自衛隊と9条(2)・追加記述あり
- 2010/05/15
- 03:00
(続き)
【「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)は戦力ではないから、保持しても違憲ではない」という政府見解は、解釈論として妥当か?】
Ⅰ.
1.戦後GHQによって軍隊が解散させられてから警察予備隊が設置されるまでの短い間、日本は名実ともに丸腰国家でした。
1946年6月28日で吉田首相は、9条についてこのように見解を述べています
しかし、朝鮮戦争が勃発して自衛隊が創設されると、鳩山首相(当時の)はこのように政府見解を変えてきました
現在じゃっかん論理構成は異なるものの、政府は基本的にこの考えを継承しています。
2.では9条は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」なるものを認めていると言えるのでしょうか?
これについて、明快にこれを否定した判決があります。長沼判決です。
その判決文を見てみましょう
通説もこの判決と同じ主張です。
私も憲法の解釈論として、この判決および通説が正しいと思います。
(※条文解釈は長くなるので、のちほど参考までに別途、Moreに追加する予定)
Ⅱ.
この長沼判決及び通説に対しては
「いくら何でも侵略に対する防衛として非軍事的な自衛方法だけしかダメって、そんなんで正当防衛すら出来ないではないか、みすみす殺されろと言うのか?」
という反論がなされます。よくわかります。
1.これについては、攻め込まれたときに軍隊を持たず白旗をあげて非暴力による抵抗を行うより、軍隊で迎え撃つほうが犠牲は本当に少なくなるのか、と言う疑問があります。
コスタリカが55年にニカラグアの侵攻を受けたとき、もしコスタリカが再軍備して全面戦争になっていたら、犠牲者の数はもっと増えていた可能性は大きいです。
もっとも歴史にIfはありませんし、実験して確かめるわけにもいきませんから断言はしません。
色んなケースがありますから一概に言えないでしょう。あくまで、非暴力の抵抗を続けるという「非軍事的な自衛権の行使」も捨てたものではない、という可能性を示唆するにとどめます。
さて、イラクはアメリカの侵略を受けましたがイラクは一体どれだけの備えをしておけば、国際世論ががアメリカ不支持にまわり、アメリカが攻撃をあきらめるまで防戦するのに十分だったのでしょう?。
イラクはアメリカの一方的な言いがかりと宣戦布告に対し、どのような行動を取るのがもっとも国際世論の支持を集め、もっとも犠牲を少なくできたのでしょうか。
私には見当も付きません。
ひとつだけわかるのは、世界の軍事費の約半分を一国で占めるアメリカの攻撃から自衛するための「必要最小限度」の実力(自衛力)は世界第二位の自衛隊の予算5兆円でも足りなかっただろう、ということ。
つまり、「必要最小限度」は、実は青天井だと言うことです。
2.それに、ちゃんと侵略に対応できる必要最小限度の実力って、どの程度の規模のものを指すんでしょう?具体的にどんな行為なら自衛のための行為と言えるでしょう?
自動小銃があれば十分?
手榴弾は?
自衛隊員じゃ足りないから、あらかじめ国民にも銃を配って戦闘訓練をさせておくべき?
領土に上陸してきた武装敵兵が撃ってきたのと交戦するのはいい?
戦車は?
無人迎撃やヘリでうってくるからそれは打ち落とす?
最新鋭のステルス機はいりますか?
それとも、もうきりがないから敵基地にミサイルうちこみます?
ミサイルは撃たれれば終わり、むこうがミサイルを撃ってくる前に撃ちますか?
向こうが核ボタンを押す前に、こちらも押しますか?
さてどこで「必要最低限度」の線を引きましょう?
国土と家族をめちゃくちゃにされたアフガン、イラクの人々が、復讐の鬼と化して新たなテロリストになってテロ攻撃を仕掛けてきても、それも「自衛のため」と言えそうです。
一方のアメリカはイラクへの攻撃は「自衛のため」だと言っていました。
イラクもアメリカもどっちも「自衛」です。
今だってブッシュは自衛戦争だったと言うでしょう。オバマ氏はどうでしょう?
