前回のエントリーでは政府や憲法学会の主流がヘイトスピーチを取り締まる立法に反対する根拠である
①憲法21条の表現の自由を侵害する
②憲法31条の罪刑法定主義から導かれる明確性の原則
について説明をしました
今回のエントリーでは、①への反論を行います。
ヘイトスピーチを規制する立法が憲法21条に反しないと言えるためには、ヘイトスピーチという「表現の自由」と衝突する人権はどんなものか、その人権とヘイトスピーチという「表現の自由」とを比較考量したときに、それが果たして表現の自由のを制約するに値するものなのかを検討しなくてはいけません。
でなければヘイトスピーチの規制は名誉毀損等と同様、
表現の自由の内在的制約だとは言えないからです(人権の内在的制約については前のエントリーで触れました)。
ヘイトススピーチを浴びせられた側の人権侵害の実態はどのようなものでしょうか?
最近の例で言えば、京都の朝鮮初等学校に在特会が押しかけてヘイトを吐きまくった時に子供達が味わった恐怖に今もどれほど傷ついているか。学校側が子供達を守るためにどんな屈辱を堪え忍ばねばならなかったか。
新大久保や鶴橋のヘイトデモであの界隈の在日コリアンが受けた深刻な経済的損失や、自分の店が襲撃されないかという現実的不安がいかばかりだったか。
このようなヘイトクライムの被害の分析は果たして充分になされてきたと言えるのか、私は甚だ疑問に思います。
前田朗さんも次のように述べています。
これまで、なぜ『人種差別表現の刑事規制は表現の自由に抵触する』と即断してきたのだろうか。その一因は、人種差別表現による被害事実に目を閉ざしてきたことにあるのではないだろうか。被害に関する社会学的調査・研究が少ないため、とりわけ政府レベルの公的な調査が欠落しているため、人種差別被害と言っても、一般論でしか理解されず、議論の手がかりが不十分だったように思われる
政府や憲法学会の主流は、ヘイトクライムへの法的対処は既存の名誉毀損罪、脅迫罪、業務妨害罪等に当たる場合のに法で対処すべきで、あとは人権意識の啓発や対抗言論に任せるべきだ、という考え方です。
確かにヘイトクライムは不法行為や名誉毀損罪、威力業務妨害罪と重なる事があります。
実際、京都の朝鮮初等学校のケースでは威力業務妨害罪と侮辱罪で処罰することができました(それが甚だ不十分であったことはとりあえず置いておく)
しかし既存の法令だけではカバーできないケースがあります。
ヘイトの対象が特定個人や特定団体ではなく、特定しきれない漠然とした集団(ex.朝鮮人、在日)にヘイトスピーチが吐かれた場合は侮辱罪や名誉毀損罪には該当しないので、既存の法ではカバーしきれないのです。
では、既存の法で対処できないヘイトクライムは処罰に値しないのでしょうか?
