試合でちっとも点数を入れられない。じゃあ自分たちが点数を入れられやすくなるような有利なルールに変えてしまおう
ぶっちゃけていえば、これが憲法96条の改定です。
何故96条の改定が許されないかのは小林教授と浦部教授(法学館研究所)の解説にお任せることにしましょう。
全文はリンク先でお読みください。
◆毎日新聞
特集ワイド:憲法96条改正に異論あり 9条を変えるための前段、改憲派からも「正道じゃない」
2013年04月09日 東京夕刊
http://mainichi.jp/feature/news/20130409dde012010003000c.html
(引用開始)
「絶対ダメだよ。邪道。憲法の何たるかをまるで分かっちゃいない」
安倍首相らの動きを一刀両断にするのは憲法学が専門の慶応大教授、小林節さん(64)だ。護憲派ではない。今も昔も改憲派。戦争放棄と戦力不保持を定めた9条は「空想的だ」と切り捨て、自衛戦争や軍隊の存在を認めるべきだと訴える。改憲派の理論的支柱として古くから自民党の勉強会の指南役を務め、テレビの討論番組でも保守派の論客として紹介されている。その人がなぜ?
「権力者も人間、神様じゃない。堕落し、時のムードに乗っかって勝手なことをやり始める恐れは常にある。その歯止めになるのが憲法。つまり国民が権力者を縛るための道具なんだよ。それが立憲主義、近代国家の原則。だからこそモノの弾みのような多数決で変えられないよう、96条であえてがっちり固めているんだ。それなのに……」。静かな大学研究室で、小林さんの頭から今にも湯気が噴き出る音が聞こえそうだ。
「縛られた当事者が『やりたいことができないから』と改正ルールの緩和を言い出すなんて本末転倒、憲法の本質を無視した暴挙だよ。近代国家の否定だ。9条でも何でも自民党が思い通りに改憲したいなら、国民が納得する改正案を示して選挙に勝ちゃいいんだ。それが正道というものでしょう」
そもそも「日本の改憲要件は他国に比べ厳しすぎる」という改正派の認識は間違っている、と続ける。例えば戦後6回の憲法改正(修正)をしてきた米国。連邦議会の上下両院の3分の2以上の議員が賛成すれば改正が提案され、全米50州のうち4分の3の議会での批准が必要で「日本より厳しいんだ」。
諸外国で改憲要件を変えるための憲法改正がなされた例は「記憶にない」。他国と同等の国にしたいだけと訴える改憲派が、例のない特殊な手法に手を染めようというのだろうか。
(引用ここまで)
◆法学館研究所
96条の改正
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20130321.html
(引用開始)
96条の「3分の2」を「2分の1」に変えるという憲法改正の何が問題か。それは、なによりも、国会がそういうことを言い出すこと、まして内閣総理大臣がそれを言い出すことは、筋違いであり、心得違いも甚だしい、ということである。
そもそも憲法は、国民から権力担当者に向けられた指示・命令である。憲法制定権は国民にあり、そして改正権も当然国民にある。この場合、その権限が「国民にある」ということから、「したがって、国民の代表である国会議員あるいは国民代表機関である国会が、その権限を行使できる」となりそうであるが、憲法に関するかぎりそうはならない。憲法制定権や改正権が国民にあるというのは、文字どおり「国民」にあるのであって「国民の代表」にあるわけではないのである。なぜなら、「国民の代表」は、権力担当者として、憲法に示された国民からの指示・命令を受ける立場にある者だからである。指示・命令を受ける側がその指示・命令の内容を勝手に変えることができるというのでは、指示・命令の意味がなくなる。したがって、「国民の代表」といえども、「国民」に代わって憲法制定権はもちろん改正権を行使することは、許されないのである。
「国民の代表」に認められているのは、憲法改正案の発議だけである。まして、直接的には「国民の代表」ないし「国民代表機関」と位置づけられていない内閣総理大臣ないし内閣には、そもそも憲法改正について議論する権限すらないはずである。
国会には憲法改正権そのものはないとしても憲法改正案の発議権があるのだから、憲法改正が必要だと国会が判断したなら改正案を発議できる、というふうに考えられるかもしれない。そう考えれば、96条の「3分の2」を「2分の1」に変える必要があると国会が判断したなら、それを国民に提案して賛否を問うことに何の問題があるのだ、ということにもなろう。一見、至極当然の議論のようにみえる。だが、これも、憲法は国民から権力担当者に向けられた指示・命令であるという、憲法の原点に立ち返って考えれば、指示・命令を受ける側の国会議員あるいは国会が、その指示・命令は自分たちにとって都合が悪いから変えようなどと言い出すのは、道理に合わない、ということがわかるだろう。
国会に発議権があるといっても、それは、国会が憲法改正を主導できるということを意味しないのである。国民の側から、現行のままではうまくいかなくなったからここをこう変えようという具体的な声が高まったときに、それを受けて国会議員たちが改正案を議論し発議する、というのが本来の筋である。国民の側から具体的な憲法改正の声も高まってきていないのに、国会が「憲法について議論してもらうきっかけを作る」ために改正案を発議するなどというのは、まったくの筋違いである。「憲法について国民に議論してもらうきっかけを多くする」ために96条の発議要件を2分の1に緩和するという96条改憲論は、そういう意味で筋違いであり、国会議員や、まして内閣総理大臣がそういうことを言うのは、心得違いも甚だしい。
