ブログ「【堺からのアピール】教育基本条例を撤回せよ」さんから、是非読んでいただきたい記事をお持ち帰りです。
フィンランドでは、日本の体罰の話を信じてもらえない―爆笑される! http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/22703370.html
僕が事務局長をしている「熊本子育て教育文化運動交流会」(略称・熊本子育て交流会、1991年発足)では、教育基本法改悪のあと、フィンランドから日本の教育を考える講演会に2年かけて取り組みました。
その成果は、佐藤隆著・交流会編『フィンランドに学ぶべきは「学力」なのか』(かもがわブックレット、2008年)にまとめられています。
... その後、熊本市内の県立高校に留学しているフィンランド人留学生「カロリーナ」と偶然知り合い仲よくなる中で、2009年1月、「カロを囲む会」をもちました。
大学生を中心に29人が集まり、楽しいひとときを過ごしたのですが、そのときこんな印象的なやりとりがありました。
【Q】日本の学校は、フィンランドとどこが違う?
【A】学校にいる時間が長くてキツい。フィンランドだと3時~4時ぐらいに帰宅します。制服があるのにも驚きました。
それから、日本の先生は1人でずっとしゃべっています(笑い)。フィンランドの授業では生徒の意見を聞いたりディスカッションするのが普通。
【Q】先生について他に何か?
【A】日本の先生はきびしい。先生が教科書で生徒の頭をたたくのを見て、とてもびっくりしました。(体罰は)私の国ではあり得ません。
彼女にインタビューしながら、以前読んだ高橋絵里香著『青い光が見えたから~16歳のフィンランド留学記~』(講談社、2007年)のあるエピソードを思い出しました。
絵里香さんは、カロとは逆に日本(北海道)からフィンランドに留学したのですが、体罰をめぐる2人の話は符合するのです。
ある日の外国人向けフィンランド語の授業で、生徒の「いねむり」を先生がどうするかに話が及んだときのこと。
……(以下、引用。分かち書きは山下)
「エリカは?日本ではどうなの?」急に先生が話をふった。
「え?日本は……」
言いかけて私は、一瞬迷った。私が日本の先生ときいて思いうかべるのは、自分の中学校の中でも暴力的だった先生たちのことだ。しかし、日本を代表しているようなこの場で、そんなことを話してもいいのだろうか。
少し考えたが、やはり私が経験した本当のことを話したかったので、本来なら日本でもそんなことは許されないはずだということは、きちんと前置きしたあとで、思い切って話してみることにした。
「日本の学校でも〔イランの学校と同様―引用者注〕、いねむりはとてもできないな。もちろんそうじゃない先生もいたんだけど、私がいた中学校には、いねむりの他にも忘れ物をしたり、言うことをきかないと、殴ったり……背中を蹴ったりする先生がいて……」
「殴る」「蹴る」という単語には、いま一つ自信がなかったので、拳や足を振りあげたりというジェスチャーを交えて説明した。
ところが、思いもよらない反応が返ってきたのだ。
「わはははは!」
アンをはじめ、ファルザネもアナスタシアも、先生までお腹をかかえて爆笑してるのだ。
「えっ?!ここ、笑うところじゃないはずだけど?!」
私の不恰好な蹴りが可笑しかったのだろうか、などと考えていると、笑いをこらえて先生がようやくきいた。
「警察には言わなかったの?」
「警察?!」なぜそこに警察が出てくるのかわからなくて、よけい頭が混乱してきた。
「えー、でもどうしてそんなことを先生たちがするの?」やっと落ち着いたアンは、まったく理解不可能という顔で私にきいた。
「……なんでだろうね」なぜあんなことが許されたのか、知りたいのは私の方だった。
... なんとも予想外の反応が返ってきたので、わけがわからなくなった私は、他の人の意見もきいてみなければならなかった。
学校帰りに、授業で話したのと同じことをエーヴァに打ちあけてみた。エーヴァは真剣な顔をして最後まで私の話をきいたあと、フィンランドの実態について話してくれた。
「フィンランドでは、先生が生徒を叩いたり襟首をつかんだりすることは、ぜったいに許されないことになっているんだよ。
もし、先生に殴られたりしたら、校長先生に言って警察を呼んで、その先生をすぐクビにすることができるんだ」