ヘイトクライムにより受ける被害の性質について、前田朗さんがブログでナタン・ホール著『ヘイト・クライム』というヘイトクライムの研究著書を紹介しています。
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ヘイト・クライム(3)http://maeda-akira.blogspot.jp/2009/08/blog-post_5456.html
(引用開始)
ホールは、ボウリングのニューハム調査を紹介している。一九八七年から八八年にかけてニューハムでは二つの通りに住む七つの家族に対して五三件の嫌がらせが発生した。言葉による嫌がらせ、卵を投げる、器物損壊、ドアをノックするなど。一つひとつは小さな事件であり、犯行者もそれぞれ個別に行なっている。しかし、これらが累積することで被害者にとっては重大な恐怖となる。ヘイト・クライムの被害は、単発事件によっては理解できないので、過去にさかのぼって累積的に調査する必要があるが、刑事司法や犯罪統計にはこの観点が欠けている。
ホールによると、過程としてのヘイト・クライムの被害や影響は、単発事件の被害や影響とは異なる。ヘレク、コーガン、ギリスによる一九九七年のヘイト・クライム調査によると、被害者にはひじょうに長期にわたるPTSDが確認され、落胆、不安、怒りにとらわれがちである。通常犯罪なら二年程度の影響が、ヘイト・クライムでは五年以上継続する。ヘレク、コーガン、ギリスは二〇〇二年にも調査を行なった。それによるとカムアウトした同性愛者は、公共の場で見知らぬ男性によって被害を受けることが多い。通常犯罪とヘイト・クライムとで例えば暴行の程度が同じであっても、被害者が受ける心身のダメージは異なる。そして、被害者個人だけではなく、同性愛者のコミュニティ全体に対しても影響を与える。ヘイト・クライムは、コミュニティの他の構成員に対して<メッセージ>を送るのである。犯行者の犯罪動機が伝えられることによって、憎悪の対象とされた集団全体に恐怖を呼び覚ます。ボストンにおけるヘイト・クライムと通常犯罪に関するマクデビットらの研究によっても、被害者の心理には差異が確認される。ヘイト・クライムの方が後遺症が大きく、回復に時間を要する。将来の恐怖の大きさも、被害の繰り返しのためにずっと大きい。
(引用ここまで)
たとえば、京都の朝鮮初等学校の子供達に浴びせられたヘイトクライムについて見てみると次のような事が言えます。
被害者は直接のターゲットだけではない。朝鮮人であるがゆえにターゲットにされたのである。「朝鮮人は出て行け」という排除と迫害の「メッセージ犯罪」である。現場に居た朝鮮学校生徒、教員、および急を聞いて駆けつけた保護者だけではなく、京都在住の朝鮮人全体が被害者である。ひいては事件報道を見聞きした在日朝鮮人全体が被害者である。
被害は犯行時だけではない。いつまた襲撃されるかわからない危険性と恐怖がつきまとう。子どもたちの安全を守るために、通学途上の安全性の確保、授業中の学校周辺の状況にも眼を光らせる努力を強いられる。重大な被害を受けた者は、後になってフラッシュバックに襲われたり、トラウマが残ることもある。
被害地は朝鮮学校だけではない。近所に出かける際にも用心をしなければならない。街中に同じような犯罪者がいるのではないかという不安感にさいなまれる。ヘイト・クライムの「空間的影響」である。
被害を心理学的に究明する必要がある。被害感情や苦悩は場合によってはかなり長期に及ぶ。自分が被害を受けやすいことに気づいた被害者は「自信喪失」に見舞われる。昨日までの自分ではいられない。自己尊重が失われ、逸脱感情に襲われる。時には被害者が自分を責める事態に陥ることもある。被害者と同じ集団に属する者には同様の被害感情が共有される。
(「差別犯罪と闘うために――ヘイト・クライム法はなぜ必要か(1)」より)
総じてヘイトクライムによる被害の特徴は以下のようなものだといえましょう。
ヘイトクライムは「個別の犯罪が関連を持って継続する<過程>」であり、「身体的暴力、威嚇、脅迫の継続」を特徴としています。
しかも、その結果として「特定個人だけが被害を受けるのではなく、事件の発生による恐怖はその瞬間を越えて広が」る
(http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-22.htmlより)
ヘイトスピーチは、刃物よりも鋭く人々を傷つけています。こういった被害感情や苦悩は、はかなり長期に及ぶものと思われます。さらに、被害者と同じ集団に属する者には同様の被害感情が共有されることになります。
(http://g-wip.com/wip/mikihide/mypage/news/newsId/10033398/categoryId/10001542より)
