書いておきたいことがたまりまくっています、どこまで消化できるかな・・(^^;
辛坊氏の話題に関連して、このエントリ-では「自己責任」についての記事やツイートをいくつかメモしておくことにします。
この自己責任論こそ今の日本人が罹患している深刻な病の現れ、古くて新しい、今もなお罹患の原因と治癒方法を追求しなくてはならない「死に至る病」だと思いますので、それについて考える材料にしていただけると嬉しいです。
まずは、えるまあさんがコメント欄で教えて下さったJANJANの記事をお持ち帰り。
8年前の古い記事ですが、今も読んで考える価値のある記事です。長いですが全文転載。
イラク人質事件と日本社会 この1年を振り返って
http://voicejapan2.heteml.jp/janjan/living/0504/0504065443/1.php
拉致されたことよりも3人が帰国した時に起こったバッシングの方が印象に残り、これこそが日本社会の病巣を白日の下にさらしたのではないかと思う。
2004年4月8日、日本中に衝撃が走った。夜のニュースでは、イラクで3人の日本人が拉致され、3日以内に自衛隊が撤退しなければ人質を焼き殺す、という要求が突きつけられたことが報道された。人質になったのは、フリージャーナリストの郡山総一郎さん、バグダッドでストリート・チルドレン(路上生活児)の世話をするボランティアをしていた高遠菜穂子さん、フリーライターで劣化ウラン弾被害の取材のためイラク入りをした今井紀明さんだった。政府は要求に応じなかったが、人質は8日後に無事解放された。この事件は、民間人を拉致して軍隊の撤退を要求するという前代未聞の事件として、日本のみならず世界中に報道された。
あれから、早一年が経つ。人質が解放されてからこれまでの1年間を振り返ると、いろいろなことが見えてくるのではと思う。イラク人質事件は、拉致されたことよりも、解放された人質が帰国した時に起こったバッシングの方がより印象に残り、このことこそが、日本社会の病巣を白日の下にさらしたのではないかと思える。
異常な日本社会の反応
ボランティアの高遠菜穂子さんが「今後も活動を続けたい」と発言したことに対し、小泉首相は「寝食忘れて救出に尽くしたのに、よくもそんなことが言えるな」と激怒した。当時の福田官房長官、中川経産大臣、石破防衛庁長官は「自己責任」を強調して、救出費用を請求すべきだと言った。自民党の参院議員には、人質となった彼らを「反日的」と国会の場で堂々と誹謗中傷する者もいた。
問題だったのは閣僚や与党議員だけではない。年金問題を追及し市民派として知られる民主党の長妻昭衆議院議員は、人質事件の最中、有権者と懇談をするタウン・ミーティングで「3人は、政府の退避勧告を無視してイラクに入った無謀な行動をした」と突き放すように批難した。元日経新聞の記者であり、また市民運動の推進を訴える立場にしては意外な発言であったが、それが日本の国会議員の認識レベルであった。後に、長妻氏にこのことを指摘すると「家族が謝罪しなかったことが悪い」と語った。
そして政治家だけではなく、本来、ジャーナリストが拘束されたことで共感しなければならない立場のマスコミの反応もいびつであった。読売新聞と産経新聞は、社説を通して人質やその家族を批難した。皮肉なことに産経新聞は、人質事件が起こる3カ月前に紙面で高遠さんのイラクでの活動を紹介し、募金を集めに協力したメディアだったのである。
雑誌では週刊新潮と文春が、人質のプライバシーを暴き出し犯罪者のような扱いで記事を載せた。記事の内容は、ほとんどが歪曲で事実無根も甚だしかった。テレビでは、評論家の三宅久之氏が「たかが趣味で人騒がせな」と高遠さんのボランティア活動を奇人変人扱いで批難した。
世界の反応は正反対
日本国内が常軌を逸した反応をしている中、世界の反応は正反対であった。当時のアメリカの国務長官であったコリン・パウエル氏は、3人が解放された時に「日本人は、身を挺していいことをしようとした彼らを誇りに思うべきだ。誰かが危険を冒さなければ世の中、前には進まない。我々には彼らの安全を確保する義務がある」と市民の活動を最大限理解し、また統治権力者として市民保護の義務を忘れない貫禄ある態度を見せた。イラク人質事件では、最も不利益を被ったはずの占領当事国のアメリカの国務長官が、このように発言したのである。
またイタリアでは、高遠さんと同じような子供達の世話をするボランティアをしていた女性2人が8月に人質となり、3週間後に解放されたが、彼女達には「自己責任」と言う言葉は浴びせられず、帰国した時は、ベルルスコーニ首相が空港に出迎えに来たほどだった。12月には、フランスのジャーナリスト2人が4カ月も拘束された後に解放されたが、ここでも無謀さを問う声はなく、シラク大統領は休日を返上してまで空港に彼らを出迎えた。
