憲法改定が日に日に現実味を帯びてくるようですが、前々から疑問に思っていたことがありました。
国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、この三原理を否定するような憲法改正はもはや憲法96条が想定している改正の限界を超えているので認められない、というのが憲法学では通説ですが、もしこういう改正案が国民投票で過半数の賛成を得た場合、どう考えればよいのでしょうか?
先日この疑問について、上脇先生のブログが触れていらっしゃったのをみかけました。やはりこの点に関しては法は空白のようです。
◆
上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場講演レジュメ(「憲法改正手続きの改正」論について)
(前略・引用開始)
4 「憲法改正手続き要件緩和」先行改憲論の危険性
(1) 9条改憲案が簡単に国民投票へ、あるいは国民投票なしに9条改憲へ
(2) 憲法9条以外の改憲も同様
(3) 憲法改正手続法における改憲無効訴訟の不備
・憲法改正無限界説と、憲法改正限界説(日本国憲法の基本原理、硬性憲法)
・憲法改正の限界を超えた場合の訴訟が想定されていない!(?)
日本国憲法の改正手続に関する法律(国民投票法)に国民投票無効を訴える事が出来る事項として
一 国民投票の管理執行に当たる機関が国民投票の管理執行につき遵守すべき手続に関する規定に違反したこと。
二 第101条、第102条、第109条及び第111条から第113条までの規定について、多数の投票人が一般にその自由な判断による投票を妨げられたといえる重大な違反があったこと。
三 憲法改正案に対する賛成の投票の数又は反対の投票の数の確定に関する判断に誤りがあったこと。
の三つしか定められておらず、憲法改正の限界を超えた改正については定めがない。
(引用ここまで)
もし改正の限界を超えた改正案が通ってしまった場合、この法の不備は条理解釈で補わざるを得ないでしょう。
ではどのように考えるべきでしょうか。
「国民が憲法を制定する権力を有する。だからその国民が国民主権や基本的人権尊重や平和主義を要らない、自分たちの基本的人権なんか国家に好きに剥奪されても構わないと言うんだったらそれでいいのだ。憲法のご主人様は国民だ。国民がどう制定しようと国民の勝手。憲法が国民より上位にあるわけじゃない」
このような結論が導き出されるのも可能なように思われます。「民意」万能のどこかの政治家が喜びそうな論理ですね。
たとえばもし、女性には参政権を認めない、という法律が国会で通ったとしましょう。
国民の多数の民意がこの法律を支持したわけです(と間接民主制では擬制されます)
しかし裁判所はこの法律は違憲無効だと判断するでしょう。
参政権という人権や平等原則は、たとえ国民の多数の民意を持ってしても否定できないものだからです。
多数が必ずしも正しいわけではありません。そういうときは多数決原理が否定されます。
しかしそれが人権と民主主義の原理を担保するのです。
上の例で言うなら、多数決原理が否定されたことによって平等原則が守られたのです。
裁判所の違憲無効の判断は、まさしく多数決原理を否定する典型的場面です。たった数人の裁判官が議会での多数の民意を一蹴するのですから。
これは法律の制定という憲法の枠組みの範囲内の事例ですが、実は、憲法の制定の場面でも必要な論理ではないでしょうか。
憲法の原理は自然法に由来するものであり、憲法制定権力である国民より上位で、国民をも縛っている
憲法の根底となっている自然法思想は国民の多数の民意によっても葬り去ることはできない、国民(憲法制定権力)をも縛る原理である。
ということは言えないでしょうか。
それによって人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた崇高な理念が担保されるのですから。
そうでないとワイマール末期のように、国民自身がファシズムを求めて暴走するのを止められないでしょう、歴史の教訓を生かせません。
何せ、民主主義を自ら勝ち取った歴史を持たないこの国では、国民自身が
「大日本帝国憲法バンザーイ!」とばかりに、憲法の根底思想を否定する可能性が大きいのです。 市民革命で自ら民主主義を勝ち取った国ではこんな心配しなくても良いのでしょうけれども・・・。
憲法改正の限界を超えた場合、国民投票の有効性をどう考えるべきかの論理構成は、これからでも詰めておくべきではないかと思います。
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