護」という公的扶助を差し伸べるのは無駄遣いだ、なんでオレの血税でくわせてやらにゃならんの、できることならあげたくない、奨学金みたいに返して貰いたい、貰い得しやがって、みたいな思いが根強く根底にあるのを感じます。
そして、生活保護は国、社会からの温情的なものととらえ、受け取る人間を上から目線で蔑む。恵んでやったんだでかい面するな、引け目に感じろ、血税なんだから感謝しろ、という発想になります。
しかし何らかの事情で最低水準の生活が営めなくなったとき、生活保護を請求するのは、憲法25条の生存権に基づくれっきとした権利の行使なのです。
雇用保険、社会保険というセーフティネットがないからもう生活保護で救うしかないのに、最後の砦の生活保護すらも出し渋るなら、死ね、というに等しいです。
生活保護法は第一条で「日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長すること」と定めています。
もし彼らに働いて自立せよと求めるなら、なおさら生活保護を受けさせないといけません。
でなければ、とりあえずの日銭はどうしても稼がねば死んでしまいますから日雇い派遣のような仕事にしかありつけず、結局食うや食わずでいつホームレスになるかという不安定な暮らしから逃れられないのです。
ずっと続けられる仕事にありつけなくては自立は出来ません。そのためには免許や資格などのスキルを手にしなければならないでしょう。それには少なくとも住居や食事などの最低限が保証されてなくてはなりません。劣悪な日雇い派遣のような仕事をしなくて済む環境が必要です。
つまり、生活保護がなければ、生活保護をもう受けなくて済む自立した状態になれないのです。だから生活保護は自立支援には欠かせません。
まして彼らが働けなくなったのは、規制緩和を推し進め派遣全面解禁にした国の雇用政策の失敗のせいなのだから、余計に国は彼らが再び働けるようになるよう支援する義務があります。
派遣村住民が生活保護を受けるのは、正当な権利であり、自立のために絶対必要です。なのにうえにあげたような発言を多く見かけるのは、悲しいことです。
他人の痛みに対する冷たさ、心の貧しさ、想像力の欠如、これこそ‘さもしい’と私は思います。
[追記]
玄倉川さんの派遣村叩きの不合理さのこの説明は、なるほどと思いましたので、メモしておきます。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/6542ea4c75123b94d06cbdd3d4d6e3e4
(引用開始)
経済的弱者になった人たちは自己責任だ、だから救うことはない、ということなのだろうか。
そういう見方をする人は、世の中を運転免許試験のように見ているのだろう。運転免許試験とは、「普通の人が」「普通の努力をして」「決まった点数以上を取れば」「何人でも(全員が)合格できる」ものである。自信過剰で教習所に行かずに一発受験して落ちたり、あるいは学習能力・運転能力が絶望的に不足していて何度も落ち続けるような受験者がいたら、他の受験者・免許合格者から「考え違いしてる」「あなたのような人は免許を取る資格がない」「迷惑だからやめてくれ」と言われるのもわかる。
だが私は、世の中というのはむしろ「入学試験」に近いものだと思っている。どれほど努力しても、一定の点数以上を取っても、「定員」が満たされれば他の受験者は不合格になる。ここでは仮に定員ではなくて「偏差値50」を合格基準としよう。
「偏差値50以下はすべて自己責任」という批判に何か意味があるだろうか。「個人の成績が悪いのは自己責任」というのは、まあ正しいとしよう(生まれつきの能力・性格や環境の問題を本当は無視できないが)。だが集団として「偏差値50以下」を批判するのは無茶苦茶な話である。すべての人間が努力してベストを尽くしても、全員が偏差値50を上回ることはできない。平均以上が威張れるのは平均以下があってこそだ。偏差値50以下があるから偏差値50以上が存在できる。「偏差値50以下」を全否定するのは、頭が足の存在を否定するようなものだ。
経済格差、経済的弱者の存在というのも「偏差値50以下」と同じである。派遣村という「鳥島」に漂着した人たちはおしなべて経済的能力の偏差値が低いのかもしれないが(私はそうは思っていない)、だからといって「彼らの存在自体が間違っている」と考えるのはおかしい。「経済弱者はクズ」「弱者が落ちぶれて死ぬのは自己責任」というのは強者の奢り、夜郎自大の自己満足、愚かな錯覚でしかない。(引用ここまで)
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