3.こうしてみると、何が自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)行使なのか、というのは時の権力者の解釈でどうとでも化けるクセモノです。
ましてや、そんなアメリカをまっ先に支持する政府に、自衛隊の行き過ぎを抑制するシビリアンコントロールがどうして期待できるでしょうか?私はとても信用できません。
小泉、アベシンゾー、鳩山首相のように改憲論者で唯々諾々とアメリカの言いなりになる政治家が首相になる国では、自衛隊の活動を「非常に抑制的な必要最低限度と思われる防衛にとどめる」ことなど、ムリ。不安定なニュートリノのようにすぐに崩壊してします。
【追加】
【「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)は戦力ではないから、保持しても違憲ではない」という政府見解は、解釈論として妥当か?】
Ⅰ.
1.戦後GHQによって軍隊が解散させられてから警察予備隊が設置されるまでの短い間、日本は名実ともに丸腰国家でした。
1946年6月28日で吉田首相は、9条についてこのように見解を述べています
「戦争放棄に関する憲法草案の条項におきまして、国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であると思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることがたまたま戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。(中略) ゆえに正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めるということは、たまたま戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、もし平和団体が、国際団体が樹立された場合におきましては、正当防衛権を認めるということそれ自体が有害であると思うのであります。御意見のごときは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」
しかし、朝鮮戦争が勃発して自衛隊が創設されると、鳩山首相(当時の)はこのように政府見解を変えてきました
「自衛のための必要最小限度の実力は2項に言う「戦力」ではないから違憲ではない」
現在じゃっかん論理構成は異なるものの、政府は基本的にこの考えを継承しています。
2.では9条は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」なるものを認めていると言えるのでしょうか?
これについて、明快にこれを否定した判決があります。長沼判決です。
その判決文を見てみましょう
「憲法前文は徹底した平和主義の立場をとり、万が一にも、世界の国々のうち、平和を愛することのない国家が存在し、わが国が、その侵略の危険にさらされるといった事態が生じたときも、わが国みずからが軍備を保持して、武力をもって相戦うことを容認するような思想は、まったく見出すことはできない。
憲法は戦力の保持を禁止したが自衛権までも放棄していない。ただ戦力不保持の結果として、自衛権行使の方法は非軍事的な方法に限定される。
現在の自衛隊は、その編成、規模、装備、能力および対米軍との関係からすれば、明らかに外敵に対する実力的な戦闘行動を目的とする人的、物的手段としての組織体と認められるので、軍隊であり、そのゆえに陸、海、空各自衛隊は、憲法第9条2項によって禁ぜられている『陸海空軍』という戦力に該当する」。
通説もこの判決と同じ主張です。
私も憲法の解釈論として、この判決および通説が正しいと思います。
(※条文解釈は長くなるので、のちほど参考までに別途、Moreに追加する予定)
Ⅱ.
この長沼判決及び通説に対しては
「いくら何でも侵略に対する防衛として非軍事的な自衛方法だけしかダメって、そんなんで正当防衛すら出来ないではないか、みすみす殺されろと言うのか?」
という反論がなされます。よくわかります。
1.これについては、攻め込まれたときに軍隊を持たず白旗をあげて非暴力による抵抗を行うより、軍隊で迎え撃つほうが犠牲は本当に少なくなるのか、と言う疑問があります。
コスタリカが55年にニカラグアの侵攻を受けたとき、もしコスタリカが再軍備して全面戦争になっていたら、犠牲者の数はもっと増えていた可能性は大きいです。
もっとも歴史にIfはありませんし、実験して確かめるわけにもいきませんから断言はしません。
色んなケースがありますから一概に言えないでしょう。あくまで、非暴力の抵抗を続けるという「非軍事的な自衛権の行使」も捨てたものではない、という可能性を示唆するにとどめます。
さて、イラクはアメリカの侵略を受けましたがイラクは一体どれだけの備えをしておけば、国際世論ががアメリカ不支持にまわり、アメリカが攻撃をあきらめるまで防戦するのに十分だったのでしょう?。
イラクはアメリカの一方的な言いがかりと宣戦布告に対し、どのような行動を取るのがもっとも国際世論の支持を集め、もっとも犠牲を少なくできたのでしょうか。
私には見当も付きません。
ひとつだけわかるのは、世界の軍事費の約半分を一国で占めるアメリカの攻撃から自衛するための「必要最小限度」の実力(自衛力)は世界第二位の自衛隊の予算5兆円でも足りなかっただろう、ということ。
つまり、「必要最小限度」は、実は青天井だと言うことです。
2.それに、ちゃんと侵略に対応できる必要最小限度の実力って、どの程度の規模のものを指すんでしょう?具体的にどんな行為なら自衛のための行為と言えるでしょう?
