コメント
民衆憲法の源流 それは夢だったのだろうか
色川大吉先生達が発掘、掘り起こした中江兆民、北村透谷から、自由民権運動の底辺に至る、憲法の学習会や草案創りもあります
産経のベアテ・シロタ・ゴードンにたいする卑劣な口撃
高橋和之氏の世界憲法集(岩波文庫)の解説によると、国体護持に固執する政府の調査委員会は、主権在民の明記に最後まで抵抗したようです。
産経の不見識極まる記事に対しては、私も不十分ながら反論しましたが、この記事がベアテの死後に書かれたことも、心にとめておかなければならないことだと思います。
「憲法を押し付けた思い上がりと偏向」ですね。担当は渡辺浩。
「iza!」に全文が残ってますけど
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/dompolicy/627640/
確かにひどい。
ちなみにこの渡辺某、その論調に定評があるようで、悪評高いです。
ASさん
日本国憲法は押し付け憲法にあらず
「代替案のための弁証法的空間」さんより。 日本国憲法は押し付け憲法にあらず
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/4f48be744b48708f6a3dba7af87bf3a7?fm=rss
(以下引用)
本日(2013年1月27日)の東京新聞の30面に興味深い記事があった。武蔵五日市市の市民たちが自由民権運動の中で作り上げた民衆による憲法草案である「五日市憲法草案」の紹介である。起草の中心人物であった千葉卓三郎は、戊辰戦争で敗れて放浪の末に多摩に移り住んだ旧仙台藩士。
五日市憲法は、「基本的人権の尊重」「法の下の平等」「集会・結社・言論の自由」「信教の自由」「地方自治権」などが明記され、明治憲法など飛び越えて、日本国憲法により近い内容であったという。
基本的人権を定めた条文は下記の如し。「日本国民は各自の権利自由を達すべし、他より妨害すべからず、かつ国法これを保護すべし」。これは現行憲法の第11条と同様な内容である。
五日市憲法草案の発見者である新井勝紘氏(専修大学教授)は、同記事の中で、明治政府は民衆の中から提起された私擬憲法を一顧だにしないまま、「一部の専門家が極秘に草案をつくり、国民に押し付けた」と語っている。逆にGHQの押し付とされている現行憲法は「最近の研究で、私擬憲法を参考にしていることが分かってきた。明治の民衆が願った理想の国家像がよみがえった」と語っている。現行憲法の精神は明治の民衆の願いを具現化している。
拙ブログで紹介してきた赤松小三郎が慶応三年に起草した「御改正口上書」も、全人民の中から普通選挙で選出された議会を国の最高権力機関と定め、議会の決定には天皇も拒否権を行使できないとするなど、「主権在民」と「象徴天皇制」の現行憲法の精神を慶応年間に先取りしていた。
大河ドラマ「八重の桜」準主役の山本覚馬が、鳥羽伏見の戦いの後に捕らえられ、失明の不幸の中で口述した「管見」も、盟友であった小三郎の議会政治の理念を継承しつつ、三権分立も規定する詳細な内容であった。
「佐幕派」のレッテルを貼られた小三郎や覚馬のような人々に憲法を起草させていたら、明治の時点で、現在の日本国憲法に近いものができたことは疑う余地がない。
その小三郎を卑劣な手段で暗殺し、クーデターで権力を奪取し、東北地方を軍靴で蹂躙した人々がつくった明治政府が、密室で決めて強圧的に国民に押し付けたのが明治憲法だった。密室で決めて国民に押し付ける伝統は、原発からダムからTPPに至るまで、現在にまで連綿と引き継がれている。
明治憲法と現行憲法のどちらが押し付け憲法だろう?
幕末から明治にかけて、権力に敗れた在野の人々が夢に描いた理想国家の精神が現行憲法に宿っている。それゆえ人々は現行憲法を歓迎した。我々は、現行憲法を「GHQに押し付けられた」などと卑下する必要はないのだ。
(引用終わり)
私もかなり以前に、明治の初めに多くの人々が、「日本が近代国家として持つべき憲法の草案」に取り組んで政府に上奏したというような話を何かで読んだ記憶があります。その中には農民や女性もいたそうですが、当時としては先進的なまでに民主的な内容も多く、男女平等を謳ったものさえあったそうです。(作家の井上ひさしさんの関係の、雑誌か本の記事だったような気がするのですが、たしかな記憶ではありません。また、その記事の中では、このような「民間有志による私案の憲法」を「民草憲法」と呼んでいたような気がするのですが、現在のネット検索では、この言葉では引っ掛かりませんでした)
しかし明治政府はことごとくこれらを黙殺、結局、手本にしたのは当時のヨーロッパ諸国の憲法の中でも、特に封建的な色合いが強く残っていたプロイセンの憲法でした。少なくともこのようなかたちで成立した明治憲法を(一部の人たちがそうしているように)今の時代に理想化したり、神聖視したりする理由は全く無いと思います。
五日市憲法草案については、こちらの「とだ9条の会blog」さんが詳しく取り上げられています。
五日市憲法草案に学ぶ(1)~ (5)
http://toda9jo.no-blog.jp/network/2008/04/post_7987.html
(以下、一部を引用します)
<五日市憲法草案の誕生から発見されるまで>
五日市憲法草案は1881年(明治14年)6月、千葉卓三郎によって起草されました。 当時の明治初期という時期は、江戸時代からの重い負担(税金、教育費、徴兵制)への反発が「農民一揆」や「不平士族の反乱」という形で全国に起こり、そのエネルギーが後の自由民権運動を生み出していくという時代背景がありました。1880年(明治13年)前後には、全国で1000以上もの「政治結社」や「学習結社」が作られ、こうした全国各地の自由民権グループが私擬憲法(民間有志による私案の憲法)を作成したのです。その中に千葉卓三郎らの「五日市学芸講談会」がありました。 しかし、1890年(明治23)年に「大日本帝国憲法」が成立したため、千葉卓三郎が起草した草案は、1968年(昭和43)年に東京経済大学色川研究室・色川大吉教授らの文書調査によって発見されるまでの87年間という長い間、五日市の深澤家の土蔵にひっそりと眠っていたのです。 千葉卓三郎の起草した憲法草案は、発見者である色川大吉教授らにより、千葉卓三郎の知識や個人的な資質が、五日市を中心とする地域の人々との交流の中で磨かれ、地域の自由民権運動につながっていること、さらに五日市学芸講談会では、様々なテーマの討論、検討がなされており、五日市の地域社会と切り離して考えられないことなどから、「五日市憲法草案」と命名されました。
(引用終わり)