日本の一連の「自己責任バッシング」は、世界には大変奇妙に映り、事件そのもの以上に世界で報道され嘲笑の的となった。ニューヨーク・タイムズ紙は、読売新聞が高遠さんの行動を「独善的なボランティア」と評したことを批難し、フランスのル・モンド紙は、「日本の政治家は自制心が欠如している」と批難した。その他、イギリス、ドイツ、イタリア、ロシアなども同様の反応だった。何も欧米だけではない。中国、韓国などのアジアの隣国にも、日本の反応は異様に映ったらしく、韓国紙の社説では植民地の歴史とまで比較し、日本人の民族性にまで踏み込むほどの批難が繰り広げられた。
国家としての義務感の欠如
この日本と世界の違いは何なのか、先に紹介したアメリカのパウエル前国務長官の発言の真意を理解する上で分かりやすいのが、ブルース・ウィリス主演のハリウッド映画「ティアーズ・オブ・ザ・サン」だ。この映画は、アフリカの奥地で政情不安定な中、取り残されたアメリカ人女性を海兵隊員が救出するストーリーだが、映画の撮影には軍部が協力をしただけあり、迫力あるシーンが繰り広げられ、また米国の軍隊のポリシーを如実に表しているともいえる。
救出の対象となるアメリカ人女性は、怪我をした現地難民の世話をする医師であるが、アメリカで生まれ育った女性ではなく、夫がアメリカ人だったためアメリカ国籍を取得した女性だった。救出に際し、女性は自分が世話をしている人達を置いていけないと拒絶したため、やむを得ず海兵隊員は難民の保護も引き受けることとなる。そのために、海兵隊員が何人か犠牲になってしまう。だが、映画では、女性は身勝手な人物として描かれてなく、海兵隊員は当然のことをしたまでだというメッセージで締めくくっている。
つまり、アメリカ政府や軍部の考え方は、国家や軍隊は市民のためにあり、市民の出す要求に常に応える義務があるとしているのだ。アメリカ国籍を持つものなら、どんな人間であろうと保護の対象となると考えている。つまり、あのリンカーン大統領が言った「人民のための政府」である。日本では、政府や国家は「お上」であり、国民が国家の言うことに従うべきみたいな非民主的な理論がまかり通っている。
考えてみてほしい。もし、あなたが治安の悪い歓楽街の店でぼったくりの被害に遭い、警察に被害を訴えた時に、警察官から「危ないと分かって行ったのだから自己責任だ」と言われたら、そんな警察に税金を使われていることをどう思うだろうか。考えてみれば、誘拐にしろ、ぼったくりにしろ犯罪である。無用心だったとはいえ、なぜ被害者が責められなければならないのか、この理不尽さを考えてみれば分かるはずだ。
与野党の議員達は、国民保護のため憲法9条を改正すべきと主張しているが、この当たり前の精神が理解できていない政治家達に、我々国民は頼っていいのか実に心配である。理解していたのは理屈だけで、いざ緊急事態が飛び込んできた時に、実感として理解できるだけの教養も資質も備わっていないのだ。
銀行預金のペイオフ解禁開始で自己責任が再び取りだたされている昨今だが、国民個人には自己責任を強いながら、閣僚や議員達の年金未納が次々と発覚したのは、皮肉にもイラク人質事件のバッシングが激しかった頃だ。
ボランティアに対する無理解
バッシングでは、ボランティア活動をする高遠さんに対してのものが特にひどかったように思える。女性だからということもあるが、彼女のボランティア活動に対する世間の無理解が要因として大きかったように思う。特に、日本では高遠さんのように紛争地域でボランティア活動をするNGOなどの団体が、他の先進国などと比べ少ない。身近にいないことが共感を呼べず「趣味で勝手なことをしている」という意見になるのだろう。
だが、そんな人達は、よく考えてみてほしい。もし、自分が体に障害を持つこととなり、介護ボランティアの世話になることになったら、もし地震で家屋が倒壊し、寒い中、毛布や食料などの提供を受けることになったら、あなたは、ボランティアの方々に「趣味でやっているのだろう」と言えるのであろうか。高遠さんはストリート・チルドレンの世話をしていたが、かつて日本も戦後は戦災孤児などが数多くいた。そのことを忘れてしまったのだろうか。歌にもなった「鐘の鳴る丘」などが、そのための孤児院として有名である。高遠さんのイラク入りを「自分探しの旅」とか「自己実現のため」としか解しない人達は、もう一度考え直すべきだ。
ジャーナリズムのない日本マスコミ
人質の中でジャーナリストである郡山さんを批難する声が、同業の新聞や雑誌記者などから出たのを意外と思った人はいなかったであろうか。日本のジャーナリスト達は、なぜ彼に共感を抱けなかったのか。それこそ、日本マスコミの問題点なのである。
日本の特に大手メディアは、記者クラブ制度や再販制度による保護制度のためか、自ら足を運んで取材をすることをあまりしない体制となっている。記者クラブ制度により、既存メディアだけが発表情報を独占しているため、危険地帯にまで足を運んで取材をする努力をする必要がないのだ。危険な取材はフリーにまかせてしまうご時世で、記者たちは現場の苦労に共感できなくなってしまっている。また、この制度のため政官との癒着関係ができてしまい、報道が政府寄りになってしまう。政府にとって人質を批難する報道をする方が都合がよかったため、あのような記事が書けたのだ。