自動小銃があれば十分?
手榴弾は?
自衛隊員じゃ足りないから、あらかじめ国民にも銃を配って戦闘訓練をさせておくべき?
領土に上陸してきた武装敵兵が撃ってきたのと交戦するのはいい?
戦車は?
無人迎撃やヘリでうってくるからそれは打ち落とす?
最新鋭のステルス機はいりますか?
それとも、もうきりがないから敵基地にミサイルうちこみます?
ミサイルは撃たれれば終わり、むこうがミサイルを撃ってくる前に撃ちますか?
向こうが核ボタンを押す前に、こちらも押しますか?
さてどこで「必要最低限度」の線を引きましょう?
国土と家族をめちゃくちゃにされたアフガン、イラクの人々が、復讐の鬼と化して新たなテロリストになってテロ攻撃を仕掛けてきても、それも「自衛のため」と言えそうです。
一方のアメリカはイラクへの攻撃は「自衛のため」だと言っていました。
イラクもアメリカもどっちも「自衛」です。
今だってブッシュは自衛戦争だったと言うでしょう。オバマ氏はどうでしょう?
3.こうしてみると、何が自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)行使なのか、というのは時の権力者の解釈でどうとでも化けるクセモノです。
ましてや、そんなアメリカをまっ先に支持する政府に、自衛隊の行き過ぎを抑制するシビリアンコントロールがどうして期待できるでしょうか?私はとても信用できません。
小泉、アベシンゾー、鳩山首相のように改憲論者で唯々諾々とアメリカの言いなりになる政治家が首相になる国では、自衛隊の活動を「非常に抑制的な必要最低限度と思われる防衛にとどめる」ことなど、ムリ。不安定なニュートリノのようにすぐに崩壊してします。
【追加】
9条の条文解釈について、追加しておきます
「日本国憲法概説 第五版 佐藤功著」p.81~参照
1:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
●9条は侵略戦争のみを放棄したとする説
① 1項は、「国権の発動たる戦争」と、「武力による威嚇又は武力の行使」は、「国際紛争を解決する手段としては」用いてはならないとしている
反対解釈すれば、国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄されているけれど、そうでない戦争は放棄されていないと解せられる
では、国際紛争を解決する手段としての戦争とは何かと言えば、
不戦条約などにおける「国家の政策の手段としての戦争」であり、違法且つ侵略的な戦争をいう。
従って、違法な侵略に対する自衛権に基づく戦争は認められる。
自衛のための戦争は1項は放棄してはいないのである。
② 2項は「前項の目的を達するため」陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない、と定める。
1項は侵略戦争のみを放棄したのであり自衛のための戦争は放棄していないのであるから、「前項の目的を達するため」とは、侵略戦争を放棄するという目的を指す。
従って、2項は侵略のための戦力は保持しないとしたものに過ぎず、自衛のための戦力を保持することはできる。
しかし、この説に対しては以下のような批判があてはまる
・この解釈は「前項の目的」をもっぱら「国際紛争を解決する手段としては」との文字に重点を置いた解釈となっている。
しかし「前項の目的」とは「侵略戦争を放棄するという目的」と言うよりも、むしろ「前項を定めるに至った目的」と解すべきである。
すなわち、1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するという目的実現の手段として、「国家の政策の手段としての戦争」=違法且つ侵略的な戦争を放棄したのである
2項においても、本来なら重ねて「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と書くべき所を、省略して「前項の目的を達するため」と表現したと考えるべきである。
・自衛のための戦力と、侵略のための戦力は事実上区別が付かないことが多いし、侵略戦争は自衛のための戦争という美名の下に行われることを考えれば、この説では9条を設けた意味がなくなる。
