裁判員制度と犯罪報道を考えるー補足・麻生邸ツアー事件
- 2008/12/22
- 18:13
(前エントリー補足です)
前エントリー、裁判員制度と犯罪報道を考えるにおいて、私はこのように書きましたが、麻生邸リアリティーツアーの逮捕報道がまさにそうだったのではないでしょうか。
今月の9日にマスメディアの問題点や市民メディアの役割について考えるシンポジウム「マスメディアと市民メディア~何が伝えられるの?」が東京で開かれましたhttp://www.news.janjan.jp/media/0812/0812113306/1.php
そのシンポジウムに参加された方のブログから引用させていただきます。
◆《ニュース・ワーカー2 》
揺らぐ「マス」の正当性と「プロ」の正統性
(引用開始)
報道の自由とは、権力からの自由であり、監視批判するための自由のはずです。
報道の自由があるというなら、警察発表の受け売りをそのままベルトコンベア式に流さずに、ゆでだこデカが、何もしてない若者をコウボウだと叫んで地面にねじ伏せた不当逮捕であることを取材によって確かめ、報道すべきでした。
報道の自由とは、権力を監視するために憲法で保障された武器です。
せっかく与えられたこの武器を駆使して真実に迫ろうとし、ゆでだこ公安を告発するようなスクープを書いてこその「報道の自由」ではないのでしょうか。
村野瀬玲奈さんは、記者クラブの存在がそれを邪魔している一つの原因であることをことを指摘されています。
◆麻生邸リアリティ・ツアー逮捕事件の「真実」をマスコミが報道しなかった理由 (追記あり)
舞鶴も東金も、同じように記者クラブが警察から流してもらった片面的な情報をながしているだけです。
そういう情報を鵜呑みにしたコメンテイター達が尾ひれをつけた想像を垂れ流して、被疑者に対する先入観を世間に植え付けるのを「報道の自由」といわれても、なんだかな、と言う気がします。
これでは報道の自由の本来の役割を果たしてないんじゃないでしょうか。
被疑者、被告人という個人を晒す時、マスコミは「報道の自由」をフルに主張します。
しかし一方マスコミの第一の役割である肝心の権力への監視に際して、「報道の自由」「知る権利」をフルに主張し、駆使しているといえるでしょうか。私は疑問に思います。
前エントリー、裁判員制度と犯罪報道を考えるにおいて、私はこのように書きましたが、麻生邸リアリティーツアーの逮捕報道がまさにそうだったのではないでしょうか。
今月の9日にマスメディアの問題点や市民メディアの役割について考えるシンポジウム「マスメディアと市民メディア~何が伝えられるの?」が東京で開かれましたhttp://www.news.janjan.jp/media/0812/0812113306/1.php
そのシンポジウムに参加された方のブログから引用させていただきます。
◆《ニュース・ワーカー2 》
揺らぐ「マス」の正当性と「プロ」の正統性
(引用開始)
(引用ここまで 強調は私)わたしはパネラーの1人の下村健一さんの指摘が強く印象に残っています。下村さんはYouTubeにアップされた動画について、市民メディアはこうした1次情報をどんどんネット上に出すべきだとしつつ、しかし「逮捕が不当である」とする証拠としては弱いと指摘しました。動画に写っている範囲のことは分かるが、動画に写っていないところで何があったのか、あるいは何もなかったのか、そこまでは証明できないからです。代わってそれを取材し、情報として発信するのがプロの仕事のはずで、現場に居合わせたマスメディアの記者がそういう記事を書かずに、あろうことか「不当である」と抗議を受けている当事者である警察の発表に基づく定型記事しか書かなかったことが本当に残念だ、という趣旨のことを話しました。
そうした議論も聞きながら、わたしなりにまず思ったことは、以前のエントリーで書いたことの再録ですが、プロとしてジャーナリズムに関わるということは、「表現の自由」を守り抜くことを職業上の責務と受け止め、そのために行動しているかどうかではないか、ということです。マスメディアの特徴の一つは、組織的な取材、チームプレーで動くことです。その良さを最大限に発揮し、「表現の自由」を脅かす一切のことと対峙していくことが、プロのプロたるゆえんではないかと強く感じました。
報道の自由とは、権力からの自由であり、監視批判するための自由のはずです。
報道の自由があるというなら、警察発表の受け売りをそのままベルトコンベア式に流さずに、ゆでだこデカが、何もしてない若者をコウボウだと叫んで地面にねじ伏せた不当逮捕であることを取材によって確かめ、報道すべきでした。
報道の自由とは、権力を監視するために憲法で保障された武器です。
せっかく与えられたこの武器を駆使して真実に迫ろうとし、ゆでだこ公安を告発するようなスクープを書いてこその「報道の自由」ではないのでしょうか。
村野瀬玲奈さんは、記者クラブの存在がそれを邪魔している一つの原因であることをことを指摘されています。
◆麻生邸リアリティ・ツアー逮捕事件の「真実」をマスコミが報道しなかった理由 (追記あり)
舞鶴も東金も、同じように記者クラブが警察から流してもらった片面的な情報をながしているだけです。
そういう情報を鵜呑みにしたコメンテイター達が尾ひれをつけた想像を垂れ流して、被疑者に対する先入観を世間に植え付けるのを「報道の自由」といわれても、なんだかな、と言う気がします。
これでは報道の自由の本来の役割を果たしてないんじゃないでしょうか。
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