フランスやイタリアでも、ジャーナリストの人質事件が相次ぎ、さすがの政府もジャーナリストに退避の勧告をしたが、ジャーナリスト達は自分達には「目撃者になる義務」があるとしてその取材姿勢を変えようとはしていない。
日本にも、かつてベトナム戦争報道でピュリッツアー賞を受賞した沢田教一のような人物もいたが、もうそれほどの気骨なジャーナリストは少なくなってしまったことの証だろう。
恥の文化
人質事件では、家族の感情的な反応が人質の行動と共に批難を受けたが、これも日本社会の性質を強く裏付けるものだ。日本人は、一般に他人が感情をあらわにする姿を見るのに慣れていない。自分の家族が殺されるかもしれないという状況において、冷静でいられる人は少ないと思うものだが、日本社会では他との調和が第一とされる。人質の行動も、結果的に秩序を乱すものとして批難の対象となった。
戦後日本の占領統治のためアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトにより書かれた「菊と刀」という本によれば、日本には「恥の文化」という道徳規範があり、行動の善悪よりも、他人にどう映るかを行動の基準とするといわれる。人質とその家族は、その文化を乱す者として「村八分」の対象になってしまったのだ。11月に人質となり惨殺された香田証生さんのご家族も、殺されたことの悲しみや怒りは一切表せず、それよりも息子の行動に謝罪をすることを求められた。村八分にされる恐怖が、そこには感じられた。日本社会の不寛容さを象徴する出来事だ。
この文化には問題点がある。お互いが、感情を抑えることに常に心掛けなければならず、個人には多大な負担がのしかかってくる。それは、ある時、ぱっと噴き出し、常軌を逸した形となる。それが集団での行動となれば、自己による制御はきかないため、恐ろしいまでの行動となる。それこそが、あの「自己責任バッシング」の醜さだったのだろう。
全く希望がないわけではない
このようなことを語ると、ひたすら落ち込んでしまい、日本人であることに自信を失くしてしまうばかりだが、必ずしも希望がないわけではない。むしろ、あの事件を好機と見るべき考えもある。問題点が白日の下にさらされ、多くの人が考えさせられるようになったのではないか。
人質事件で救いだったのは、人質になった彼らが、あの無理解と激昂の中で決して負けなかったことだ。郡山さんと今井さんは、事件について敢えて謝罪しなかった。自分達に続くジャーナリストやNGOの活動を制約したくなかったからだ。高遠さんは、堂々と活動を続け、講演のため全国を回っている。彼らは全くめげてなく、出版物を売り出しているほどだ。あのバッシングのせいもあってか、結局のところ英雄となったのだ。
最近、ライブドアの堀江社長が、若いのにもかかわらずフジテレビを相手に法廷闘争になるほどまでの戦いを挑み、とりあえず勝利することが起こった。当初は、かなりのバッシングに見舞われたが、むしろそれを逆手に利用して、自らの注目度を上げていった。これが人質事件の影響であったのかは分からないが、若い世代と社会全体に変化が芽生えたのではないかと思えてくる。
これまで体制を支えてきたお偉い人達や年長者の方々が、いかに無知で偏狭な考え方しか持ってないことが見えてきたのではないか。若い新しい世代の人々が、自分の信念に従い行動していくことに価値を見出してきたのだと思う。
とはいえ、まだ古い体制の壁は厚い。人質バッシングで分かったように、日本は大きな組織に属さないもの、女性、若者、そして個性の強いものには厳しい社会だ。「出る杭は打たれる」という諺があるくらいだ。しかし悲観するばかりではなく、希望を持って生きたいものだ。
◇ ◇ ◇
当時テレビで見ましたが、インタビューを受けたアメリカ市民が、この3人がバッシングを受けていたと聞いて
「何故バッシングされるか分からない、アメリカだったら彼らは英雄、帰国したらパレードが盛大に開かれていただろう」
と驚いていたのを思いだします。
私はこの三人を自己責任だと言って非難する人たちに逆に聞いてみたいのです。
あなたは、アメリカやフランスやイタリアはどうして日本と正反対に彼らを絶賛するのか、その理由は何だと思いますか?と。人質事件と言えば、昨年アルジェリアで日本人が人質に取られて殺害された痛ましい事件もありました。その時は「そんな危険な地域に社員を派遣した会社の自己責任」などと言う非難など微塵もおきるはずもなく・・・
その際につぶやかれたツイートもお持ち帰りしておきましょう。
誰が、誰に対して、何を求めて「自己責任」を要求してくるのか
一つ言えることは、権力側や強い者は決して「自己責任」をとらない、ということです。
また、自己責任を求められるのは被害者であって加害者ではありません(日本では被害者に対するセカンドレイプが横行しています)
自己責任を求められるのはいつでも権力側に対峙する側、あるいは力のない弱い者である、ということは言えると思います。
自己責任論については、また角度を変えて考えてみる機会を持ちたいと思います
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