・もし、2項が単に侵略戦争のための戦力を保持しないことを定めたに過ぎないと解するならば、9条は要するに、侵略戦争はしないし侵略のための軍備は保持しない、という規定を持つ諸外国の憲法となんら差異はなく、1項の上に更にわざわざ2項を設けた意味がなくなってしまう。
現在この説を支持する学説はなく、政府もこの見解をとっていない。
●9条は侵略戦争のみならず、自衛戦争をも放棄したとする説
この説には2説ある
A.1項で侵略戦争も自衛戦争も全ての戦争を放棄している。2項はそれを確実にするための規定であるとする説
B.1項の規定は侵略戦争を放棄したものであり自衛戦争は放棄されていないが、2項の規定により、結果的に自衛戦争も放棄したものである、とする説
解釈論的にB説が妥当だと思うので、以下B説について述べる。
1項についての解釈は、9条は侵略戦争のみを放棄したとする説と同様である。しかし9条の特色は、1項よりも2項にある。
即ち2項が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とすることにより、戦争を行う物質的な手段が否定され、
また、交戦権を否定したことによって、戦争を行う法的な根拠が否定された。
この両者によって、結果として自衛戦争も行うのが不可能となり、事実上一切の戦争を放棄したものとされる。
(尚。「前項の目的を達するため」の解釈については、最初の説に対する批判を参考)
自衛権に基づく戦争(自衛戦争)を放棄したとは言っても、もちろん刑法で言う正当防衛と同じ意味での自衛権そのものまでも放棄したものではない。
この自衛権とは、国家が急迫不正の侵略を受けた場合、その生存と安全を保つため、他に方法がないとき、やむを得ず実力行使してその侵略を排除できるという権利を言う。
9条下でももちろんこの自衛権は認められる。
しかし自衛権を行使するのに戦力を用いた戦争という手段をとることを禁じているのである。
これが9条の最大の特徴である。
戦力や武力行使によらない自衛権の行使とは、具体的には、警察力で排除すること、非暴力の方法で抵抗することなどを指す。
非暴力の抵抗についてこちらをどうぞ
http://www.magazine9.jp/juku/071/
これが通説です
●政府見解
(昭和30年頃までの説)9条は自衛のための戦力保持をも禁止している。(ここまでは上のB説と同じ)しかし、戦力とは「近代戦争遂行能力に達したもの」をいい、自衛隊はいまだこの「戦力」には至っていない。
しかしさすがに自衛隊の能力が近代戦争遂行能力に達していないとは言えなくなってくると、次のような解釈に変更した。
↓
9条は自衛権を否定するものではない(ここまでは正しい)
自衛権が認められる以上は、自衛のための必要最小限度の実力、すなわち「自衛力」が保持できる。
しかしこれは、「自衛のための必要最小限度の戦力=自衛力」とは何かが不明であり、「自衛のための戦力」を単に「自衛力」といいかえたに過ぎないものと思われる。
結局この政府見解には、9条は侵略戦争のみを放棄したとする最初の説に限りなく近く、従って、この説に対する批判がそのまま当てはまる。
(続きます)
「日本国憲法概説 第五版 佐藤功著」p.81~参照
1:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
●9条は侵略戦争のみを放棄したとする説
① 1項は、「国権の発動たる戦争」と、「武力による威嚇又は武力の行使」は、「国際紛争を解決する手段としては」用いてはならないとしている
反対解釈すれば、国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄されているけれど、そうでない戦争は放棄されていないと解せられる
では、国際紛争を解決する手段としての戦争とは何かと言えば、
不戦条約などにおける「国家の政策の手段としての戦争」であり、違法且つ侵略的な戦争をいう。
従って、違法な侵略に対する自衛権に基づく戦争は認められる。
自衛のための戦争は1項は放棄してはいないのである。
② 2項は「前項の目的を達するため」陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない、と定める。
1項は侵略戦争のみを放棄したのであり自衛のための戦争は放棄していないのであるから、「前項の目的を達するため」とは、侵略戦争を放棄するという目的を指す。
従って、2項は侵略のための戦力は保持しないとしたものに過ぎず、自衛のための戦力を保持することはできる。