「特定の個人を傷つける場合」よりも「集団を傷つける言論」の方がはるかに深く人を傷つけることは容易に想像できる。筆者は、朝鮮大学校における授業で学生に質問してみたが、多くの学生が、自分を名指しで侮辱された場合よりも、朝鮮人であるがゆえに侮辱されたと感じた方が、より怒りが大きいと答えた。内野のような単純な理解はあまりにも浅薄と言うしかない。
(http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/11/blog-post_8.html より)
このように長期にわたって集団に属する人々にトラウマを与えるヘイトクライムは、
個人に対する名誉毀損罪や脅迫罪に匹敵するかそれ以上に深刻な犯罪性をもっているといえます。しかし現行法では処罰の対象になっていません。
政府や憲法学会の通説的立場は「漠然とした集団に対するヘイトは、個人や特定団体に対するヘイト(名誉毀損等に該当する)よりも傷つけられた側の傷は深刻ではない」などと安易な認定をしていますが、これは
ヘイトクライムの被害実態の検証を怠った机上の空論だと思います。
人々はこのようなヘイトクライムの被害から法により確実に守られるべきではないでしょうか。
また、ヘイトクライムは、名誉毀損罪のような個人的法益にとどまらず、次のような社会的法益をも侵害すると言えるでしょう
ドイツの「民衆扇動罪」は、人びとの「属性」に向けられるヘイトスピーチはより重たい刑が科せられます。人間の尊厳を侵害するからです。個人の名誉とは異なり、社会参加の機会や社会平等性を害し損します。世の中を不穏にしたということだけでなく、個人を超えて、社会参加の機会や社会平等性を害し損する。これがヘイトスピーチです
(http://www.sabekin.net/2012/01/25/541より)
凄惨な大虐殺や人権侵害は、いつも差別表現・民族排外の意識から生まれる。ナチスのホロコーストも、ユダヤ人排外の徹底したキャンペーンからスタートし、社会がこれを容認し、知らず知らずのうちに人々の意識に浸透する中で、ファシズムが完成し、ジェノサイドが起きていった。
ルワンダの大虐殺も、虐殺の前に、虐殺の対象となった民族を「ゴキブリ」「殲滅せよ」などと繰り返すラジオを中心としたメディア・キャンペーンが、ジェノサイドの土壌を整えていった。 日本においても、同じことが起こらないとは限らない
民族差別に基づく虐殺・人権侵害を起こした国の残した教訓は、「早いうちからジェノサイドの芽を摘む」こと、人種差別の蔓延を放置しない、ということである
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20130331-00024164/
ヘイトにより社会参加の機会や社会平等性が害されることを防ぐこと、早いうちからジェノサイドの目を摘むということ、こういう社会的法益を保護すべきなのは、20世紀の歴史の教訓ではないでしょうか
私はそれが「歴史に学ぶ」ということだと思うのです。
前のエントリーでも述べましたが、政府も憲法学会の主流も当然、ヘイトクライムは非難に値する許されないものであるという認識です。これは社会共通の認識と言っていいでしょう。
問題は、ヘイトクライムによって侵害される人権が、法という国家権力による保護に値する保護法益と見るか否か(即ち、ヘイトスピーチが法による処罰に値するか否か)です。
個人や特定団体に対する名誉毀損や脅迫によって侵害される個人的法益は、刑法という国家権力による保護に値することに異論はありません
それと比較しても、ヘイトによる長期に及ぶ苦悩にさらされないという個人的法益、社会参加の機会や社会平等性を守りジェノサイドの芽を摘むという社会的法益は、
法という国家権力による保護に値するレベルにある法益だと思うのです。
よって
ヘイトスピーチの制限は表現の自由に内在する制約であり、憲法21条の表現の自由を侵害しないといえるでしょう。
憲法21条の表現の自由とヘイトスピーチ禁止法は両立するのです。
「私はあなたの意見には反対する。しかしあなたがそれを言う権利は全力で守る」とうい有名なヴォルテールの言葉があります。従って、一見、自分の意に沿わぬヘイトスピーチを相手が言う権利も認めねばならぬかのようにも思われます。
しかし名誉毀損や脅迫の言辞は、そもそも「それを言う権利」がないのです。
同じようにヘイトスピーチも「それを言う権利」はありません。
存在しない権利は「全力で守」りようがありません。
この制約は「自由」が「自由」であるためはじめから内在している制約です。
権利が他の権利を侵害することを防ぐによって皆の自由、人権が守られるのです
次回は根拠②について反論する予定です。