憲法の改正ということは、問題によって程度の大小はあれ、この国の基本的な枠組みや進むべき道に直接的にかかわることである。とすれば、可能なかぎり多くの国民が賛成できるような改正であることが望ましい。政党や政治団体として憲法改正を唱えるのは自由であるが、改憲をめざすのであれば、可能なかぎり多くの賛成を得られるように努力するというのがまっとうな姿勢である。96条の「3分の2」を「2分の1」に変えるというのは、可能なかぎり多くの賛成を得ることを放棄して、より少ない賛成でも憲法改正が成立しやすくなるようにしようというということであり、とてもまっとうな姿勢とはいえない。考え方の出発点から間違っているのである。
(引用ここまで・改行、強調は私)
こちらも追記
●憲法改正の「作法」
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20100506.html●憲法を国民の手から奪い取る96条「改正」
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20130422.html通常の法律でしたら国民の信託を受けた国民の代表である議員が立法する権限を持ちます。
しかし憲法改正権だけは通常の立法と異なり議員に権限を委託しません。文字通り国民が持ったまま。
それが通常の立法と憲法の改正との違いです。
通常の立法なら議員が問題提起して国民的な議論をしてもらうきっかけを作るということはよくあることですが、憲法でそれはやってはいけないのです。なぜなら憲法は国民が権力担当者に出した命令であり、命令を受けた権力担当者が「この命令、いやだから変えよう」と自分から言い出せるとしたら、もはや権力担当者を縛る命令の体をなしていないからです。
従って国会議員(内閣総理大臣ではない)が「発議」することができるというのは『国会が憲法改正を主導できるということ』ではありません。
国民の方から改憲の『具体的な声が高まったときに、それを受けて国会議員たちが改正案を議論し発議する』という意味なのです。
96条を変えたくて仕方がない勢力はここを意図的に(あるいは全然知らずに)混同しています。
今回、国民の方から「96条はおかしい」という声があがってきたのでしょうか?いいえ、権力担当者の方が命令者である国民を主導しています。
さて、96条改正を正当化しようと改憲勢力はあれこれ理屈をこねていますので、それに対するツッコミを見ていきたいと思います。
<以下訂正部分>
安倍総理は『衆参各院の「3分の2以上」の賛成を必要とする96条の発議要件について、「2分の1に変えるべきだ。国民の5割以上が憲法を変えたいと思っても、国会議員の3分の1超で阻止できるのはおかしい』と主張しています。
一瞬なるほどと頷いてしまいがちですが、これは憲法が多数派による権力行使に歯止めをかけるものであることをわすれた主張です。
◆マガジン9
http://www.magazine9.jp/juku/033/
(引用開始)
こうした改憲手続は、法律改正よりも厳格になっています。こうした憲法を硬性憲法といいます。法律改正と同じ手続で改正できる憲法を軟性憲法といいますが、これでは、憲法に反する法律を簡単に作れてしまい(憲法の方を改正すればいいからです)、すべての法規範の中で最高の効力を持つという憲法の最高法規性が失われてしまいます。
つまり、軟性憲法では、国会も含めてすべての国家権力に対する歯止めとしての憲法の存在意義を失わせてしまうことになるのです。日本国憲法は硬性憲法を採用して、よほど積極的かつ説得的な根拠がないと改正してはいけないことにしました。これは憲法制定当時の主権者の意思です。
そもそも、民主主義の国であれば、そのときどきの政治的意思決定は国民の多数意思によって行われます。しかし、それはときに暴走し、多数の横暴を招き、権力者を勢いづける危険性を持っています。そこで、国民の多数派を背景にもつ政治権力であっても、つねにその権力の行使をチェックし、行き過ぎを修正するための道具が必要となります。それが憲法です。このように憲法は、その時代の国民の多数派でもやってはいけないことを予め規定しておくものです。
そのときどきの国民が法律改正と同じように単純な多数決で憲法改正ができてしまったのでは、憲法によって多数派に歯止めをかけた意味がなくなります。そこで憲法改正手続を厳格にして多数派を背景にした政治権力であっても、安易に自分たちだけに都合のいい改憲ができないようにしたのです。
(引用ここまで)
過半数で感単位変えられるようなら「歯止め」の役割が果たせない、もっと多くの賛成でないと時の権力に都合よく変えられてしまう、ということですね。
時の権力を縛るくびきを緩めてはいけない、ということです。
(※この部分、江川紹子さんのツイートを引用しましたが、少々私が勘違いしていておかしいことに気づきましたので訂正しました)
長くなりますので、(2)に続けます。
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