しかし、この説に対しては以下のような批判があてはまる
・この解釈は「前項の目的」をもっぱら「国際紛争を解決する手段としては」との文字に重点を置いた解釈となっている。
しかし「前項の目的」とは「侵略戦争を放棄するという目的」と言うよりも、むしろ「前項を定めるに至った目的」と解すべきである。
すなわち、1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するという目的実現の手段として、「国家の政策の手段としての戦争」=違法且つ侵略的な戦争を放棄したのである
2項においても、本来なら重ねて「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と書くべき所を、省略して「前項の目的を達するため」と表現したと考えるべきである。
・自衛のための戦力と、侵略のための戦力は事実上区別が付かないことが多いし、侵略戦争は自衛のための戦争という美名の下に行われることを考えれば、この説では9条を設けた意味がなくなる。
・もし、2項が単に侵略戦争のための戦力を保持しないことを定めたに過ぎないと解するならば、9条は要するに、侵略戦争はしないし侵略のための軍備は保持しない、という規定を持つ諸外国の憲法となんら差異はなく、1項の上に更にわざわざ2項を設けた意味がなくなってしまう。
現在この説を支持する学説はなく、政府もこの見解をとっていない。
●9条は侵略戦争のみならず、自衛戦争をも放棄したとする説
この説には2説ある
A.1項で侵略戦争も自衛戦争も全ての戦争を放棄している。2項はそれを確実にするための規定であるとする説
B.1項の規定は侵略戦争を放棄したものであり自衛戦争は放棄されていないが、2項の規定により、結果的に自衛戦争も放棄したものである、とする説
解釈論的にB説が妥当だと思うので、以下B説について述べる。
1項についての解釈は、9条は侵略戦争のみを放棄したとする説と同様である。しかし9条の特色は、1項よりも2項にある。
即ち2項が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とすることにより、戦争を行う物質的な手段が否定され、
また、交戦権を否定したことによって、戦争を行う法的な根拠が否定された。
この両者によって、結果として自衛戦争も行うのが不可能となり、事実上一切の戦争を放棄したものとされる。
(尚。「前項の目的を達するため」の解釈については、最初の説に対する批判を参考)
自衛権に基づく戦争(自衛戦争)を放棄したとは言っても、もちろん刑法で言う正当防衛と同じ意味での自衛権そのものまでも放棄したものではない。
この自衛権とは、国家が急迫不正の侵略を受けた場合、その生存と安全を保つため、他に方法がないとき、やむを得ず実力行使してその侵略を排除できるという権利を言う。
9条下でももちろんこの自衛権は認められる。
しかし自衛権を行使するのに戦力を用いた戦争という手段をとることを禁じているのである。
これが9条の最大の特徴である。
戦力や武力行使によらない自衛権の行使とは、具体的には、警察力で排除すること、非暴力の方法で抵抗することなどを指す。
非暴力の抵抗についてこちらをどうぞ
http://www.magazine9.jp/juku/071/
これが通説です
●政府見解
(昭和30年頃までの説)9条は自衛のための戦力保持をも禁止している。(ここまでは上のB説と同じ)しかし、戦力とは「近代戦争遂行能力に達したもの」をいい、自衛隊はいまだこの「戦力」には至っていない。
しかしさすがに自衛隊の能力が近代戦争遂行能力に達していないとは言えなくなってくると、次のような解釈に変更した。
↓
9条は自衛権を否定するものではない(ここまでは正しい)
自衛権が認められる以上は、自衛のための必要最小限度の実力、すなわち「自衛力」が保持できる。
しかしこれは、「自衛のための必要最小限度の戦力=自衛力」とは何かが不明であり、「自衛のための戦力」を単に「自衛力」といいかえたに過ぎないものと思われる。
結局この政府見解には、9条は侵略戦争のみを放棄したとする最初の説に限りなく近く、従って、この説に対する批判がそのまま当てはまる。
(続きます)
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