エーヴァの言葉をきいて、急に全身の力が抜けていくのを感じた。それは私を、過去から救ってくえる答えだった。
「……わかってた……ずっと。本当はそうあるべきだって、わかっていたんだ……!」
急に、中学校の頃のことが頭の中にフラッシュバックしはじめて、やりきれない気持ちが私をおそった。
「それならなぜあのとき、私は止めようとしなかったんだろう……」
先生が友達に手を振りあげたとき、なぜ「やめて」と言わなかったのだろう。いや、言わなかったのではなくて、言えなかったのだ。まちがっていることを、まちがっていると言えない空間に、私は恐ろしいくらい見事に溶けこんでいたのだ。
「今の私なら、何かを変えることができたかもしれないのに……。
何を言われたって、そうかんたんにあきらめたりしなかったのに……!」そう思うと、無念の思いに胸が押しつぶされそうになった。
エーヴァの横を歩きながら、私は鼻をすすっていた。悔しさとうれしさが、同じくらい混じりあっていた。涙がこぼれそうになったので、上を向いた。空は今までに見たことがないくらい青く、誰の頭上にも公平に広がっているように見えた。
そういえば、中学生の頃、私は現実逃避をするのが好きだった。
頭の上に空想の世界を創り、せめてそこだけは、生徒に手をあげるような先生はそれ相応の報いを受けてほしいと願っていた。
だがついに私は、空想ではない現実の世界に、それを見つけたのだ。
暗いトンネルを長い間さまよったあと、ようやく出口を見つけたような、そんな気持ちで胸がいっぱいになった。
………(以上、引用おわり)………
いかがですか?
彼女がいう「まちがっていることを、まちがっていると言えない空間」=日本の社会や学校が、体罰を温存し悲劇を次々と生んでいるのではないでしょうか。
フィンランドでは、今やそれは信じがたいフィクションや喜劇と誤解されるのです。
熊本の地元紙には、ことここに及んで(大阪の事件後も)、体罰は「愛情があれば良薬にもなる」(元小学校長、89歳)、体罰の「禁止は理想論。必要な場合も」(会社員、56歳)などという投書が載るありさまです。
絵里香さんが異国で見て救われた「青空」を、僕たちはぜひ日本という「現実の世界」で見出しひろげなくてはなりません。
“いつ変わるんですか?今でしょう”
“いつやるんですか?今でしょう”
“ならぬことは ならぬのです” ―「反体罰NPO 研究者連絡会」に結集を!みなさんのご支持・応援を!
(引用ここまで・強調は私)
「まちがっていることを、まちがっていると言えない空間」そして「いつのまにか間違ったことを仕方ないこと、当然のことと思い込んでしまう歪んだ思考回路が形成される空間」そして「間違っていることを間違っていると言う者を排除する空間」が蔓延しているのを感じます。
こういう同調圧力は何も体罰に限ったことではありませんね。
悲しいかな、子どもはこういう圧力に逆らっては日本の社会で生きてはいけないこと、いかに逆らわず上手に泳いでいくかということを学校の集団生活で学ぶのです。
そして、体罰が肯定される圧力に抗えない空気があるのは何も学校だけではありません。まして桜宮高校だけの問題でもありません。
大人の社会の中にも優位に立つ者の暴力はまちがっていると言えない空間があるのです。上下関係が厳しい世界では上の者がやることは暴力的な行為であっても正しいとされがちです。
ですから、体罰が発覚したらその教師を罰し、学校を罰するという刹那的な切断処理だけでは体罰を産む風土は変わりません。
あらゆる場所で「まちがっていることを、まちがっているといると言える空間」に変えていくことが、体罰を根本的になくしていくことに繋がるのではないでしょうか。
この空気の入れ換えは体罰の一掃だけではなく、他の多くのことも良い方向に向けていけると思います。
そうですね、まずは大阪市政の場から「まちがっていることを、まちがっているといると言える空間」に変えてみることを橋下市長に提言したいと思いますがいかがでしょう。
ちなみに「信じてもらえなくて爆笑された」との文言で、ふと以前ご紹介した話をひとつ思い出しましたので再掲しておきます。これもあまりに酷すぎるのでかえって信じてもらえなかった例です(苦笑)
↓
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-861.html
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